大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月04日 | 写詩・写歌・写俳

<549> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (1)

 大和は山野の自然に恵まれ、我が国発祥の地として歴史を誇り、神話のころよりの名所や旧跡がそこここに見られ、多くの人に愛され、親しまれて来た土地柄にある。その自然と歴史に魅せられて訪れる人も多く、古来より『万葉集』をはじめ、その歴史や風土に関わり、その愛着より生れた歌や句や詩もまた多く、それらの作品に敬意を払い、記念して建てられた歌碑や句碑や詩碑も多く見られるのが大和の特徴としてうかがえる。

  また、時代の移り変わりを示し、物語る碑もあることから、この「大和の歌碑・句碑・詩碑」の項では、その歌碑や句碑や詩碑を訪ねて、その碑文と自然や歴史との関わりに触れてみたいと思う次第である。第一回目は背後に三輪山を仰ぎ、正面に大和平野を望む桜井市檜原の井寺池の堤に建てられている『古事記』の景行天皇の条に見える倭建命の国を偲んで詠んだ歌(詩)の碑に登場を願った。

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   [碑文]     大和は 國のまほろば たたなづく 青かき 山ごもれる 大和し 美し                         『古事記』  倭建命

 これが碑に刻まれている歌(詩)である。『古事記』の原文表記は「夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯」で、「夜麻登」は「倭」とも書かれるが、この碑には「大和」と見える。

 この歌(詩)は命(みこと)が、東征の帰途に際し、伊勢の能煩野(のぼの)に至ったとき、病を発して薨ずる直前に故郷の大和を偲んで詠んだものである。『日本書紀』では景行天皇が九州に出向いたときの歌(詩)になっているが、命の歌(詩)の方が劇的で、心を揺さぶられる。

 井寺池は三輪山の麓の丘に当たるところに位置し、東西の上下に堤を挟んで水面が二つに分かれている池で、その水面を二つに分かつ堤にこの碑は置かれている。一帯は記紀や『万葉集』にゆかりの檜原(ひばら)で、道が三輪山に突き当たるところに元伊勢と呼ばれる社殿のない三つ鳥居の檜原神社があり、その前を山の辺の道が横切る風光のよい大和を代表する万葉の故地として知られる。

 この碑はノーベル文学賞作家川端康成の筆によるもので、昭和四十七年、依頼された康成がこの地を訪れ、この国偲びの歌(詩)を碑にする約束をした。だが、その直後、約束を果たせないまま世を去ったことから、ノーベル賞受賞記念講演の原稿「美しい日本の私」より文字を抽出して完成させたという経緯がある。

 このため、古歌(詩)の碑には珍しいペン字の文字が用いられているが、これは『古事記』とノーベル賞を繋ぐエピソードになっている。講演が「美しい日本の私」というテーマだったため、原稿にはこの歌(詩)の文字が欠くことなく見出せたのであろう。思えば、これも感動的で、味わいたいところである。

 この辺りは、自然の豊かな展望のよい地で、辺りにはミカンやモモの畑が点在し、四季の変化に富み、金剛葛城山系の二上山辺りに沈みゆく夕陽の美しいところで、命の思いに適う好適な場所であるように思われる。この付近にはほかにも歌碑や句碑の多いところで、ときには、碑を巡る人の姿も見られる。

                                   

 なお、この国偲びの歌(詩)の碑は、私の知るところ、他に二基見える。一基は大神神社の祈祷殿の庭隅に建てられている。作曲家黛敏郎の筆によるもので、楽譜付きの横書きである。今一基は奈良市の春日大社一般駐車場の東側の境内地で、万葉学者犬養孝の筆による原文と語訳を刻んだもので、奈良市の万葉歌碑を建てる会によって平成二十三年に建てられた新しい碑である。

 写真の上段は井寺池の堤に建てられている倭建命の国偲びの歌の歌(詩)碑(後方は二瘤駱駝のニ上山)と夕陽が美しく映り込んだ井寺池。写真の下段は黛敏郎筆の碑(左)と春日大社の原文による碑。  春近し 命(みこと)もおはす 大和かな