カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ものすごくわがままな支配者   ホワイト・クロウ 伝説のダンサー

2020-07-31 | 映画

ホワイト・クロウ 伝説のダンサー/レイフ・ファインズ監督

 ソ連時代の伝説のバレエ・ダンサー、ヌレエフという人の半生を描いた伝記的作品。ソ連の地方に生まれながら、軍人の父を持ち(何かの都合でほとんどいない)、農村で母と多く姉に囲まれながら貧しい暮らしをしていたようだが、ダンスの才能に見出されて有名な学校に行くようになり、独自の努力を重ねて頭角を現していく。そうしてソ連を代表して海外公演に出られるようになるのだったが……。
 実際には海外公演先であるパリでの日々と、そうして過去を回想するシーンが重層的に繰り返されていく仕組みになっている。結果的に亡命することになるんだろうが、それまでの彼の歩んできた歴史が明らかにされていく。才能も高い男だが、非常に個性的なわがままな性格で、旧体制で制限の多いソ連にありながら、その自分の考えを押し通すわがままで、様々な人間を事実上支配していく。その軋轢の一つ一つが、何か芸術としての、ピリピリとした高みに続く道を暗喩しており、不快な気分は無いではないが、やはり圧倒された気分に包まれてしまう。演出もよく、俳優として素晴らしいレイフ・ファインズの初監督作品としても見事な出来栄えである。
 女性とも性関係は結ぶが(とにかくモテることは間違いない)、基本的には同性愛者だったようで、バレエという究極の肉体の追及において、芸術作品に対するあくなき追及心があったことが見て取れる。絵画もだが、彫刻にあらわされる男性の肉体に関心が強かったのだろう。そうして自分自身も、その肉体をどのように表現するのかということに貪欲だったのかもしれない。そのような芸術に対しての探求心とともに、自らの肉体と理論と技術を融合させて、それまでになかった男性としてのバレエの形を作り出していったということなのだろう。
 それにしてもすさまじいわがままぶりで、約束は守らないし、言いたい放題のことは言うし、人を傷つけることに何の躊躇もない。さらにそうしてわがままに関することについては、何の反省もしない。自分の間違っていない考えのもとには、その周りの人間が従うべきことであって、それについては迷いがないのかもしれない。しかし貴重なことを教えてくれる人には礼を言いはする。自分にとっていいことには、素直に向き合えるのである。そのほかの面倒なことには、まったくの感心さえ示さないということなのかもしれない。
 演出上、様々なわがままな人間を見てきたわけだが、それらの多くのわがまま人間よりも数段その変質度は高いにもかかわらず、何か本当に感心してしまった。僕は自分がわがままな性格なせいなのか、他のわがままな人間を微塵も許す気になれない性分なのだが、このヌレエフには、素直に凄いなあ、と思うのみだ。友人にはなれないが、このような人だから尊敬されるというのは、周りの人には不幸でも、バレエ界には幸福なことであったのだろう。
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古いものを大切にするのは尊重するが

2020-07-31 | culture

 古着のジーンズに人気があるという。ダメージ・ジーンズともいうらしく、着古した感のあるものがいいのだろう。なかには動物園で猛獣たちがじゃれて破り散らかしたデニム生地を好む人もいるという。そういう面白さを買うということと、動物園側の宣伝もあるのかもしれない。ライオンなどの猛獣は、自然界に無いデニム生地のことを知らない。何か獲物のように勘違いするのではないか、と言っていた。それなら単に破れたジーパンにも思えるが、確かにいきさつは面白いかもしれない。
 実際に着古したものであっても、その傷み具合は演出できる。洗濯を繰り返したり、ブラシでこすったりして「いい感じ」にダメージを演出して売っているものがあるとは知っていた。外国でもそういうメーカーがあるようだ。
 新品のジーンズを、職人に穿いてもらう業者もいるという。漁師や大工や農家でも、とにかく労働者的な仕事をしているオヤジ達に数年間実際に使用したものを回収して売るらしい。それぞれの着古し方に違いもあるようで、どういう労働者が着ていたということも含めて表示して売る。数万円の値が付くようで、ちょっと驚きである。まあ、無理にこすって実際は古着ではないモノよりは正直かもしれないが、それはそれでなんだかな、とも思うわけだが……。
 今はそんなことを気にもしてないが、そういえば新しく買った青っぽいジーンズを穿いて歩くのは、なんとなく気恥ずかしい感じはあったかもしれない。あえてそれをやる人もいるかもしれないが、人によっては冷やかされるかもしれない。そういう若者はどこにでもいそうだ。なんで新しいのが恥ずかしいのかはよく分からないのだが、着古した味のあるものではないのは確かで、なんだか着ている人物まで半人前のような印象が出ているのかもしれない。もともとは日本人の感情ではない気もするが、そういうことを知らないことも、遅れている鈍い奴ということなんだろうか。まあ、本当はそんな感情を忘れたのでどうしようもないが。
 古着であっても何であってもかまわないといえば構わないけど、僕は正直言って自分の身内の服じゃないものを、改めて自分が着ることにはなんとなく抵抗がある。もともと服は買わないけど、古着を買う発想はだからほとんど持っていない。いくら洗って着るということは理屈で分かっても、汚いということではなくて、ひとのものはひとのもの、という感覚があるためだと思う。それはいわば日本的な個人主義という感情ではないかと僕は思うのだが、それをかまわないと考える西洋的な個人主義と異なることだと思う。だから僕は青いジーンズを穿いて笑われてもかまわない。ダサいのが僕の個性の一つだろう。でも正直に言って、青いジーンズさえ持ってないんだけど……。
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当然AIの活躍の場

2020-07-30 | culture

 いわゆるビッグデータの解析と、ディープラーンニグの力があるので、何事もAIにやってもらうのは効率的になってきたと思う。ま、細かく言うといろいろあるだろうけど、出来ることの可能性が高いなら、やってもらうに越したことない。
 というわけで、競馬の予想をするAIというのが当然あるわけだ。テレビでやっていたのだが、この予想屋AIと人間のベテラン予想屋とを競わせる、という企画をやっていた。発想自体はまったく安易なもんだというのはあるが、興味をひかない訳ではない。でどうなったかという結果を先に言うと、その時はAIの方が少し成績がよかった。たった一日の結果をもって判断するのはどうかとも思うが、テレビ番組にも事情があるんだろう。研究機関ではないわけだし(だから誤解を招くことばかりしているとはいえるが)。しかしながら、この予想の経緯を見ていると、それなりに思うところがなかったわけではない。
 それというのも、基本的な予想の傾向は、お互いに似ているというものだった。熟練予想屋のカンというものであっても、過去のデータをもとになされているわけで、それなりの情報の蓄積あってのものであろう。力の差を勘案するのに、直近のレース運びを参考にして予想を組み立てている話もしていた。熟練予想屋の判断基準も、基本ベースはビッグデータなのではないか。
 そうして勝敗の別れたレースの特徴的なもので、熟練が外したレースというというのが、いわゆる穴狙いのものだった。やはりレースの相性なども鑑みて、人気のない馬であるが、次は来そうだ、とはっきり言っていた。結果は二着で、ものすごく惜しかったのだが、AIは当然圏外にしていたので、問題にすらしていなかったのである。ここには、何か大きな差があるようには思えた。負けは負けかもしれないが、傾向としてまったく外しているという判断は、近視眼にすぎる。もう少し多くのレース数こなすと、大穴などをめったに予想しないAIとの差が、それなりに明確に現れるのではなかろうか。
 また、このような対決の常ではあるが、観ている人はなんとなく人間の方を応援していた。このあたりも感情があるので仕方がないこととは思うが、人間を偽装するAIなどが現れると、また状況は変わるのではないかとも考えられる。または人間の方が、AIを偽装するなんてことも当然あるだろう。AIの出す結果に対してプロセスはブラックボックスな場合が多いわけで、そこを埋める解説を人間が上手く果たすことができると、この組み合わせには人気が出る可能性があるように感じる。まあ、もうやっている人もいるはずだとは思うが……。
 もっとも競馬予想などのソフトを開発して、実際に勝っているという人も話題になったことはある。仕事としてやっているので、経費になどを引いて利益に課税されるという裁判にもなった。ネットで馬券を買えるのだから、すでにそのようにプログラミングやAIを使って勝負している人が一定数いるはずである。ギャンブルの世界は、何か将来を先に変えるきっかけを生み出すものがあるのではないだろうか。
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文化的なら許されること   ガーンジー島の読書会の秘密

2020-07-30 | 映画

ガーンジー島の読書会の秘密/マイク・ニューウェル監督

 ドイツ占領下にあった英国領のガーンジー島では、ナチスに隠れて文化的な活動であるという理由で読書会という飲み会の会合を許されていた。時は流れ、戦後活躍を始めた女流作家は、このガーンジー島の読書会が行われていたことを、ちょっとした往復書簡で知ることになる。興味をもって、実際の読書会へ寄ってみたくなるのだったが……。
 島に渡る船に乗るときに、作家のジュリエットはアメリカ人軍人にプロポーズされる。その喜びのままガーンジー島での読書会に参加すると、その読書会には戦争で苦しんだ末の悲劇とミステリが隠されており、その後消息を絶っているエリザベスという女性にまつわる謎にジュリエットは翻弄されることになるのだった。
 お話は重層的に入り組んでいて、戦争が終わって明るい空気と将来のある若い作家が、その創作意欲がかきたてられる題材に出合い熱中していくにつれ、自分の運命も変えられていくようなことになっていく。戦争に悲劇はつきものだが、英国で唯一ナチスに占領された島で起こった出来事は、思いもよらない運命のいたずらを生んでしまう。小さな島であっても、人々はそれらの傷を抱えながら生きていかざるを得ない。そもそもちょっとした興味だったのかもしれないが、売り出し中でそれなりに忙しかった女流作家が、無理に時間を割いて島に渡った時点で、その数奇な運命に取り込まれざるを得なかったということなのだろう。
 まあ正直に言うと、それなりにいい話のはずなんだが、男としてはちょっと可哀そうな立場の人もいて、けっこう同情してしまった。女性としては奔放でいいのかもしれないけれど、これが男性だったら、こういういい話にはならないのではないか。しかしながらこれは恐らく一般的な豊かなしあわせより、より困難な愛を選ぶということを表現しているかもしれず、それは同時に英国的な(というか西洋的な)美徳としての物語なのかもしれない。そういうところが偽善的でもあるわけなのだが……。
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二度目でも楽しめた   白ゆき姫殺人事件

2020-07-29 | 映画

白ゆき姫殺人事件/中村義洋監督

 最初に断っておくと、これは二度目の鑑賞であった。僕のブログで検索してみて分かったのは、2015年の7月8日にあげていた事実だった。しかしまた観てしまったのは、観ていたことを失念していたからだ。記録を見てもちゃんと楽しんでみたということは書いてあるのだが、ナント、ほとんど内容を覚えていなかったので、またしてもものすごく楽しんでみることができた。それ自体は素晴らしい体験にちがいないが、いささか我がことながら呆れずにいられない。これだけ面白い内容を、たった5年ほどの歳月記憶に保持する能力を持たなかったとは……。
 原作が湊かなえであることも、前回も今回も意識してなかった。確かに見終わってみると、湊かなえ色は十二分に発揮されている。読んでないくせに分かるのか? と言われると、ちょっと自信は揺らぐけれど、しかしこれはやはりその原作にあるだろう感情の嫌なところなどが、出ているはずだと思う。誰にでもあるだろう嫌悪感や妬みや嫉妬や憎悪などが、実にうまくミックスされて、物語のリアリティを形作っている。そういうものを再現させているだけでも、映画としてたいへんに優れた演出がなされていることが理解されることだろう。演じている役者も適材適所で、実に素晴らしい。もちろんデフォルメがあって、過剰さはあるが、それが無い映画というのは、娯楽作としてそもそも失敗しているに過ぎない。おそらくだが、内容を覚えていて観たとしても、やはり楽しめる映画のはずなのである。
 一応ミステリ作品であるが、謎解きそのものを楽しんで驚くものではないのかもしれない。ミスリードしていく展開自体が面白い社会現象を表していて、風刺が効いてグサりと来る。オープニングの表題の表し方の意味も、後になって効いていたことを知る。いろいろ仕掛けもあるし、その表裏の見せ方の違いも、見終わった後にじわじわと楽しめる寸法である。そんなに救いのある話では無い筈なのに、一応の収束も見られる。まったく上手いものだな、と感心しきりだ。素直に楽しんで観ればいいだけのことだけれど……。
 そういうわけで、二度目のお勧めなのである。人間個人の持つ、いい感じと嫌な感じというのは、このように分かることが可能なのかもしれない。そして僕は赤毛のアンのファンであって、永遠の友情を信じるものである。結局ギルバートがいなくて残念だったが、それはまた、いつか出会えるはずだということも信じていよう。
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バカでも動じない勇敢さ

2020-07-29 | 境界線

 オークションというのには、恐らく一生たずさわる機会など無い筈だとは思う。別にひがんでいるわけではないが、興味があるわけでもない。オークションとは逆にバナナのたたき売りのように、時間経過とともに値段が下がるのであれば注目のしようもあるが、値段が吊り上がるものを眺めるにしても、参加のしようが無いのである。
 オークションは一番の高値の人に売るのだから、売り手にとって有利なやり方である。しかしながら、それを分かっていて参加するような人がいるのは、それでも欲しいと思うからに他ならない。サザビーズのような会社のオークションで扱われている商品は、だから希少品や美術品なのである。欲しい人が高額でも欲しがるのは、他に手に入れようがないということもあろう。また、絵画など世界でも唯一であれば、手に入れた者の勝ちである。手に入れた人が他に譲る気にならない限り、それは手元に残り続ける(盗まれない限り)。金持ちの考えにはミステリもあるが、それが唯一であるからこそ、高い価値で買いたい、または他にも認めて欲しいという欲求もあるかもしれない。それは一種の見栄であろうが、他人(ひと)がうらやむのであれば、それが快感でもあるかもしれない。または投機的な意味合いも含まれ、資産としても一定の価値を持ち続けられる対象になるということだろう。もちろん素人にとっては、単なる詐欺の口実かもしれないので、信じるか信じないかだけの話かもしれないが。
 そのような性質を持つオークションについて、心理学者カーネマンは「愚か者を見つけるツール」と呼んだ。なかなか皮肉の効いた言い回しだが、その愚か者になろうとも、やはりまだ参加する人はいる。また、株や投資家として著名なウォーレン・バフェットの会社では「私たちはオークションに参加しません」と謳っている。投機されるものこそオークション的な対象と似ているようにも思えるが、あえてそれを否定して信用を得ているのかもしれない。
 事実オークションの落札者は、目当てのものを手に入れてしあわせな気分を味わえるかもしれないが、実のところ平均以上の価格や価値を支払わない限り、自分のものになっていない可能性に甘んじなければならない。要するに平均であれば他の誰かでも手に入れられるのだから。さらにそうであるならば、今後はその価値はさらに下落する可能性も高いのである。それを指して落札者のことを「勝者の呪い」にかかった者、と呼んでもいるのである。まったく散々な目にあう愚か者であると、世界中に吹聴しているようなものである。オークションに参加するような人は、だからそれなりに厚顔である必要があるはずなのである。
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黒人でいることの恐怖感   ブラインドスポッティング

2020-07-28 | 映画

ブラインドスポッティング/カルロス・ロペス・エストラーダ監督

 暴力事件で保護観察中の黒人青年コリンは、あと三日で自由の身となる。仕事中に信号待ちをしていると、白人警官に追われて逃げている黒人が、そのまま白人警官に撃たれる場面に遭遇する。
 コリンには不良で暴れん坊の白人の親友マイルズがいる。彼は容赦なく暴力事件を起こし、保護観察中の自分の危険な立場をさらに危うくしていくのだった。また、そもそも保護観察になった事件も、マイルズがらみの事件だったのに、黒人である自分だけが、重い罪に問われることになっていたのだった。
 黒人と白人の対立構造の中にあって、友情がありながら、危うい関係性の中で暮らしていかなければならない境遇を描いている。最近こういうのが流行りなのか、たまたま僕がこういうのばかり選んでいるのかよく分からないのだが、米国ではまたしても白人と黒人との対立が激化して、現実に暴動がおこったりしている。いつまでも懲りない連中である訳だが、ここまで複雑に関係が絡みながら、やはり内在する差別意識を克服できない現実があるためなのだろう。仲よくしたほうがいいというのは誰でも思うことだが、やはり何か文化的に違うものがあるようだし、見た目で違うというだけの違い以上に、偏見や差別意識というものが、組織的に崩されにくいということなのではないか。
 そうではあるが、この映画のように、どちらかというと白人の方がいつまでもしつこい悪人であるのは、白人として許されるという甘えのようなものがあるためという見方もできるのではないか。黒人は少しの悪さでもひどく虐げられるので、這い上がることも困難だ。そのうちに低いコミュニティの中でしか生きられなくなっていく。そこに落ちてきた白人と友人になっても、やっぱり足を引っ張られて損をするのは黒人の方なのだ。
 まあ、妙な映画だが、基本的には黒人目線だ。そういう意味ではホラーだが、いつまでも怖がっていては、やはり未来はないように思われたのだった。
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そもそもいいことなんてそうあるものではないのかも

2020-07-27 | 時事

 Go to トラベルもいろいろあって難航している様子だが、こういうのに水を差されることで息の根を止められたような感じになっている人たちもかなりいるのだろうと思う。まったく残酷なことだと思うが、大衆というのはそもそも残酷なのである。
 そういうのは背景の一部だが、それなりに長期化されてきて、本当に苦しい事情が表面化してきている。実体経済とのタイムスパンがあるので、これがすでに始まりなのかどうなのかははっきりしないけれど、じわじわ来ていることは間違いないなさそうだ。それでも行政の財政出動は規模も大きいので、何とかそれを持ちこたえさせている傾向は分かる。少なくとも株価などの指数では、そのあたりは思ったより強気なのかな、とは思う。地方経済との乖離も感じるし、この機会に伸びるところも無いではないので、天秤の軸からどのあたりがいいのかははっきりしなくても、バランスが何とか取れるということもあるのかもしれない。
 ところで、それでも精神科の受診や、それ以前の引きこもりのような状態に陥っている人が、着実に増え続けているということも聞いた。事情があってそのような人を支援する団体の活動での訪問自体が減ってしまって、現場はかなり深刻な状態になりつつあると警鐘を鳴らしている人もいた。なるほど、そういうところは、確かにくすぶり具合が危険域にある可能性がある。著名人の自殺などもあったので、直接関係ない人が多いだろうとは言え、連鎖しやすい飽和状態であるとしたら、これは少し警戒を強める必要があるだろう。SNSの誹謗中傷問題で議論が止まると、その実態を見誤りかねないのではなかろうか。
 それというのも、なんとなく覚えがあって、なかなか身内では難しいという話は聞いたのである。失業や学校の関係など、いわば公然と引きこもりを助長されているようなことになってしまって、本当に部屋からも出てこなくなって困っているということだった。専門というか、いろんなところに相談して、ちょっと寄ってくれるようになったところがあったそうだが、やはりその頻度が減ってしまって、もう一切反応がなくなったというのだ。困っているが、そうなると更に親子関係が悪化しているような感じらしい。身内というのは感情的にどうしても正論で話をしてしまうので、引きこもっている人にとっては、さらにひどい障壁になりかねないのである。悪循環である。しかし新たな関係性は、とても作れそうにない。何かあちこちで、時限爆弾のスイッチが入ってしまったような感じに、なっているのかもしれない。
 こういうのはコントラストもそれなりにきついようで、みんなは楽しいのに、なんで俺だけ……、なんてことになるとますますこじれそうだ。しかしこのままいつまでもいいわけが無いのに、むしろ便乗して抜け出せもしない。そうやっての閉塞感があるからこそそうなってしまうというのがあるわけだが、やはり一般的にいい材料を見つけることも難しい。
 最終的には、それでもあきらめないということなんだろうけど、なんか個人的にでも楽観的になれるようなことを考えないといけませんね。まあ、あんまり考えないのも手かもしれないけど。
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静かな情熱と時間の使い方   舟を編む

2020-07-26 | 映画

舟を編む/石井裕也監督

 辞書の編纂に関わるようになった不器用な若手編集者が、もともと苦手な人間関係や恋を通して、いわゆる人間的に成長していく様を描いたもの。辞書を作る作業自体が、とてつもない労力を必要とする世界であることが見て取れる。しかし出版社においては、実はちょっとしたお荷物のような扱いをされていて、地味で日影の部署になっている。辞書を出版する会社というプライドのようなものだけで、存続が許されているということなのかもしれない。主人公の男は、他の売れている花形雑誌などでは自分の能力をうまく発揮できないが、地道に打ち込み根気強く力を出すには、辞書作りの道が最適なところだったということである。
 地味な作業ながら、おおざっぱな締め切りが無いことも無い。十三年ぶりに出版のチャンスを得て追い込み作業に追われる中で、重大なミスが発覚し、それでもやはり地道な道を選択して乗り切ろうとしている。延べ人数と時間を使わないことには、辞書は編纂できない。やれることは素直に実直に対応していくよりない。そもそも他の道は選べないのが、辞書の世界なのだろう。
 大変だというのは分かるが、まあ、多くの仕事は、そういうものではあるだろう。辞書は言葉を扱うものだから、その言葉のエピソードには、面白い特殊性はたくさんあるようだが。例えば映画の中でそれなりに苦労している言葉に「右」の説明がある。右がなんであるか、感覚的には自明のことが、言葉だけで説明するには、それなりのテクニックとセンスを必要とする。実際には方角を指して正面でどちら側であるかとか、時計の数字で表すとか、漢字の並びでどちら側であるとか、様々な説明のしかたがあることが分かる。持っている辞書をいくつか引いてみると、方角派が半数以上だった。ついでに英語の辞書を引くと、右には様々な暗喩に使われる意味があることが分かる。日本のそれにもたくさんあるが、むしろ右はその基準とされる座標としての位置の方が重要で、その説明後に示される言葉としては、あんがい脆弱なものなのかもしれない。そもそも右という存在こそが座標軸になりうるもので、右の規定なしに何かを表すことが困難である。ということは、その説明が難しいのは当たり前で、そのこと自体が一種のパラドックスである。
 さて、そうやって言葉の世界にどっぷりハマって長い時間を費やして、やっとの思いで出版されるということになって、一番の中心人物の先生は体調が悪いのである。それは大変に緊張を強いられることなのだが、しかしそのことで、情熱をもって生きていることの意味も、図らずも示されるという意味なのだろう。辞書のような仕事ばかりではなかろうが、多かれ少なかれ、仕事というのはそういうもんだ、というお話なのではなかろうか。まあ、でも変人でなきゃできないものもあるよ、って話もでもあるんだが。やっぱり言葉で説明すると理屈っぽくなるので、映画のディフォルメはこのような演出にならざるを得ないのだろう。
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雨の合間に散歩をする

2020-07-25 | 散歩

 コロナ太りという言葉もあるそうで、あまり出歩くことも無く自主的な自粛生活を送っておられる人も多いと聞く。まあ、それなりにお気の毒ではある。しかしながら僕が住んでいるのは田舎である。今年は雨が多いのでその合間を縫ってという感じにはなってしまっているが、雨のおかげで多少気温が上がっていないこともあってか、この季節にしてはそれなりに健闘して歩いているのではないか。
 さすがにザーザー降っているような時には歩いている人なんていないんだけど、小雨であるとか、曇り空であるとかすると、時間帯によってはずいぶんの人が道を闊歩している。一応傘を持っている人もいるし、合羽ではないが、少し濡れても平気な恰好を選んでおられる人もいる。少し年配のご婦人だと、数人のグループを作っている人もいるし、犬を連れている人もいる。事業所がこっちに越してきた頃にはそんなに人は歩いていなかったものだが、やはりそれなりに皆さん意識しているということなんだろう、一時期に比べると健康志向が高まっているというか、それなりに頑張って歩こうと心掛けている人が増えているのではないか。通勤中にも通りで見るし、職場で朝の準備をしているときも少し人数が増える。昼休みも人影があるし、夕方になると、またどっと人が出る。少し日がかげるころに僕も帰宅の準備をするが、その時間帯にもまた別の人々が出てくる。そうして車で自宅近辺に来ると、今度は完全にスポーツウェア姿のジョギング族などが広い通りの歩道を走ったりしている。以前はジョギングなんて都会の人しかやってなかったが、田舎の風景もずいぶん変わったものだな、と思うのである。徐々にこんな感じには変化してはいたんだけど、特に今回の騒ぎの渦中から、このような人々が格段に増えたようだ。
 今の時期は田んぼにはアオサギなどが結構いて、僕らのような散歩の人間が通ると、あまり動きが少ないながら、彼らも警戒してこちらを見ている。彼らの生態のことはよく知らないのだけど、普段は結構単独でポツンポツンと佇んでいる感じの鳥だが、まだ田んぼの稲の背が低いこの時期は、どうもいくつかつるんでいるような雰囲気がある。繁殖期というのかもしれないが、巣がどこにあるのかは確認できていない。しかしちょっと色の茶色っぽい個体が並んでいる場合があって、あれが実は雛ではないか(大きさは成体とそう変わらない)と思ったりする。それにしても、そんなに近づきもしないのに妙に警戒してグアーなどと鳴いて飛び去る姿が、不機嫌そうである。
 さて、この散歩風景もこの騒ぎの中少しだけ変化していて、それは何かというと、小学生くらいの小さい子以外は、ほとんどの人がマスクなどしていないことかもしれない。さすがに小運動をするのに不自然だし、お互いの距離はアオサギくらいは十分ある。ポケットの中にはもっているのかもしれないけれど、もうお互い必要ないでしょうオーラもすれ違う時に伝わっては来る。僕はもともとそんなことはしてなかったけど、こういう感じになるとなんとなく歩きやすさもあるように思える。なんということも考えないで歩いているが、健全な人が共通にいるような楽しさというのも、なんとなくあるかもしれない。
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ちょっとやりすぎ捜査人生   L.A.大走査線・狼たちの街

2020-07-24 | 映画

L.A.大走査線・狼たちの街/ウィリアム・フリードキン監督

 偽札製造軍団を追う警察グループは、その偽札の印刷工場らしき場所をやっと見つける。しかし、追い詰めたと思って単独行動をとった定年間近の刑事があっさり殺された上に、結局逃げられてしまう。残された若手の刑事であるチャンスは、かなり無鉄砲な性格で、死も恐れずスリルが生きがいのような男である。死んだベテランのかわりに新たな相棒も得て、自分の愛人兼情報屋の女などを使って、法律も守らずむちゃな行動を繰り広げて、執念の捜査にのめりこんでいくのだった。
 同僚が殺された復讐心もさることながら、ちょっとやりすぎたせいで、警察内でも協力が得られにくい状況に追い込まれている感じだ。あらゆる怪しい裏組織の連中とも通じていて、刑事ではあるが、いわゆるアンダーカバーという潜入捜査をやっている、ということらしい。偽札組織の印刷の現場を押さえるために、自分らも偽札の依頼をするのだが、その偽札を買う資金が足りない為に、別の怪しい取引に横やりを入れて、事実上強盗を犯してしまう。しかしそれはFBIのおとり捜査だったわけで、身元が分かれば、自分らが刑務所行というギリギリの状態に置かれてしまうのだった。
 正義のためにどんどん悪事を働いて、何の躊躇も無いうえに、スリルと狂気に自らが興奮しているような感覚になる。恐ろしいが、その命を懸けてやっている感じが、まさに自分が生きている証のようなものになるのだろう。保釈中の女を抱き、協力しない仲間を恫喝し、チンピラを拳銃で脅し情報を引き出す。激しいカーチェイスの末、他の車は事故を起こして大変なことになるが、逃げきってはしゃぎまわるのだ。
 フリードキン監督はエクソシストで大成功するが、その後興行的には振るわず、このようなアクション映画を撮った後、今も生きているが事実上干されている(もうご高齢だけど)。時を経てみることができた「恐怖の報酬」の再評価で、僕も同じく再評価というか感動し、この作品も改めて観ようと思ったわけだ。確かに才気あふれる演出と言え、特にカーチェイスなどは凄いものだが、はっきり言って時代からいって古くなっているのは仕方ないことだ。裸やセンス、表現方法も、今となっては使われ方がいささか古い。まあ、それが味といえばそうかもしれないが、やっぱり以前凄かった監督、という地位であることに変わりはなかったように感じた。
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僕が若ければ、この衝撃に耐えられただろうか   僕の姉ちゃん

2020-07-23 | 読書

僕の姉ちゃん/益田ミリ著(マガジンハウス)

 会社勤めするようになった弟と、別の会社のOLの姉との二人暮らしの会話を描いた漫画。場面として外の風景が無いわけではないが、基本的に二人の会話のみで、だからほとんど部屋の中でのやり取りで成り立っている。そういう意味では戯曲的だが、実際に漫画も非常にシンプルだから、ほんとにこれは漫画なのかという疑問も無いわけではないが、それがいかにも益田ミリ的な漫画になっている。きょうだいの会話といっても、非常にアダルトな内容で、ちょっと驚く。僕にも姉がいるが、少し年も離れているし、成人まえから何十年も別の空間で暮らしつづけている。であるからあくまで空想でしか比較できないが、こういう大人の女の姉が実在するかもしれないことを、まったく想定していなかった。姉というのは、僕ら男にとっては、別の性別であるという意識も希薄で、いわゆるノーマークなのに、時に実際は女性であるという事実が突然に表れてきて、非常に戸惑うということではないか。さらにそれは、普段社会の中で接している女性とは、まったく違う生の本性を自分に見せてくれる存在なのだ。そうして世の中の男の代表として、直接男というだけで非難されてしまう。その衝撃度が小さいわけが無いのである。
 いわゆる女性の秘密を語っているのだが、それはたぶん真実なのだろうが、同時にやはり漫画的にフィクションでもあろう。何故なら、こんなに面白い女性は、そんなにいないだろうから。それは漫画として、作品として優れているからで、女としての断片の切り取り方が素晴らしいのだ。そうして、たぶん僕は男だから、それなりに驚く。作者は女性で、さらに登場する弟は男性だが、この男性の描かれ方は、恐らく一般の若い男性のそれである。何を言いたいかというと、そういうことはちゃんとわかったうえで、女性目線で男にわかるくらいの女性を描いていることが凄いのかもしれない。女性というのは、自分のそういう視点を、なかなか持てないものなのではないか。いや、持っているのかもしれないが、そういう必要性が無いのだから、弟に女を教える教育としてでしか、成り立たないお話なのかもしれない。自分ら女族の生態を、他の女性を裏切ってまで教える必要はない。いや、厳密には裏切ってはいないのだが、やはりそこにはきょうだいとしての、姉としての心遣いがあるのだろう。または、それは弟の将来への期待でもあるだろうし、しかし今の世の男達への諦めかもしれない。
 益田ミリの作品は、読んですぐに面白いというわけではない。なんというか、それなりにわかったうえでないと、そもそもが理解できない。起承転結もはっきりしないが、しかし流れというのはちゃんと存在する。確かに面白いのだが、僕が子供のころから読んでいる漫画のような面白いのとは違う。おそらく市井の人々を描いていて、どこにでもいるような人たちなんだけど、ちょっとびっくりしてしまうのだ。いや、やっぱりうまく言えないが、そうだよな、という共感がありながら、知らなかったことだらけなのだ。ああ、そうか、と気づかされたというか、ほんわかとしているようで、鋭いのである。ただ事ではないのである。でもまあ、知らなくても良かったことでもないわけで、読むことで、世界が豊かになるかもしれない。そのような温かさはあって、怖いけど女性不信とまでは、ならないかもしれない。それに僕らは、たぶんこのお姉ちゃんから好かれもしないはずだし、付き合いもしないだろうと漠然と思っているに違いないのである。しかしそれは、僕らがお姉ちゃんの弟でない男性であるというだけでのことで、一般的な女性は、弟に対する態度は、男には絶対に見せないということなんだろうけれど……。
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これは忍耐を試されるゲーム   牯嶺街(クーリンジエ)少年殺人事件

2020-07-22 | 映画

牯嶺街(クーリンジエ)少年殺人事件/エドワード・ヤン監督

 91年の台湾映画。3時間56分という長い尺で、それだけまとまりに欠ける映画とは言える。やたらに名作の声名高く、とてもまとめて観るような体力も無いから、コツコツ時間をかけて分割して観たという感じ。観てよかったのかどうかはよく分からないのだが、そういうことも含めて後で考えないといけない気もする映画だった。
 夜間中学に通う少年たちには、不良グループの派閥抗争があるらしい。学校の隣に映画の撮影所が建っており、少年たちはちょくちょくそこを遊び場のようにしている。知り合う同志で恋仲になったりするが、それが同時に抗争中のグループの力関係とも絡んでいて、暴力を内包する不穏なものが、行ったり来たりする。大人たちは、世相の中で不遇なものがあるようで、それは当時の台湾社会を表しているものかもしれない。片方のグループの以前のリーダーが突然戻ってきて、いざこざがエスカレートすると、そのまま殺されて、その報復で血なまぐさい戦いが壮絶に繰り広げられる。その後お話は恋愛ものになっていくが、好き合ったものがそのままストレートにうまくいくのかというと、そういうことは無く、自由と束縛の中で若者たちの心は大いに揺れていくのだった。
 とにかく長くて退屈な上に、何をやっているかの説明は特にない。雰囲気としての名作感はあるのかもしれないが、ホームドラマでは商業的に厳しいので身内的な映画にしてしまったという感じではないか。その分自由に撮られていることもあって、映画人などは、そういうものがうらやましくも感じられるのかもしれない。好きに撮らせてもらえれば、自分たちだってこんな映画的な映画を撮れるのに、というあきらめのような感情が湧くのではないか。
 筋はそのように、あるんではあるがあいまいに流れ、何かエピソードとして不思議さと面白さが同時にあるものが、パッチワークのように語られて、それがちゃんとつながっているのかどうかまでは、結局よくは分からないのだった。肝心な人たちは死んじゃう訳だし。
 それとどうしても、なんだか学芸会のようなノリが最後まで付きまとう。これってちゃんと映画として撮影したんだろうか。そんな疑問さえわく。子役が多いから、演技が自然といえばそうだし、未熟といえばそうだ。それは狙って撮られているということなんだろうけど、いわゆる深みというか、遠くで舞台を見ているというか、とにかく何か物足りない。リアルということにしたかったようだけど、ふつうにみて失敗作であろう。少なくとも、僕のような素人にそう思われたらおしまいである。
 まあしかし、あれだけの告白をして、そうしてやっといい感じになり、裏切りがあってそうなってしまうというのは、もう少し簡潔にすると、名画になったかもしれない。悲しい物語だが、若いというのはいつだってそうなんじゃないか。それで人生を棒に振ってしまう人がいるのは分かるが、死んでしまった人よりはましなのではないだろうか。
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喧嘩をやめて話し合おう   そして扉が閉ざされた

2020-07-21 | 読書

そして扉が閉ざされた/岡嶋二人著(講談社文庫)

 目が覚めると核シェルターに男女四人が閉じ込められていた。彼らは溯ること三か月前に、仲間の一人が殺されるということがあった。閉じ込めたのは、その殺された娘の母親であるらしい。娘を殺したのは、他ならぬこの四人のうちの誰かだという確信あってのことだ。何日か分の水と食料はある。その中で四人が徹底議論をして、誰が殺したのかを明らかにしていくことになるのだった。
 お話は単純なはずだし、誰もが殺しができる状況で、さらに誰もが殺してなどいないという。しかしこの中の四人以外に、咲子という娘を殺す理由も無いし、そうしてそれができる人もいなかったはずなのだ。時には迷宮に迷い込むかに見える議論も、核シェルターという絶望的な密室の中での閉塞感も相まって、緊迫した議論や口論が続けられていく。犯人が自ら自白することは無いと考えると、論理的に理詰めで事件の謎を解くよりほかにない。いったいどうやって謎を解いていけばいいというのだろうか。
 恋愛劇や愛憎の絡む男女間のやり取りと、実際に使われたであろう凶器など少ない証拠をもとに、いかに殺人のトリックが組まれていったのかが後半に明らかにされるわけだが、これがまさに、何という! という展開なのである。密室殺人というのは聞いたことがあるが、犯人かもしれない人が閉じ込められて、三か月も前のことを考えて推理して謎を解くなんてことは、ちょっと他にはないストーリーではあるまいか。いや、あるのかもしれないが、このお話は、やはりこのお話以外にはちょっと出来そうにない完璧さを思わせられる。読み終わってしてやられる快感を味わう読書として、やはりこれは傑作だと満足に浸ることになるだろう。
 僕は岡嶋二人については、遅れすぎて知ったものであるが、すでに古典化している作品が、ちっとも色あせていないことを告白しておきたい。今からでも遅くはない。せめて彼らの書いた後期三部作といわれるものは、読んでなかった人のしあわせの書として推薦しなくてはならない。ほんとに楽しい時間に感謝である。
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ヨガって瞑想法だったと初めて知った   永遠のヨギー~ヨガをめぐる奇跡の旅

2020-07-20 | 映画

永遠のヨギー~ヨガをめぐる奇跡の旅/パオラ・デ・フロリオ、リサ・リーマン監督

 「西洋ヨガの父」といわれる、パラマハンサ・ヨガンダの生涯を描いたドキュメンタリー。そういえばジョージ・ハリスンが信奉していた人だったな、ということと、たまたまドキュメンタリーとしてほめている人がいたので借りた。ま、知識として半端だったし、いい機会かもな、という程度の興味だった。結論から言うと、まあ、好きな人が見るべき作品という感じで、関係ない人にはあえて見る必要などないだろう。有名な自叙伝もあるので、それを見たほうがいいという意見もあるようだ。そこまではちょっと、という感じでもあるが。
 もともと出身のインドで瞑想家として著名だったようだが、突然思うところあってアメリカで普及活動を思い立ち渡米して活躍する。もちろん最初は頭にターバンを巻いてオレンジの服を着て、まちを歩くだけで奇異な目で見られたようだ。それが、ちょっとした妙な英語で大衆に語り掛けるとき、多くの米国人の興味を引いたということなのではないか。最初は東からだったが、これも思うところあって西海岸にわたり、その地で一種のブームを巻き起こすようになる。現代アメリカ人の心を、東洋の神秘が魅了したわけだ。
 日本人的にはヨガは健康体操だが、ヨギーにとっては瞑想法のようである。科学的というより神秘主義や精神性を重んじることに共感が得られたのであろう。
 いまだに彼の布教の影響は残っており、というかそれなりにアメリカにおいても、このような活動は根強く行われているようである。いわゆるその開祖の人として、神格化されている人なのかもしれない。インドという遠い国からの人であることと、瞑想という神秘にひかれる人々は一定数需要があるのだろうと思う。しかしながら近年の事情というのは少し違ってきていて、瞑想といっても流行っているのはマインドフルネスの方である。神秘主義的なものがまったくなくなっているわけではなかろうが、いわゆるアメリカらしい合理的な方法論として、一種の集中法や精神安定として、ヨガとしての瞑想とは一線を隔しているものと思われる。
 実をいうと僕自身も瞑想の真似事はする。うまくいく時があるようで、特に忙しい時には精神的な整理に役立つようにも思うようだ。今回のドキュメンタリーを見て思ったことは、インド式のものとは違うからこそ、僕には合うのかもしれないな、ということかもしれない。要するに今後も極めることには興味はなくて、知っている手法だから利用するだけのことなのであろう。
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