ダブログ宣言!

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勉強中の読書

2016年10月13日 10時47分52秒 | 文学
英語の勉強をしているのであまり本を読んでいない。
トルストイの『戦争と平和』も二巻で止まってしまっている。が、これは読み終えたい。
ほかに、たぶんノーベル文学賞の発表が近いので次々と発売となった村上春樹の未読の文庫があり、『職業としての小説家』も『女のいない男たち』も買っているのだが読んでいない。自身の創作も収録された翻訳短編集『恋しくて』はまだ買っていない。読むかどうか分からない。
また、来月には、小林秀雄の講演を聞いて興味を持った柳田國男の『故郷七十年』やそろそろ発売かなと待っていた大江健三郎の『晩年様式集』も文庫になるようで、本が溜まる。
しかしそんななか読んでいるのは図書館で借りてきた片岡義男の短編集『と、彼女は言った』(講談社)で、いま唯一これだけ読んでいる。
ものすごくおもしろいとは思っていないのだが、なぜだか読んでいる。
ふたりとか三人とかの登場人物が会話して何かを飲んだり食べたりするだけの、それだけの短編が続くのだが、軽いから読めるのかもしれない。緊張感のあるものは、英語の勉強ってわりと疲れるので、読めない。
登場人物のひとりには必ず小説家がいて、その小説家がこんなふうに話を作ろうかと言っているように物語が語られるようなところがあり、登場人物がその出来事をのちに書いたものがいま読んでいる物語であるようにも読める。
たぶん片岡義男は自分の力に自信を持っていて、その自信が伝わってくるようなところがあり、そこが安心して読める反面、ちょっと反発してしまうところでもある。そんなにうまく終われてねえよ、自分で思ってるほどはぜんぜんうまくないよ、と言いたくなってしまう。
そんな、プロの仕事。
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白井恭弘『外国語学習の科学 第二言語習得論とは何か』

2016年10月10日 21時54分47秒 | 文学
白井恭弘『外国語学習の科学 第二言語習得論とは何か』(岩波新書)を図書館で借りて読む。
たしか勝間和代の『最後の英語やり直し!』にこの本のことが載っていて興味を持ったのだが、あんまりおもしろくなさそうで図書館で借りたけどどうしようかなと思っていた。ぱらぱらとめくってみると「オーディオリンガル教授法」や「コミュニカティブ・アプローチ」という言葉が出てきて、ちょうどいまやっている英語の音読の教材(『みるみる英語力がアップする音読パッケージトレーニング』)にそのことが出てきているので興味を持って読んでみた。
外国語を勉強するのはインプットが大事だけれどアウトプットも大事なようだ。きちんと口で言わなくても頭の中で言おうとすることが大事だというようなことに納得した。実際には言わなくても、明日誰かに何かを話さないといけないかもしれないと思ったら想定で会話をするということは、ある。そんなふうな緊張感が言語習得には必要なのかもしれない。留学したり、語学学校に行くのは、教えられる内容自体にはあんまり意味はない(ひとりでもできる)のかもしれないが、その緊張感が得られるということには意味があるような気がする。

あとは、そんなに得られるものはこの本にはなかった。
普通のことが無難に書いてあった。
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近藤誠『クスリに殺されない47の心得 体のチカラがよみがえる近藤流「断薬」のススメ』

2016年10月09日 22時40分51秒 | 文学
近藤誠『クスリに殺されない47の心得 体のチカラがよみがえる近藤流「断薬」のススメ』(アスコム)を図書館で借りて読む。
言っていることは概ねその通りなのだろうと思うが、もうなんども同じ話を聞いた気がするので飽きた。
固形ガンに抗がん剤はきかないという話は耳にタコができるほど聞いた。

しかし自分が実際にガンになってみないとこういうのはほんとうには理解できない。まだまだ真剣に考えていないような気がする。たとえばコレステロールの話は真面目に読んでいる気がするが、子宮頸がんの話はよく理解できていない。子宮頸がんのワクチンの副作用はひどいという話だけなんとなくわかった。
まずは身内の誰かのガンの話がそのうち来るはずだろうからそのとききちんともう一度考えてみよう。
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清涼院流水『社会人英語部の衝撃』

2016年10月03日 22時15分07秒 | 文学
清涼院流水『社会人英語部の衝撃』(KADOKAWA)を図書館で借りて読む。
著者が社会人英語部の仲間たちとTOEICのテストを受け続けて、990点満点を取るまでが小説風に書かれている。
清涼院流水というひとの本を僕は読むのは初めてなのだが、推理小説家らしい書き方をしていた。ほんとうに、密室でひとが殺されなかったのが不思議なくらい本格ミステリーを思わせる書き方だった。どうしてそんなふうな印象を与えるのか考えながら読んでいたのだが、ひとつには語り手というか主人公というか、このお話の中心となる人物が「流水」と呼ばれ、それが客観的な人物になっていないところが理由だろうと思う。「僕」でも「私」でも書けるところを代わりに「流水」にしている。実は一人称であるのに三人称の格好になっていると言ったらいいか、そのような書き方が本格ミステリーを思わせるのだろう。
あとは全体的に表現が大袈裟なところがあり、それも本格ミステリー的なのかもしれない。
密室も殺人もなくても文体で本格ミステリーを思わせることが出来るのだというのが驚きだった。

「おわりに」に、《英語をテーマにした小説を12冊も刊行》した、とあり、興味を持った。どんな小説なのか興味がある。

しかし990点を取るまでに毎回受験するなど、TOEICというのはゲームなのだなと思った。985点取ったんならもういいじゃんと僕などは思うが、考え方が違うのだろう。
僕も近いうちに一度受験したい。
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