ヨシュア記 17章
外は晴れているのに、何となく暗いと思い気がついたら、天窓のスクリーンを下ろしたままでした。
この章は、ヨセフ族のうちのマナセ氏族への割り当て地についての記事です。創世記48章には、ヤコブがヨセフの子マナセとエフライムを祝福して、わが子とする場面がありますが、そこでヤコブは長子マナセの上に載せるべき右手をエフライムの上に置きました。あの時ヨセフは、間違えているのではないかと父に言いました。しかしヤコブは、やがて「弟は彼(マナセ)よりも大きくなり……」と言って、そのままにしたのです。⇒創世記48章17節
ヨセフ族への割り当てにおいてエフライム氏族が優先されたのは、ヤコブのことばが預言だったことを伝えています。
この章で心に留めたのは、せっかっくの割り当て地を得たマナセ氏族が、数の多い自分たちにはここは少なすぎると不平を申し立てていることです。けれども、彼らの不満はもっともなものではありませんでした。自分たちが為さなければならないことを脇に置いて、努力しない私たちの要求に応えてくれと訴えているようなものです。
ヨシュア記を読み多くの人が心に留めることばは、神がヨシュアに語られた「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから」というヨシュア記1章9節だと思うのです。
ヨシュアに神が語られたこの約束と命令は、この時のマナセ氏族の一人びとりにも届けられていたのですし、それは私たちにも、私たちの生活のさまざまな面にも届けられているのだと、ここを読んで思います。カトリック教会が日本で続けている「心のともしび」というラジオ番組は、「暗いと不平を言う前に、進んで灯をつけましょう」だったと思います。そのことばをここから思いました。