通学から通勤へと変わっても、臥龍橋の袂にある「義済堂」のそばを50年近く通った。子どものころは織物会社いう程度の知識で、小学校のとき見学をしたような記憶がある。白や青色の織物を台車に載せて、工場から道を隔てた倉庫へ運ばれるところをよく見ていた。台車はフォークリフトへと代わっても、織物の色は変わらなかった。
その起原は1873(明治6)年にさかのぼるという。「義済堂は、旧岩国藩の借入金の返済原資を得る為の既存の貸付金の整理・回収業務や、窮民への資金貸し出し機関、および、旧家臣たる士族の役禄喪失後の生業の維持・確保を行なう為の受け皿訓練所という存在から、徐々に繊維業事業を行なう会社としての存在に変わっていった」と記されている。
2005(平成17)年事業継続会社を別途設立、2008(平成20)年解散した。株式会社であったが創業時の「堂」は守り続けた。工場は分譲住宅地となり新築家屋が立ち並んでいる。倉庫は旧警察署の跡地とあわせパチンコ店に変わった。
義済堂のシンボルであった2本の煙突。これが解体されるときすっぽりと覆われ、途中を見るころはできなかった。覆いが取り除かれたとき、そこに現れた大きな空間を感じながら、廃藩置県で生まれた歴史の遺構が消えたことを寂しく思った。
(写真:義済堂のシンボルだった煙突と臥龍橋:城下町史跡ガイドより)