それは終戦の詔書が出される前日、70年前の今日午前11時過ぎに岩国駅周辺はB29爆撃機100余機による絨毯爆撃を受けた。これは岩国市内に限れば9回目の空襲だった。岩国市史によれば死者517人、行方不明30人、負傷者859人、全壊家屋543、半壊家屋343、罹災者5千911人。しかし、当時の市の課長の話として死者は1千人を下らないと残している。父はこの空襲のとき救援隊員として動員された。空爆跡のむごさをあまり語ろうとはしなかった。例年どおりサイレンに合わせ黙祷した。
「夏の入道雲は嫌い」、それは原爆投下後の原子雲を思い出すからというという知人の母。キノコ雲とも呼ばれるそれは、大気中での熱エネルギーの局所的かつ急激な解放にともなう上昇気流によって生じる積乱雲の一種。原爆投下直後の3千度ともいわれる灼熱のもとでの様子を知る人には、入道雲が単に夏の空のひと模様という訳にはいかない。
こうした生死を経験した語り部の後継者がいない、原爆被害者の会の世話をしている知人は先行きを心配している。会員の高齢化で会の存続についても瀬戸際にきているという。そういいながら今年もミニ原爆展を開催した。戦後70年の節目もあってか、報道機関も関心を示したという。
市内関戸に滑走路があった、報道を読んで遠い昔にそんな話を聞いたような気がする。場所は関戸の錦菓楼の前から山陽道と並行している川沿いの道。記事によると「神風特別攻撃隊飛神隊禮部隊」の発進用の滑走路で戻ることは前提にしない出撃のためだけの600メートルだったという。1945年7月ころのことになる。記事では1度も出撃することなく玉音放送を聞いたとある。同じころ、川下の岩国海軍航空隊では天雷特別攻撃隊の訓練が行われていた。これについては別の機会で。