”朝吼夕嘆・晴走雨読”

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「消えた安謝学区」~「私の履歴書」㉓

2020年10月01日 | 「美ら島沖縄大使」便り

    
 
      (安謝小学・右に向かう道路・1号線下の安謝トンネル)
 
        (安謝中学1年~比嘉先生を囲んで・先生の下が私
 私が在学した安謝小中学の学区は安謝を中心とする住吉、天久、岡野、銘苅、平野地区でした。印象深いのは安謝南の安謝川の間にある道も狭く自転車で昇るのは難しい丘陵地区で、その名前も文字通り“岡野“でした。不思議なことにこの岡野と近隣の勢理客には琉球政府行政主席を務め、建設会社や電力会社(後の沖縄電力)創業の松岡政保氏や近接の勢理客には琉球セメント、糖業、パイン、煙草、セメント業など数々の県内製造業を起こした宮城仁四郎等々の県内巨頭が住んでいました。因みに松岡は国頭郡金武町、宮城仁四郎は大宜味といずれもヤンバル出身でした。戦後、何でヤンバル出身者の多くがこの岡野や勢理客地域に移住したのだろうか?沖縄地名らしくないこの「岡野」名称には諸説があり、戦前は余り人の住まない木草過疎のこの地を開発移住した松岡政保が名付けたのでは?因みに松岡は宜野座からの改名。私達の安謝小中時代は“岡野出身”というと何と無くエリート集団の匂いがありました。この岡野に隣接する平地方は対照的に平野の地名です。もう一つの住吉ですが、ここは米軍接収で移住させられた小禄、垣花地方の人が住んでいました。これも戦後“住み吉し町!”として移住させられたのでは?いずれにしろ、この岡野、平野、住吉は安謝、勢理客、銘苅、天久等の沖縄名称に比べ違和感あります。この岡野、平野、住吉は現在の県内地図には微かに残る“消された地名”か(´Δ`;)

 私の記述に間違いがあれば、忌憚なくご指摘下さい。

 

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