大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月23日 | 万葉の花

<568> 万葉の花 (81) さくら (佐久良、佐具良、佐宿木、作楽、櫻) = サクラ (桜)

        ぱっと咲き ぱっと散りゆく さくらかな

      あしひきの山の間照らす桜花この春雨に散りゆかむかも                  巻 十 (1864)   詠人未詳

    見渡せば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも                   巻 十 (1872)   詠人未詳

    春日なる三笠の山に月も出ぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく             巻 十 (1887)   詠人未詳

        あしひきの山桜戸を開き置きて吾が待つ君を誰か留むる                巻十一 (2617)   詠人未詳

        桜花咲きかも散ると見るまでに誰かもここに見えて散り行く              巻十二(3129) 柿本人麻呂歌集

    龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ吾が帰るとに                  巻二十 (4395)  大伴家持

 集中にサクラ(桜)を詠んだと見える歌は反歌を含む短歌三十二首、長歌十一首、旋頭歌一首の計四十四首にのぼる。ハギの百四十二首やコウゾの百三十九首、ウメの百十九首には遠く及ばないが、植物中ススキの四十五首に次いで十二番目に多い登場数を誇り、当時から関心の持たれていた樹木である。

 サクラが最初に見えるのは、『古事記』の第十七代履中天皇の条に「若櫻宮」とあり、『日本書紀』にはこの「若櫻宮」の由来について、天皇の盃に花びらが舞い来たって、この花びらが何処から来たか、臣下に調べさせたところサクラの木であったことから、これにいたく感激して自らの宮をこのように命名したという。

  一説によると、サクラのサクは、咲くから来ているもので、ラは美称と言われ、『古事記』の神話に登場する木之花咲耶姫(このはなさくやひめ・木花佐久夜毘売・木花開耶姫)に因んで命名されたとされる。このようにその名は神話に基づくとされ、同じバラ科の樹木ながらサクラは国産で、中国から渡来したウメとは趣を異にするところが見られ、万葉歌にもそれが微妙に現われている。

  では、『万葉集』に登場するサクラを見てゆくことにしよう。サクラにはいろんな種類があるが、大和に自生して見られるものは、主にヤマザクラで、次にケヤマザクラ(カスミザクラ)をあげることが出来る。だが、ケヤマザクラは山の高所に分布し、里の近くでは見られない。エドヒガンやオオシマザクラはよく知られるサクラであるが、大和に自生はないか、あっても極めて珍しい(『奈良県樹木分布誌』参照)と言える。また、昨今人気があって全国的に花見の対象になっているソメイヨシノは江戸時代末に登場したサクラで、園芸種の多いサトザクラの仲間も時代が下ってからのものであるから、これらを総合してみると、『万葉集』に登場を見るサクラはヤマザクラであると言え、これが定説になっている。

                                      

  大和のヤマザクラと言えば、天下の名勝吉野山があり、時代が下る『古今和歌集』には「みよし野の山べにさける」と出て来るが、『万葉集』に吉野のサクラは全く登場しない。登場を見るのは、1887番の旋頭歌や4395番の家持の歌などに言えるごとく、佐紀山、龍田山、天香具山、阿保山(未詳)、春日の三笠山、高円の野辺、紀州の糸鹿山などのサクラである。ウメは貴族の庭に植えられたものが圧倒的で、宴席で詠まれた歌が目を引くのに対し、サクラは植えられたものが詠まれた歌はわずかに四首で、その違いが指摘出来る。

  「梅は咲いたか 桜はまだかいな」ではないが、ウメからサクラに時節の移りゆく歌は二首。万葉のウメには雪がつきものであるが、サクラの歌に雪の登場はなく、その代わり、1864番の歌のように春雨が抱き合わせになっている特徴がある。サクラは2612番の歌以外すべてが花に関わる視覚によって詠まれた歌で、1872番の歌のように花の盛りを詠んだものも多いが、3129番の人麻呂歌集の歌や4395番の家持の歌のように、散りゆく花に寄せた歌も十五首に及ぶ。

  このように、サクラの花はパッと咲く姿がよく、また、パッと散りゆく潔さもあって、脚光を浴びることになるが、既に『万葉集』にその一面がうかがえる。国学者の本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、その花を称賛したことはよく知られ、この花の誉れによってサクラは菊とともに国花として認められるに至った。また、散り際のよさに美徳が重ねられ、「みごと散りましょう 国のため」と戦時軍政下の精神の高揚に利用されたこともあった。

  これらの歌に加え、咲き始めの花の歌が一首。また、1887番の歌のように、夜に月あかりを得て花に対した歌が一首あり、これは夜桜の形と言えようか。吉野山のサクラは一首も詠まれていないことは前に触れたが、全山サクラというような光景は、後世、人の手によってなされたもので、自然に生えるサクラ、即ち、ヤマザクラにはそういう姿はなく、「桜花 木(こ)の闇(くれ)ごもり」(巻六・1047・田辺福麻呂歌集)というように、普段ほかの木に紛れ、目立たないが、樹冠一杯にパッと咲く花にその存在を顕現するところがある。

  なお、四十四首中の三首に「此の花」とあるが、詞書に桜を詠むとあることやサクラを詠んだ長歌の反歌に見られ、明らかにサクラを詠んだと言えるところから、これら歌も数の中に入れた。集中には単に「はな」を詠んだ歌が七十三首認められ、中にはサクラを意識して詠まれた歌もあると思われるが、はっきりしないので数に入れていない。 写真はいずれもヤマザクラ。左は自然分布して自生するもの(吉野郡上北山村)で、万葉時代にはこのような姿ではなかったか。右は吉野山の中千本辺りで、植栽されたもので、万葉当時にこの風景は当てはめられない。