第64期名人戦に登場する谷川浩司の投稿発見

2006-04-10 20:59:51 | しょうぎ
2c5832bc.jpg4月11日から、第64期名人戦7番勝負が始まる。

この「名人」というタイトルだが、古くは江戸初期1612年に大橋宗桂(そうけい)が幕府より認可されてから約400年の歴史を持つ。囲碁界の本因坊と同じように権威がある。江戸時代は大橋家と伊藤家という家元輪番制で10世名人まで世襲している。同じ世襲制でも徳川家は15代まで進んでいることを考えると、一代当たりの寿命は約1.5倍。要するに、うまいものを食べるよりも、頭をうんうんと使うほうが健康にはいい、ということだろう。

そして明治になり、新聞社の後押しもあり、3人の名人が誕生したが、やはり世襲制の問題点である「年を取ってから名人になるから弱い」という欠点が表面化する。そのために、英断をもって実力名人制がはじまる。この制度改革のはざまで割を食ったのが阪田三吉。実力名人制がはじまった時には既に50才台半ば、すでに指し盛りを過ぎていた。

その後、制度としては時の名人に対して毎年行われる挑戦者決定リーグ(A級順位戦)でトップになった棋士が名人戦7番勝負をあらそい、さらに名人位に5回(5年間)座ったものが、「永世名人」として、江戸時代から続く連番制の名人記録に名を残すことになる。実力名人戦64期のうちでも、木村義雄(14世)、大山康晴(15世)、中原誠(16世)、谷川浩司(17世)とわずか4人しかいない。史上最強といわれる羽生善治も4年間しか名人位には座っていない。

そして、現在、名人位に座っているのは森内俊之である。35才。羽生と同じである。そして、挑戦者は谷川浩司44歳。挑戦者リーグで8勝1敗という高率をあげたにもかかわらず、羽生と同星で、決定戦までやって登場。名人の座はなかなか遠い。棋界の外から見ても中から見ても、どうみても、羽生・谷川という二人が中心であるべきと思われていたのにかかわらず、ここ数年、谷川は不調だった。

実は、私は、この数年の谷川浩司の不調ぶりには、ある原因があるのではないかと推測していたのだが、それを裏付けるエッセイを谷川浩司自身がある雑誌に書いていた。将棋とは似て非なる世界である「詰将棋」界の最高峰といわれる「月刊・詰将棋パラダイス」2006年4月号に「詰将棋という引き出し」という一文が掲載されている。谷川は、ここ数年、あまたの詰将棋専門家(ツメキストという蔑称もある)に混じり、プロ棋士ではただ一人難解作を発表し続けている。

彼の説明によると、トップ棋士を続けるためには、将棋に打ち込む以外にいくつかの「引き出し」が必要ということだそうだ。その中の一つが「詰将棋」ということなのだが、普通の棋士は難しい詰将棋を適当に解くことで終わるのに対し、彼の場合は、「創る」というところにのめりこんだそうである。そして、彼の反省のことばを読むと、将棋が不調なときは、いくつかの引き出しをバランスよく開けることが重要なのに、詰将棋創作の引き出しばかりに逃避していたそうである。

さらに、彼は自らに課した目標として、江戸時代の名人たちが生涯のうちに「詰物百番」という百題の難解詰将棋を創っていた史実に習い、難解詰将棋を創り続けているいるそうである。エッセイには「納得できる作品は90は完成した」と書かれている。

完璧主義だったわけだ。が、そういう自分自身の内幕を書くということは、ちょっと気持ちがかわったのだろうか?

名人戦開幕直前の彼の言葉は、妙に自信満々なのである。あるいは、最近流行の「イメージトレーニング」で自分が勝つところだけを思い浮かべているのだろうか。一方、迎え撃つ森内名人の方もイメトレをしていた、などということはないのだろうか。「対戦する相手が、イメトレをしてきた場合でもそれに打ち勝つイメトレ」とか。さらに、「(対戦する相手が、イメトレをしてきた場合でもそれに打ち勝つイメトレ)の対策に対しても打ち勝つイメトレ」とか・・・