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バーリン『ハリネズミと狐 『戦争と平和』の歴史哲学』

2010年08月08日 12時16分03秒 | 文学
バーリン『ハリネズミと狐 『戦争と平和』の歴史哲学』(岩波文庫)を読んだ。
トルストイの『戦争と平和』についてもっと細かく分析する本なのかと思っていたが、期待したほど細かい話はなかった。
トルストイが、歴史を合理的に見ることに批判的だった。彼は個々の人々の内面の動きの方を重視していて、それらを総合した世界の全体の動きがあるという見方をしなかった、というような話だった。

途中止めになっていた『戦争と平和』をまた初めから読むことにした。
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内田樹・石川康宏『若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱』

2010年08月04日 23時06分44秒 | 文学
内田樹と石川康宏の『若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱』(かもがわ出版)を図書館で借りて読んだ。ふたりの往復書簡という格好の本。
さきほどまでWiiで通信で麻雀をやっていたのだが、途中で通信が切れたひとがひとりいたようで、そのひとの番になるとしばらく待たされて、ツモった右端の牌をそのまま自動的に捨てるという行為を繰り返し見せられることになった。ほかの三人は結構待たされる。
仮想のゲームに限らず、実際に麻雀する場合でも、そのなかのひとりが漫画を読みながらとかケータイを見ながらとかぼうっとしながらとかで、「おい、お前の番だよ」と毎回言わないとやらなかったりすると、「いい加減にしろよ」と言いたくなる。リズムを崩されるのが嫌なのだ。(そんな奴でもいなくなると困るので「もう帰れ」と言えないのが麻雀のつらいところだ。)
ところで、この本は内田樹と石川康宏が交代で話す感じの本なのだが、石川康宏には内田樹の意図がぜんぜんくめていないのではないかと思った。内田樹は石川康宏に語りかけているのに、石川康宏は内田樹のほうをまったく向いていない。彼の考える「若者」のほうにしか語りかけていない。
そういう語り方って(少なくとも僕は)、この本には期待していなかったんだけどな。
もっと、大人ふたりの、「マルクスってあれだよね」「そうだよね。で、あれは、フフフ、こうだよね」みたいなものを期待していた。
内田樹ひとりの本でマルクスを語るということのほうが良かったんじゃないかと思う。僕には石川康宏の文章が読めなかった。麻雀で喩えると「お前、早く捨てろよ。ウチダが待ってるじゃないか」と思いながら読んでいた。いや読んでもいなかった。

マルクスの本では『経済学・哲学草稿』と『ドイツ・イデオロギー』を読んでみようと思った。
《マルクスは人間が自己利益の追求を最優先することを止めて、自分の幸福と利益を気づかうのと同じ熱意をもって隣人の幸福と利益を気づかう「類的存在」になることを「人間的解放の完遂」だと考えました。》(92頁)
「類的存在」については、いちどマルクスを読んだときに気になったのだが、そういうことだったのかと納得できた。
さういふ存在に、わたしはなりたい。
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プルースト新訳ブーム

2010年08月03日 00時49分52秒 | 文学
なんとプルーストの『失われた時を求めて』の新訳が二つも出るようだ。岩波文庫と光文社古典新訳文庫から。
なんで?
村上春樹の『1Q84』の影響だろうか。
それにしても同時に二つも出さなくてもいいじゃないのと思う。『星の王子さま』や『源氏物語』みたいな状態だ。
ちくま文庫と集英社文庫を持っているので、新訳は買いはしないが気にはなる。立ち読みくらいはする。
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ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出『2人の夫とわたしの事情』

2010年08月02日 01時25分18秒 | 舞台
原作がモームであることと、ケラリーノ・サンドロヴィッチが演出ということと、松たか子が好きであるということで録画していた演劇『2人の夫とわたしの事情』を見た。
松たか子がわがままな女を演じていた。
『人間の絆』でもそうだが、モームにはわがままで嫌な女が登場する。たぶん女は嫌なものだと思っているのだろう。
演劇は戦争で死んだと思っていた夫が帰ってきてドタバタするあたりの前半はとてもおもしろかった。
後半の話の展開はよくわからなかった。

松たか子は声が聞きとりやすい。
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山崎正和『不機嫌の時代』

2010年08月01日 09時09分14秒 | 文学
丸谷才一おすすめの本である山崎正和の『不機嫌の時代』(講談社学術文庫)を読んだ。
半分くらいはものすごく面白くて、「これは、山崎正和の本はすべて読まねばなるまい」という気分にまでなっていたのだけれど、後半はあまり新たな発見が僕にはなく、まあまあおもしろかったかな、という感じになってしまった。
もっともおもしろかったのはこんなところ。
《いひかえれば、人間相互のあひだには「隠さずに云へ」る最終の真情といふものがあり、それは言葉で確認し得るものだといふ、素朴な自然主義だつだといへる。そして、人間心理についてのこの無邪気な自然主義は、近代の写実文学の作者はもとより、たがひに愛の「真実」を求める無数の青年男女を脅迫して来た観念なのである。》(62頁)
人間のこころのなかには性格や論理がある、ということがそもそもフィクションであるということを感じさせる話や、時間の観念は作られたものであるとか、歴史の記述はすべてが終わったとき遡って初めて可能であるとか、そのようなことを言っている文章にこのところものすごく共感する。
『不機嫌の時代』で取り上げられるのは、日露戦争が終わったあとの文学者、志賀直哉や永井荷風や森鴎外や夏目漱石で、そのへんの文学者にはとても興味があるのでおもしろかった。特に夏目漱石の『行人』と『道草』はまた読むべきだと思った。
不機嫌というのは明確な原因があって生じるものではなく気分であり、そしてひとりでいるときではなく近しい誰かといるときになるものであるというところは、志賀直哉や夏目漱石の話としてではなく、自分の経験として納得できるものだった。僕も実家で母親といるときはかなり不機嫌な少年(青年)だったと思う。いまも不機嫌な夫であることもある。
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