サムエル記第二 22章26−51節
久しぶりに隣町にある韓国食材店を訪ねました。今回はお米やみりん、蕎麦(そば)、乾燥椎茸などを購入。いつも教会の案内を、お店入り口の一番目立つ場所に貼っていただいています。
昨日も書きましたが、ダビデの賛美の後半は、詩篇18篇25−50節とほぼ同じですが、サムエル記の終わりにあることで、ダビデの人生との絡みで味わうことができると思います。
この部分には、取り出して壁に貼っておきたいと思うことばがいくつもあります。
たとえば、26―28節です。ここでダビデは、主が自分のすべてを知っておられるということ、知っておられるだけでなく、その人にふさわしく扱うお方であると歌っています。
この詩は、「主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に」 ダビデによって歌われたものとあります。振り返るなら、ダビデはサウルから26―28節とは全く違う扱いを受けました。それではダビデ自身はここで歌われているような生き方をしたかというならば、そうではありません。
彼は自分のいのちをしつこく狙う王から逃れながら、主についてのこの真理を何度口ずさんだことだろうかと想像しますし、自分がここで歌われる人としてのあり方から逸れるようなことがあった時も、このことばに蓋をしないで口ずさむことで、このような主を覚えることで生き延びることができたと思うのです。
神は守ると約束されたらそのようになさる方、助けると約束されたらそうなさる方、勝利すると約束されたらそれを実現させてくださるお方。それが31節のことばです。
「神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて身を避ける者の盾。」これは、一般論ではありません。ダビデ自身の人生で味わった一つ一つを通して知った神についての真理。そしてこの神は、私にも、私たちにとっても変わらないお方なのです。
そうだとしたら、このお方を賛美しないという道はありません。