凡人(ぼんじん)とは、優れた性質や変わった性質を持たない人間のこと。庸人(ようじん)ともいう。凡人や庸人の『凡』『庸』は、「並」「普通」「平常」「平均的」「ありふれた」を意味する字である。
変わった性質を持たないこと。
「凡人」「庸人」は、「変わった性質を持たない人」「奇異ではない人物」を指す語としても用いられる。だが、当人を良く知らないことを「平凡」「凡庸」「普通」と形容しているケースが見受けられる。事件の報道の折に犯人が近隣住民から「平凡」「凡庸」「普通」と評されながら、後に予兆と見られる奇異な行動を行っていた事が発覚する事例なども少なくない。
なお、この場合の「凡人」「庸人」の対義語は「奇人」である。
私は常に凡人で居たいと願っておりますが、それと裏腹に奇人や変人と思われることが多々あります。
それは、私の能力や才能が特化したように「人並み外れた能力を持っている」ことに関係しているようです。
私も50歳までは人並みの凡人だと自負しておりました。但し、潜在的能力を秘めていた、隠していたことはあります。
それが、50歳の時に「潜在的能力を引き出される」切っ掛け、体験をしました。
それは、霊的存在との遭遇と憑依体験からでした。
子供の頃から人魂を見たり、霊的存在を意識はしており、父親譲りの霊感とスピリチャル能力はありました。
そのことは、隠し通しておりました。
そんな中で「霊的体験」をしてからは、あの世の世界のことや人が死ねば魂(思念)が残り、霊的存在になることを来世との人と交流することで教えて貰い悟りました。
また、その頃から長年の私の「感覚研究」が世間に注目されるようになり、テレビ、ラジオ、雑誌などから既に何十件と取材、出演依頼など果たしております。
また、霊的存在が見える(現れる)ようになり、恐怖心よりも不思議でなりませんでした。最初は幻覚か幻かと戸惑いましたが、意味ある遭遇、出現とし知り、私に与えられた「天命」を果たすために、特殊な能力を授かったこと、12年前に憑依された方が僕の「手伝いをすることが私の幸せ」ですとメッセージされたことがあります。
私のところに出現する霊魂は「分からないから、教えて欲しい」など、楽になりたい、暗くて寒い空間には居たくないなど「不安に怯えている霊魂」たちが
聞きに現れます。
決して、声で聞こえる訳ではなく、聴覚以外の「脳で感じ、聞こえる」というものです。
訊ねて来られた霊魂たちを癒し、来世(お釈迦様)の下へとお導き(見送り人)として、あの世とこの世の架け橋役を担ったようです。
私の仕事ではないので、全て無償奉仕です。金銭だの私欲などのしがらみ等一切ありません。全て「社会貢献」の一環なのです。
また、私がお寺や公園に花々などの撮影に「カメラ撮影」すると時々「メッセージ性のオーブ」が写ります。
白くはっきりとしたオーブは、花々や可愛い生き物たちの撮影時に写るのは、12年前にソウル繋がりした方からのメッセージだと直ぐに分かりますが、それ以外に、ぼんやりと白く丸いオーブではない場合は、その場に残っている「地縛霊や浮遊霊」である場合があります。
今月も、平塚の植物園で小さな小川のある場所を撮影したら、樹の下と小川の傍に白くぼんやりと写りました。
分かる人に相談したら、幼い子供、兄弟のような感じだと言われ、確かにその日は家族連れで賑わっていました。遊びたい、分かるおじさんがいると近寄って来たものだと分かり、その日の夜に、写真を見ながら子供の霊魂を般若心経と不動明王御真言を唱えさせて貰い、お釈迦様の下へ見送り、子供たちの魂を癒して差し上げました。
本来であればオーブの写真など「心霊写真」だと思われ、知識も体験の無い人には恐怖でしたかありませんが、私には大切なメッセージとしてお役目を果たすだけです。
今後も、凡人に拘り、常に普通の人で居たいと願い、粛々と使命に努めて参ります。荒木行彦