カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

知らない方面には手を出さないこと   犯罪警報・刑事コロンボ

2013-08-23 | コロンボ
犯罪警報・刑事コロンボ/ダリル・デューク監督

 煙草は体に良くないという警告と、煙草の事を知らないのにトリックにつかっちゃいけないよ、という皮肉が効いている作品。被害者も加害者も命取りになることには変わりなしである。意味はまあ、観てもらうより無いですね。
 また最初に批判しとくと、知られたくない過去の口封じに殺人を犯す訳だけど、結局はばれそうなネタであることに変わりは無くて、この程度で殺してたらとても身が持たないというのが率直な感想。犬のツメ跡に関しても、もう少し分からない程度の可能性が高い気もする。まあ、お話としては面白く無くなるかもしれないが…。
 ところがしかし、何となく雰囲気は過去の作品っぽい作品ではある。そういうところが非常に惜しい感じがする。いい感じでお話が進むのだが、そういう細部が惜しくて結局は名作になり損ねている。役者さん達の演技はいいけれど、もう少し脚本を練ってからの方が良かった、という感じだろう。
 ちなみに煙草のパッケージの警告文の効能だが、健康を害すると書かれてあるために吸うことを躊躇する効果を狙っている事は確かであるはずである。しかしながら心理学の世界では常識だが、これが効果に乏しい事はあんがい知られていないのではなかろうか。この警告文が載っていることで、かえって喫煙者が平気で煙草を吸ってしまっている現実を助長している可能性も高いらしい。詳しくは忘れたが、どの道そのような危険なものを吸っているのだから、とことん吸ってしまえ、というようなヤケッパチな気分になる人の方が多いようなのだ。三日坊主だったりダイエットなんかが失敗する原因の一つに、ちょっとした失敗などの反動というのがある。一日くらいサボったって長い目で見ればたいしたことでは無いのに、すべてが失敗したような気分に陥ってしまうものだ。つまり警告文があるにもかかわらず買ってしまったような人には、思い切り吸ってしまう人の方が多い可能性が高いのである。吸わなかった人が手を出しにくいという考えもあるが、同じく警告文があるのに手に取ることで、中毒を助長させる事につながっているかもしれない。それを理解したうえでたばこ会社が警告文を載せている訳ではないようだが、馬鹿げていることに変わりはなさそうだ。
 それにしてもコロンボにしても以前ほど頻繁に葉巻に火を付けている訳ではなさそうである。そういう意味でも時代というのは変遷するもののようである。
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洗脳の実践を知る   心をあやつる男たち

2013-08-22 | 読書
心をあやつる男たち/福本博文著(文春文庫)

 高度成長時代の行き過ぎたいわゆる「人間力開発セミナー」の実態をレポートした作品。実質上の洗脳とはどんなものかということが書かれてある。精神的な拷問を経て心が開かれたように感じる人がいるらしいことと、その犠牲になった人がそれなりにいたらしい事が分かる。
 しかしながら正直に言うと、書き方が少し中途半端なところがあって、立ち位置がいろいろ変わって分かりにくい文章だった。そうではあるが程度は理解できるので、恐ろしい実態を知るには良い本かもしれない。
 さて、そうなんだけれども、過去はそのように怖い事があったんだよ、というだけで終わる話では無いと思う。実を言うとということわりをするまでも無く、僕も何度もこのようなセミナーへの参加には誘われることが多かったからだ。まったく同じものではないが、実際に似たような体験さえしたことがある。僕はそれなりにひねくれているので、最初からこれはおかしいと洗脳されることは無かったが、大変につらい体験だったことは覚えている。というか、僕じゃない人がそういう拷問を受けているのを見て、恐ろしく思った事だった。それでも逃げられない場の雰囲気というのがあって、その時に逃げだせなかった自分が今でも恐ろしいと思う。ターゲットになっていたら精神に来ていた可能性も無いとは言えない。
 現在でも形を変えて残っていることは間違い無くて、息子のいる身としては、やはり恐ろしいものだ。引っかからないにこしたことは無いが、さまざまな人が善意で誘うように社会的に仕組まれている背景がよく分かるはずだ。一部の人の悲劇というより、時代を越えて再生産されている社会の暗部という感じもする。
 このようなセミナーは社員研修をして欲しい企業だけでなく、趣味の世界で集まるような団体などでも容易に入り込んで行くような事があるような気がする。いわゆるマルチ商法などとも相性が良く、新興宗教などにも親和性が高い。宗教などにはいいものもあるという意見もあるだろうが、基本的には洗脳であることに変わりは無い。厳密にいえば教育だって洗脳の方法である。要は強制的にそのような境地へ行くような手っ取り早さこそ恐ろしいのかもしれない。
 自分自身がそのような境地に達することでさえ、場合によっては大変に危ない。修行や場合によってはスポーツなどの世界でも、このような洗脳というのは起こりうるものだと思う。人間の極限状態による心理状態というのは、神秘的な体験と紙一重ということなのかもしれない。それが危うい事とつながっているということを知っているだけでも、自己の防衛には役立つかもしれない。
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ホントによく気付くものだと思う アリバイのダイヤル・刑事コロンボ

2013-08-21 | コロンボ

アリバイのダイヤル・刑事コロンボ/ジェレミー・ケイガン監督

 犯人はフットボールのゼネラル・マネージャー。凶器と時間とアリバイのトリックを崩すのが主眼で、次々にコロンボが解くところがさすがの作品。プールの水と水道の水が違う事に気づくなんて、きっと脚本を読んだに違いないと僕は思ったくらいだ(事実だろうけど)。よく見ていくと、それなりにヒントが仕掛けられていて、観る者への謎解きチャレンジへのサービス精神も感じられる。最終的にコロンボが追い詰めていく展開もなかなか見事で、犯人がイライラする感じも観念に至る流れも、さすがに旧作はよく出来ていると感じた次第。アイスクリームを買えなかった少女の恨みの作品ということも言えたかもしれない。
 さて、そういう犯人なのだが、仕事の上ではやり手でエネルギッシュであると見てとれる。しかしながら日本だとこういう職業が何となくピントこない。野球やサッカーなんかだと球団にはこのような人が居る筈なんだが、日本だとやはりこういう感じでは働いていないのではないかと思われる。監督で無い人間があれこれ口を出すような場合は、ナベツネのような人くらいしか思い当たらないが、しかし、実際はもう少し組織的に圧力をかけるような役員会のようなものしか、思い当たらないのである。
 これはこれで娯楽の仕事をしているということなんだろうけれど、やはりゲーム自体を豪華な部屋から眺めているという図式が日本的で無いのだろう。楽天のオーナーがそのようにして試合を観ているとか、ソフトバンクがそうしているという感じがいま一つしない。彼等は別に忙しくて試合なんてめったに見ないのではないか。ところが米国の場合だと必ず試合を観ていそうだ。そういう違いが、権力の図式としてまったく別の世界観を作っているという感じもするのである。
 コロンボ・シリーズを観ることによって、僕はその様な米国社会も観て来たということがいえる。こういう商売をして、さらに社会的にも偉い人という感じになるのである。それもかなりの金持ちの癖に、やはり何となく危うい。そうしてコロンボとのお付き合いを始めなければならない。
 観る者の溜飲を下げるというのは、一種の妬みの想像があるに違いないのである。これは日米共通の感情である事がうかがい知れる。人間の欲求にダイレクトに響く設定。そういうことに忠実な作りであることが、コロンボ人気を支えている事もあるかもしれない。面白ければそれでいいが、その事実は人間の悲しい性という気もしないではない。
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男女間の友情の件

2013-08-20 | 境界線

 先日飲み会で少し若い人たちの円陣の話題で、「男女間の友情は有りか無しか」という話題で盛り上がっていた。何となく懐かしい。若い頃にはこれは問題なんでしょうね。
 まず有る派の主張だが、実際に異性の友人がいるから、というもの。だからと言って恋愛の対象では明確に違って、友人としてちゃんと成立している事実があるらしい。部屋に泊まりに行ける(その人は女性。つまり相手は男性)が、もちろん性交渉は無しだそうです。ふーん。
 無い派の主な主張は、そういう関係が成り立っているのは、実はどちらかに恋愛感情があるはずだからだ。ということに尽きるようだ。片方は友情と思っていても、ひそかに恋愛に発展する期待があってこそ同調できるということがあるはずだ、というような事を言っていた。泊まりに行ってセックスが無いと言っても、プラトニックを否定することはできない。事実性愛が必ずしも同じだという発想がナンセンスだということも、主張の中には有るようだった。なるほど。
 これは一般化できる問題なのかどうかはよく分からないのだが、有るか無いかという問いの立て方にはそもそも公平ではないとことはある。有る方は一つだけでもあればいいから断然有利で、事実自分の体験がそうだという事実ひとつで、たとえそれがいかに異常であるかどうかを問わずに勝てることになる。つまりこれは最初から有る方が勝ちということになる。
 しかしながら、普通に考えてこれは一般的な男女間において、友情が成立することは普通の事かどうか、という読み変えをすると、少し事情は変わってくるだろう。友情の成立するような事は稀である可能性というのは否定できないし、または実はごくあたりまえである可能性も無い訳ではない。この飲み会での話の展開は、むしろそういう争点になっていると考えた方がいいだろう。
 結論までは聞いて無かったが、まあ、それはいいでしょう。こういう話題がトピックにあがるというのは、それはそれで健全な証拠という気はしますね、僕のような不健全な人間の目からすると。やはり若いというのはいろいろ大変なんでしょうね。
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危険な散歩

2013-08-19 | 散歩

 外に出たくない暑さだが、休みの日にゴロゴロしていると、愛犬の杏月ちゃんが許してくれない。いつ散歩に連れ出してくれるのか、期待を込めてまとわりついてくる。期待は分かるが、二日酔いだったり、風邪だったりというこちらの事情もある。もちろん日頃の行いの悪さだから、後ろめたいという感情はある。申し訳ないという気分はある。しかし暑い中歩いている姿を想像するだけで、やっぱり気分は萎えてしまうのである。
 そうやって頑張ってダラダラしている訳だが、飯を食ったりテレビを見ていたり本を読んだりしていると、やはり少しくらいは体を動かしてもいいかな、という気分にはなってくる。何しろダイエット中だったではないか。夏のダイエットというのは比較的簡単で、体重を減らすという目的だけだったら、汗をかきやすいというメリットがある。人間はけっこう水分を蓄えている生物らしくて、暑いから汗を大量にかくということになると、すぐに何百ccと水分が流れる寸法である。100cc100グラムと正確に排出されると、その分当たり前に体重は減っている。もちろん補給しなければ体は持たないが、数値的に下限を突破する快感を味わうことができる。到達点が深ければ、目標が定めやすくなる。水の補給で戻ったとしても、また落ちやすくなるという感覚は残るのである。
 そうではあるが、やっぱり暑い。決まったコースを歩いているのに、汗の噴出はただ事ではない。アスファルトの照り返しもきつい。スタートではしゃいでいた杏月ちゃんも、事の過酷さにさすがに気付く事になる。やたらに体に付いた草花を気にしてみたり、息を荒くして上目使いをするようになる。今日は近いコースにしようか?そう問いかけられている気がするのである。
 ご存知のように僕はアマノジャクだ。だから言ったじゃないか(言って無いが)、こうなるのは分かっていたはずだ。そういう気分があるし、休みの日ではないか。少し遠出したところで誰も怒りはしないだろう。そう思って休日コースを歩いてみようという気分になる。ほんの少しだけ歩数を稼いでみようか、という気分もあったかもしれない。
 しかしすぐに僕も悟るのである。そういう考えは無謀であったと。
 見る見る杏月ちゃんの足取りが重くなっていくのである。ひょっとすると熱中症になるのではないか。こちらもきつくなっているから、精神的にも不安になる。コースの傍に公園が無かったか考えてみる。水を汲んで飲ませてやろうと思ったのである。そうしてやっと見つけた小さな公園の水飲み場に近づくと、なんと大量のハチが水飲み場を占拠しているではないか。どういう料簡か知らないが、彼等も水を飲んでいるのだろう。
 結局水は諦めて木陰で一休みすることにした。そのうち帰りが遅いからと、心配したつれあいから電話があった。本当に助けに船、素直に迎えに来てもらう。これ以上はちょっと本当に危険かもしれないのだ。
 やはり夏の外出は準備が必要かもしれない。ふらっと外に出るだけでそれなりに危険である。そうして最初から無理など戒めるべきだろう。
 やっぱり早起きするべきかな、とちょっと思った休日の散歩だった。
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ランの栽培では儲からないらしい   悪の温室・刑事コロンボ

2013-08-19 | コロンボ

悪の温室・刑事コロンボ/ボリス・セイガル監督

 身代金詐欺に見せかけた殺人を犯す訳だが、そうしたやり取りはさすがに時代がかっているという気はした。現代の捜査ではありえない展開だろう。そういえば昔の誘拐犯は「警察に言うと人質を殺す」なんていって脅すような事をする場面なんかがよく見られたものだが、警察に言わない訳が無いし、言わないような人なら、簡単に人質は殺されてしまうだろう。つまり暗黙の了解のもと駆け引きが行われるということになる訳で、誘拐された時点で人質が殺されている可能性は極めて高いという気はする。少なくとも犯人の顔を見られているような場合なら、殺す方がはるかに合理的だから、最初から警察に届けるより方法が無いのだと思う。誘拐という犯行は、そういうことを行った時点で、極刑に値する罪だと思うのは、そういう所為かもしれない。
 しかしながら、今回の誘拐は、実は最初の段階から狂言であるということにはなっていた。それを裏切って、殺人に発展するということになった。最初からコロンボが参加していながら殺人を未然に防げなかった訳で、ドラマだから仕方が無いにせよ、コロンボの力にも限界がある事が分かってしまう。
 初期のシリーズでは、けっこう定型化したものばかりだったように記憶していたのだけれど、あんがいそうでもなかったということも分かった。相棒の刑事の存在も面白いし、後になっても出てくるキャラクターがいたりするようだ。家族経営的なドラマ作りというような感じもあったりする。既に大変に人気を博していたと言われており、冒険しながら視聴者を驚かしたり楽しませようとしていたのかもしれない。そういうネタは必ずしも後後活きてくる訳ではないのだけれど、逆にコロンボ的なキャラクターの洗練にはつながっていったのではあるまいか。
 犯人の毒舌も冴えており、そういうやり取りはけっこう楽しかったのだが、むしろ後になっていくほど、知的には洗練されていくような犯人が増えていくようにも思う。これとしては、少し反省をしたということになるんだろうか。初期の異色作ではあるが、時代性があってかえって古典的に楽しめる作品となっているようであった。
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不法投棄と弁当を持った…

2013-08-18 | HORROR

 前の地主さんは自殺だったらしい。それは聞いて知っていた。借金苦らしいということも聞いていた。地主として土地があるというのはあるが、切り売りして返済に回しているということはあったのだろう。しかしながら多くは農業振興の土地であり、個人の土地とはいえ簡単に切り売りできなくなった。会社勤めの傍ら農業をやっているとはいえ、生産性が簡単に上がるものではない。機械化して効率を上げようとすると、さらに借金はかさむことになる。結局はそういうことが積み重なった上に、会社の早期退職のリストに自分の名前があるらしいということを気にしてノイローゼに陥り、裏山にロープを張って首をくくって自殺したらしいとのことだった。近所の人の話では、木の枝に、まるで蜘蛛の巣のようにロープを張って、足元にはきれいに食べた弁当がおいてあったそうである。ぶら下がった枝を切って遺体を下さなければならないのだが、ロープが絡まってなかなか上手くいかなかったということだった。なかなかシュールで、妙な現場だったらしい。
 僕が気になっていたのは敷地内に捨てられている、不法投棄らしい品々だった。陶芸に使われる器具らしいことは分かっている。産地が近いので、このあたりでもこのような仕事をしている人は多い。型とりのための石膏の、断片であったり使い古しであるものがほとんどだった。多くの石膏は、雨が降ればいつかは溶けだしてしまう。それでも不法投棄されていることには変わりなくて、困ったものだと思っていた。
 ある時敷地に面した道路に軽トラックが停められているのが目に留まった。道の斜面の下には、僕の敷地の中に捨てられているような石膏屑が新たに捨てられているというような跡がある。もちろんその車から捨てられたという確証はないが、あまりにもそのような現場くさいおもむきがある。しかしながら車の主は乗っていない。不審ではあるが、こんな山道に車を放置してどこに行ってしまったというのだろう。
しばらくあたりを見回してみたけれど、運転手が戻ってくるような気配はない。いつまでも待っているわけにもいかないので、職場に戻ってしまった。
昼休みか何かの折に、不法投棄かもしれない車の話題をそれとなく職場の同僚に話をしてみた。
「あ、見ましたか」といったのは、開設当時から勤めているある女性だった。
「私は時々見ます」と続けて言う。なんでも死んだはずの彼は、田んぼの畦を弁当をもって歩いていき、そうして藪の中に消えるのだとか…。このあたりでは有名な話らしく、ほかにも誰それがやはり見たという話もあるという。いわゆる見える人には見えるということらしい。藪の先には首をくくった木のある場所にも通じているのだそうだ。
その後、不法投棄は時折あるようなのだが、しかし僕がその現場を目撃するようなことは一度もない。いわゆる僕自身は、何も持っていないということなのかどうなのか…。見つけたいような、やはり見つけないほうがいいのか、自分でもよく分からなくなっているのであった。ちなみに自殺した地主さんが勤めていた会社は、陶器製作兼問屋さんだったらしいのであった。
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葬儀の時に聞いてもらいたい曲

2013-08-18 | 音楽

 親戚の葬儀に出席。待ち時間に葬儀場に流れている曲は、故人が自分の葬儀の時にかけるよう指示して置いたものだそうだ。癌だったそうで、死期を悟っていたということなんだろう。クラシックの落ち着いたものが多く、なるほどという感じもする。聞いたことがあるようなものもあるけれど、曲名までは知らない。
 考えてみると結婚式などの選曲は、普通にやることかもしれない。これが好きで何度もするような人は居ないだろうけど、自分の選んだ曲がしかるべきタイミングでかかるというのはそれなりに快感かもしれない。また、自分の好きなものを他の人に聞いてもらいたいという欲求も、人間には本来的にあるのかもしれない。自分自身を知ってもらう、もしくは少しばかりの自慢ということもあるかもしれないが、気分的なものを共有してもらうという場合には好きな曲を聞いてもらうというのはあんがい手っ取り早い手段かもしれない。
 葬儀の時はどうしたものだろう。自分の葬儀に参列するような人々だから、何らかの所縁のある人々であるに違いない。自分をよく知っている人なら、なるほどな、と納得する人もいるのではないか。また、(自分の死を)悲しんでくれるような人だから、そういう死の悲しみを和らげるようなものがいいのだろうか。もしくは、葬儀という場面にふさわしく、そういう気分が自然に現れるようなものがいいのだろうか。
 死を前にして考えることとすると、あんがい選曲をするという作業は心を落ち着かせるという作用があったのではなかろうか。死んでしまった後は、たぶんその曲は聞く事は叶わない。しかしながら、本当に家族が自分の希望通り曲をかけてくれるとしたら、ひょっとしたら生きているようにその場を共有することだって可能かもしれない。
 まだ本当にはそういう気分は分からないのかもしれないが、死の選曲を言うのは、そんなに不自然な行動なのでは無いのではなかろうか。
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終わらない夏

2013-08-17 | 雑記

 今年の夏は暑い。これはもう事実として暑い。いやになるほど暑いわけだが、これが人と会うたび適当な挨拶になる。みな暑いのは一緒だから、暑い暑いと言って会話になる。誰それが具合が悪くなった、先日はめまいがして危なかった、熱中症になったかと思った、それぞれの暑さのせいでひどい目にあったことを自慢しあう。これが面白いのかどうかというと、面白がっているわけではなかろう。それでもすさまじくひどい体験をしたというのは、人に伝えたくなる情報ということなのであろう。
 日中に外出するにはまったく話にならないほどの暑さだ。そんなことをするような人間は酔狂にもほどがある。しかしながら夏だといっても、人というのはやはり日中に会うというような約束がある。会議室に冷房があればそれなりに安楽だけれど、そういう部屋に入る前が難儀である。階段を登ってたどり着くような場所もある。座る前に汗を拭いて、肌についたシャツをバタバタする。挨拶をかわしながらそういう動作が忙しい。節電もあるからなかなか冷房を強められない事情もあるらしい。しかしたまに冷房が効きすぎると、今度はなんだか調子が狂う。寒いんだか暑いんだかよく分からない。女性などが混ざる会では、話し合いの途中で冷房を弱めてくれという声が上がる。ひざ掛けを準備しているご婦人もいる。温度の適温というのは個人差が大きいようだ。また、座る場所によって風の当たり具合にも違いがあるのだろう。
 温められたり冷やされたりすると、それだけで疲れるらしい。やっと家に帰ってビールを飲むと、なるほどしあわせな美味しさである。それは確かに幸福なのだが、やはり疲れのせいなのか、焼酎に替わるころにはもう眠くなってくる。頑張って飲んでいるが、つい横になってしまう。テレビを見ているつもりでウトウトしている。映画ならば何度も同じ場面を戻してみている。あきらめて寝てしまったらもう朝だ。朝といってもすぐに暑い。
 今年は夏が終わらないという噂がある。もちろんそんなことはあるまいが、盆も過ぎたが勢いが衰えていない。まったく今日も暑いの話題は尽きないのである。
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音楽家はつらいよ   黒のエチュード・刑事コロンボ

2013-08-17 | コロンボ

黒のエチュード・刑事コロンボ/ニコラス・コラサント監督

 犯人役のジョン・カサベテスは、リアルでもピーター・フォークの親友ということで、まさに友情出演。骨のある演出をする監督さんの演技やいかに、という感じはするが、嫌な犯人役を好演していると思います。まあ、こんなもんか、という程度だけど。
 車の修理トリックなど大仰なものと、胸に刺した花という小道具を取り繕うことによる齟齬があって、犯人は自ら罠にはまっていくという感じもする。彼のおかれている背景もそれなりに分かるようになっており、大きなリスクがありながら殺人に至る動機も理解できるような気がする。人間の地位を確保しようとするあさましい心情というのは、本当に恐ろしいものがありそうである。
 音楽家は優雅な雰囲気を持っている事とは裏腹に、やはり食っていくにはそれなりに大変だということはいまだによく聞く事である。エンターティメントに対してそれなりに上手く行きそうなアメリカでさえ、やはりパトロン無しにこのような芸術とは育ちえないのかもしれない。本人にもある程度の実力がありそうでありながら、そういう資金源を身家(自分のカミサンの家族)から確保せざるを得ないという立場が、結果的に破滅の構図になっているということである。音楽家を志すことは、本当に一握りの優れたタレント性で生きるか、パトロンをつけるか、別の本業や副業で食いつなぎながらやっていくか、などの限られた選択肢くらいしか無いのかもしれない。
 さらにこの人は浮気相手が邪魔になったということもある。音楽家は実際モテそうな感じもあるから、実際にモテたとしても、実行に移すのがあんがいリスキーだということかもしれない(まあ、ほかでもリスキーではある訳だが)。このあたりが実業家よりも浮気が破滅の原因となりやすくなると言えるかもしれない。モテるのにそのモテている状況を利用できないとしたら、それなりに不幸な精神状況と言えないだろうか。もちろん彼は自分に忠実であったわけだが、そのために破綻する。音楽家はつらい立場の人たちかもしれないな、と思わせられるお話なのであった。
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飲み放題の不公平

2013-08-16 | 境界線

 チェーンなんかの居酒屋で少し戸惑うのが「飲み放題」である。だいたい同じようなものだとはいえ、何となくルールが分かりにくい。説明を受けてもポカーンとしてしまう。早くビール持ってこいよ、という気分もあって心に余裕が無い。そういう時に飲み放題というのは、かえって厄介なのだ。かと言って後で考えると随分料金が違う感じもする。損するというのも癪だから、やはり飲み放題も捨てがたい気もする。
 そうして数人で協議をすると、仲間内にも変わりものは居る。というか好みのはっきりしているというか。そういう人の飲みたいものが飲み放題メニューに無いのは定番だ。それはそれで仕方のない事だが、そうするとかえって遠慮して、「いや、飲み放題でいいです」と翻意されるのも罰が悪い。彼の犠牲によってこの場が成り立っている感じがやりきれない。飲みたいものを選択するのは当然の権利だから、割高になったところで皆はだいたい同意するだろう。しかし今度は頑なに拒否されたりする。この場の嫌な雰囲気をどうしてくれるんだ、という感じがする。
 以前外国人と飲む機会があった時、この飲み放題ルールを説明するのが厄介だった事がある。その人は男性だったのだが、この制度は不公平だ、というのだ。自分がたくさん飲むのは目に見えている(実際凄く飲む人だった)。しかしこの場には女性もいて、彼女たちが自分の分を負担することになるのではないか。考えてみるとごもっともだが、彼女たちだって好きなものをそれなりに飲むだろう。そう説明してもなかなか納得してくれない。それに飲み放題で無ければさらに飲み代が高くなる可能性があるというと、しぶしぶ納得してもらった。しかししばらく飲んでいると、やはり自分たちの安く飲んだ分は誰が負担しているのか、と話を蒸し返すではないか。確かにその時のメンバーは、それなりにたくさん飲む人が集まっていた。明らかに店の負担の方が大きいのではなかったろうか。そうすると、僕らの飲み放題の超過負担を、飲み放題を選択しなかった他の客が負担することになるのではないか(要旨)、というのである。なるほど、それはそうかもしれない。彼の正義感はたいしたものだが、日本というのはそういう不公平を容認する国なんだよ、わっはっは。ということで何とか収めてもらった。
 そういう訳で飲み放題というのは、お得なようで、かえってどうにも厄介な気がする。飲み放題サービスの無い店だと、安心して飲めるような気がする。少なくとも平和である。そういう意味では日本独自の変な不公平感を内包した特殊なサービスなんでしょうね。
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当たりを約束通りに分けるべきか

2013-08-15 | 境界線

 僕は本当はギャンブルは好きなんだと思う。でも好きだからやるかといえば逆で、好きなのを分かっているから面倒でやりたくない。そこのあたりは理解できる人もいると思う。
 宝くじは買わなければ当たらないと言われる。夢を買うとも言われる。しかしながら基本的にギャンブルだと思う。そういう感じもなんだか嫌なのかもしれない。もちろん買う人は買えばいいと思う。寄付的な感じもあるから、本人は善意かもしれない。
 つきあいというか、その場の流れでつい買ってしまった事はある。結局番号を確かめる事もしなかった。どの道当たらないので無駄な努力だ。どこかにしまい込んだのだろうか。誰かにやったのだろうか。それすらも記憶に無い。ただ、当たる訳が無いという思いしか無いので、確認する時間がもったいないと思ったのだろう。
 もちろんそれでも当たる人がいるのは知っている。高額な宝くじが当たるのは大変な幸運だろう。でもそれは雷に打たれて死ぬ人もいる、ということとさして変わらない出来事という気がする。それは不幸なことだろうが、そういう人もいるということだ。出来事としてはかなり近しい感じもする。僕にとっての宝くじはそういう不吉さも含まれている。
 先日景品として宝くじを頂いたそうだ。つれあいから電話があって、「当たってたよ」という。宝くじを頂いたとき、同席していた人たちと当たりを分けあう約束をしていた。約8名ばかり居たんじゃなかろうか。さて、300円を分けるべきか。そういう倫理については悩むべきではないのかもしれない。
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精霊流の海賊たち

2013-08-14 | 感涙記

 子供の頃の盆の思い出というのは悪いものではない。親戚が集まるだけでも、なんだか楽しげなひと時だったような気がする。大人になってみると盆だから楽しいとは思わない訳だが(当たり前だ)、しかしそういう子供の頃の気分のようなものは仄かに残っているものと見えて、少しだけ何かを期待しているような、そんな事を思う。
 長崎でも市内ではない地区に住んでいるので、比較するとたいしたことが無い程度ではあるが、やはり精霊流しというのがある。今は何かの規制があるのだろう、本当に船を海に流すことはしなくなったが、子供の時分にはちゃんと精霊舟を海に放った。当たり前だが、そうするから精霊流なんだろうし。
 これが楽しかった。何故楽しいかといえば、船を追いかけて真っ暗な海に飛び込んで泳ぐのである。流した船にはいろいろとお供え物が積んであって、そうしてそのお供え物目当てに子供たちが船に群がるのである。西瓜とかミカンとか果物が多かったように思うが、時折メロンなどがある。メロンを見つけると歓声が上がってさらに子供が群がる。まるでチビの海賊集団である。岸まで持ち帰った戦利品を切ってもらってパクつく。よその家の船も襲撃したことだろうが、特に咎められることも無かった。大人の中にも一緒になって海賊ごっこをするような輩もいて、今思うとそれなりに危険な海水浴だったような気もするのだが、何故かのどかで、しかし心躍る出来事だった。
 盆には人が集まるのに、地獄の釜の蓋が開くとか何とか脅されて、海水浴が許されていなかった。たぶん大人も忙しいのでろくに子供にかまえないのに、水遊びなどをされるとそれなりに危険だということもあったのかもしれない。そうであるのに危険度の高い夜の海では泳いでいいのである。そんなことも、精霊流を良い思い出にしている理由があるかもしれない。
 その後変遷があって、精霊舟は一か所に集められ盛大に焼かれるということに変わった。それはそれで爆竹も一緒に焼かれてやかましくて楽しかったのだが、海賊ごっこよりははるかに劣った。さらに今度は燃やすのも駄目ということになって、ただ一か所に集められるだけのことになってしまった。これでは単に船を捨てに行くだけの行事ではないか。
 少子化で悲しんでいる子供の数自体は少ないとは言えるかもしれないが、やはり何となく可哀そうな気がしないでは無いのである。その分安全だとは言えるかもしれないが、安全が楽しい思い出なんてことが、さらに悲しいのかもしれない。
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食べない工夫あれこれ

2013-08-14 | 

 ダイエットをしているので、食べない工夫というものを考えることがある。考えてみるが実行というのはなかなか難しい。人間は言い訳が上手な生き物で、出来ない事をあれこれ言い訳する事に長けている。他人から教えられたことであっても、実行する人は少数だ。つまり実行が出来る人が成功者ということで、そこのあたりのハードルを下げる努力は必要だと思う。
 さて、最初から口にしないと朝から誓っても、目の前に食べ物があるといつの間にか口に入る仕組みになっている。これは何度も経験しているので事実である。量を減らすと言っても限界があって、最初から少ないと不満も残る。残す行為で達成感を味わうというのは、ダイエットを面白くする精神性である。
 しかしながら人の目もある。数人と食事をすると、自分だけが食べないのは目立つ気がする。ダイエットだからと言ってあからさまに残すことができる人は少なかろう。あまり悟られずに残すというのは至難の技で、やはり別の機会に挽回しようと開き直って食べてしまったりする。挽回する機会にはまた腹は減っている。これは生理現象だから、葛藤はいつまでも続くのである。
 いっそのこと抜いてしまうというのはかなり合理的な方法だ。これは最初のうちは抵抗があるが、一度二度とやってみると、あんがい可能なことが分かる。食事の時間に別の事をする。散歩とか運動というのはなかなかいい。体を動かしていると食事は出来ない。不思議なもので、運動中は腹が減らない。そうしてやり過ごして仕事などに戻れば、食事の時間以外で飯を食うことの方が抵抗が出てくる。
 そういうことを言うと、朝を抜くのはよくないとか、昼よりも夜の方が大切だ、という意見を必ず言う人が居る。ごもっともということもあるけど、抜くなら朝や昼が断然合理的だ。夜には不満が残り一日を終えるにも苦しみが大きい。それに食事時間という区切りも明確で無く、長く苦痛を味わうことになる。抜くというより苦行を楽しむようなマゾにしか勧められない。そういう無理がダイエット失敗の第一歩となる可能性の方が高い。言い訳なんかしないで、朝や昼に抜いて夜も抑える。成功体験があるから、せっかくだから夜も頑張る力が湧くというものだ。
 食べるものに箸やナイフを使って線を引いたり、小分けにしたりするのも効果的だと思う。何を食べてもいいのだが、量を減らせばいいのだ。続けて食べないということに気を付けて、一口じっくりと味わって食べる。これはこれで至福であって、食事を楽しんでいる自分にも酔うことができる。少しの量でも旨いものは旨い。旨いものを食べる満足感は、少ないから減るというものではない。そうしてお皿にはまた食べ物が残っている。そういう状態にも満足感を持てるようになれば、なかなかいい調子である。ダイエットって楽しいな、というのは、そういう自分に酔うことである。
 しかしながら、やはり気になってどうしても食べてしまうことはある。特に店で食べている場合などは、話をしながらいつの間にかという過ちを犯しかねない。そういう信用できない自分に対して怒りを覚える訳だが、しかし方法が無い訳ではない。
 食べ残したものに水をかけてしまうのである。お店なら普通にお冷が出てくる。これを少量で良いからかけてしまう。最初は勇気がいるが、実際にかけてしまうと効果のでかさに驚くに違いない。本当にあっさりと食べたく無くなる。いや、厳密には食べ物認識から外れるような感覚かもしれない。既に洗いものになっているというか、残飯になっているというか。
 お弁当などの場合だとおしぼりがつくが、僕はこのおしぼりを上に落とすことにしている。するとやはりゴミに変身してしまうような感じがする。あっさり食べたくなくなるから、人間の心理というものは不思議である。食べ物だから食べる訳で、違うものにしてしまうと食べたくなるくなるのだ。
 さて、いろいろ言い訳が湧いてきた人も多いんじゃなかろうか。それが正常な人間の証である。人の道から外れることを恐れない。それこそが楽しいダイエットの道なのである。
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笑うしかない状況だが…   死の方程式・刑事コロンボ

2013-08-13 | コロンボ

死の方程式・刑事コロンボ/エドワード・エイブラムス監督

 犯人が軽薄で気に食わないところはあるが、これで頭が良いということらしいからこのお話がなりたっている。それに一連のトリックをどうこうというような作品では無くて、やはりラストシーンに収斂されるコロンボ流の犯人の陥れ方こそ作品のすべてだろう。観ている時間はちょっとどうなのかという疑問を感じているものの、ラストシーンの笑い声でかなりすっきり満足できる仕組みである。子供の頃にもその印象は残っていたらしく、もう最後に向かって待ち遠しかった。
 コロンボを観ていて思うのだが、いわゆる自白をさせるというか、犯人に納得してもらうということに心を割いているということがよく分かる。いろいろ言い訳できないように証拠を並べて、間違いないですね、ということにする。それはある程度日本でも同じことなんだろうけど、実際の犯人というのは、なかなか認めないものなのだ、ということも聞いたことがある。米国の殺人犯のほとんど(ほぼすべてらしい)は、罪を認めては居ないのだそうだ。そうであるならば、自白するという行為は、このような作品の中のフィクションということになる。状況証拠がいくら揃っていても、計画殺人というものをする人は、自白なんかはしないものだということだ。日本の事件で考えてみると、三浦和義だって林真須美だって自白はしていない。罪を認めないまま裁判になり、有罪になってもなお認めはしない。本当は嘘では無い可能性も絶対ないではないけれど、なかなか難しいものだな、と思う訳だ。
 この作品は結果的に自白してしまう訳だが、このようなひっかけというものは、日本の捜査ではやはりなさそうにも思う。おとり捜査もそうだけど、何となく潔くない行為という感じも無いではない。観ている僕らには痛快な場面だけれど、ひっかけられた人にとっては、怒りがわいてくるものではなかろうか。この犯人は笑うしかなかった訳だが、僕ならやっぱり暴れたりするんじゃないかという気もしないではない。僕の出演はちょっと無理かもしれませんね。
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