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「忘れ難い沖縄の同期級友」~「私の履歴書」㉝

2020年10月28日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                 
             (懐かしい安里小学の同期)

 傘寿を迎えた私の人生1割を沖縄で過ごしました。この小中高の8年の沖縄は最も思い出深く、知り合った多くの友人にお世話になりましたが、最も印象に残っているのは、宮城義明、屋良文雄、粟国安彦の3君です。奄美から転校入学した安里(後の安謝)小学6年の級長クラスで眩しく輝いていたのが宮城義明君でした。彼は沖縄の財界四天王と呼ばれ、製糖、パイン、セメント等々の県内基幹産業を立上げた宮城仁四郎の子息で、慶應大学卒後に㈱リュウエン商事を立上げ、沖縄に初のケンターキフライドチキン店を展開します。
 勢理客の彼の邸宅に呼ばれた時、最も驚いたのは自宅にあったピアノでした。終戦直後10年足らずのあの頃は学校にオルガンはあったもののピアノは滅多に見ることのない貴品でした。彼は安謝中1年?で東京杉並に移住、慶応大学に進み卒業しています。
 私達の高校卒業時は沖縄の学力、経済力では本土留学は難しく多くの進学志望者は先に書いた国費・自費を受験の本土留学でした。ところが、県内の富裕・優秀クラスの一部が中学時に東京に移住し、本土大学に進学していたのを後で知りました。当時東京で住宅を購入し、子息の生活の実現するのは余程の経済力だったと思います。彼だけでなく、東京に移住し、慶應や成蹊大に進んだ県出身者を何人かいました。最も代表的な事例は元㈱日産デーゼル社長の仲村巌さんで那覇の中学から東京に移住し、日比谷高校・東京大学に進んでいます。ただ、こうした経歴の友人から聞いたのは高校を県外で過ごした結果、県内の高校同友が無く、些か寂しいとのことでした。そう言えが東京に住む私も東京在住の那覇高校の同期、同窓とは定期的に貴重な交友が続けています。たまたま東京在住の宮城君の妹さんも同じ那覇同窓の誼です。                                      
                                           
                                         (大宜味村の宮城仁四郎像の前で~2016年訪問)

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