カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

みなさん、良いお年を!

2014-12-31 | 掲示板

 みんな今年を振り返りたいんだな、という年の瀬。これが区切りという共通認識がそれなりにあるせいだろう。学校も卒業したし、しかし会社も休みだし、そうして年は変わる。日付が変わるのにそんなに違いがあるはずないのに年は変わる。そういうのがなんとなく毎年不思議だが、しかし人は集まって一所懸命酒を飲みかわす。疲れちゃうけどこれは仕方ないですよね。
 で、思い返すわけだが、僕は個人的には今年はいろいろつらかったりしました。で、変わればチャラになれば良いとも思ってないんですよね。ある程度仕事の上ではやることはやったんですけど、でもそれで終わりじゃないですし、寿命の方は残り少なくなってきた感じはするけれど、特に何かない限りすぐに死ぬということでもなさそうだし…。でもまあ、あんまり肩肘張りたくは無いにしても、来年はやっちゃるぜ、という感じでしょうか。やりたいことがあるっていうのは生きる糧でもあります。明確な目標を持った人生ということでもないのだけれど、年を追うごとに何かがいつの間にか変わってしまうというのは、考えてみるとスリリングですよね。
 僕は世界を変えるような重要な人物ではないとは思いますが、市井のいち人間として、それなりにもがいていこうと思っております。ご迷惑な人はすんません。退場するときは静かにしますからあきらめて下さい。
 ということで、みなさん良いお年をお迎えくださいませ!
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ただひたすらこの世界に酔うべし   Monster

2014-12-31 | 読書

Monster(18巻)/浦沢直樹著(小学館)

 作家の浦沢直樹は知らなかったわけではない。日本を代表する人気作家でストーリーテラーだという話は聞いたことがある。しかしまあ、僕は大人になってからそんなに熱心に漫画を読んでこなかったので、作品を通して読んだのは初めてだったようだ。うわさ通りというか、これだけのスケールで物語を描けて、当然だが絵も非常に上手い。自身も手塚治虫のファンだというが、まさに手塚漫画をさらにドラマチックにしたような素晴らしい作品といっていいだろう。知られた作品をさらに称えてもそんなに意味は無かろうが、これでファンがつかないなんてことはありえないことだろう。
 もっともあえて言うならば、ここまで話が長い必要は無かったかもしれないという気はした。物語が始まってからのスピード感とエピソードの重厚感というのが、やはり後半少し失速する。というか、やはり収縮させるだけのけじめのようなものをいかにつけるかということが、少し気になってしまったのかもしれない。それでも当然やり切れているとは思うものの、主人公に人が殺せない足枷のようなものが残ってしまい、その他のキャラクターにしてもそれぞれに妙な縛りが発生されたようにも感じた。冷酷はスパッとそれでいいし、温情はしつこくそれでいい。そういうことは好みの問題だとは思うものの、長い作品というものの難しさを感じさせられるのだった。
 とはいえ、この物語の魅力は、そのようなキャラクターの魅力によるところが大きい。幾重にも絡んだ関係において、それぞれがそれぞれの個性で行動をする。そうしてそのことがまるで計算されたかのように、様々な事件の結末に収斂されていく。この構成力を成す力量は並外れたものがある。またその仕掛けにおいての工夫は、アッと驚かされる見事なものだ。読者はいつの間にかその驚きのままに物語に酔って、そのまま読み進めるより術を失う訳だ。
 そういう訳で、病み付きになるような時間の無い人には、むやみにお勧めできない。だからと言って時間が出来ることを待つような愚かな人間には、紹介する意味も無いのかもしれないが…。
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ちゃんぽんが旨いというだけの事

2014-12-30 | 

 今さらながら、ちゃんぽんへの距離感の話。
 食いもんなんだから自分が良ければそれでいいというのは大前提。文化もあるし、庶民的だがそれなりのごちそう感覚があるのは、ちゃんぽんとしての背景にはある。さらに、旨い不味いは確かにあるんだけど、そういうことで、多少のブレがあっても、ちゃんぽんとしてはそれでいいという存在理由はある。また、もっと言うと、「長崎」という肩書はブランドとしてあるものの、必ずしも長崎である必要性というものはあり得ない。そんな限定に意味のないことは、長崎人で無くとも人間心理として共有すべき最低限の事だろう。しかしはあっていいが、なにを狭量なこと、であるということに過ぎないわけだ。
 ということで、僕はちゃんぽんが好きなんであるが、いつも満足して食べている訳ではない。自分の体調が一番の理由ではあるにせよ、その時にあわないちゃんぽんとの出会いというのはそれなりにある。場数の問題であるということは、それはそうだが、残念ということにおいても、ちゃんぽんとの付き合いではそれなりに多いわけだ。
 そうではあるが、しかし僕が良いと言っても、それは僕なりに自信があると言っても、やはりそんなに意味のあるものではない。背景が違いすぎるし、何より個人というのは、突き詰めたら本当に共有できるということが不可触なことは分かり切っている事実だ。前提の話ばかりしているけれど、ちゃんぽん文化そのものは、実はそういうことで成り立っている食文化なのではないか。ラーメンのように若くないし、しかし蕎麦のように厳格でもない。うどんとはそもそも別で、ソーメンや焼きそばでも違う。
 要するにちゃんぽんなんであるが、だからそんなに肩肘張ったものでは最初から無い。ノスタルジーや地域性はあるにせよ、そんなことで生き残っている食文化ではない。しかし確実に言えることは、庶民的だけど、ちょっと豪勢だったり量が多かったりするけれど、でも単純に旨くて腹いっぱいのご馳走だ、ということだ。だから、僕のちゃんぽんの満足感は、そういうことであるにすぎない訳だ。
 もちろん、現在はそれ以外のちゃんぽんの存在はある。それも、大筋で認める。だけれど、ちゃんぽんの楽しさということで考えると、僕の言っている意味というのはおのずから収斂され理解されることではなかろうか。
 今日も必ずちゃんぽんを食べるわけではない。しかし、ちゃんぽんを食べる喜びは、そのような基本形があるからこそ、活き活きと旨いということになるわけである。
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リア充定義変遷

2014-12-29 | ことば

 リア充という言葉は古いものではないが、しかしそれなりに新しい言葉としては、十分に定着しているような印象を持っている。しかし、意味というのはあんがい広くなっているような感じである。もともとは恋人の有る無しから始まり、その恋人なりパートナーなりとの恋愛の出来事の多寡や生活の質のようなことを含んでいるようだった。恋人がいなければリア充でないという分かりやすい人は、むしろ最初のふるいで脱落してそのまま分類上登場しないものだと思っていた。その先の充実度の話においては様々なものがあるから、それが本当かどうかというのはともかく、要するにラブラブ度のような情熱度が高ければそれで上位の人という単純性があったようにも思う。しかしながらそのような人がわざわざリア充の下位の人と付き合えるほど暇であれば、自慢だけの疑わしい存在となる。リア充の人は、遠くにありて思うもの、というのがつまるところ正しい解釈のようにも感じる。まあ、そういうのはある程度の若い人限定のことだろうが…。
 ところが、というのが、現在のリア充というのは、単に恋人との関係性を以っていうものではないらしいと最近聞いた。それというのも野外活動の有無でこれを語っているらしい人が少なからずいるのだ。要するにひきこもりで無いか否かというのが一つの基準らしい。バイクで仲間とツーリングするのも良いし、バイクでなくとも旅行なんかは普通に含まれそうだ。夏フェスなんかを挙げる人もいるし(マイタウンでは少数派だろうけど)、夏のバーベキュー、キャンプや花火もそれらしい。冬の今からなら忘年会なんかも指しそうだし、要するに一人きりにならないで、寂しくないで、仲間とウェーイ!というのがリア充の定義になっているらしい。もちろん前からそういうことを指していた可能性もあるが、僕は単純にこの中に異性の含まれた青春の息吹が無ければならないと勝手に思っていた。たとえば男同士で鍋を囲んでもウェーイ!とはなるだろうけど、リア充とは言えないような偏見を持っていた。ところがこれは完全にリア充上位に今はある可能性がありそうだ。正確な言葉の意味なんて、特に新語にはブレがあって当然だが、ちょっと不思議な感じすらする。
 ところでそういうことは正当なリア充には違いないながら、実は一人でも狭義ではリア充になっている場合もあるらしいのだ。確かに一人で釣りに行ってもウェーイ!だろうし、プラモデルが完成してもウェーイ!なのではある。茶店でまったりしても、気分のいい人もいるかもしれない。ということで、一人でもリア充に入れていいという声があるんだが、しかしそれはあえて入れない方がいいのじゃないかとも思う。別に少子化を憂いて言っているわけではなく、あまりに定義の範囲が広くなりそうで意味が無いような気がするからだろう。雰囲気として用いているウェーイ!の感じも偏見かもしれないが、男同士ならそれも楽しいが、さらに一人というのは、やはりどうもそういう感じとは違う充実を指しているのではないか。楽しいが少しそういうこととは別の個人体験であって、外してやった方がいい。さらに楽しいけれどよく考えてみるとやっぱり少し悲しい方が、僕には感覚として好ましい。
 以前公園で一人でサンドイッチを食べていたら、いきなり男女の集団が集まって、キャッチボールを始めて、そうしてがやがやとソフトボールをやっている風景にぶつかったことがある。あれは学生のサークル仲間か何かなのかとも思うが、なんだかいいな、と思ったことだ。ああいうのをできない人もいるとは思うのだけど、リア充上位としては、まさに見本のような眩しさだった。でもまあ、僕は見ているだけでいいんだけどね。
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欲望は思うようにならない

2014-12-28 | net & 社会

 ちょっと前に東京駅100周年限定suica事件というのがあった。テレビのニュースで見たときは、とにかくJRの対応がけしからんという一点に収斂された報道姿勢で、多くの人々の不満や怒りをそのまま流していた。結局JRは考えも甘いばかりか対応も何もひどい会社だという印象を植え付けるためにやっているように見えた。
 後日普通にネットでニュースを見ていると、このsuicaを買い求めて苦情を言っている人にプロ市民的というかテレビ局のヤラセ・タレント的な人がいるという話題に変わっていた。相変わらずテレビは胡散臭いぜ、ということのようだ。背景にはテレビのコメントで不特定の人を放送することが難しくなっているということがあるという。さらに言うと、テレビの都合で話してくれる人を探すより、ヤラセをした方がそれらしいということに過ぎないと思われるのだが、そもそも多数の声を拾っているように見せかけて、一定の意見を言わせたいというヤラセ構造なのだから、要するにそういうことに行きつくより無かったということではないか。街頭の声を放送で流す必要性は、テレビの製作者の意図以外では必要性など何もないのだ。彼らに少しでも勇気や信念があれば、自分たちの声をそのまま流せばいいだけの事ではなかろうか。
 そういう具合に経緯が流れていると思っていたら、JRがsuica購入希望者には、全員が買える処置をとることにしたという発表があった。限定発売だったからダフ屋やオークションで高騰していたそうで、それは既に知っていたが、今度はそういうところから買った人から払い戻し言動の行き過ぎということがネットで話題になっていった。安易に行動した馬鹿が騒いでいるという揶揄である。
 限定商品に並んでいた人がすべてそうだとは思えないが、やはり欲しいというマニアのような人が多かったというより、投機目的で購入に走っている人が一定以上いたことは間違いなかろう。さらに騒ぎが大きくなったので、一時的に大きなバブルに成長した。売り抜けた人は利ザヤが大きくなったが、一転してことの大きさに限定発売という枠まではじけてしまった。最初にあったルールが変わったために戦いが変わってしまった。そうすると、現実には純粋に欲しい人には一定の恩恵であるはずの判断が、実は多くの人の失望となる最悪の結果を招いてしまったということになる。
 人間の欲望とそのことが招く幸不幸の縮図の、コントラストのはっきりした事件だと思いました。
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お笑いはまじめに続いている

2014-12-27 | HORROR

 相変わらず北朝鮮という国は面白いことをやってるな、ということが続いた。不思議なことにこれが現実だということに、良く考えてみても普通に現実感が無い。「(日本は)そっくり焦土化され、水葬されなければならない」んだそうだ。普通ならばお笑いで「ぷ」っというくらいは声が出てもいい感じかもしれないが、そんな面白ささえ感じない。もう飽きたというか、ああ、そうですかという返答さえする気になれないということか。
 しかしながら米国は反応が違う。挑発するコメディ映画を作り、配給会社がサイバー攻撃を受け、上映が一時中止した。もちろんそれなりに打撃があったことは確かだし、実際にテロを警戒したということもあろう。そういう対応に対してオバマ大統領はじめ多くの世論は、逆にテロに屈する態度として配給会社を非難する。さらに大統領は、北朝鮮の攻撃と断定し映画公開を妨害したことによる被害額を賠償するように請求した。これもなんだか実は滑稽な感じもするんだが、当然北は猛反発している。米国からの報復攻撃かは不明だが、北朝鮮のサイトは一時ダウンし、サイバー攻撃の応酬は激しくなされているのかもしれない。
 作られた映画は北朝鮮の金正恩の暗殺を描いたコメディだというが、映画を観てないので比較しようが無いけれど、既に映画よりも十分に皮肉の利いたブラック・コメディが現実に展開されているということだ。日本には拉致被害者がいるという現実感があるから素直にこういう映画がコメディであるというのは少し悪趣味に思えるのだが、しかし米国の当初の予定ではクリスマス前からの公開だったことを考えると、これでこのハッピーな時期に十分観客が楽しめる映画と考えていたに違いない。現実の北朝鮮が面白すぎるので、そういう悪ノリであっても十分支持が得られ、採算が取れるという計算が合ったと思われる。さらにこのような大々的な宣伝が奇しくも宣伝費を使わずともなされたわけだから、限られた公開から始まった上映であっても、将来的にはそれなりに期待のもてる興行になるのではなかろうか。これが計算されたものではないだろうけれど、さらに滑稽な現象といわざるを得ない。北としてはますます怒りが増すだろうし、米国民はますます笑顔になるという図式が完全に成立している。
 もちろんこれが滑稽なままなのは、北や米国のまじめな対応であるのだけれど、しかしことが本当に大事になりようがないという安心感だろう。北が本当にミサイルを発射したとしても、どこの海に落ちるにしても、たぶんまだ笑顔が消えそうにない。本当に誰かの血が流れるまで、面白さが消えないのである。
 しかし繰り返すが、これは映画でなく現実の出来事だ。北朝鮮は見事に馬鹿げた滑稽さを持っていることは事実だが、少なからぬ命を簡単に消すことができることも事実なのだ。私たちが感じる滑稽感というのは、このようなまじめな感情のバランスの上に、なんとアンバランスに乗っかっていることだろうか。北の暴発を期待しているわけではないが、そうなってもかまわない準備が、本当に備わっているのだろうか。
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ピントが合わないというか

2014-12-26 | 雑記

 駅前でみかんを売っているときに観光客らしいカップルのお客さんから話しかけられた。今夜の飯の問題らしい。駅前だから飯屋が無いわけではないが、観光だったら繁華街の方がいいのではないか。そう言ったら「いや、昼に中華街に行ったんですよね」という。ちゃんぽんか何かを食されたのだろう。「それがこんなに廃れた場所だとは思って無くて…。ほら、私達東京でしょ。だから横浜の中華街とか知ってるわけですよ。それよりも駅前だったらもう少しくらいはましかな、と思ったものですから」…。
 言ってることは分からないではないが、東京と言ってもどこだか知らないが、かなり微妙な感覚である。いろいろ話してみると、寿司屋はダメ、卓袱は聞いたことない、焼き鳥は…、という感じ。若いからね、まあ、安くて魚介類が旨くてというような居酒屋をご所望らしい。真面目に考えると簡単ではないな。で、ホテルの関係か知らないが、どうしても駅前じゃないと嫌なんだそうだ。
 たまたまというか、当然のように市内の人がいたので、バトンタッチ。看板の見えるビルの下あたりでどうでしょう、と言っていた。特に異論はありませんけどね。
 それだけの話ではあるんだけど、僕も出張中は人に飯屋を尋ねることは多いんだけど、難しいものですね。いい店であったと、というか、適当だけどそれなりに満足してもらえたらいいなとは思いながら、また残りのみかんを売りましたですよ。観光地で暮らす人たちってあんがい面倒なんだろうね。期待されないまちに生きていることは、本当に気楽で素晴らしい。僕は長崎と外れた長崎人として仕合せを感じた次第であります。
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クリスマス・プレゼントの思い出(ラジコン編)

2014-12-25 | 掲示板

 クリスマス・プレゼントというと子供の頃の記憶か、自分の子供でもやはり小さい頃でなければ大した思い出も無い。今でもそういう体験を作ることは大切だろうが、なんというか、醍醐味としてそういうことのイベント性は薄れているかもしれない。
 ということで小さい頃は大変に楽しかったクリスマスだが、大人になるとつまらなくても特に不満があるわけではない。孫でもできたら、また楽しめばいいのだ。
 僕が小学生の高学年くらいになったときに、突然父がサンタの代わりに何か買ってやろう、と言い出した。おかしな話だが、まだサンタを信じているかもしれないから、遠慮してそういう言い回しになったような気がする。子供のことを知らない親だった訳だ。
 それはいいのだが、当時はラジコンというのがとにかく流行っていて、交通公園(というのが学校の脇などにあったのだ)なんかに行くと、子供が盛んにラジコンのレーシングカーなどを走らせている風景があった。当然僕も欲しいが、これが子供のおもちゃとしては、当時はとても高価だったと思う。今ではだいぶ安くなっているようだけど、それでもやはりいいものはそれなりにするだろう。それに今でも、元子供である大人のホビーという感じかもしれない。
 ということで、できればラジコンが欲しいと言ってしまった。これは子供心にも勇気のいることで、自分だけ高価なものを買うことは、きょうだいの多い僕のような人間にとっては、他のきょうだいとのプレゼントのバランス感覚からいって、禁断の欲求でもあったと思われる。ところがあんがいこれがすんなり通ったというか、まあ、それならおもちゃ屋だったかそういうところに見に行こうということになった。これがちょっと記憶があいまいだが、何故だか長崎市内の模型店まで行ったように思う。
 そこで当然僕はいろいろ雑誌などで既に調べがついていて、バギータイプのラジコンカーの場所にダッシュで見に行った訳だが、父は店員としばらく話をしていて、僕が選んできた大きな箱を制して、もう決めたからそれはもとに返しておけと言う。何かが起こったことは子供心になんとなくわかったが、いや、ちょっと訳が分からなかった。
 そうして買ってもらったのは、他でもなくラジコン飛行機だった。僕は男の子としては軟弱な人間で、プラモデルにはまったく興味のない人間で、たぶん数百円のものであっても模型のようなものは作ったことが無かった。馬鹿でかいキットであるばかりか、そのラジコンの飛行機は、ものすごく細工の必要なものだったように思う。要するに子供の工作の範囲を超えていたのかもしれない。最初はそれでもなんとなく嬉しいような気もしないではなかったから、少しの間は格闘したと思うけれど、ほどなく撃沈し放り出した。結局正月か何かの時期にずれ込んで、兄がそのラジコンを引きついで製作し、飛ばしたかもしれなかったが、僕には操作自体も難しかったらしく、自分一人でこれを操作した覚えもない。
 見るだけで怒りのこみ上げるような代物で、それ以後僕はすっかりラジコンが嫌いになってしまった。そういう意図で父がラジコンを買ってくれたのだとしたら、まったく大成功と言っていいことだろう。
 せっかくのクリスマスなのにつまらない思い出ですいませんでした。
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悪女こそ価値ある人生  ギルダ

2014-12-24 | 映画

ギルダ/チャールズ・ヴィーダー監督

 一般的にリタ・ヘイワースの魅力が発揮された古典的なサスペンスとして知られる作品らしい。たぶん僕もそのような動機を持って借りたに違いない。どんでん返しもあるし、ままならない魅力的な女に振り回される男たちの姿も面白い。裏社会というか、当時の風俗というか、古き良きアメリカということも見て取れるし、当時の人たちの価値観のようなものも、なんとなくだが分かるような気がする。要するに現代とは違っておもろいな、ということである。
 お話のスジとしても、これでいいのかというか、最初の展開からちょっとだけど無理はある。イカサマをした人間を助けた上に自分の経営するカジノを事実上すべて任せて仕事を放りだして、帰ってきたらそのイカサマ師の元彼女と結婚していたりする。そうしてその女のことを本当に好きになったとかで、そのイカサマ師に嫉妬したりしている。なんじゃそりゃ、と思わない方が不思議だとは思うが、まあ、そういうお話がそれなりに成り立っていてサスペンスフルな訳だ。客観的にみて、これでもめないわけが無いではないか。
 しかしまあ、リタ・ヘイワースな訳だ。いわゆるゴージャスな女ということになるが、現代人から見るとセクシーなのは分かるのだけど、激しくそういうわけではない。現代がいかに過剰になっているかという証左になろうが、そういう控えめであるけれど、髪だけは自己主張が激しくて、やはり時代だと思う。地味目にセクシーなんだが、そういうところもなんとなく微笑ましい程度に良くはある。歌って踊る感じも確かに良いとは思う。自由奔放さには、ちょっと自堕落すぎるかな、とも思うわけだが、ある意味で正直でよろしいともいえる。今の時代の謎めいた美女には、もう少し冷たさが強調され過ぎていて、やはり情が無いところもあるから、強がった悪女の方がわかりやすいということもあるだろう。どっちが悪かったなんて比較は、ある意味で無意味でもあるし。いつの時代でも悪女に振り回される男の悲劇が楽しいわけで、そういう娯楽に巻き込まれた男は、不幸であり仕合せなのだ。何しろ運命の女が悪女であるからこそ、男は頑張ってのし上がることが出来るのかもしれない。自分の為に命を懸けて頑張って仕事して、いったいそんな人生に何の意味があるというのだろう。
 そういう古き良き時代の映画と、今は忘れてしまいそうになる人生の本当の楽しみを思い出させてくれる作品という訳だ。まあ、好き好んで悪女にのめりこむ必要は無いわけだが、そうなってしまった人にはそれなりに参考にどうぞ。
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愛と悲哀の一人カラオケでは…

2014-12-23 | 音楽

 世代的な問題もあるし、お仲間の問題もあろうが、カラオケとの馴染みはそれなりにある。歌うのは嫌いではないし、最近はそういう機会が激減したとはいえ、年単位で数えると、やはり時々歌う。要するにカラオケは場末のスナックで数人の仲間と歌うもの、という感じが一番しっくりするかもしれない。
 一人カラオケの存在を知らない訳でもない。少し前からそういう風習があるらしいとは聞いていた。テレビのドキュメンタリーなんかも見たかもしれない。好きでやっているのならそれでいいし、楽しんでいる生態があるんなら、さらにいいことである。おひとり様で楽しめる文化が増えることは、多様性として生きやすい世の中になっている可能性もある。
 しかしながら一人カラオケの目的というか、本当の実態を知っていた訳ではなかった。自分のカラオケの感覚からいって、未知の歌の練習にもなるかもしれないとは考えたことがある程度だ。知らない歌を絶対歌わないわけではないが、酔っているからなんとかその場がなるだけのことで、実際にはちゃんと歌えるわけが無い。歌ったことが無くても、曲を聞いたことがあればなんとかなりそうというのはあるけれど、やはり流行りの歌のようにテンポや歌詞の言い回し早いものは、どうにもお手上げということになる。
 ところが一人カラオケの実態というのは、練習とは根本的に違うらしい。そういうことを聞いて、オジサンはやはりなんとなくハッとする訳だ。まあそうだろうと漠然と思っていることとも、なんとなく改めて違うものだろう。カラオケの価値観として上位にあるモノ。それこそが一人カラオケの世界だということのようだ。
 考えてみると集団でカラオケを歌う場合、確かに縛りのある場合が多い。これは年配者でも若年層でもそうそう変わりは無いようで、出張なんかだとその場所にちなんだものとか、その場にいる中心人物の馴染みの世代の歌だとか。要するにその時にあった選曲をできる能力も問われているわけだ。歌が上手いのもそれは芸だが、上手いそのものは実は本当に求められている要素ではない。横着な言い方をすると、場合によってはあまり上手く歌いこなせないように注意して歌ったりすることも当然しなくてはならない。酔って外す方が、いわゆるウケるんならあざとくそうするだけのことだ。それが暗黙の世渡りの術だ。
 一人カラオケには、そういう浮世の義理がカラっとすべて無いわけだ。好きな歌を十回歌おうが、まったく歌えないのをでたらめに歌おうが、それはすべて自由な世界だ。むしろ歌と自分に向き合うことに、実にシンプルに忠実な訳だ。カラオケという文化の発祥の文化からの進化形として、行くべき方向性の上位にあって当然だということらしい。なるほどおみそれしました。
 ということでよく分かりましたが、行ってみっかな~というのは、特にその気にならない。通勤で車の中で時々歌うことがあるんだが、それで僕には事足りているということなのかもわからない。
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今年も終わるらしいを実感する

2014-12-22 | culture

 高校駅伝が終わると、まあ、だいたいのところ今年は終わりだな、という気分になる。気分になるし、まあ、だいたいのところそういうことだ。一日ごろごろしてタイムリーに楽しんで、録画しても楽しんだりする。
 女子の方は圧倒的優勝候補と目されていた常盤が、そんなに悪くない感じだったにもかかわらず優勝争いからは脱落(それでも悪くないとは僕は思うが)。一気に立命館宇治が優勝確定かと思われたら、実はやはり実力の大阪薫英が力でねじ伏せた。豊川は考えすぎたんじゃないかという感じもした。
 男子の方は予想通りではあったが、世羅の破壊力はやはりすさまじかった。そうではあるが、そうであるからこそ歴代の好記録というのは、やはり凄かったんだなと改めて思わせられる。佐久長聖って今も凄いが、過去も凄いところなんだな。
 2位以下のレースも面白くて大変にレベルが高かった。市立船橋の活躍を見て八千代松陰が本調子なら、という底力を感じる。他の失敗した学校もそうなんだろうが、駅伝というレースは走るだけなのに本当に難しい。
 諫早も存在感があって良かった。それでも入賞圏外。いかにレベルが高いか。小林がさすがのレースをしたが、九州勢はレースを失敗したところが多かったように思う。大牟田はやはり考えすぎたし、最後はまくった九州学院もレースとしての組み立ては思うようにいかなかった。近畿勢は意外だったが、関東のレベルの高さが目立ってきた。雪で練習を十分にできなかった東北・北海道の存在も侮れなくなっている。以前とは戦国地図がずいぶん変わったという印象が強くなった。もちろん、それは良いことだと思うけれど…。
 高校駅伝で一つだけ以前から気になっているのは、やはりタスキの受け渡しの混雑である。特に第一中継所の混雑は最初から分かっていることで、道幅一杯を道路を閉鎖してでも確保すべきではないか。記念大会ということで出場枠を広げるのだから、分かっていることをに少しでも対応策へ気を回すべきだろう。もしくは地区大会もあるわけで、30チームくらいに選別する必要があるかもしれない。残酷なようだが運営できないものを無理に行う方が問題という気がする。妙な平等主義というものがいかに問題が多いか、そういうことをスポーツに持ち込むべきではないだろう。これは日本の教育にはびこっている根本的な害悪が背景にあるように思えて、不快である。
 とはいえ、これだけ底上げが出来てきたということを思うと、注目度の高さと人気があるということがあるのは間違いない。人々の努力が報われるのは、多くの目が集まるということでもある。問題はそれを受けてさらに何を考えていくかということである。これは駅伝に限らずということも、含めて考えていくべきことだろう。
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本屋の消滅

2014-12-21 | net & 社会

 ネットで買い物をすることになって一番変わったのは、何より本屋に寄らなくなったことだ。いや厳密にいうとまったく寄らないわけではないが、もう以前のように生活の一部ではなくなった。本屋に寄っても本を買わなくなったし、本屋で確認してネット購入することもある。切迫した状態でなければ、行っても買いもしない。本は重たいので、運んでもらった方がいい。要するに本屋から外に出て、携帯で注文したらいいわけだ。本なら常時鞄やポケットの中に入っているわけで、読むモノには困らない。買うという行動において、本屋の必要性はどんどん減っていると言っていいだろう。そうして街の本屋は消え、大型書店でも品ぞろえが貧弱になっていく。そういう循環にあって、さらに本屋が遠のいていく。嘆くとかそういうことをしてもいいけれど、それが現実として、今のところ歯止めが効く方法は知らない。
 本屋自体は今でも好きである。やはり手に取って本を選びたいという欲求は残っている。新たな本との出会いも楽しいし、本屋を徘徊する時間のなんと早いことか。本を読んでいるより選んでいるときの方が楽しいときがあるくらいだ。
 人と待ち合わせするにしても、以前なら決まって本屋だった。出店するときに荷物が増えるのが難点だが、特に待たされても苦にならない。場合によっては次に予定があっても出にくいこともあったが、人を待つという苦行のことを思うと、実に最適の場所だったことは間違いない。適当な喫茶店のような所であっても、変に人を待つというのは手持無沙汰である。時間つぶしという意味では結局本を読んだりして待つのだし、周りの客などが気にならないということを考えても、店で待つのはあんまり適当ではない気がする。
 さてしかし、本当に適当な本屋は消えた。本屋が消えたが、ほとんどの人は本なんて買わないだろうから、そんなに影響も無いのかもしれない。ある人にどこで本を買うのか聞いたら、コンビニという答えもあった。コンビニに本が売ってあるって気づかなかったが、確かにあるようだ。ミステリとかハウツーものとかエロとか売ってある。恐ろしくどれも欲しくない。だから気づかなかったのかもしれない。雑誌を見ていてもやはりエロと漫画が目につくし、長時間時間をつぶすところでは当然違うようだ。
 図書館には小学生時代を除くとあんまりなじみが無い。勉強をしない子供だったせいもあるし、なんとなく落ち着かない空間という感じもする。借りたら返さなくてはならないし、本に書き込みができないし、近くにも無いし、品ぞろえも謎めいている。調べもので年に数度いかないわけではないが、調べたら結局買うのでカタログ展示場のようなものかもしれない。それも結局ネットのためのものだ。
 それでも唯一というか、出張などの移動の折にはちょくちょく本屋に足を止める。地方の書店でも結構入るかもしれない。地元には本屋らしいところが既に消滅していて、やはり必要があるということなんだろう。時間の制限があるから足早に回るが、やはり本屋に寄って品ぞろえがちょっとだけ偏っていると大変に嬉しい。どこも一緒のような展開は確かにあるが、最近は書店員も危機感があるのか、工夫しているところがそれなりにあるのだ。でもまあそんなに売れている風ではないが、そういうところは今でも楽しいかもしれない。
 もう戻らないだろうとは言ったが、都市部には本屋は残るのだろう。地域格差がある限り、地方の本屋は戻らないだけのことなのかもしれない。
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変わらない人間性が透けるということ   96時間リベンジ

2014-12-20 | 映画

96時間リベンジ/オリビエ・メガトン監督

 ひどい作品のさらにひどい続編を見てああだこうだ言うのもなんだが、それなりに吹っ切れた気分になるのと、期待を裏切らず薄っぺらな状態のまま何も考えずにひどいので、さらに呆れて楽しめた。まったく陳腐な連中である。
 こういう漫画的な作品はしかし、繰り返しになるが、その偏見に満ちた単純さにおいて、かえっていろんなことを考えさせられるようになる。これは前作で殺されてしまった悪人にも家族がおり、その死を悲しむあまり善人の主人公に対して復讐をしようというスジを中心にしている。この設定は誠にごもっともで、主人公が自己中心的に悪人だからと言ってたくさん人を殺したわけで、殺された人にも家族がいて、その死を深く悲しむあまり集団で狂暴になって主人公を襲うのはごもっともな話ではないか。主人公側としては凶悪な連中が組織的に復讐してくるわけで、個人で戦うハードルが高くなって大変そうに見えるということだけが、課題の大きなアクションの道具に過ぎないのだけど、さらに家族の人質という問題にも悩まされ、なんとなくうやむやに解決しながら悪人たちの殺人は増えていく。不条理に人の命がないがしろにされ、悪魔のような存在として死体を量産してしまう。悪い奴だから死んでいい理屈というのは、先に悪さをしたという理由のその一点にありそうだけれど、だから歴史的に戦争が終わらない理由までも考えさせられることになる。今のところ悪魔的に主人公側が一方的に強いので一方的な死者の山が出来ているということに過ぎないが、しかし主人公側にも被害者が出ると、さらに弔い合戦が永遠のループとして循環してしまうのではないか。そうならないためにも悪の皆殺しが容認されているというのであれば、それはすなわちナチスのような思想とも相通じるものがあると言え、さらにアメリカ軍が無差別に日本の民間人を大量に虐殺した感情とも通じる根拠が見える。このようなアクション活劇の根本に流れる思想というのはそういうことで、さらにそれが彼らの娯楽なのである。
 まあ、そういうことを無自覚だから平然とこのような映画が作られているわけで、娯楽だからそれでいいけれど、昔も今もやはりそう簡単に人間的な本質というものは変わりはしないのだろう、ということが学習できるわけだ。今の人間はまともにそのような本性を表に出すことにためらいがあるものだが、娯楽であるならばさらけ出しても仕方なかろう。映画というものを作る背景にはそのような思想がどうしても透けて見えてしまうということになるだろう。
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今年は乗り切ったとみるべきか

2014-12-19 | HORROR

 近年この時期になると少なからず体調を崩す。弱ったというのが第一であろうが、やはりそれなりに過酷であるからだという感じだ。あるイベントが必ずあって、寒いのに野外で数日過ごす。昔から堪えるとは思っていたが、近年特にこれがつらい。
 考えてみると、このイベント中に下腹部に何か飛び出ているのを発見し、それが脱腸だったことがあった。押せば引っ込むししばらく放置していたが、押しても常時出た状態になって諦めて病院に行って手術した。部分麻酔でいいといわれたが、起きていて何かされるのなんて耐えられそうにないので、全身麻酔での手術となった。目覚めてから導尿の方が痛くて閉口した。
 痛風は直接的には関係ないと思われるが、これがこの時期には恐怖である。過激な運動がいけないといわれ、実際は立っているだけだが、寒いので時折抜け出して散歩する。歩かないと足に血液が鬱血するような感覚があるせいだろう。さらに歩かねば足の裏がつらい。そうすると時々足の甲の部分が痛んだりする。最初の痛風症状もここからだった記憶があって、本当にこれが恐ろしい。二か月に一度の検査で数値が低いのを知っているので、その数値を思い出せ、と自分に言い聞かせて平常心を保つ。そのまま何ともないと、本当に平安で嬉しいものだ。
 痔になったのもこれが影響したような気がする。僕のは痔瘻というやつらしかったが、脱腸の時と同じで、突起が出てきたという感じだった。特に膿むということも無く、むしろ痒いという感覚だった。痛いわけでなく放置し続け、しばらく後、福岡に車で出かけた会議の時に途中から激痛に変わった。帰路の運転中は絶叫しながら意識を保った。結局切開してもらって入院。寝ても座ってもとにかく痛くて睡眠不足にアルコール断ちにもつらくて切ない日々を送った。
 とにかく野外の長時間の過酷な環境は人間の健康を損なうのではあるまいか。さらに販売が不振だと精神も蝕まれる。つらくてつらくて人生の罰ゲームにさらされているみたいだ。まあ、病気になれるだけその前はのほほんと暮らせていたのかもしれないのだから、のほほん税を取られているようなものなのかもしれない。つらい環境に適応できるように事前に過酷な生活をしたいわけではないから、恐怖感はあろうとも、この時期を乗り切れた幸いを祝うことにしよう。
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偉大なる日本の本格ミステリ   獄門島

2014-12-18 | 読書

獄門島/横溝正史著(角川文庫)

 日本を代表する本格ミステリとして有名すぎて読んでなかった。映画化されたものでさえ、観たのか見てなかったかあんまり記憶が無い。というか、子供のころの記憶にテレビのロードショーで流れていたのは知っているから、ちょっとくらいは見たが、失念したか、途中で見飽きたかしたのかもしれない。それというのも改めて読んでみて、ほとんどスジは知らないし、十分に楽しめたからである。多少時代がかった書き方も無いではないが、しかしながら70年近く前の作品とは思えないくらい現代的な文章スタイルだし、表現としても十分に今でも通用すると思われる。多少表現を変えてあるものがあるようだけれど、必要最小限にしているらしいので、文体そのものが激しく変化しているものではなかろう。
 戦後一年くらいして引き上げ者がまだいる中、瀬戸内の島で起こる連続殺人事件を名探偵の金田一が解くということなんだが、事件を未然に防ぐことはまったくできないばかりか、解くのはそれは大変に見事ながら、考えようによってはその場に居候して一部終止を記録するための存在のような気がしないではない。そうでなければこの物語は面白くもなんともないわけだが、そういうことを含めての完成された物語ということで納得しない限り、この作品の美しさは理解できないものだろう。構成やトリックはかなり大胆だけれど、それでもそういうものが見事に筋書どおりにおさまる快感のようなものがあり、しかしそれ自体が大変な悲劇へとのつながりもあり、余韻も見事な作品となっている。何度も映像化される作品ということでもやはり魅力的だと言え、日本的でさらにその日本を代表するお話だというのは、今後もそう簡単に揺らぐことは無いだろう。
 いろいろ面白いのだが、これだけ個性的な人間がたくさん出てきてもなお、それぞれがそれなりに重要な印象を持たせながら他を邪魔せずに存在できる構成力が、何より素晴らしいといえる。本当にこのような世界が存在するかのような錯覚さえ覚えるし、実際に狂気の世界でありながら、つじつまはちゃんとあっていて、物語としてもその筋に収斂される。そういうことの見事さに多くひとは心打たれただろうことであって、トリックが素晴らしいとかいうような一点でこの物語の価値があるわけではない。全体的に読ませて、途中で面白いことになりながら、謎解きの醍醐味を味わい、そうして人間の悲しい運命を呪うのである。戦後の日本と相まって、そのような人間模様の悲しさと哀愁が余韻として後を引くのも見事である。金田一探偵がこれで飯を食えるかどうかというのは、それこそ大きなミステリとして残るものの、作家の横溝が大作家として君臨し続けることが出来たことは間違いなくて、これらの一連の作品が支持される礎になったものだろう。古典して教養主義的に読まれる作品ではなかろうが、やはり今後も残るという点でも、偉大な作品だと言っておこう。
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