ディジタルとアナログとは別物か?

2005-08-04 22:20:50 | マーケティング
74532fb7.jpgテレビで隅田川花火大会を生放送でみる。暗い空にパッと開く花火は「江戸の華」ともいえるが、実は、江戸中期には「華美を避けるように」という幕府のお達しが出て、単色の花火になったと聞いている。おそらく鎖国を続けた結果、生産力が頭打ちになり、社会が自己完結型のリサイクル経済に変わっていった頃だと考えられる。徳川270年の後半には、「たまや」「かぎや」と声を掛ける庶民も、古老からの言い伝えとして、江戸初期に使われていた色鮮やかな光景を頭の中に思い描いていたのだと思う。それも風流だし、そんなことあんなことを現代の花火から想像するのもまた風流だ。

ところで、この花火をテレビで見るというのが以前は至難の業だった。なにしろ黒というのはカラーテレビでは苦手な色だし、花火の光は弱く、肉眼で見る場合は視神経に時間差の余韻が残るのだろうが、そんな難しいことをテレビに期待するのは酷だ。少しでもゴーストがあると嫌になる。

ところが、今年はテレビ東京のディジタルバージョンで見ると、これが大変にクリヤだ。もう顕微鏡写真のようにはっきり見える。テレビという機械を通しているから、比較的客観的な気持ちで見ることができるのだが、花火も円状に拡がるのではなく、重力の影響で、やや、ラッキョウ型に見えることもわかる。大画面テレビは音響もかなりリアリティを感じる。これで決定的に足りないのは「におい」なのだが、数年後にはそれも実用化するという可能性があるらしい。

ただし、よく見ると、カメラの画像は縦横が4:3という従来サイズであるから、撮影しているカメラ自体は従来レンズであって、送信のどこかの段階でアナログからディジタルに変換しているものと思われる(くわしくはわからないが)。つまり、もともと、花火というアナログ現象を、アナログレンズで捉えて、途中どこかで、断続的な点(画素)の集合であるディジタルに変換していることになる。そして、その情報は、自宅のディジタル画面に再現され、見る側の人間の視力の限界をちょっと超えた状態なので、今度は網膜の上に写ったディジタル画像を大脳ではアナログ的に解釈する。

そういうように考えると、従来のアナログテレビにしても、走査線という一応アナログではあっても「現実とは違う画像」を受信機の画面上に再生し、人間の大脳をごまかすのだから、機能的にはあまり現代のディジタルテレビとかわらない。精度が違うというだけなのだろう。

しかし、だからといって、「どちらも同じだからアナログでいい」などという野暮は言わない。ディジタル化のプロセスがでたらめなのは、技術とは別問題だからだ。そして、良質の番組がないというのも別問題だから。

そして、このエントリはここから先、ややカテゴリが変わるのである。抽象的なことが苦手な方は読むと時間の無駄かもしれない(とやや弱気宣言)。さらにディジタル有線放送のセールスマンの与太話とはなんの関係もない。


さて、一般的には、宇宙は「アナログ」だと考えられている。世界には切れ目がなく、立体的で、多少の歪み(重力や時間の)はあっても切れ目が無く、いわゆるリアリティ世界である。Aという物体は、あくまでも世界に一つしかなく、PC上で簡単にコピーしたりするようなことはできない。原子レベルでは物質は必ず異なるものである。同じように見えるのは単に人間と言う認識能力の劣る動物の錯覚に過ぎない。つまり、世界の本質は「アナログ」であるのだが、便宜上、人間の認識としては世界を数字で表し、「ディジタル」化したほうが認識しやすいということがいえる。

要するに、「ディジタル化」は近似値で考えようということだ。例えば、光学カメラの世界は連続的な光のたばをそのままフィルムに感光させ、それをさらにアナログ的にプリントしている。途中にディジタルの入る余地はない。一方デジカメの世界は、光を有限個数のドットごとにわけ、そのドットの色素を3要素に分離しメモリーと言う形で表現しているから、とりあえず、最初から最後までディジタルだ。人間は誤解して認識しているわけだ。

そして、アナログといえば、腕時計がある。古い時代では、時計はねじ巻き式であり、針はぐるぐると円運動を続けるのだから間違いなくアナログだった。ところが、20年ほど前に「デジタル腕時計」が流行した。時刻が数字で表示されるわけだ。何も動かない。数字の表示が変化するだけだ。おそろしいことに、ほとんどの人がデジタル腕時計だったこともある。

ところが、現代でこのデジタル腕時計を持っている人は極めて少ない。カシオのG-shockくらいではないだろうか。ほとんどのメーカーがいなくなり、残存業者だけがメリットを得るという代表例だ。それでも、普通の家庭ならば、家中さがせば、電池の切れたデジタル時計の1個や2個はでてくるだろう。では、絶滅した理由は何なのだろう。

それは、我々人類の時間の概念というのが、アナログであるということだ。30分というのは時計の長針が半分回ることであり連続的である、1分ずつ(あるいは1秒ずつ)カチカチと進む点のかたまりではない。だから、デジタル表示というのは生理的に違和感があるわけだ。朝のテレビの隅には時間がデジタル表示がされるが、忙しい人が困るのは、7:21が7時21分00秒なのか7時21分59秒なのかわからないので約1分の誤差があるが、アナログ時計なら、およそのことはわかる。

ところが、アナログ時計は実はデジタルであるということからしてややこしい。実際には現代の時計はアナログ風の表示をしたデジタル時計であるということだ。ほとんどの時計の秒針はカチカチと1秒ずつ進む。もちろん、さらにアナログ的になめらかに秒針を回すわざもある。

そして、この時計の世界では、ディジタルの上にどういうアナログをかぶせるかというのが差別化の基本であるのだが、なかなか決定版にはいたらない。

同様にネットショップの世界でも、無数に発生するのだが、生き残っている会社は数少ない。生き残ったのは、アナログ的な仕組みの差によるのだと思う。

というようなことまでは、よく聞く話(中谷巌氏も同様の意見)なのだが、途中で書いた「世界の実相はアナログなのかディジタルなのか」ということを突き詰めて考えると、本当はこれも難しい。人間の記憶や思考の部分のメカニズムなどはディジタル論の方が説明しやすいだろうし、原子の領域まで考えれば、単に物質は、有限で固有制をもつディジタルであるとも言えそうだ。100年後になると、人間ファックスなどという恐ろしい機械ができているかもしれない。一旦、人間を原子レベルでディジタル存在として認識し、記号として遠くへ送り、送った先で再生(コピー)する。こうなると、道路も鉄道もクルマもいらなくなる。うっかりしていると、自分の違法コピーが現れるかもしれない。

冗談はさておき、今度はテレビの世界に戻るが、案外20年内には、アナログ送信技術なども現れるのではないかとも思える。要するに光学カメラのように、レンズを通した画像を、加工しないで、例えば光ファイバーのように送る。つまり胃カメラと同じ。そういう技術が現れるのではないだろうか。もちろん、ドット式のようなパネル(液晶、プラズマ)では駄目で、新型パネルも必要になる。もちろん仕掛けはますます巨大化するだろう。

ところで、本日のエントリはとりとめもなく、アナログとディジタルの問題をいったりきたりし、出口が見えなくなったので、このあたりで突然に「ディジタルエンディング」にすることとする。