歴代誌第二 3章
きのうは、75歳で主の御許に召された方の葬儀が、その方がお住まいの家から数百メートルの所にある墓地でありました。その方は、普段は近くの町の教会で礼拝をし、月に一度は70キロ近く離れた所にある日本語教会で礼拝をしていました。なかなか日本語教会には行けないとおっしゃいながら、おいでになる時にはお菓子を作り、聖餐式のためのパンを焼いて持って来てくださいました。
葬儀はドイツの教会の牧師が司式をし、私は日本語で短く聖書を語らせていただきました。式が終わり、遺体が埋葬されようとした時に激しい風と大雨が、やがて雹も降ってきました。忘れられない葬儀になりました。タビタのような方でした。主イエスの再臨の時に、「起きなさい」とお声をかけてくださるという希望に生きていることを、改めて覚えました。
ソロモンは、神殿を「主がその父ダビデにご自身を現された所」モリヤ山上に建設しました。ここは、父ダビデが人口調査をするという罪を悔い改めて祭壇を築いた場所です。罪を悔い改めて祈り、神の赦しを賜わった所が礼拝の場所になるというのは、私たちの礼拝にも通じます。神の前に立つ時、誰一人として「私は神の前に立つにふさわしい」と誇ることはできないでしょう。「罪をお赦しください」との願いを携え出るはずです。そこは神を礼拝するにふさわしい場所だとは言えないでしょうか。
もうひとつ、モリヤ山上はソロモンの父祖のアブラハムがわが子イサクをささげようとした場所です。⇒創世記22章 神が約束の末に賜わったわが子をささげるという苦悩の中で神の愛と備えをアブラハムが経験した所が礼拝の場所となるのです。
試練、神の愛、悔い改めと神の赦しのうえに礼拝があるというのは、ソロモンの時代も今も変わらないこと、なのです。