(大連幼稚園入園記念写真~6歳)
この写真撮影の時”坊や首を左に左に”と何度も言われたの覚えています)
満州から引き揚げた奄美大島での小学入学は今や廃校になった加計呂麻島の須子茂小学校でしたが、両親の転住に伴い1学期で奄美本島の古仁屋小学校に転校します。古仁屋小学1年の時、忘れられない記憶があります。それは小学1年の時に、学芸会で全校代表として挨拶させられたことです。我家の近くに住む後に校長先生になられる祈先生に「辰弥君!学芸会で開会の挨拶をしなさい!」言われました。当時の古仁屋小学校は1クラス40~50名前後、1学年松、竹、梅の3クラスの6学年の1000人近い全校生徒の前で開会の挨拶をさせられました。
何で私が全校代表の挨拶を指名されたのか?今思うと、それは満州帰りの私は島訛りのない流暢な日本語を話し、都会的で垢抜けしていたのでは!奄美大島出身の両親の下で生まれた私が何故、そんなに垢抜けしていたのか? 私だけでなく、満州から引き揚げた島出身者が一様に垢抜けしていたようです。占領や殖民地支配を容認する訳ではありませんが、戦前の日本の“新官僚による満州国建設や台湾開発や近代化等世界史的に見ても“植民、租界地”のもたらす“、開発近代化”の歴史的影響、例えばヨーロッパ諸国の殖民だったインド、フィリッピン、東南アジア諸国の近代開発化度に瞥見できるのでは?台湾住民にも日本による近代化と開発促進を評価すると一面があります。日本の占領、開発下にあった哈爾濱、大連は中国で最も”近代化、垢抜け?”していたと言われたいます。決して、占領、植民地化を是とするのではありませんが、戦後アメリカ(国務省)による日本の農地解放、財閥解体等の民主化促進は占領、殖民地政策の一側面です。奄美大島ルーツ・大連帰りの私の当時の“垢抜け”?容姿もその側面ではとこの写真を見る度に思います。奄美に帰った私は日々、年々、劣化?田舎化していきます( ´艸`)
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