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大江健三郎『水死』感想

2013年11月30日 22時25分30秒 | 文学
大江健三郎『水死』(講談社文庫)をようやく読み終える。
この本は単行本が出た時から気になっていて、文庫になったときも気になっていた。今回、新作『晩年様式集』が気になったことでついに読むことができた。ほんとうは『晩年様式集』を読むための準備作業だったのだけれど、準備作業だけで終わってしまいそうで、『晩年様式集』には手を出さないと思う。文庫になったら考えよう。
感想は、数日前に書いた感想から変わっていない。ぜんぜんおもしろくない。この小説をおもしろいと思う人がいるということすら(もちろん、いらっしゃるはずだが、)信じられない。
物語の終わりを、暴動みたいなもので終わらせるのは大江健三郎の癖なのだろう。もう何度もこのパターンを読んだ気がする。
大江健三郎は、このシリーズのどこかで伊丹十三がモデルの塙吾良に、「読者はおもしろい小説が読みたいと思って本屋に来るのであって、長江古義人(大江健三郎)の新作が読みたいと思ってやってくるわけではない」と言わせていたはずだが、そう登場人物に言わせながらも、ほんとうのところではその言葉が突き刺さっていないんじゃないかと思わせる。いったいこの『水死』の読者はどういうひとを想定しているのだろう。大江健三郎の小説を、全部ではないにしても代表作は概ね読んでいる人(しかも記憶している人)、というところだろうか。
私は概ね読んでいる部類に入る人だが、あんまり憶えていない人、なのでこの人の小説を読むたびに「知らんよ」と何度も叫んでしまう。メイスケって誰だよ! たぶん『同時代ゲーム』か『M/Tと森のフシギの物語』に出たんだろうけど、忘れました。
大江健三郎のよく言う「レイト・ワーク」って、年を取って円熟に向かわずに愚行をおかすこと、というような意味に受け取っているけれど、過去作品の引用と過去作品と似た展開を繰り返すことってどちらかと言えば「円熟」なんじゃないだろうか。
もっと愚かしい作品を読みたい。
思えば『取り替え子』でビートたけしやおすぎの悪口を言っていたころはよかった。
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