伊勢原に太田道灌を訪ねる

2007-02-23 00:00:45 | 歴史
bf0fed88.jpg「小田急線の旅」ではないが、沿線のいくつかの歴史的な物件を一気に攻略してみた。

まず、伊勢原に太田道灌(1432-1486)を訪ねる。室町時代は私の担当範囲ではないが、江戸を語るなら、家康の前に道灌だろう、ということで、調べてみると、道灌はそれなりの人物で、登場する時代と場所が異なれば、天下を襲えた可能性もあっただろう。戦に強く、学識も高い。人望も篤く、あっと言う間に勢力を拡大し、江戸を中心として関東一円に領有地を伸ばしていった。また、あれこれと京都と鎌倉管領の間の調停工作もしている。そして、有能な人間が妬まれるのは、日本の恒例で、最後は讒言にたぶらかされた上司、上杉定正の糟屋館で入浴中に斬殺される。死ぬ前に「当方、滅亡!」と叫んだとされ、当方がこの上杉定正と考えられていて、このコトバ通り、数年後に北条早雲により滅亡させられる。そして、この北条早雲が、下克上で代表される戦国大名の第一号とされるのだが、調べると、この北条早雲と太田道灌は生まれが同年(1432年)とされていた。しかし、超最近になって、異論が現れるのだが、それは後日。

bf0fed88.jpgそして、その道灌が斬られたのが伊勢原の糟屋館というところというのだが、その場所は、ややあいまいだそうだ。そして調べると、伊勢原には彼の墓が二ヶ所に分かれる。一つが、首塚と言われ、もう一つが胴塚。つまり、平将門と同じ。しかし、将門は首を京都に運ばれ、その首が空を飛んで江戸に落ちたというのが首塚のいわれなのだが、道灌にはそんな話は聞かない。糟屋館があったと言われる方に胴塚があり、5キロほど離れたところに首塚があるということは、何か首を持ち歩くわけがあったのだろうか。

まず、胴塚の方だが、伊勢原駅から、北に大山ケーブル駅行きのバスに乗る。つまり、現在の国道246号線というのは、江戸から伊勢原の大山神社へ参詣するための大山街道が元なのだが、まさにその道である。246号から離れ、北へ一路進むと、しばらくして道灌の墓を知らせる看板がある。慌ててバスを下車すると、洞昌院という寺院に小さな墓石と、墓所がある。ただし、周りは一面の平地で、農地と住宅街が混在としている。ここに館があるとしたら温泉でも出たのだろうか、ちょっと殺風景な場所だ。解説ボードを読んだところ、驚いたのは、道灌は伊勢原出身と書かれていた。ということは、伊勢原で生まれ、江戸を中心に活躍し、再び伊勢原に訪れた時に暗殺されたことになる。道灌が伊勢原出身であることは、他の資料ではみない。

そして、このあたりに長居は無用というのは、最近、プーさんが近くに現れたそうだ。プーさんといってもプータロウではない。ディズニーランドで蜂蜜を探しにハニーハントをしている方だ。

bf0fed88.jpg次に、駅に戻り、北東に歩くと、5分で伊勢原市役所につく。なぜか市役所の前には、東京フォーラム前でおなじみの道灌像が立つ。立派過ぎて感動なし。しかし、思わぬ土地で偉いものだ。東京方面では、伊勢原に銅像があることなど、たぶん誰も聞いたことがないだろう。そして、その市役所の裏手に回り、農地の間を10分歩くと、次の目的地に着く。

bf0fed88.jpg通称、首塚と呼ばれるのは大慈寺。こちらは、伊勢原市が最近、整備したらしく、ピカピカである。奇妙な形の巨石が墓石に使われている。気になるのはこの墓地の隣の土地で、何か尋常ではないことがおきているのが明らか。1区画を高い塀で囲み、中が見えなくなっていて、時々、大型トラックが中に消えていく。周りが見渡せる平地なので、異様な感じだ。さらに、近くには、太田家の菩提寺である大慈寺の本堂もあるが、無人のようだ。あるいは、住職が葬式にでも出払っているのだろうか。

bf0fed88.jpgそして、太田道灌最期の地めぐりはこれで終わりだが、この道灌の末裔は小さいながらも存続し、江戸時代中期から後は掛川で藩主を務める。老中2人、寺社奉行3人出した名門となる。ところが・・。この掛川が太田氏になるだいぶ前に、10年間と短い期間、山内一豊が掛川城主だった。NHKの大河ドラマのせいで、掛川城は山内一豊一色だ。実際には、山内一豊は掛川5万石だったのだが、関が原の武功により24万石に加増になり、喜び勇んで掛川を捨て、高知にすっ飛んで行ったのにだ。


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