内田樹『呪いの時代』(新潮文庫)を読んだ。
Yahoo!でニュースを見ていると、そもそもなんで取り上げられるのかわからない、重要とも思われないタイトルのニュースで、その詳細を見ると、読者からのろくでもないコメントが書かれていたりする。で、そういうのをしばらく見ていると、見るのが癖になってきて、ニュースのタイトルから大体こんなろくでもないコメントが書かれているだろうと予想できるようになる。で、予想が当たるとちょっと嬉しかったりもする。
そういうのはよくないと思い、最近はYahoo!ニュースをあまり見ないようにしている。
少し前まで、Yahoo!ゲームでよく将棋をやっていたのだが、対戦相手がろくでもないコメントを書いてくることが多くなり、将棋に負ける以上に気持ちを沈ませることがあり、やめてしまった。
ろくでもないものに触れていると、どんどん自分の中の善きものが死んでいくので触れないほうが良い、というような思想を僕は内田樹から学んだのだと思う。
今回の『呪いの時代』もいつもの内田樹の話で、強く心に残った部分もないではないが、基本的には内田樹の言いそうなことが内田樹の文章で書いてあった。
僕はもう何年も内田樹の文章を読んでいるが、この「言いそう」と思えることが重要なのではないかと思った。
何かあったときにそのひとと同じように考える癖をつける。
誰かの本を読むというのがどういうことなのか実は最近よく考えるのだが、そのように英語を繰り返し発音するように、繰り返し同じ著者の本を読むことでそのひとと同じ身振りができるようになるということが本を読むことの重要な意味なのではないかと言うことを最近思っている。
寺子屋論語的、または、キリスト教聖書的な思想に近くなっているのを感じるが、昔から続けられていることにはそれなりに意味があるのだと思う。「論語」や「聖書」を繰り返し読ませるのは孔子やイエスと同じように考えさせようとしているのだろう。
以下は、まったく関係のないメモ。
英語の音読について。
英語の音読は単調に繰り返していたのでは飽きる。お手本と同じように抑揚をつけて言うと、気持ちが高揚し、続けられる。
ウィンブルドンについて。
NHKでウィンブルドンが放送しているが見ていない。まったく興味がない。
テニスを続けているので見たらいいのだろうと思うが、録画して見るほど興味が持てない。見ている人はテニスが上手くなるのだろう。私が上手くならないのは上手な人のプレーを見ないせいだ。
富士日記について。
武田百合子の『富士日記』に興味がある。もう何度目かの興味。
メルヴィルの『白鯨』を読み終えたらトルストイの『戦争と平和』を読もうと決めているのだが、その前に『富士日記』を読むかもしれない。
いまは村上春樹の『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を読んでいる。
映画のDVDには監督や俳優がその場面で何を考えたかを語るオーディオコメンタリーを副音声で聞くことができるものがあるが、それを読んでいる感じ。しかも映画そのものは流れてもいないし見たこともないという状態。
クラシック音楽に興味がないので言っていることの大半はよくわからないのだが、まあまあおもしろい。
Yahoo!でニュースを見ていると、そもそもなんで取り上げられるのかわからない、重要とも思われないタイトルのニュースで、その詳細を見ると、読者からのろくでもないコメントが書かれていたりする。で、そういうのをしばらく見ていると、見るのが癖になってきて、ニュースのタイトルから大体こんなろくでもないコメントが書かれているだろうと予想できるようになる。で、予想が当たるとちょっと嬉しかったりもする。
そういうのはよくないと思い、最近はYahoo!ニュースをあまり見ないようにしている。
少し前まで、Yahoo!ゲームでよく将棋をやっていたのだが、対戦相手がろくでもないコメントを書いてくることが多くなり、将棋に負ける以上に気持ちを沈ませることがあり、やめてしまった。
ろくでもないものに触れていると、どんどん自分の中の善きものが死んでいくので触れないほうが良い、というような思想を僕は内田樹から学んだのだと思う。
今回の『呪いの時代』もいつもの内田樹の話で、強く心に残った部分もないではないが、基本的には内田樹の言いそうなことが内田樹の文章で書いてあった。
僕はもう何年も内田樹の文章を読んでいるが、この「言いそう」と思えることが重要なのではないかと思った。
何かあったときにそのひとと同じように考える癖をつける。
誰かの本を読むというのがどういうことなのか実は最近よく考えるのだが、そのように英語を繰り返し発音するように、繰り返し同じ著者の本を読むことでそのひとと同じ身振りができるようになるということが本を読むことの重要な意味なのではないかと言うことを最近思っている。
寺子屋論語的、または、キリスト教聖書的な思想に近くなっているのを感じるが、昔から続けられていることにはそれなりに意味があるのだと思う。「論語」や「聖書」を繰り返し読ませるのは孔子やイエスと同じように考えさせようとしているのだろう。
以下は、まったく関係のないメモ。
英語の音読について。
英語の音読は単調に繰り返していたのでは飽きる。お手本と同じように抑揚をつけて言うと、気持ちが高揚し、続けられる。
ウィンブルドンについて。
NHKでウィンブルドンが放送しているが見ていない。まったく興味がない。
テニスを続けているので見たらいいのだろうと思うが、録画して見るほど興味が持てない。見ている人はテニスが上手くなるのだろう。私が上手くならないのは上手な人のプレーを見ないせいだ。
富士日記について。
武田百合子の『富士日記』に興味がある。もう何度目かの興味。
メルヴィルの『白鯨』を読み終えたらトルストイの『戦争と平和』を読もうと決めているのだが、その前に『富士日記』を読むかもしれない。
いまは村上春樹の『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を読んでいる。
映画のDVDには監督や俳優がその場面で何を考えたかを語るオーディオコメンタリーを副音声で聞くことができるものがあるが、それを読んでいる感じ。しかも映画そのものは流れてもいないし見たこともないという状態。
クラシック音楽に興味がないので言っていることの大半はよくわからないのだが、まあまあおもしろい。