サムエル記第二 18章19−33節
あるご家庭で子ども集会をしました。よく知られた主イエスのたとえ話を取り上げましたが、次々に刺激的な反応…。読み慣れた箇所ですので、こうあるべきという考えをいつの間にか持っていたことを、子どもたちの質問や意見などによって気づかされる貴重な時間でした。
謀反を起こしたアブサロムたちに勝利したダビデ側。ダビデは前線からもたらされる知らせを待っていました。しかし、ダビデが待っていた「吉報」とは、わが子アブサロムが無事であること。謀反の張本人が無事だということは、本来ならば吉報どころか憂慮すべき知らせです。
ダビデがアブサロムの死を知ったならどんなに嘆き悲しむかを知っていたヨアブは、良い知らせを届けるはずだとダビデが信じているアヒマアツではなく、異邦人であるクシュ人を伝令とします。クシュ人ならば思い入れを持たず、客観的かつ冷静に戦果をダビデに知らせるからというのが理由だと思います。
先にダビデのところに着いたアヒマアツは、自軍の勝利を告げました。しかし、この時のダビデの関心はわが子が無事かどうかしかありません。アヒマアツにも、その後に到着するクシュ人にも、ダビデは「若者アブサロム」は無事かと尋ねます。それがダビデにとっての「吉報」でした。
その問いかけに、アヒマアツはことばを濁すことしかできません。クシュ人からアブサロムの死を知らされたダビデは、人前もはばからずに号泣しながらアブサロムの名を呼び続けるのです。
「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに、アブサロム。わが子よ、わが子よ」という33節のことばは、読む者の胸に突き刺さります。
代わってあげられたらと、世の親たちはわが子の窮状を、そして死をそう受け止めるのです。