
関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は改易こそ免れたものの、長門国・周防国2カ国に大幅減封された。吉川広家は豊臣時代には出雲国富田で14万石を領していたが、毛利家が112万石から36万石に減封されたのに伴い、毛利輝元より、東の守りとして3万石を与えられ1600年、岩国のひととなった(岩国検定資料より)。
その後、城下町としての体裁を整えながら、産業の開発と育成、干拓による耕作地域の拡大などから6万石にも達し、岩国ここに在りと知られるようになった。それ以前には岩国、弘中、高木といわれる豪族によってある種の秩序が保たれた。
そうして今日まで、郷土から多くの人が輩出された。そうした人々を偲ぶため会ではときおり史跡などを訪ねている。先日の例会で、日本のエジソンと仰がれる藤岡市助の墓所を訪ねた。広い墓地の中のそれは妙覚院ご住職にご案内いただけた。
藤岡市助工学博士については会でもよく取り上げられ、その業績などは知られている。住職がそばのお墓を「こちらが瀬川秀雄博士のお墓です」と話された。その時は、瀬川秀雄という人を知らなかった。
調べてみた。1873(明治6)年8月22日、岩国市錦見で生まれる。96年帝国大学文科大学史学科卒業。1901年学習院教授、高等科教員。30年(昭和5)学習院教授を退官。同名誉教授。のち財団法人岩陽学舎理事長兼岩陽学会長。
1950(昭和25)年岩国徴古館館長。「岩国市史」の執筆,監修にあたる。吉川家に関する著作など多数。1969(昭和44)年9月21日死去。96歳。
(追記:瀬川秀雄は1967年7月 歴史学者として旧岩国市の名誉市民)
妙覚院は錦見にある。中学生のころは毎日側を通った。そこの説明の掲示板に「来栖天山先生も眠っておられる」と記されていた。「栗栖天山(くるすてんざん)」。この方は、陽明学で高名な東沢潟とともに柱島へ流罪された人。天山については日を改めて紹介をしたい。
ちょうど盆明けで、先祖を敬われた名残がそここに見られた。
(写真:銅板に記された妙覚院の案内)