みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

心に留めて

2015年12月25日 | ルカの福音書

ルカの福音書 2章39−52節

 救い主、イエス・キリストのご降誕を心から感謝いたします。

 きのうは、休日でトラックが走っていない高速道路を通り、およそ50キロ北にある教会でのクリスマスイブの礼拝に参加してきました。たくさんの方で礼拝室はいっぱい。所々わかることばを繫いで、また、隣に座ってくださった方に通訳してもらって、メッセージを聞きました。帰り道、ガソリンスタンドを除くとどのお店も閉まっていました。

 きょうの箇所は、イエスが12歳の時の出来事が記されています。いわゆる公生涯に入る前のイエスについては、どのような生活をしていたのかはほとんど記されていません。けれども、ここを読みますと、すでにイエスの「不思議」を垣間見る思いがします。

 マリヤが「これらのことをみな、心を留めておいた」ということばを考えてみました。すでにこの時、イエスの行動やことばには周囲にいる人々、特に両親を驚かせるようなものがありました。母マリヤにとって、どのように受け止め説明したらよいのかがわからない出来事だったことでしょう。しかし彼女は、これを心に留めておくのです。

 わからないこと、不可解なことをどうしてもわかりたいと思うときがあります。それで、自分なりに「このことはこんな意味だ」とか「あの人はこんな人だ」とか考えます。実際はどうなのかはわからないのですが、わからないのはいやなので、結論を出したいのです。

 そのような場合、理解できなくとも自分の心に納める、あるいは心に留めるということが必要なのだと教えられます。わからないのは神さまの領域にあること。それを無理にこじ開けないで、いつか教えてくださいと神に任せて、心に留めるのです。それによって、誰かを決めつけることから守られます。


神に用いられる老人

2015年12月24日 | ルカの福音書

ルカの福音書 2章22−38節

 きょうはあちこちの教会でクリスマスの礼拝、燭火礼拝などが行われる日ですね。当地では、きょうの午後には町中のお店が閉まり27日まで続くのだそうです。ですから三日半、スーパーもデパートも一般のお店もお休みです(ガソリンスタンドは開いています)。ですから、きのう午後出かけたスーパーには多くの人が出ていました。なんとなく、以前の日本の正月を迎える前の大晦日の気分です。私たち…ですか? 「買い置きはしてありますか」と問われて、ヨーグルトを買い溜め(と言っても500グラムを3つですが)しました。ほかにも少しずつ…。

 レビ記によれば、男の子が生まれたあと、女性は七日間汚れていて、さらに33日間はあらゆる聖なるものから遠ざかっていなければなりませんでした。そのあとで、小羊一頭と山鳩か家鳩1羽をささげなければならなかったのです。あまりにも貧しくて小羊をささげられないならば、もう1羽の山鳩か家鳩を代わりにささげることでよいことになっていました。⇒レビ記12章1−13節でご確認ください。ですから、ここでマリヤがささげた物は、貧しい者のささげ物だったということがわかります。

 両親と幼子イエスが宮に入って来たとき、シメオンとアンナという老人が迎え、祝福します。ちなみに、「老人」というのは私にとっては蔑称ではなくて、自分もそう呼ばれたいと願っているゆえに用いていることばです。シメオンは主のキリストを見るまでは決して死なないと聖霊のお告げを受け、アンナは宮を離れずに夜も昼も、断食と祈りを持って神に仕えていました。その二人が幼子を迎えたのです。

 私はこの二人にさいわいな老人を見ています。神の約束を信じ続けてその実現を待ち望んで生きている姿、年を重ねてなお主に仕えている姿です。神との豊かな交わりを何よりも大切にし、神が何をなさり、自分がどのことのために用いられるのかを、何歳になっても期待して歩んでいるのです。過去を振り返って懐かしむ姿は二人にはありません。前のものに向かい続ける人生のさいわいを教えられます。


恐れるな

2015年12月23日 | ルカの福音書

ルカの福音書 2章1−21節

 きのうは冬至。ですから、きょうからは日一日と太陽の出る時間が長くなっていきます。でも、当地の本格的な春は4月なのだそうです(まだまだ…)。写真は近くを流れる川の橋上から。きのうは土手のところに見たことのない動物が。帰宅して調べてみましたら、ヌートリアという生き物のようです。

 神の使いは、ザカリヤ、マリヤ、ヨセフ,そして羊飼いたち、主イエスの誕生にかかわる人々に現れて、それぞれに同じことばをかけました。「恐れるな」との一言です。羊飼いは突然の空の明るさに驚き恐れました。「恐れ」とは、自分が体験したことのないことに遭遇したり、未知の分野に踏み出そうとしたりするときに経験するものだと言われています。すべてを自分の経験で語れるものならば、恐れる必要はありません。ところが、発見や発明によっていろいろなことがわかるようになったとしても、まだまだわからない領域が残ります。おそらくそれは、ずっと残り続けるものだと思うのです。

 神は「恐れるな」とのことばを恐れている人々にかけてくださいました。それは、私たちが互いに掛け合うことばとは違います。すべてを支配し、知っておられるお方からのことばです。恐れを取り除くことのできるお方からのことばです。

 クリスマスまでいろいろな贈り物を届け、届けられることでしょう。しかし、「恐れるな」とのことばこそ、神からの何よりの贈り物ではないのかと考えます。神のひとり子がこの世においでになったので、この命令には確かな裏付けがあるのです。ありがたいことです。


われらの神の深いあわれみによる

2015年12月22日 | ルカの福音書

ルカの福音書 1章67−79節

 クリスマスカードが届きます。日本からのカードの中には富士山に鶴とか、サンタクロースが日本庭園に…などというものがあります。日本にいるときには「何でこんなものが…」と思っていたのですが、受け取ってみますと懐かしくまたうれしいものです。送ってくださった方、ありがとうございます。

 ここは、ヨハネの父祭司ザカリヤの賛歌です。「聖霊に満たされて」ということばから、ラテン語の「ベネディクトゥス」として知られています。神への賛美、神がご自分の民を顧みて救いをなしてくださること、わが子ヨハネがどのように歩むか、神の深いあわれみによって救いがなされる、このような構成になっています。

 父親であるザカリヤは「あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう…」と、ヨハネに直接語りかけています。そしてやがてヨハネは、このことばのように歩むのです。そして、神の不思議な救いのみわざがなぜ今実現しようとしているのかは、「われらの神の深いあわれみによる」のだと歌います。滅ぼされてもしかたがない者たちをお忘れになることをなさらないのは、神の深いあわれみによるのです。そのあわれみは、私にも届いたのです。

 「われらの神の深いあわれみによる。」このことばとともに、一日を過ごします。


神をほめたたえた

2015年12月21日 | ルカの福音書

ルカの福音書 1章57−66節

 少なくともおよそ10か月、ザカリヤは耳が聞こえず口が聞こえないという中にいました。この間の夫婦の会話は、書き板による筆談、もしくはジェスチャー。そのような中で、神のご計画の中に自分たちが、そして生まれてくる子どもがいるということは、この夫婦がともに、何度も分かち合ったことでしょう。名前も神の使いがつけるようにと命じたことば。

 通常であれば、親の名前を継ぐはずであったのに、エリサベツが「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません」と言ったことが周りに波紋を及ぼします。納得のいかない人々が夫のザカリヤに確認を求めたところ、ザカリヤは書き板に「彼の名はヨハネ」と書き、それとともに彼の沈黙の期間が終わりを告げました。

 長い間の沈黙が解けて、最初にザカリヤが口にしたのは、神への賛美でした。それは、彼がこの間をどのように過ごしていたのかを想像させるようなことばでした。ザカリヤにとってこの10か月は、大きな神の恵みの期間ではなかったでしょうか。子どもが与えられること、名前をヨハネとつけること、そのヨハネがやがて何をなすのかについて知らされたことなど、ザカリヤとそしてエリサベツは、静かな夫婦の交わりの中で、何度も神のご計画の中に自分たちがあるのを確認し合ったものと思います。

 長い沈黙の末、ものが言えるようになって、はじめに口にしたのが神をほめたたえることだったというのは、私たちの口がそもそも何のためにあるのかを考えさせられます。自分は口で何を話しているのだろうかと…。


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