大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月10日 | 写詩・写歌・写俳

<555> スギ花粉と黄砂

        霞みつつ 大和は春と なりゆけり

 九日の大和は快晴になり、吉野郡天川村の観音峰の展望台に登った。このところ黄砂の影響で奈良盆地は平地部から周囲の青垣の山々がほとんど見えないほど霞んで、十日の今日もこの状態が続き、終日霞んでいた。気温も上昇して、展望台の標高1208メートルでも全く寒さはなく、パノラマの山上ヶ岳、稲村ヶ岳、バリゴヤの頭、弥山、頂仙岳など1700メートルから1800メートル級の群峰にほとんど雪はなく、霞みがちに見えた。遠望出来る金剛・葛城山系の山々は黄砂の霞の厚さに閉ざされて全く見えなかった。しかし、展望台で触れる大気は爽やかで、気持ちのよい時間を過すことが出来た。写真の後方左の高い山は頂仙岳。

                                

 土曜日とあって、歩く人が結構見られ、グループの登山者もあって、展望台はにぎやかであった。登山者は各々展望台のシンボルである石碑を囲もように陣取って座り、眼前に広がる眺めを楽しんでいた。周囲にはススキが群生し、この時期は立ち枯れているけれど、秋の光景はみごとである。ここで正午を迎え、弁当にした。

 ところで、今日は山の話ではなく、スギ花粉と黄砂について思うところがあったので少しそれに触れてみたいと思う。天気もよく、予報もあり、朝から黄砂の影響で山々が霞んで見えたので、スギ花粉が気にかかりながら自宅を出た。天川は山中の村で、杉に囲まれているようなところなので、覚語はしていた。だが、花粉の影響は全くなく、誰一人としてマスクを掛けている人を見かけなかった。

 花粉が充満していそうな山間の天川村で何の変化も起きず、むしろ清々しい大気感に触れることが出来たのであったが、帰途が拙かった。帰りの車の中でその反動が現われた。国道169号の芦原トンネルを抜けて、吉野側から高取、明日香の平地部に出た途端にくしゃみが連続して出るようになった。しばらくすると、目にも来て、しょぼしょぼとして痒みも覚えるに至った。明らかに花粉症の症状である。

 長年山野を巡っているが、花粉症の症状が出たことはなかった。しかし、昨年ごろからその症状が出始め、加齢のためだろうとは思うところで、今年は飛散量が多くなるというので懸念していた。自宅に帰り着いてからはくしゃみの回数が増し、天川村の山間地と奈良盆地の平地部で何故こうも違うのかと思われた。気温差か、黄砂などほかの物質とのミックス関係か、とにかく、平地部に至って花粉症の症状が出た次第である。

 家の中でも突如としてくしゃみが起き、たらたらと鼻汁が零れるといったありさまであったが、風呂に入るとくしゃみも目のしょぼしょぼもピタッと止まって普段と同じ状態になった。これは風呂に花粉がないからであろう。南方熊楠の言葉ではないが、花粉を取り去れば、症状は治まる。風呂が花粉症を患うものには聖域であることを知ったが、花粉症の対策には湿気が有効かも知れない。

 それにしても、黄砂は別にして、黄砂に含まれる煤煙などの所謂PM2.5の影響やスギ花粉などによる花粉症は人間が関わって生じたもので、その最たるものが福島第一原発事故で飛散した放射能であろう。熊楠が言うように、取り除けば、ことは落着するのであるが、見えないものはそれがなかなか出来ず、花粉症にしても酷い症状の人は生活にも支障を来たし、臨床医の助けを受けなくてはならないほどになる。

                                                         

  写真の朝日は左が一月七日、右が昨日撮影したものである。朝日は夕日に比べて光線が強く、太陽の輪郭を捉える確率は低い。雲の加減にもよるが、一月七日の朝日は薄い雲のベールによって写真のような感じに撮れた。一方、右の写真は雲一つない快晴であったが、朝日が輪郭をもって撮れたのは、黄砂の厚い霞の層が出来ていたことによる。一方が雲という水滴であるのに対し、黄砂の方は水分とは関係のない微粒な塵ということで、写真は多少パソコン操作はしているが、その違いが見て取れる。