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チェーホフ「ワーニャ伯父さん」、村上春樹「イエスタデイ」

2016年10月30日 22時39分28秒 | 文学
チェーホフ「ワーニャ伯父さん」(浦雅春訳)を再読。
誰かは誰かのことが好きで、その誰かは別の誰かのことが好きという話になっている。

セレブリャコフ ← エレーナ ← ワーニャ
            ↑ アーストロフ ← ソーニャ

村上春樹は「ドライブ・マイ・カー」のなかで、家福をワーニャに、みさきをソーニャに一応なぞらえているように思う。誰かを好きだけれど、誰かに好きになられてはいないひとたち。
そうだとしても、何かが分かったようには思わない。「ドライブ・マイ・カー」も「ワーニャ伯父さん」も。
「ドライブ・マイ・カー」はテーマの一つとして、ひとを懲らしめようとしたけれどしなかった、ということがあると思う。いま思うのはそのくらい。

引き続き、村上春樹の「イエスタデイ」(『女のいない男たち』所収)を読む。
村上春樹はビートルズを題材にするとどうしても、この話をしてしまうのかもしれない。僕にはどうしても『ノルウェイの森』を思わせた。
関西弁をしゃべる東京出身者と、標準語をしゃべる関西出身者というのがおもしろいなとは思ったけれど、あとはほんとうに『ノルウェイの森』だったな。
語り手の見たウディー・アレンの映画が何なのか気になるように書かれているが、『アニー・ホール』ではないかと思っている。
もしかすると村上春樹はこの短編集を、何かを見てその影響でひとつひとつの作品を作り上げるというようなことをやっているのではないかと妄想する。「ワーニャ伯父さん」から「ドライブ・マイ・カー」を、『アニー・ホール』から「イエスタデイ」を、というように。しかし、村上春樹の作品では過去の芸術作品に言及されるのは日常茶飯事なので、そういうつもりはないのかもしれない。
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