みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

大祭司が死ぬまで

2023年06月20日 | ヨシュア記

ヨシュア記 20章

 お休みの月曜日午後、川のほとりにある歴史のある町を散策しました。電車は行きも帰りも遅れましたが…。

 この章には、「逃れの町」を定めることが書かれています。

 それは、2節にあるように、「意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、復讐する者から逃れることができるようにと設けられた町です。「意図せずに」について、神はすでにモーセを通して事例を挙げておられます。

 民数記35章22-23節では、「もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら」と具体的に事例を挙げています。

 申命記19章5節では、「隣人と一緒に、木を切り出そうと森に入り、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、斧の頭が柄から抜けて隣人に当たり、その人が死んだ場合」とあります。

 わざとでなく人のいのちを奪ってしまうということは、今でも起こりうること。しかし、大切な家族や友を殺された者にとっては、それが意図しないことであったとしても、穏やかではいられません。中には強い恨み、そして殺意を抱く者もいます。「逃れの町」は復讐の連鎖に陥ることがないように定められたものです。

 よく知られている「目には目、歯には歯」は、相手に与えた損害と同じ損害を加害者は支払わなければならないということであり、それはそれ以上を加害者から奪ってはならないということを意味しました。ですから、いのちを奪った者はいのちを奪われるのです。誤って人のいのちを奪った者にとっての代償とは「逃れの町」から出られないということでした。

 6節の「大祭司が死ぬまで」ということばに目が留まります。まことの大祭司イエスの十字架の死が、すべての人を罪からか移封してくださったということをここから覚えます。


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