私が中学3年?の時、私達の住んでいた真和志村安謝は合併し、那覇市になります。我家は安謝小中学正門の右隣2軒目にありましたが、後に琉大を卒業し、安謝小の校長に就任し、毎日我が家の前を通り登校した那覇高校同期女性から“重田さんのお宅、変わっていましたね!”と言われたことがあります。彼女だけでなく、幼少から琉舞を習い、後に琉舞の第二代渡嘉敷守良を襲名する安謝小中5期後輩、地元育ちの花城勝子師匠も同じような印象を語たられました。
大した洒落た住宅ではない平屋の我家が周りに何でそんな印象を与えたのか。それは我家の道路際の2間正面はガラス戸があり、その奥の廊下越しに障子が見えたようです。亜熱帯の沖縄ではガラス戸や障子文化はなく、夏にはしばしば開けぱなしの家があり、当時の我家のそんな風景は珍しかったようです。また、毎朝、家の周りを掃除する母の姿を“へー!”と眺める近所の人がいました。
最も印象に残っているのは正月の餅つきでした。我家では毎年、正月に庭で餅つきをしていましたが、沖縄には餅つきの習慣がなく、毎年、近所の人が臼や杵を珍しそうに見学に来ていました。私も自宅で餅つきをした記憶がありますが、父はあの臼・杵をどこから入手したのだろうか?
父は在沖瀬戸内会長を務め、我が家にしばしば郷友会メンバー集い新年会、忘年会、時に安謝小学グランドで運動会等をしました。私達は左程の意識はなかったのですが、当時の我家は周辺にオオシマ・ヤマト文化を発信し、珍しがられていたことを後で知りました。
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