米欧回覧実記5、ついに完読

2010-02-05 00:00:19 | 書評
beio5全五巻の最終巻は、ウィーンの万国博覧会から始まる。1873年に開かれた万博に日本政府としては、初めて公式参加している。会場は広場西側に8棟、東側に8棟。そして中央に大ホールである。過年の名古屋万博でも同じような配置だった。地元オーストリアは3棟を使ったが、アメリカはに3/4棟が与えられ、運んできた展示品が入らなかったそうだ。イギリス、フランス、イタリアは各1棟で、オランダ、ベルギー、ロシアなどは1/2棟。初参加の日本は、東側第8棟をトルコと半分ずつシェアしていた。

そして、名古屋万博とは異なるのは、各国が競うように当時の先進技術を持ち寄り、「おらが国の自慢」をしていたこと。久米邦武によれば、アメリカ・イギリス・フランスと工業国を視察してきたので、ほとんどは見たことがあったということだそうだ。だからといって各国回覧をしないで万博だけにいけば事が済んだ、とは書いてない。もちろん、国家は科学技術だけじゃないからだ。

その後、一行はスイス旅行を楽しみ、南フランスを旅する。印象派の画家たちが登場するには、約20年早かった(なぜか久米の息子は画家になった)。そして、マルセイユを最後とし、日本への帰路についたわけだ。

ここで、久米の筆は、欧州の総括を始める。「政治・社会」「地理・輸送」「気候・農業」「鉱・工業」「商業」に各1章を与える。その中で、旅のまとめとして、「国の運命や未来を決めるのは、国民の意欲と熱意である」と結論をつけている。なまけものが増えるようなバラマキ政策を標榜する現代の二大政党とは対極的な考え方だ。なぜかアメリカのことは、ほとんど興味を失っていたようだ。

その後、一行は、スエズ運河を利用し、インド洋へ。セイロンに寄港し、インド大陸をイギリスがどのように利用しているかを、アヘン、茶、砂糖というような商品の三角貿易に見る。どうも、一行の乗った船にもアヘンが積み込まれたようである。久米は、日本も欧米ばかりみないで、このアジアに転がっている利益を手に入れる可能性もあるのではないかと、アジア友愛政策を説いている。

そして、シンガポール、香港、上海と辿れば、ちょうど本回覧記は百章になっていた。当時の中国は、もうほとんどアヘンで沈んでいたような書き方だ。

1973年9月6日、長崎。9日、神戸。そして9月13日朝、横浜に帰着。最終日の記載は、「天気、晴」である。1年10ヶ月の旅が終わる。


当初、わたしは、この本を読むと、大久保、伊藤といった日本の近代化を指導していった指導者が、この旅から何を感じて国づくりに進んだのか判るのではないかと思っていた。

しかし、読み進んでいるうちに、おそらくはこの書には、そういうことは書かれていないのだろうということが理解できたのである。久米邦武は、この書は岩倉使節の公式記録であり、公式行事以外のメンバーたちの経験とか、事件などには触れないというようなことを宣言している。

例えば、途中で用意していった旅費の過半が詐欺師に取られたことには触れられず、国内のゴタゴタで、一部のメンバーが途中で早帰りしなければならなくなったことも、ごくあっさりと片付けている。

とはいえ、記載事項は理工系の正確な分析と同時に、久米自身の感想や感動、そして解釈が、強く表現されているわけだ。そういうつもりで久米の気持ちに没入して読めば、それはガリバー旅行記として楽しめるのではないのだろうか。


1839年生まれの久米は、その後の政局、政権からは僅かに距離を置き、東京大学、早稲田大学と教職を歴任する。長命を誇り、亡くなったのは1931年。91歳である。日本が今のところ最後となる巨大戦争に突入することを予感していたのかどうか。それが、知りたくなった。


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