みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

祈っていたのに

2016年06月21日 | 使徒の働き

使徒の働き12章1−17節

 きのうの午後は、留め置かれていた日本からの小包を受取りに税関に。課税されるのは…と、ダメもとでもいいからとにかく伝えようと、名刺を差し出して私が牧師であること、小包の中身はみなさんにお配りするもので売り物ではないことをドイツ語で説明したら、名刺がよかったのでしょうか。「ああ、牧師さんね」と一言。そして、非課税で受け取ることができました。嬉しかったのは、話そうとした内容が伝わったこと。

 ヘロデはヤコブを殺しました。使徒たちの中で最初の殉教者です。次に狙ったのはペテロ。教会はペテロのために神に熱心に祈り続けました。神は彼らの祈りを覚えておられて、ヘロデが群衆に引き出そうとした日の前夜、牢の中からペテロを解放してくださったのです。7−10節は絵画的描写で、音まで聞こえてきそうです。ペテロも初めのうちは何がなにやらわからなかったようで、牢から外に出て通りを歩いているうちに、ようやく我に返ったのです。

 弟子たちが祈っている家にペテロが着いて、女中のロダがすぐにペテロだとわかってみんなに知らせに行ったのにもかかわらず、信じないということが心に留まりました。「気が狂っているのだ」「それは彼の御使いだ」ということばからは、とても彼らがペテロの無事を、釈放を信じて祈っていたとは思えません。「やっぱりね」「祈っていたからあたりまえ」という反応ではなかったのです。

 けれども、これが私たちの現実です。信じて祈っているのです。しかし、私たちはその結果についての確信は持てないということがわかるような反応です。

 「やっぱり!」とか「祈っていたもの!」という反応は、別の意味で危険なのではないかと考えるのですが…。

*土曜日の虹です。


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