大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月21日 | 写詩・写歌・写俳

<566> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (4)

      [碑文]      巨勢山乃 列列椿 都良都良尒 見乍思奈 許湍乃春野乎                              坂門人足

  この歌は、『万葉集』巻一の54番に見える坂門人足(さかとのひとたり・伝未詳)の歌で、碑は歌に詠まれている御所市古瀬の巨勢山(こせやま)の麓にある阿吽寺の庭に建てられている。万葉学者犬養孝の筆によるもので、原文表記の万葉仮名で刻まれている。

  大宝元年(七〇一年)の秋九月、譲位して太上天皇であった持統天皇が孫の文武天皇とともに紀の湯に行幸の際、供奉していた人足が詠んだと詞書にある歌で、「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思(しの)はな巨勢の春野を」と現代語訳されている。歌に春野とあるが、花の時期に詠まれた歌ではなく、この詞書によって秋に詠まれた歌であることがわかる。

  歌は「巨勢山の列なって艶やかに葉を光らせて見えるツバキのようにその光っている艶やかなのをよく見ながら巨勢の春野を偲びたいものである」というほどの意になろうかと思われる。巨勢山は都(藤原京)から南西、吉野への入口に当たるところで、現在で言えば、近鉄吉野線とJR和歌山線の吉野口駅の西方に横たわる標高三〇〇メートルの山で、ツバキが多く、当時はよく知られていたのではないかと思われる。

                         

  『万葉集』には、婆伎、婆吉、海石榴、椿の表記でツバキを詠んだ歌が、交易市の名称で知られる海石榴市(つばいち)と見える二首を含め十一首に見られるが、この歌の「列列椿」のように木偏に春の椿は集中の四首に見え、春に花を咲かせる花木を意味する字として作られた国訓の漢字で、広義には国字とされ、この歌に用いられたのが最初であるとみられる。

  なお、この碑が建てられている阿吽寺は、平安の昔、近くの川が氾濫して、大きな被害が出たとき阿吽法師という人物が現われ、人々に救済の手を差し伸べたことから、救われた人々が法師を崇め、玉椿という精舎を建て、法師に要請して住んでもらったと言われ、出来たのが巨勢寺で、その一子院として阿吽寺が生れたと言われる。巨勢寺は廃れ、跡だけであるが、阿吽寺は火災などによる衰退と再建を繰り返し、現在に至る巨勢(古瀬)に因むツバキで知られるお寺である。 写真左は巨勢寺跡のツバキ。右の二枚は阿吽寺の歌碑。 椿咲く 身の丈にして 見ゆる花