みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

壮大な宮を、小さな者が

2016年06月24日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 2章

 ついに当地に夏が到来! きのうの最高気温は33度でした。昼が最も長い時期の快晴ですから、いつまでも明るい一日でしたが、さすがに夕方になるとさわやかな風が心地よかったです。けれども、この暑さもきょうでいったん終わりになるとの予報が出ていました。

 2章にはソロモンが主の宮と王宮を建てるに際して、父ダビデと懇意だったツロの王フラム(ヒラム)に職人の派遣と木材の調達を依頼するという箇所です。

 ソロモンの願い事について二つのことが心に留まりました。ソロモンが自分は小さな者だと告白していることと、神のために壮大な宮を建てるのだという決意です。壮大な宮を、そして王宮を建てるために、自分はふさわしいのだと鼻息を荒くしているのではなくて、むしろ小ささに恐れを抱き、それゆえにフラムに協力を求めるという姿がここに見えます。フラムの好印象を得ようとソロモンが自分を卑下しているということではないでしょう。

 自分の小ささをいつも覚えているというのは、信仰者のあるべき姿です。けれどもそれは、決して何もできない、何もしないということではありません。自分は取るに足りない者だけれども、神のために大いなることをするという、一見矛盾するようなことが成り立ってきたのではないのだろうか…、そのようなことを思いました。


ギブオン

2016年06月23日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 1章

 きのうは失敗を…。落語口演会に間に合うようにと、聖書をいっしょに学んでいる方のお家から日本人学校に行きました。「間に合った!」ところが、それらしき雰囲気は全くありません。職員室で尋ねましたら、何と!……きのうだったのです。う〜〜む、残念。なぜか水曜日の夜と思い込んでいたのです。次のチャンスは逃さないぞ。お誘いくださった方、ごめんなさい。

 「みことばの光」はきょうからまた歴代誌に戻ります。下巻の1章にはソロモンが王権を確かなものにしたということが書いてあります。心に留めたのは、ソロモンがギブオンに行ったということです。ギブオンはエルサレムの北およそ10キロ。3節ではここに、モーセが荒野で造った神の会見の天幕があったと書いてあります。「会見の天幕」とあるように、ソロモンは神に会いに出かけたのです。

 ダビデは生前ソロモンに、「あなたはあなたの父の神を知りなさい」と言っていました。⇒歴代誌第一28章9節 ソロモンは、ダビデの遺したことばどおりに、神を知ろうとしてギブオンに行ったものと考えられます。何かをする前に神に会おうとするソロモンの姿勢に教えられます。そして、たくさんのいけにえをここでささげた晩、神はソロモンに「何を与えようか」とお尋ねくださったのです。

 神に会うことが、他のあらゆるものの先にあるのだということを、ソロモンの姿から教えられます。あれもしなければ、これもしなければと心を動かすことが多いのだということに、改めて気づかされます。

 何よりも先に神の前に…。


ますます盛んに

2016年06月22日 | 使徒の働き

使徒の働き 12章18−25節

 ヤコブに続いてペテロを亡き者にしようとするヘロデ・アグリッパの策略は失敗してしまいます。ヘロデの残忍さは、ペテロの番兵に逃亡の責任を取らせて処刑するというところにも現れています。

 しかし、力を振ったヘロデにも最期が訪れます。ユダヤの歴史家ヨセフォスは、著書「ユダヤ古代誌」の中に、この様子を詳しく記しています。

 場所はカイザリヤの円形競技場。ローマ皇帝を記念する競技会が開かれ、きらめく銀色の衣服に身にまとったヘロデのご機嫌取りたちが、ヘロデを神と呼び、「どうかわれらにあわれみをかけてください。もしわれらがこれまであなたさまを人として畏れていたとすれば、今後あなたさまを死すべき人間以上のお方としてお認めします」とまで持ち上げました。しかし、彼の身体は激しい痛みに見舞われ、宮殿に運び込まれたが、五日間の苦しみの後に死んでしまうのです。

 ヘロデの最期と24節のことばを併せて読みますと、福音はどのような妨害にさらされても決して消し去られてしまうことなく、力強く宣べ伝えられ続けるという思いをさらに強く抱かせます。

 きのうは月に一度のラジオメッセージの録音日。キリスト教は過去のものになってしまったとまことしやかに論じられているこのヨーロッパで、どっこい神のことばは語り続けられているのです。

 


祈っていたのに

2016年06月21日 | 使徒の働き

使徒の働き12章1−17節

 きのうの午後は、留め置かれていた日本からの小包を受取りに税関に。課税されるのは…と、ダメもとでもいいからとにかく伝えようと、名刺を差し出して私が牧師であること、小包の中身はみなさんにお配りするもので売り物ではないことをドイツ語で説明したら、名刺がよかったのでしょうか。「ああ、牧師さんね」と一言。そして、非課税で受け取ることができました。嬉しかったのは、話そうとした内容が伝わったこと。

 ヘロデはヤコブを殺しました。使徒たちの中で最初の殉教者です。次に狙ったのはペテロ。教会はペテロのために神に熱心に祈り続けました。神は彼らの祈りを覚えておられて、ヘロデが群衆に引き出そうとした日の前夜、牢の中からペテロを解放してくださったのです。7−10節は絵画的描写で、音まで聞こえてきそうです。ペテロも初めのうちは何がなにやらわからなかったようで、牢から外に出て通りを歩いているうちに、ようやく我に返ったのです。

 弟子たちが祈っている家にペテロが着いて、女中のロダがすぐにペテロだとわかってみんなに知らせに行ったのにもかかわらず、信じないということが心に留まりました。「気が狂っているのだ」「それは彼の御使いだ」ということばからは、とても彼らがペテロの無事を、釈放を信じて祈っていたとは思えません。「やっぱりね」「祈っていたからあたりまえ」という反応ではなかったのです。

 けれども、これが私たちの現実です。信じて祈っているのです。しかし、私たちはその結果についての確信は持てないということがわかるような反応です。

 「やっぱり!」とか「祈っていたもの!」という反応は、別の意味で危険なのではないかと考えるのですが…。

*土曜日の虹です。


キリスト者

2016年06月20日 | 使徒の働き

使徒の働き 11章19−30節

 ようやく天候が落ち着いてきまして、日曜日には夕立はありませんでした。土曜日の夜に美しい虹が出て、楽しませてくれました。あれが天候の転機になったのでしょうか。

 ここには、アンテオケに誕生した教会の様子が記されています。この教会が誕生したきっかけは、ステパノへの迫害。それによって人々がエルサレムから散らされ、シリヤのアンテオケにも移り住むようになりました。ローマ時代のアンテオケはローマ、アレキサンドリアに次ぐローマ帝国で第三の規模の町で、当時の人口は50万人ほどになっていたと考えられています。ここは今はトルコに属し、アンタクヤまた、ハタイと呼ばれています。

 この町に教会が誕生した経緯は、散らされた人々の中にキプロス人とクレネ人がいて、彼らがギリシヤ人にも主イエスを宣べ伝えたことにあります。歴史的大転換です。心に留まったのは、ギリシヤ人に主イエスを宣べ伝えたのが誰かは書かれていないということです。無名のイエスの弟子がやってみたことから歴史に残る教会が誕生しました。

 アンテオケで大ぜいが主イエスを信じていると知ったエルサレム教会はバルナバを派遣しました。バルナバはキプロス生まれのユダヤ人。アンテオケ教会発足に関わった人々もキプロス人とクレネ人。ですから、エルサレム教会はうってつけの人物を派遣したことになります。

 さらに、アンテオケで初めて弟子たちは「キリスト者」と呼ばれるようになったとあります。いつも「キリスト、キリスト」と言っているためにつけられたあだ名だと考えられています。そんなあだ名がつくほど、「キリスト」のことば心を占めていたのでしょう。

 自分の心は何が占めているのでしょう。

*写真は現在のアンテオケの町(2012年)です。


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