日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

平和発信の海に

2015年08月21日 | エッセイサロン
2015年08月21日 毎日新聞「はがき随筆 戦後70年特集」掲載



 「新高山登れ」の暗号電文が旗艦長門から発せられたのは岩国市沖合にある柱島近海だったという。開戦の起点になったことを知った時は複雑な気持ちになった。

 戦時中、周辺は多くの艦船が停泊や出撃する重要海域で柱島泊地と呼ばれた。そんなことで小さな島も空襲に見舞われ尊い人命を失った。

 この海域近くの米海兵隊航空基地は、近々極東最大級の基地に変わる。「父の最後の言葉が戦闘機の音で聞き取れなかった」と聞いた。残念だっただろう。   

 元泊地は被爆都市広島市にも近い。戦闘機の轟音でなく、平和発信の海域にしてほしい。
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扇子一つで槍の中

2015年08月20日 | しっちょる岩国


 吉川藩時代から続く岩国の民俗芸能「こぬか踊」、路地の盆踊りとして親しまれてきたが、50数年まえから路地踊りが途絶え、保存会の力で受け継がれてきた。これではいけないと応援隊が昨秋結成され、盆の15日、日暮れから路地踊りが復活した。踊りは太鼓と笛の音に合わせて甚句調の音頭が歌われる。

 音頭は「神か仏か岩国さまは扇子一つで槍の中」から始まる。この「神か仏かといわれる人は誰だろう」という疑問を抱いていた。あるローカル紙の随筆欄に、幕末に岩国を治めていた領主「岩国藩第12代 吉川経幹(つねまさ)」その人を指すと載っていた。なぜそういわれるのだろう。岩国検定テキスト「いわくに通になろう」からもそのあたりの背景が浮かんでくる。

 長州藩は禁門の変によって朝敵となった。幕府や広島・薩摩両藩の間に立って交渉を行い、第1次長州征伐を無血で終わらせたのが吉川経幹。槍や刀などを伴わない行動を高く評価した広島の人が歌ったといわれる。その後高杉晋作の挙兵などから四境戦争(第2次長州征伐)が起きる。経幹は芸州口・小瀬川で幕府軍と戦いこれを撃破、戦勝に貢献した。四境戦争の勝利は、第1次で戦争しなかったことも大きな要因と考えられる。

 昭和23(1948)年8月24日に撮影された「こぬか踊」の写真(掲載)に出合った。写真のタイトルは「神か仏か岩国さまは扇子一つで槍の中 こぬか踊り」、撮影場所は「錦帯劇場前広場」とある。劇場は40数年前にスーパーになり今年3月に閉店、今は更地になっている。写真の当時は錦帯橋バスセンターから岩国小学校への広い道路は無く、椎尾八幡宮の石段の向きも違うなど、朧げに思い出す。250年近く前の出来事から岩国空港まで音頭は時世を折り込んでいる。郷土を語り伝える文化のひとつだろう。
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古い柱時計

2015年08月19日 | 回想


 私の小学校のときから在る古い時計店、ふと入ったら古い柱時計が10数個掛かっている、そのなかの一つは修理中という。100年を超える時計と教えられたそれの振り子が左右している様子が丸いのぞき窓から見える。そんな中に祖父が大切にしていた柱時計にそっくりな形のものがある。懐かしくしばらく眺めた。

 子どもころ、我が家の柱時計は一番背の高い柱に掛かっていた。それのゼンマイ巻は祖父の担当だった。踏み台の上に立ち、文字版にある左右の穴にゼンマイ回しのネジを指し込み、数をかぞえながら回していた。左右同じ巻き数にすることをいつのまにか学んだ。小学校6年くらいになると祖父に変わってネジを巻いた。ジージーとゼンマイが締まるに従い強い力が必要になった。

 父は腕時計、祖父は懐中時計を持っていたので我が家の時計は合計3個だった。父も祖父もギイコギイコ竜頭を回していた。時間合わせはラジオに頼る他はなかった。柱時計のネジ巻は、祖父の経験から何日目かに必ず巻くので時計が止まっていた、という記憶はない。そのお蔭で通知表に遅刻した記録は無い。

 20年と少し前、新築記念に柱時計を購入した。お店お薦めの品は高額で我が家には少々不釣り合いな金額だったが、そこは現役、何とかなるだろうと求めた。今も正確に動いている。動力源は単2の乾電池だが電波時計ではない。大掃除の時に埃をふき取るくらいで日ごろはご無沙汰続き、いつか懐古する柱時計になれるだろうか。
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先端から秋

2015年08月18日 | 自然 季節


 「雨のあとは暑さが少しやわらぎましたのう」と声を掛けられた。ここ2、3日の朝夕はそんな感じが強いし、エアコンの使用時間も短くなった。先日の雨以降は猛暑日に見舞われていない。南の海上には強い台風2個が西方へ進んでいう。15号の進路については関心を持っておかないといけない。記録では8月の台風発生は平均5個、うち日本上陸は約1個という。8月は残り2週間ある、油断はできない。秋雨前線は日本の南岸に停滞している。

 日中に歩いてもひと時ほどの暑さは感じない。川筋の風は心地よい時もある。見上げると白くて薄い雲が伸びていて秋の空かと思い違いする昼間だった。そんな気のせいか、セミの鳴き声が夏を惜しむかのように気ぜわしく聞こえる。「シャイシャイシャイシャイ」「コーヒツクツクコーヒツクツク」「チョボヒーゲーチョボヒーゲー」。

 そんな気配を感じたのか公園のモミジの木の先端、上の方が赤く色変わりしている。紅葉に向かっての先陣をきっているようだ。日ごとにその度合いを増していくのだろう。そんなモミジの下を行きかう観光の人らの手にはソフトクリームが握られている。最近は暑くても寒くてもソフトクリームを持つ人を見かける時代に変わった。

 いつも撮らせてもらう銀杏の木も、ほんの少しだが黄味を帯びてきた。毎朝姿を見せくれたツバメ、南の住みかへ旅立ったのかいつのまにか見なくなった。自然界はいたるところに夏から次の季節へ準備している。稲のためのもう少し日照りが欲しいという農家の人の願いは叶えてほしい、伸びた朝顔の弦を巻きつけながら夕立雲を期待する。

 

 
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目の栄養

2015年08月17日 | 生活・ニュース


 「個人差はありますが数年間隔くらいで更新、作り変えられる方が多いようです」とメガネ店員の話し、その貫禄あるスタイルから納得する。だとすると、いま使っているメガネもそろそろその時期に達したということになる。レンズに傷がついた、壊れたなど外見に不都合が起きれば致し方なく作り変えるが、そうでなくても作り変えの時期は来る。

 男は38歳を超えるとメガネが必要になる。40年くらい前の話をうる覚えに記憶している。メガネの必要を全く感じないころの働き盛り、それを思い出したのは曲がり角の年齢を可なりすぎてからだった。なんとなく文字が見えづらい、しょぼしょぼすると感じたのは上京中の新幹線の中、目を上げると富士山はくっきり見える。ちょっと疲れ気味かくらいでいた。日ましというほどではないがじわじわと進行した。

 小さな文字を見るときだけのメガネ使用がやがて文字と接する時は常時になる。カメラのオートフォーカス機能がおかしい、故障かと思いながらメガネをつけると故障はしていなかった。それからはメガネも大事な相棒の一つとして仲良くしている。文字に係わるときは常用になってからも長い。瞬きは目の薬と聞き、パソコンを前にしているときは意識して瞬きをする。文字に接しない時には眼鏡は使わない。

 「採りたてです」と頂いたのは箱一杯のブルーベリーは千粒以上かも。蓋を開くと瑞々しい青紫色の粒が転がり落ちる。頂いたのはパソコンに向かう時間が長い人、小さい文字を読むのがつらい人、車を運転する人などにブルーベリーがお薦めというCMを見多直後だった。昨年はジャムにして頂いたがたが、今年はアントシアニンが目に効きますようにと願いを込めて粒のままをいただくことにした。
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邪魔に勝て

2015年08月16日 | 生活・ニュース


 この猛暑の中、「〇〇社の新入社員です。この地区の担当になりましたのでご挨拶に伺いました」とドアホンを通して若い声が告げる。それは全国いや世界に羽ばたく大手の関連企業が多い。こうして地方の裏通りまで足を運んだことが、やがて世界展開への一歩に連なるのだろう。

 教わった通りの方法で名刺を出し「お忙しいところをお邪魔いたします」と頭を下げる。自社の短い説明と担当を話す。先日の新入社員は車の査定をさせてほしいという。以前にもあったがいまだに続いていることに驚く。自車と別会社の社員なので「購入したばかり」で買い替えの無いことを話す。

 お邪魔します、これは他家を訪問することをいう。個別訪問で研修を積んで成長していくうちには本物の邪魔となる妨げや障害が現れるだろう。邪魔臭いとか邪魔っ気、と感じるうちは何とかなるだろう。そのうち、どうやって邪魔立てを邪魔するかを学習することになる。やがて邪魔者や邪魔物を超える力が身につく。しかし、それは一朝一夕では適わない。

 訪問者は「有難うございました」と腰を折って礼をいい門扉を静かに閉める。今朝、開こうとしたアサガオが前日咲いてしなびた花に邪魔されて開けないでいた。邪魔を取り除いたら少し遅れて咲いたことを思い出し、上司先輩の助けは恐れずに相談してほしい。ただ、努力した後でのことだが、隣の家へ入る背中に思った。
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終戦・敗戦の日

2015年08月15日 | 生活・ニュース
 
 大日本帝国があの太平洋戦争に敗れた日はいつなのだろう。日本では昭和20(1945)年8月15日を終戦の日(敗戦の日)として教えられてきた。しかし、これは日本のことで欧米からの報道ではその日が異なっている。欧米のメディアや教科書では、第二次世界大戦が終結した、あるいは対日戦争が終わったのは「9月2日」とされているそうだ。

 さらに日本が戦争を終えたとされる日は8月14日、すっと遅れて昭和27(1952)年4月28日という説もある。専門家は「多様な説があるのは、戦争が終わったという国民の実感と法的な日時の違いや戦争観の違いなどがあるため」と説明している。

 8月14日は日本政府がポツダム宣言を受諾する意思を連合国に伝えた日。ポツダム宣言は1945年7月26日にアメリカ、イギリス、中華民国が日本に向けて降伏を迫る文書。これを受け入れ敗戦を認めるとした日。8月15日、天皇がポツダム宣言を受け入れ、戦争を終えると、玉音放送で国民に公表された日。日本国民の感情としてはこの日が終戦の日と実感する。

 9月2日、東京湾に停泊する戦艦ミズーリ号上で、日本政府及び軍指導部とマッカーサーを代表とする連合各国代表との間で降伏文書が調印された日。社会科で習った。昭和27年4月28日は連合国による日本の占領が終わるサンフランシスコ講和条約の発効の日を終戦とする説。終戦か敗戦か、その日はいつか、8月15日は国際法的には無理があり、百年、二百年先を考えると9月2日になっていくだろう。それは「日本の敗戦によって戦争が終わったという意味になる」とある専門家はいう。日にちにはこだわらないので永久平和であった欲しい。
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入道雲は嫌い

2015年08月14日 | しっちょる岩国


 それは終戦の詔書が出される前日、70年前の今日午前11時過ぎに岩国駅周辺はB29爆撃機100余機による絨毯爆撃を受けた。これは岩国市内に限れば9回目の空襲だった。岩国市史によれば死者517人、行方不明30人、負傷者859人、全壊家屋543、半壊家屋343、罹災者5千911人。しかし、当時の市の課長の話として死者は1千人を下らないと残している。父はこの空襲のとき救援隊員として動員された。空爆跡のむごさをあまり語ろうとはしなかった。例年どおりサイレンに合わせ黙祷した。

 「夏の入道雲は嫌い」、それは原爆投下後の原子雲を思い出すからというという知人の母。キノコ雲とも呼ばれるそれは、大気中での熱エネルギーの局所的かつ急激な解放にともなう上昇気流によって生じる積乱雲の一種。原爆投下直後の3千度ともいわれる灼熱のもとでの様子を知る人には、入道雲が単に夏の空のひと模様という訳にはいかない。

 こうした生死を経験した語り部の後継者がいない、原爆被害者の会の世話をしている知人は先行きを心配している。会員の高齢化で会の存続についても瀬戸際にきているという。そういいながら今年もミニ原爆展を開催した。戦後70年の節目もあってか、報道機関も関心を示したという。

 市内関戸に滑走路があった、報道を読んで遠い昔にそんな話を聞いたような気がする。場所は関戸の錦菓楼の前から山陽道と並行している川沿いの道。記事によると「神風特別攻撃隊飛神隊禮部隊」の発進用の滑走路で戻ることは前提にしない出撃のためだけの600メートルだったという。1945年7月ころのことになる。記事では1度も出撃することなく玉音放送を聞いたとある。同じころ、川下の岩国海軍航空隊では天雷特別攻撃隊の訓練が行われていた。これについては別の機会で。 
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後を頼む

2015年08月13日 | 生活・ニュース


 このブログ、稚拙な文章の足らざるところを補ってくれることを期待し、1枚は写真を添えている。その写真は「手のひらサイズ」と呼んでいるデジタルカメラで撮ったものが9割、いやそれ以上かもしれない。その慣れ親しんだというか、私の意を汲んだ働きをしてくれたデジカメ君が役目を終えた。というか、引退してもらうことにした。

 理由は負傷した個所が拡大し撮ることが難しくなった。その負傷は所有者の不注意から起きた。液晶モニターに長さ1センチほどの2本の白い線状の傷が発端だった。傷の深さも気にするほどではないと素人判断で放置していた。それは今年の春のころだった。管理者が任務を果たしていないことに液晶モニターが反発、2本の線状の色が白から濃い灰色系に変色を始めた。

 それに従うかのように同色の小さな線が放射線状に拡がり円になった。それでも撮るには大きな支障を感じないまま使っていた。それでも手当しないことから、電源をONにすると、一瞬だが虹のような帯がモニターに現れ始めた。それは綺麗な輝きだが、写真に影響はなかった。ところが液晶モニターに何カ所も灰色の円形が表れモニターの用を果たしづらくなった。

 無ければ済むかもしれないが、出かけるときの相棒、ポケットやセカンドバックに必ず納めている。タバコ好きな人が財布を忘れてもタバコは忘れないと同じかもしれな。TVドラマの相棒も変わるという。真似たわけではないが新しい相棒を求めた。小さな文字の説明書としばらくは睨めこが続く。「しっかり頼む」、新旧並べてみるとそんな引き継ぎをしている。
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実りの秋へ

2015年08月12日 | 自然 季節


 日本列島は暑さのるつぼ、そのるつぼは坩堝と書く。物質を溶融し、または灼熱するための対価性の深皿。化学実験では白色磁器製のものが普通。高校の化学実験ではよく使った。市内北部では猛暑日が13日連続と聞いた。そんな暑さだが、夏の次の秋は忍び寄っている。見上げると柿の実もザクロも栗も味覚の秋に向けて入道雲を背にして静かにだが確実に大きくなっている。

 まだ食していないので分からないが、今年の鮎は小さくて味も劣る、という清流錦川の鮎の評価を聞いた。川の水量が少なくコケの育ちが良くないからという。ひと雨欲しい気持ちは人も野菜も鮎もみんな同じだろう。間もなく稲を収穫する人がいる。この仕事には雨は不要、天はどちらを採るのだろう。

 今朝5時ころ朝刊を取りに出るとポチポチと雨が降り始めた。朝刊は雨よけのポリ袋に入っていない、配達は済んだろうかと心配する。花への水やりは久しぶりの休み。メモを繰ってみると起き掛けの雨は前月27日の小雨以来、猛暑のせいか長い間降らなかった気がしていた。暑さ、今日は一休みといったところ。

 雨と日ざしがなければ生き物は生きていけない。暑さに耐えながら秋へ向かっていた諸々の生き物もひと息つく恵みの雨になっただろう。各地で「雨車軸の如し」を地でいく激しい雨が降っている。「雨塊(つちくれ)を破らず」という。世相も自然もこうあって欲しいものだ。 
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