カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

さまざまな才能がくっつき過ぎている人々   マチネの終わりに

2022-02-28 | 読書

マチネの終わりに/平野啓一郎著(文春文庫)

 先に映画を観たというか、読んでいる途中でつい、映画を観てしまった。結末を知りたかったというより、筋としてはそうかもしれないが、小説はそうして読んでも損なわれずに読めるかもな、という思いからだった。それでよかったかどうか、今となっては分からないが、映画は映画、小説は小説って感じにも読了後なっているのであるから、まあ、かまわない感じ、と言ったらよかっただろうか。ただし、大筋での事件は基本的に変わらないので、そういうショックというか、読んでいてのお楽しみは、少しばかり減ぜられてしまったかもしれない。僕としてはこのような「時のいたずら」というか、取り返しのつかなさについては、あまり寛容ではない。読みながら激しい怒りを覚えたままに、なかなかその後の話をも肯定することができないように感じられた。この物語は、過去は変えられるということも大きなテーマなのだが、生きていく中での時間軸は、やはりそう簡単には変えられないのではないか。そうした思いに捉われたままでは、たとえ今がしあわせだとしても、なかなか厳しい心情を変えることはできないのだった。
 また映画としてのキャストについては、観ている分には良かったと思っていたが、小説を読んで主人公たちのイメージを自分なりに膨らませていくうち、映画のキャストとは別の人物が浮かんだのも事実だ。それは誰かということではなく、映画の人物とはどんどんずれていくのを感じた。簡単に言ってしまうと福山雅治の美男だが可愛い感じとは違って、もう少し神経質そうな感じで、やはり歌まで歌わないのだから、クラシックを弾く一般の人とはあまり語り合わない感じのイメージが、僕の頭を支配した。福山さんの顔が浮かばなくなったというだけのことかもしれないが……。それはヒロイン洋子も同じであり、洋子の方はもっと線の太い人というか。
 そういう意味では、結局映画はそこまで引きずってはいなかったのかもしれない。さらに映画とは別に、蒔野の才能のために人生が決定的に変わってしまうギタリストも出てくる。これは極めて残酷な話だけれど、手の届くような近しい間柄でありながら絶対に届かないところにいる人物だからこそ起こりえた悲劇で、これも罪悪感として深い印象を残す。そういう人物だからこそ、このような恋愛に至るリアリティでもあるのだ。
 何か突飛もないような引用が会話などの中に入ることがあるが、その引っ掛かりが登場人物の置かれている立場を、むしろ明確にしたりする。なるほど、うまいのである。それだけ感情を揺さぶられたのだから、こういう小説を読む意味もあるのだろう。できれば登場人物のような立場には、おかれたくないものではあるが……。
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酸素が無ければいつかは死ぬ   オキシジェン

2022-02-27 | 映画

オキシジェン/アレクサンドル・アジャ監督

 フランス映画なのに英語かよ、と思ったんだが、単に英語吹き替え版を見たようだ。こういうのは知らずにそうなっていたんで、ちょっと注意が必要だとも感じた。僕のような人間には、そういうことが反感を覚えるわけで、映画的な評価も下がる。もったいないことである(単に僕の勘違いだったんだけど)。
 宇宙船の中で低温ポットという棺桶のような箱に眠っていた女性が、何らかのアクシデントで目覚めてしまう。宇宙船は移動中で、どこに行くのかさえよく知らない。急に目覚めたせいなのか、なんだか記憶があいまいなのだ。ポッドの中ではコンピュータと話はできるが、このコンピュータも何故か、聞かれたことの必要以上は答えないばかりか、信用できない感じすらする。いったい女性はどういう目的で眠らされ、どこへ行こうとしているのだろうか?
 閉塞空間の会話劇で話は進む。外に出るには危険らしく、なかなかそう簡単に行かない。そのうちにポッドの中がだんだんと低酸素になっていく。オキシジェンというのは酸素のことらしい。低酸素と閉塞感に、女はとても平静な気分でいられなくなっていく。
  こういう状況になると、どうしたらいいものだろうか。このようなポッドに閉じ込められているのだから他に仲間がいそうだが、おそらく彼ら(彼女ら)は寝ているはずなのだ。外がどうなっているかは分からないし、自分がどうしてこのタイミングで目覚めたのかもわからない。どうも事故らしいが、それでは自分は生き残れるのだろうか。
 後半一気に謎は解けるが、それは観てのお楽しみに。そんなに長い映画ではないから、我慢すればいつかはそれがやって来るだろう。それまでは、多少退屈だが、おそらくこの閉塞感のリアルを理解してもらいたいという演出なのだろう。多少迷惑ではあるもの、それは理解できるようにはなる。多少の我慢さえ厭わなければ……。
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メモを取れないときはどうする?

2022-02-26 | 掲示板

 何度も書いているが、僕はメモ魔のようなところがある。気になったら何でも書いて残すし、読んでいる本にも書きこむ(だから図書館から借りた本を読むときは、本に書けないのでメモやノートを準備する。何もなければ携帯で気になる箇所を写真にとる)。新聞に線も引くし、紙が無ければ手首に書くし、ズボンにも書く。テレビを見てても内容をメモするし、映画だと一時停止してメモする。気になったことをあとで見返したいとその時は思うようだが、見返してみても意味が分からない場合の方が多い。メモを取りすぎているのだ。
 そういう癖があるのに、メモを取れない場面がある。風呂に入っているとき(特にシャンプーしてるとき)と、車の運転をしている時だ。車の中で携帯に録音することも何度かチャレンジしたが、うまく定着しなかった。それに携帯をごそごそやっているときに、ちょうど歩道橋で見張っている警官を目にした経験があって、これはちょっと危ないかもしれないと断念した。レコーダーも買ったことがあるが、ある目的の録音を消したくない事件が起こって、封印した。新しいのを買うのも躊躇され、結局もう諦めた。だから信号などの停止を待って(しかし田舎なので、あまり信号機が無い)、覚えていたらメモする。運転中メモすると、字がゆがんで結局読めないのだ。かなり危険だし。
 さて、そういう時に限って、何か思いつくことがあるような気がする。気がするというのは、覚えていないのである。シャンプーの時は、もうすぐシャンプーが切れるとか、シェービングクリームが切れそうだとか、そういうことを忘れる。本当に何度も忘れて、とうとう全然なくなってしまうと、これは困るのでやっと記憶を持続させて、風呂から上がってもどかしく体を拭いてパンツを履いてすぐにつれあいに切れたよという。そうすると、この間もそんなこと言ってたので準備しておいたのに、と注意されたりする。覚えていたことを忘れているのである。
 それでこれは知っている記憶法を使って覚えなければ、とチャレンジしてみる。体の一部をトントンと指でたたきながらその部分と考えていた単語なりを関連付ける。またはいつも使っている部屋などの配置を思い出して、その家具のある場所に考えていたアイディアなどが関連付けられている想像をする。記憶法としては間違いない。一定時間なら結構これで覚えていられるはずだ。しかしである。風呂から上がると思い出せない。いや、いったん思い出そうとすることを忘れるのである。そうして風呂上りに酒など飲んでいると、あれッと思う。思い出そうとするタイミングを逃して他のことを考えていたので、そもそも風呂で何をとっかかりにしてそんなことを考えていたのかが抜け落ちている。何かを考えていたはずだという記憶しかなくて、肝心の何かは思い出せないのである。
 たいへんに口惜しいが、もうそれは仕方がない。どうせたいしたことなかったはずで、悔しがる必要すらなかったかもしれないではないか。そうなのかどうかは検証しようがないのだが……。
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出会いはやはりタイミングかも   マチネの終わりに

2022-02-25 | 映画

マチネの終わりに/西谷弘監督

 原作小説は平野啓一郎。これは今ぼちぼち読んでいるところ。つれあいは映画館で観たというのを、僕はネットで遅れて観ることにした。
 ギタリストのコンサートの夜に劇的に出会う二人の恋愛劇である。ギタリストの男は国際的にも著名な人物で、独身。女性の方も独身ではあるが、婚約者がいて、結婚間近のタイミングで出会ってしまう。いろいろあるのだが、国際的に活躍する二人であり、ヨーロッパなどでお互いの都合を合わせて会うよりない環境である。お互いに惹かれあっていることは十分にそれぞれ理解しており、困難はあるが気持ちを整え直し、会うことができれば関係が深まることは間違いなさそうだ。そういう中にあって、彼女が帰国するタイミングでギタリストの師匠が倒れてしまい、病院に行くことからすれ違いになって……。
 恋愛物語だが、一筋縄でいかない環境に、お互い置かれている。一人は芸術家なので、自分の演奏と向き合うことに、非常に苦悩を感じている時期でもあった。人々を感動をさせる技能を持ちながら、自分では納得がいかないスランプに陥っている。しかし、そういう微妙な音楽の世界のことを、彼女だけは理解してくれている様子だ。彼女は国際的に活躍する記者で、中東でテロに巻き込まれてしまう。あわや死ぬところであった強烈な体験が、どこか心の傷のようなものとして混乱させられている。婚約者に何も問題はないしいい人なのだが、それ以上にギタリストに心惹かれている自分にも混乱している。そういう心理のやり取りが、他の人間関係と錯綜して、二人を迷走させていくことになる。
 正直に言ってちょっと頭にくるようなことが起こるのだが、これも恋愛には起こりうることである。好き会う二人の問題が一番のはずだが、そういうタイミングで、別の思いが強く作用することが起こるのである。もちろんこれは小説であり映画なのだが、思いを遂げるために人が動けば、その周りの空気までかき乱すことがあるせいだと思う。この二人はかなり特殊な境遇の特殊な個性のある人たちだけれど、だから観るものの興味を引くとはいえ、何かドラマとしては、ちょっとした普遍性のあるものではないか。いや、厳密には流れがやはり特殊ではあるけれど……。
 キャストも福山雅治と石田ゆり子で、何かこの設定と非常に合っている。ちょうどこんな人がいたんだな、という空気感がある。彼や彼女はふつうにモテる人で、恋愛になんか苦労しそうにはないはずだ。むしろ絶対的な優位者同士である(実際は知りませんが)。それでも運命や悪意に翻弄されてしまうのである。そういうことに抗えないのである。
 面白いというのではないかもしれないが、はるかに違う人たちの恋愛劇でありながら、共感できる大人の恋がある。僕なら受け入れられないのは間違いないが、仕方ないのである。それが人間が生きている時間、というものなのだろう。
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ネット依存の毎日

2022-02-24 | 雑記

 パラパラとネット中毒の記事を読んでいて、なんだか撲もネット中毒かもしれないな、と改めて気づかされる。それでネットで診断のテストを受けてみると52点だった。70点以上は治療が必要ということで、一応はそれ以下ではあるが、39点以下でないと平均的なネットユーザーではないのだという。今は影響を強く受けていて、それをよく考えるべきだ、という診断だった。ちなみにもう一つの診断結果では、ゲーム依存ではないそうだ。
 僕は20年近く前に、パソコンのゲームのすべてを廃棄した。時々遊んでしまって時間を無駄にするので、それに耐えられなくなったからである。だからゲーム依存のケがある、とは自覚していた。基本的にギャンブルにも熱くなる傾向があって(当時のことだが)、パチンコを含め、賭け事にはほぼ近寄らない。地元にはボート場もあるけれど、高校生のころには賭けていたが(友達や知り合いのお父さんが選手というのがいて、賭けると結構勝つのである。地元勝率というのがあるらしい)、成人してからはやらない。同じくトランプのポーカーやブラックジャックで遊んでもいたが、これも休み時間などでやっていた。麻雀は二十代中盤くらいまではやっていたが、やる仲間がいなくなりやめた。今では、冗談で賭けるか、などというのに乗ることはあるけれど、本当に金のやり取りをすることは、ほとんど無い。ゴルフもやらないし、トトカルチョもやらない。宝くじもおみくじも、自分のものは買わない。買ったとしても番号を確認することも無いだろうし、おみくじだったら内容を読まないだろう。
 しかしながら携帯を含めSNSをやっていることも確かで、これに時間を取られてイライラすることがあった。ツイートが気になるのでずっと眺めている自分に気づき、ツイッターは常時開くことは控えている。少なくとも毎日は見ない。携帯のラインなどの着信音はオフにしていて、たまに時間があるときにだけ開き、既読しても内容によって返答に時間がかかる場合は、しかるべき時間までスルーする。苦情が来る場合もあったのかもしれないが、それは気にしない。フェイスブックで遊んでいるときは、僕がなぞなぞを出題することもあるので、これは時間を見て返答する。でもまあ日曜だけの限定である。平日はいつも見ているわけではない。
 そういうことなので、自分なりにコントロールしているのではないかと、漠然と思っていた。でもまあ日常的にネットでメールを確認してから仕事したりするし、家に帰ってもまたノートパソコンを開いたりしている。普段メモしていることをパソコンで調べるのは日課になっていて、本で線を引いた箇所や、思い出せない漢字など、いつも検索している。英単語のアクセントが難しい奴なんかは、やっぱりネットで音を確認したりする。検索元の早すぎる発音には辟易させられるし、フランス語由来の単語などは難しすぎるので、覚えることはあんまりないが……。
 それでも、なんだかんだとパソコン見る時間が長いかもな、と最近思うようになっていた。仕事の関係で、特にパソコンを必要としないと思われる日があって、思い切ってパソコンから遠ざかるようにと思って、付箋に「用もなく座るな」と書いてモニター画面の上のところに張り付けておいた。そうして書類とかちょっとした打ち合わせとか電話とかしながら仕事していたのだが、ふと気づくとパソコンをいじっていた。自分でも「えっ」と、気づくまで漠然と何の抵抗も感じていなかった。付箋紙を見たはずだが、無視していたのだ。そうして気が付くと、それなりに時間を浪費しているのではないか、とも思った。
 それからはデトックスと称して、やはりパソコン離れの実践時間をもうけてみたのだが、気が付くとパソコンの無いテーブルに座っているとソワソワした気分で落ち着かないのである。気になっていた言葉を検索したいのである。久しぶりに辞書を引いて、これはこれで楽しいのだが、改めてこれが面倒であることにも気づいた。パソコンならもっと早くもっと多様な検索の仕方があるのに……。そうしてそれをワンノートとかワークフローウィーとかドキュメントとかに記録して、それをもとにこのような文章としてワードに書けるのに……、などと考えてしまう。そうして考えてしまう自分を鑑みて、やはりこれは問題がある、と自覚できた。少なくともネット・デトックスが苦痛である。それは既に病的ではないのか。
 僕は散歩をするのだが、その間に考えていることを打ち消すようにしている。鳥の声や草木の状態を、歩きながらぼーっと眺める。何か考えようとすることに気づくと、積極的に打ち消して止める。瞑想(マインドフルネス)と同じ要領である。また風呂に入っているときも、基本的に物事は考えない。気になることを思い出すと、思い出すのをやめる。これは訓練でできるようになる。パソコンも同じような訓練が、必要なことなのかもしれない。気になったら打ち消す。最初はイライラするが、いつかはできるようになるかもしれない。でもいまだに結構それは、むつかしいことのようにも思える。
 中毒を治すには、基本的にそれを断つしかないという。うまく付き合う方法を選ぶことは、失敗の経験を積むことと、ほとんど同じなのだ。でもパソコンは仕事で普通に使う道具にもなっていて、適度の使用というヤツを、難しくしている原因なのだ。困ったことになってしまった。今は自分は依存症ではない、と祈るしか道が残っていないのである。
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オタクが自分語りに躊躇するのは……   パドルトン

2022-02-23 | 映画

パドルトン/アレックス・レーマン監督

 男はどうも末期癌であると宣告され、そうすると安楽死の薬の処方箋を出されたということらしい。一人暮らしだが、アパートの上の住人に親友が住んでいる。二人は壁打ちテニス(それがパドルトンという競技のようだ)をして、ピザを焼いて一緒にカンフー映画を観る、という趣味がある。男は一人で死ぬのはどうも不安があるので、見届けて欲しいと友人に頼み、二人で遠方にある処方箋の薬がおいてある薬局に、安楽死の薬を買いに行くのだった。
 ずいぶん評判のいい映画で、それにつられて観た。それである種の批評家ウケのする作品というのは、やっぱり気を付ける必要があるな、と感じた。こういうのがいいという感覚は、ちょっと気取った人に見られる傾向にある。自分は映画を観るセンスがあるぞ、というような人が犯しやすい傾向である。何を言いたいかというと、大して面白い作品ではないのである。そういう正直なことを言うのが人間としてのちゃんとした審美眼だと僕は思うが(だから僕は実践している)、それが素直に言えないのが気取った人々なのである。残念だが毎回騙されてしまうクチだが。
 でもまあ、愚作なりにいい、というのはあるのである。それなら僕にもわかる。演劇的なやり取りの妙は確かにあって、そういう感じもあるかもしれないな、とは思わせられる。そんなに笑えないが、そういうコメディは分野としては存在する。そもそも映画というのは、そういう芸能世界である。そういうのをあんまり意識して見たことが無い人にとっては、なるほどと感心する要素があるのだろう。そうして、そういうことを褒めているのだ。
 しかしまあ、オタクというのは、そういうのが普通なのである。自分たちの姿を、客観的には知っているからこそ、外部にはそういうものは語らない。何しろ自分たちだけが分かっていて、そうして自分たちだけが分かっているから、コアな部分にはまり込んで楽しいのである。そういうのは周りには分かられないでいいのだ。簡単に分かられるようなオタクの内容なら、コアでさえあり得ない。だからこれは、オタクでない人がオタクを見た姿に過ぎない。たぶん当事者ならそう思うだろう。少なくとも、僕にはそういう視点に見えてしまうのである。
 面白くないのはそういうことである。観ていてだから先があんまり気にならない。ある意味で予定調和的なのだ。まあ、痛い失敗はしているようだけれど……。
 そういう訳で、少なからずお好きな人はどうぞ、という映画である。人を選ぶので、そういう人は楽しんでください。
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どうぞ頭をガツンと殴られてください   聖なるズー

2022-02-22 | 読書

聖なるズー/濱野ちひろ著(集英社文庫)

 まず取り上げているテーマが、日本語だと「獣姦」という分野なので、それだけだとぎょっとしてしまうだろう。そうして動物と事実婚をしている「動物性愛」の人々がドイツにいると知ったら、あなたはどう考えるか。彼らとしては、まじめに勇気をもってその正当性を世に訴えるべく、デモなどもやっていたようだ。その後は比較的静かに活動しているのだが、ドイツ国内でも議論があって、動物保護団体などにより激しく糾弾を受けている。しかしながら彼らの実態を追ってみると、人間の性愛そのものを問うような、いわば純粋性のある「聖」的な実践をしている人々であることが明らかにされていくのである。
 著者は元々長年にわたり付き合い結婚までしていた男性から10年にわたる虐待や暴力をふるわれていた経験があった。どうしてその苦痛の生活から逃れられなかったのか、自身でもうまく説明することができない。そういう中で大学院で勉強をし直す時に、この獣姦というテーマに出会う。教官からの勧めだったが、なんだか抵抗を受けながらも本格的に研究に入っていくと、動物保護の盛んな国であるドイツで、動物性愛の取り組みを実践している「ゼータ」という団体のあることを知る。最初はチャットなどでやり取りをしていたが、とうとう彼らに会いに行くことになる。そうして実際に何日か彼らの家に泊めてもらうなどして、どのような生活なのか調査し、詳しく話を聞いていくことになるのだった。
 著者は女性だが、長年にわたって虐待と事実上の強姦を強要され続けた過去の傷を抱えたままに、ドイツ国内でも激しい批判にさらされている動物性愛の愛好者である人々に会いに行く。時には巨漢の男性の家に訪問するだけでなく、泊まりに行くのである(ほかにホテルなどの無い田舎であるというのもある。さらに携帯の電波も届かないのだ!)。最初から、実になんというか、妙なスリルと緊張感の伴うリポートが続く。そうして聞き出した話の内容は、ずばりセックスの話ばかりなのである。いったいどうやってパートナーである犬や馬とセックスを行うのか、というのもあるが、いやそれ自体もすごいことになっているものの、その動物たちとどのような精神的なつながりがあり、そうしてその思いの純粋なことに驚かされる訳である。様々な話をいろんな角度から聞いていくうちに、だんだんと人間の性愛よりもむしろ、人間の持つべき対等で公正で自由で純粋な愛が、そこにあるようなことが分かっていくのである。人間は言葉の上では合意の上で、相手との関係性の中にセックスがある。しかしそこには時には嘘があったり、それを使っての思惑があったりもする。しかし動物性愛者の、特にこのゼータのメンバーにおいては、動物の側の思いを感知し、その相手側の要求の時にだけ自分が応えるようにしてセックスが成り立つということらしいのである。そうしてそれはお互いのつながりの中で、精神的にも肉体的にも何よりも素晴らしい体験だというのだ。
 興味本位でいいから、この本は手にすべきものだと思う。他にもLGBTQのことなんかもわかる可能性もあるし、獣姦であっても厳密には受ける側とする側では、当然考え方や立場がまったく違う。多くの場合社会的な視線の置かれ方がぜんぜん違うのだ。これは同性愛や幼児性愛などや、法律や精神障害の病気など、さまざまな問題とも複雑に絡んでいて、いろんな角度からの偏見にもさらされている。また、カミングアウトの問題など、個別にもいろいろと理解する題材が混在している。
 はっきり言って下手な小説を読むより引き込まれ、展開がスリリングで面白いだけでなく、何度もガツンと頭を殴られるような衝撃を受けることだろう。これは賞を取って当然の素晴らしい書物である。そうして大いに性愛について考えていこうではないか。もうあんまり自信のない分野ではあるが、ほんと知らないことばかりでした。
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まさに悪魔の生んだカルト感   ローズマリーの赤ちゃん

2022-02-21 | 映画

ローズマリーの赤ちゃん/ロマン・ポランスキー監督

 有名なサイコホラーだが、なぜか未見だった。ポランスキー監督の背景も知っているので、ちょっと感慨深い感じもする。公開当時は大ヒットした映画だが、今の時代背景で観返してみると、やっぱりなんとなく古臭い感じもしないではない。それはファッションかもしれないし、映像の文法かもしれない。しかし、この映画を見本にして作られた作品がそれなりにあるのだろうということは、今見ていて改めて感じられることであろう。
 ニューヨークの高層の古いアパートがあって、家賃は少し高いが若い夫婦はそこが気に入り住むようになる。隣人のちょっと年配の世話焼き夫婦とも仲が良くなり、二人は幸福で子供を望むようになる。ある夜ローズマリーは夢の中で(あるいは幻覚で)悪魔に襲われる。そうして現実にも妊娠してしまう。当初は妊婦であることの幸福に包まれていたが、痩せて体調はすぐれなくなり、隣人やかかりつけの産婦人科医にも不信を抱くようになり、精神的にも不安定になっていくのだった。
 映画を見ている私たちは、このローズマリーと同じ視点から、周りの人たちに異常があるらしいことは感じられる。しかしながら病院に行ってみたり友人らに相談したところで、やっぱりそんなに気に病むことはないと言われるし、ひょっとするとローズマリーの方に本当は異常があるのではないか、という気分にもさせられる。何が何だか分からないが、事態は悪くなる一方だ。そうしてローズマリーは、静かなる抵抗を試みるのだが……。
 この映画とは直接には何の関係も無いが、ポランスキーの奥さんは(妊娠中だった)ヒッピーのカルト集団に殺されてしまう。その後ポランスキー自身も、少女強姦の罪で、アメリカに住めなくなってしまう。そういう事件とともに、この映画はなんとなく関連付けられて語られるようになってしまう。まさに悪魔的な呪いのような映画という訳だ。それは人間の思い込みによる悲劇だが、同時にやはりこの映画的な要素でもある。なんとも不思議だが、そういうやりきれない空気感とともに、カルト化される映画だと言えるだろう。
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人が犬と暮らすとはどういうことか   人、イヌと暮らす

2022-02-20 | 読書

人、イヌと暮らす/長谷川真理子著(世界思想社)

 副題「進化、愛情、社会」。進化生物学などの科学者が、犬を飼う(夫も心理学者)ことになる。それまでは海外の研究の機会などで猫は飼ったことがあったが、イヌは初めてという学者夫婦のもとにスタンダード・プードルという大型犬がやってきた。後にこのキクマルくんが非常におとなしく聖人のような犬だったことが分かるが、高齢化したことでペットロスを危惧し、二匹目三匹目と同じくスタンダード・プードル飼い、ともに暮らす日々をつづったエッセイになっている。犬を飼うことで生活そのものが激変するのだが、著者夫婦は学者ということもあり、それがどういうことなのかということを専門家の目としても書き留めている。我がことながら、その自分の変化についても、まるで研究対象のように、さまざまな疑問や視点を交えて、イヌと人間について考察が混ざっていく。そうして人間の社会的なコミュニティと犬が関わることでの進化的な変遷に、思いを巡らせることになる。読みながら、時にあっと驚くような発見の芽を伴うようなことが書かれている。読者は、ともに人類や生物の進化の不思議に、思いをはせるようになるだろう。僕は何度もこの本の題材を家族の話題にし、一緒に楽しむことができた。それは私たちの家でも犬を飼っていたために、実感を伴って考えることができたからだ。それはまた、素晴らしい犬たちへの理解の思い出でもあった。もちろん、その時はなんとなく面白いものだとして記憶していた数々だったが、それがある意味を持ったことだったと理解できたのは、僕らが生きている実感としても素晴らしいことだった。僕たちは、生きて生活し、そうして命としてのバトンをつないでいるのである。
 実をいうと個人的な問題として、僕はいまだにペットロスに苦しめられてもいる。昨年6月に愛犬を失い。長らく犬の話を読んだり聞いたりする気にさえなれなかった。犬と人間は違う生物だし、本当の意味で分かりあえているのかは、確かめようがないところがある。しかしながら、お互いに愛情をもって生活していたという実感が、少なくとも僕の側にはちゃんとある。犬が家族だというのは、ふつうに犬を飼っている人なら何の説明もなくても理解できることだろうと思うが、それはあまりにも当たり前すぎていることなので、かえって飼ったことが無い人には伝えにくいことのように思える。こういう比較は不適当かもしれないとはわかっているが、知り合いの人が亡くなったことの喪失感よりも、愛犬の死は、あるいは重たい問題かもしれない。
 こうした思いと、少しばかりは冷静に向き合いながら読むことができたことも大きかった。それは、このエッセイ自体に深い愛情があり、そうしてある程度の客観性が、同時にあるからだろうと思う。それは私だけが分かる問題ではなく、共有して理解しようとする姿勢である。そうした科学の視点というのは、本当に温かいものではないか。また僕が犬を飼えることができるようになるのかは分からないが、犬のことはこれからもずっと好きでいられるはずである。
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四人の幽霊にまとわりつかれると……   ハロー!?ゴースト

2022-02-19 | 映画

ハロー!?ゴースト/キム・ヨンタク監督

 若い男は、人生か何かに絶望している様子で何度も自殺を試みるも、肝心なところで死に至らない。今回もまた死ねず入院先でため息をついていたが、身の回りに何か奇妙な人がいるのに気づく。が、気づいているのはどうも自分一人らしく、その言動に周りの人から不審がられて、精神科の先生に呼ばれる。どうも幻覚とは違うと本人は気づくのだが、そうすると複数の幽霊に憑りつかれてしまったようである。厄介なのは、これは一般の人には見えないので、共感が得られないことだ。霊媒師のような人に相談すると、成仏できない幽霊であるから、何かこの世に引っかかっている望みをかなえてやると、成仏していなくなるのではないか、とアドバイスされる。この世の人には見えないが、自分だけが見えている状態で幽霊と行動を共にすると、相手は実態が無いので、相手の思うように自分が動かされてしまい(いわゆる勝手に憑依されることがある)、そのために、いろいろと騒動を起こすことになるのだった。
 最初は病院なのに煙草をスパスパ吸っている青い背広の男が見えて(でも実際に煙草を吸っているのは憑依された自分)、泣いてばかりいて捉え何処のない中年の女が増え、何かエッチな年配の男(一応爺さんらしい。若めではあるが)がよく酒を飲む(代わりに若い男が飲んでいるわけだが)。そうしてまだ小学生くらいの少年が、甘いものやおもちゃを欲しがる。他にも幽霊はいそうなものだが、何故だかこの四人だけが男には見えて、付きまとわれることになるのだ。しかしながらこの幽霊の騒動の中で、病院の美しい看護婦さんと接点がもてるようになる。さて、そうしたもろもろは、どう発展するのでしょうか。
 ちょっとお約束でわざとらしいところはあるにせよ、よく出来たコメディである。様々なドタバタ劇を笑いながら観進めていくと、最後にええッと言わされることになる。まあ、たいていの人はそう思うだろうと思う。よく出来てはいるのである。
 僕が想像するようなものではなかったけれど、してやられたことに変わりがない。確かにそれならこうなるかもしれない。それぞれのエピソードにしてみると、だったらもっと早くから言えよっては思ったけれど、それでは映画になりませんものね。
 それにしても韓国の海苔巻きって、日本とよく似てるけど、似てるからこそなんだかだいぶ違いそうだ。これに家庭の味ってのがあるようで、そんなものなのかな、とも思った。確かにほかの韓国映画でもこの韓国海苔巻きが重要だったことがあったので、あちらの人はそれなりに家庭で海苔巻きを作るのであろう。
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社会現象プレスリー   エルヴィス・プレスリー

2022-02-18 | 読書

エルヴィス・プレスリー/東理夫著(文藝新著)

 副題「世界を変えた男」。まさにそういう存在がプレスリーであるということに異論のある人は少ないだろう。僕の子供のころに亡くなったのだが、その時はたいした騒ぎになった。日本で無茶くちゃ売れていたという記憶は、僕のような子供には無かったが、友人のお兄さんが大変なファンで、ひどく落ち込んで悲しんでいた。それで凄い人だったのかもしれないな、と思ったことはある。
 この本にも書いてあるが、その後プレスリーは死んでないとか、今もどこかで生活しているとか、度々噂になった。日本でもそういう噂をもとにバッタもんテレビ番組が多数作られた。とにかく人気があって、映像では彼が歌うと興奮して泣き叫び、失神する女性がいたりした。僕は日本人なので彼の容姿が二枚目なのかよく分からないのだが、格好をつけているが、やはり歌は上手いのだった。なんというか、他の誰かが歌った歌でも、さらにゴージャスな感じになるのではあるまいか。
 エルヴィスには、双子の兄がいたらしい。生まれるときにすぐに亡くなってしまった。エルヴィスや家族の中(特に母親)では、そのことはとても重要だった。彼はある意味で、二人分を一人で生きている意識があったのかもしれない。そうして家は貧しく、貧しいのに父などはいろいろと失敗して碌に働かない。エルヴィスは家庭を支えるために働かなくてはならず、南部の町で白人としては最下層の暮らしぶりだった。学校では少し変人扱いでふつうに友人さえつくれない。そういう中で音楽が好きになり、そのように最下層に暮らす黒人とも分け隔てなく付き合って、音楽を聴いていた。当時はまだ、階級の色が残っている社会であったし、差別的な扱いを受けるような下層の暮らしぶりの中で、白人が堂々と聞くべきでないとされていた黒人のかっこいい音楽に、自然に親しむ下地があったのである。そうして黒人の仲間たちとともに音楽で徐々に人気を得るようになり、南部の田舎という枠には収まらない素質を見出されるようになる。そういう流れの中でやっとレコードを録音できるようになると、あとは連鎖的に火が付き、爆発的に世間を席巻してしまうようになる。
 プレスリーの時代のアメリカは徴兵制度が残っており、人気の絶頂期に兵役に取られることになってしまう。しかしその時期に、プレスリーにとっては最愛の母が死んでしまうというタイミングであったことと、不良でアメリカ社会への反抗とカウンター・カルチャーの申し子である地位からは滑り落ちてしまうが(従順な青年は、あまりロックンロール的なアイコンではない)、一時休憩するという感じもあったのかもしれない。その時期にはアルバムは売れはするものの、その曲を使われる映画などで、存在感は保ったままだったようだ。そうして、退役するとすさまじい勢いでコンサートに繰り出し、その膨大な数のコンサートを繰り返すうちにショーとしての形状を洗練させてゆき、あたかも完成された儀式(ミサ)のような感じで観に来たファンを魅了させていく。そのまま集まったファンを、信者のように従えて魅了する、大スターとして君臨するようになる。そのようにしてあたかも王様のように、音楽の力で世の中を制圧したかの状態の中で、絶頂期のまま、きわめてあやふやな死因でこの世を去るのである。
 プレスリー研究というのは、いまだに本人や、それを取り巻く社会の現象としても取り組まれている分野なのだという。プレスリー神話は、学問としても成り立つ題材なのだ。
 いま改めてプレスリーを聞いてみると、確かに古いところはあるけれど、それでも古すぎずそれなりにモダンだし、派手すぎるきらいはあるが、まあ、かっこいいままである。いろいろ心に傷の在りそうな人だったが、派手に稼いで、派手に広範囲に寄付した人でもあるらしい。愛に飢えて、貧しさからの脱出を何より夢見ていた。だからこそ貧しい人には手を差し伸べられずにいられなかった。ふだんでは、近しい間柄としてはつきあうには面倒なところがあったのかもしれないが、その反面、あんがい表面的には、誰とでも友達になれる人だったのかもしれない。それが、大スターの素顔なのかもしれない。
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なるほど、っていうか意味は分からなかったけど   さよならくちびる

2022-02-17 | 映画

さよならくちびる/塩田明彦監督

 バイト先で知り合った二人は、ギターデュオを組んで街頭で歌うようになる。なかなかにいい感じなので、たちまち評判になってあちこちで声がかかるようになり、マネージャー兼バックギター&その他もろもろでシマという男を雇うというか、ともに行動するようになる。どんどんと、そして堅実に人気を集めてツアーに出るまでになるのだったが……。
 最初から「解散」することが宣言されている。だからそれは、それまでのことの顛末であるはずである。同時進行のようでいて、過去の出来事が時々挿入される。時系列はバラバラで、髪型などでだいたいの時期を想像するよりない。しかしまあ、なんとなくは事情が明かされてはいくのだが、正直言って最後まで僕にはよく分からなかった。仕方ないので観終わってサイトで確認したりして内容を知ると、これまたなんだかそうだったっけ? という感じかもしれない。演出が悪いんだろうと思うが、僕の理解を越えてはいる。
 最近の映画的な流行りのLBGTQ問題もあるんで、それが分からないのか? という意味ではない。それならもっと素直にわかるんだけど、だからと言ってそうならないような気がするのが、分からない理由の第一である。そんなに気を遣うものではない。ある意味仕方ないし、葛藤はあるのだから、逆側がキレてもしょうがないんじゃないか、と思ってしまう訳だ。そうしてやっぱり気を使いすぎて傷つくようだし。せっかくめんどくさい状況なんだから、やっぱり語り合う機会がもっと欲しかったという感じかもしれない。男のシマの状況だって、過去に執拗に絡む男たちが分かりにくすぎる。そういう妬みは、もっとストレートではないのではないか。
 おそらくこの映画の目の付け所のデュオはいいのである。三曲しかやらないけど、ほとんどそれで引っ張っていると言ってもいい。だから引っ張りすぎかな、ということではあるんだけれど……。歌もうまくて演技もいいという役者さんはたくさんいるけれど(芸能としての相性がいいというのもあろう)、適度に素人のような感じのまま、それなりに非凡だという雰囲気は出ていると思う。やっぱり売れる人たちって、こういうものを持ってなきゃ厳しいってことなのかもしれない。そういう映画じゃないってことは分かってますが……。
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集め方の悪い意見の実現性はない

2022-02-16 | net & 社会

 新聞を読んでいると、ちょうど知事選をやっている関係で、三候補に言いたいことをLINEを使って集めたらしい。文字制限があるというのはあるが、ほぼ批判のための批判にすぎず、読んでいてほんとに暗い気分に陥った。選挙民というは、ほんとにこんな人たちしかいなかったのか? ちょっとだけ羅列してみよう。
 最初に「もっと若者の声を聞いて」とある。何をもっていっているのか不明だ。若者を集めて懇談会をやれという続きもある。それでもいいが、やっぱりそれでも行政がやる限り選抜するに決まってるだろう。他にも「若者が定着してくれるような魅力的な県に」などもある。気持ちは分かるが、それはいったいどんな県なのか。提示しても違う、というんじゃなかろうか。若者が定着するにはどうしたらいいのか分からないし、そもそもそれは無理な注文だから達成されていないのではないか。長崎県に限らず地方の問題は、単独の県の小さい力ではそもそも限りなく難しくなっている。若者だけではないが、一定の出身者が出ていくのは仕方のないことといったんは諦め、それでも地道に長崎の魅力を訴えるしかないのではないか。また、よそから来る人が増えることで、わが身を見直すこともできる。これは人生の幸福度とも関係があるが、そもそも友人が多いことは幸福と関連がある。地元に戻るテーマには、そういう個人の幸福を見直せる人間であるかどうか、なのである。
 「打たれても、汚れても、土下座してでもやるときはやるんだという気概を感じられる人がいない」というのもある。僕はむしろそんな人には何の期待も持てないが。そんなことをしたり強要する社会には、絶対にして欲しくない。このような精神論は、自らやるべきことだというのならやったらいいのである。迷惑だけど。
 「子育ての私が、長崎に住んで良かったと思えることが無い」というのもある。他県の何がそんなにいいのだろうか? 長崎の何が悪かったのだろうか? それは行政の不備だと明確に指摘できることなのだろうか? 日本の子育て支援には問題があるのは分かるが、それは県政で解決できるとは、どんなことなんだろう。子育て支援に十分にお金を回せない構造は、社会保障の仕組みにあるのは確かそうだ。そうだとしたら高齢分野のパイを削って……、などの方策などもあろう。さて、それでは……。
 「教育界、崩壊寸前です。どうか人員を増やして」というのもある。うーん、人員を増やせないのは、仕事の内容を詳しく解析するごとに仕事量が増えていった歴史とも関係ありそうだ。僕の子供のころの先生方はいい加減な人が多かったが、今はそんな人は教員にはなれないだろう。そうして子供が減って休日も増えたのに、教員は忙しくなった。これを分析したり改善方法を提示する声はそれなりにあるが、うまくいってはいない。意見としては分かるが、最も通りにくいスジ論ではなかろうか。
 確かに、いろいろな不満に対して県に何ができるか、もしくはこれまでやってきてどうなったか、問題はたくさんある。指摘されてきたほとんどすべてと言っていいことに対して、本当に県は今何もやっていないのだろうか。実は何かやっているが、それが実感を伴っていないか、そもそも無理な注文だったかしている結果が今である。実はそれを一つ一つ検証するだけでも、十分に県政改革になりうるのであるし、それは少しくらいは可能なことなのである(不可能なことが残念ながらあるのは確かだが)。
 さて、そんなことを言ってしまうと、要望を出すというのは実際にはかなり難しいことであるのが分かるのではないか。漠然とした不満にこたえられる術は、ほとんどない。それは政治に限らず、何であってもそうである。そういうことをどうすればいいのかというのは、やはり対話だろう。議会に注目するだけで、それなりに意味があるのである。宿題に対してどのような答え方が現在あるのか、行政や政治家が知りたいのはそれのみである。できるかどうかは、分からないが……。
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人情喜劇アニメ   東京ゴットファーザーズ

2022-02-15 | 映画

東京ゴットファーザーズ/今敏監督

 ちょっと前のアニメ映画。監督は故人(そのころ僕はブログで本人が亡くなる予告を書いているときに知った)。一人はおそらくアル中。一人は場末のおかま。一人は家出娘。それぞれ事情がありそうだが、この三人のホームレスがゴミ捨て場から赤ん坊を拾う。これをきっかけに珍道中が繰り広げられることになるのだった。
 過去に瑕のようなものがあって、それぞれにホームレスという姿に身をやつしているわけだが、赤ん坊の親を探しているうちに様々な偶然が重なって、それぞれの過去が見えてくることになる。ホームレスとして一緒くたにすると、単に金も家も無くて路上生活をしている人々なのだが、当たり前だがその前にも彼らなりの生活があった。仕方なかったのかどうかまでは分からないけれど、そこでの生活が嫌だったり破綻したりして、そういうことに行きついたということになるのだろう。だらしなかったり問題の多い人々だけれど、赤ん坊のことを心配する人情は持っていて、曲がりなりにも協力して、少ない手がかりをもとに親を探し当てようとする。時には上手くいくが、時にはとんでもない寄り道のような脱線をしてしまう。そうして偶然が重なりあっていいところまで行けそうになるのである。
 街の風景などのリアルさとアニメ独自のコミカルな人物像との対比などがあって、それなりに重層的で、一種の幻想のあるクリスマスの奇跡ものである。いや、他のアニメ作品にみられるような幻想的で非現実的なアニメーションなのではないのだが(アクションはそれなりにアニメ的だけど)、クリスマスだからこそ起こりえる人情的な奇蹟が起こってしまうという感じかもしれない。
 お話はある意味で落語的なバカバカしさも含まれていて、場面場面を楽しむものかもしれない。いちおうストーリーはあって謎解きはあるのだが、そういうものを追って物語が引っ張られるという感じではない。子供が見て楽しめるかも疑問だ。こういう渋いアニメ作品も案外作られているんだな、ということもアニメ映画界の懐の深さなのかもしれない。
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国際化とは単純無知化かもしれない

2022-02-14 | net & 社会

 韓国の犬食文化がピンチを迎えているという記事を読んだ。ものすごく極端に言ってしまうと、現代社会にあって残酷という印象を拭えず、文化食としての生き残りを模索しているまま、最終岐路に立たされているということか。そもそも外国人観光客の受け入れが多くなり、サッカーのワールドカップを経て、国際社会での立ち位置のようなものを気にして、一般の人の出入りする市場では販売自粛し、表の通りでは店舗も構えることができなくなったのだという。そうしてこれまで来ていた客も入りにくくなり、取扱業者の扱う量は細くなり、食用犬を育てる畜産農家も厳しくなっているそうだ。食文化なので、本当に細々と犬食を求める人もいないではない、ということで、そのためだけに営業を続けているということなのだろう。
 これまでは海外の活動家や、著名人などの犬食嫌悪の圧力におされて、いわば驚きながら後退を余儀なくされていた背景があるが、一度後退してしまうと自国の人々も、普段はペットとして犬を飼う生活を送っている訳で、自国の犬食文化そのものを嫌悪する韓国人世論まで形成されてきているのだという。若い世代など犬食文化があることすら無意識のものが増えていて、そういうものが残っていること自体に違和感を覚えるような感覚が芽生えているのかもしれない。味の良さだけでなく、滋養強壮に良く、冬は体を暖かくし、夏場にはバテ防止になると言われていた犬食は、何かゲテモノを扱うような白い目で見られるような存在になってしまったのかもしれない。
 こういうのを読んでいると、なんだか鯨も一緒のような既視感を覚える。僕は犬も飼っていたけど、ペットと家畜の差が何であるかというのは、モヤモヤとしか分からない。どちらも人間のエゴであることには変わりなさそうだが。人間は勝手に犬をなつかせ、繋いだり軟禁して懲役刑を与えるか、集団で飼って死刑にしているかの違いだろう。
 だが鯨は違う。彼らは野生を謳歌し、鯨としての人生の中で他の生物と同じように狩ったり狩られたりしているわけだ。牛や豚なら食べていいという理屈なら、将来人間の所有物として家畜化したら食べていいということになるはずだ。大きいからどうせ無理だろうと思って言っているだけのことで、やはりエゴの延長に過ぎないだろう。
 ということで、分からない人には分からないまま、文化というものは変遷する。その時代のはざまに、たまたま僕らは生きているのかもしれない。
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