大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月24日 | 写詩・写歌・写俳

<569> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (5)

       [碑文]       菜の花の 中に城あり 郡山                        森川許六

 許六は、明暦二年(一六五六年)から正徳五年(一七一五年)、つまり、江戸時代前期から中期、庶民文化が花開いたころ活躍した俳人である。近江国彦根藩士であったが、和歌、俳句、絵画など多才に及び、芭蕉門下の「蕉門十哲」の一人であった。許六の名はその多才を六芸に秀でた者として芭蕉が命名したと伝えられる。

 郡山は福島県の郡山ではなく、大和の郡山で、城は郡山城のことである。郡山城は戦国武将の筒井順慶や秀吉の弟羽柴秀長などの居城として転変し、一時は大和、紀伊、和泉を治める百万石の中心にあった。その後、秀吉の時代が終わり、徳川の世になって城主が水野、松平、本多、柳沢と目まぐるしく変わり、城郭も整備されて行ったが、安政五年(一八五八年)二ノ丸から出火する大火によってほとんどの建物が焼け落ち、その後、修復されることなく、明治維新の廃藩置県の際、全国で城の取り壊しが行なわれた際、郡山城もその一つとして建物部分が売却され、石垣を残すだけになった。その後、大手門などが復元され、現在のような城址の姿にある。

 許六がこの句を得たときは城郭の整備がなされ、天守閣も存在し、城は平城ながら、少し高い丘にあるため、ビルなどなかった当時においてはどこからでも天守閣を仰ぎ見られたことが想像出来る。菜の花は菜種(なたね)とも呼ばれ、主に種油を採るために植えられていた。種油は灯火用として生活に欠かせないもので、電燈が普及するまで各地に需要があり、その生産のため一面に植えられ、春には黄色い絨毯を敷き詰めたような彩りを見せたのである。

                

 この句はこうした当時の暮らしの状況下に生れたものと言える。一面に広がる大和平野の菜の花畑の風景は電燈が十分に普及されるようになる戦後まで続いたようで、ほかにも、例えば、高浜虚子の『斑鳩物語』では、法隆寺の夢殿に近い大黒屋という宿屋の二階から眺めた菜の花畑の広がりが描かれ、斑鳩の里が菜の花で被われていたことを物語っている。虚子がこの短編小説を書いたのは明治四十年のことで、これは大和平野の中央北西よりに当たる地域の風景である。

 明治から大正時代にかけて活躍した歌人服部躬治には「一すぢの小道の末は畑に入り菜の花一里當麻寺にまで」という歌があり、これは當麻の里、つまり、大和平野の中央南西よりに当たる地域の風景で、この歌でも菜の花が一面に咲いているのが覗える。また、俳人小松好子には「菜の花に大和三山よき高さ」という句がある。これは大和平野の南部の眺めであり、これらのことを総合して見ると、江戸時代から昭和時代前期のころまで、大和平野は菜の花で被い尽されていたことになる。

 許六の句は菜の花を手前にして菜の花に囲まれながら天守閣を望む位置での作句とみられ、これは好子の目線に等しいと言ってよかろう。許六は絵に造詣が深く、芭蕉は許六に句作を伝授する代わりに許六から絵を習ったとも伝えられているほどで、この句は許六の得意とする絵画的な手法が発揮された句と言ってよい。 

  句碑は大手門を入った正面の一角、城址会館の前庭に建てられている。俳人山口誓子の筆によるもので、近くには、「大和また新たなる國田を鋤けば」という誓子の句碑も見られる。写真左は一面に咲く菜の花畑(明日香村で)。中央は許六の句碑(郡山城址で)。右は『斑鳩物語』の舞台になった法起寺の塔を背景に咲く菜の花(斑鳩の里で)。  菜の花や 子らにぎやかに 過ぎ行けり