サムエル記第二 22章1−25節
日曜日の礼拝に、日本で宣教師をしておられるご家族が来てくださいました。宣教が困難だと考えられている日本で、さまざまな機会を捉えて福音を届ける働きが続けられていることを知りました。
サムエル記第二21−24章は、この書ではいわゆる「補遺」に当たります。 しかしそれは、著者が書き足りなかったことを書き足したものということではなく、サムエル記が何を描いているのかをまとめたと考えられます。
この部分は、内容的には、始めと終わりにはサウルとダビデの罪が、その内側にダビデの勇士たちの名前、そして内側に神への賛美が置かれています。つまり、A―B―C―C1―B1―A1という構造なのです。
この文章構造を眺めて、私はこれはそのまま私たちの人生を語っていると思いました。外側の私はじつは神を悲しませ、怒らせるようなことをする者であり、そんな私をたくさんの人々が助けてくれる、そして、すべては神がなさることであるので神がほめたたえられるのです。
今日の箇所は神への賛美です。この詩は詩篇18篇とほとんど同じです。しかし、サムエル記を読み終えようとしている時にこの詩を味わうことによって、特に表題によって、ダビデがどのような思いでサウルから逃れに逃れたのかを思うのです。
出だしのことばは、神が巌であり、砦であり、救い主だとあります。ここで目を留めるのは、その一つ一つに「わが」がつけられていることです。それはつまりダビデがどんなに強い守りを、救いを必要としていたかを語っています。
7節以降の主語の多くは「主は…」です。それは自分の無力さと敵の手強さを前提にしています。どんなに相手も強力で恐ろしくても、主は私を守り、助け、救い出してくださいます。
21−25節に目が留まります。それは、これほど主が私のために良きことを行ってくださることへの、ダビデの応答です。私たちの歩みは主が良くしてくださったことを忘れずに、それを自分の生き方で表すということなのだと、教えられます。