カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ルワンダ中央銀行総裁日記

2010-03-31 | 読書
ルワンダ中央銀行総裁日記/服部正也著(中公新書)

 ルワンダといえば映画を観た所為もあるんだけど、なんだか大虐殺で大変な国だというイメージが付きまとっていて、この本の内容とまったく関係が無いにもかかわらず、なんとなく読むのを躊躇してしまうところがあったような気がする。虐殺に関する解説も本の末尾にあるので、まったくそっちの方面から興味を持った人に無益だとは言えないまでも、むしろこの本は、いろんな意味でビジネス書でやる気を出したいみたいな人の方が読むべき本のように思う。
 信念を持って働くとはどういうことなのか。日本人にはほとんどなじみのないようなアフリカのルワンダという小国の発展のために尽力したという一人の日本人の自伝というだけでなく、仕事とはどのようにすべきものなのかということを考えるにおいて、実に示唆に富んだ名著なのではなかろうか。
 ルワンダを例えるまでもなく、日本から見て発展途上と考えられるアフリカ諸国が何故思うように発展を果たすことができずにいるように見えるのだろうか。彼らは怠慢で働かないからなのか。圧政で自由が無いのか。もちろん、そういう要素もまったく否定はできないのかもしれないが、日本人が勤勉であるから発展したのかというのであっても、実は限りなく運に近い要素が最大の原因であった過去を検証するまでもなく事実としてある訳で、そういう複雑な要素が絡んだ運の悪さのようなものが、彼らの経済的な発展を拒んできた歴史があるということなのだと思う。それも彼らの置かれた地理的な要因の方が大きく、人間の能力を超えて利権に群がる政治的な先進国の無理解の所為だということも、第一に鑑みなければならないことなのであった。
 この著者の服部氏(すでに故人であるらしい)は、そういうことを現地で感じ取り、出来るだけ彼らの手で彼らの自主性を邪魔しない、というか支援するという根本的な信念のようなものをもって仕事に取り組み、見事にルワンダという国が、いくばくかでも立ち上がることを成し遂げようとする現場に立ち会うのである。もちろん本人の視点での話であるから、細かいことを実証することはできないけれど、諸外国の優越的な先入観で現地の利権をむさぼる人たちの防波堤になり戦い働く一人の日本人の姿に、感動を覚える人も多いのではないだろうか。
 僕も日本人なのでそう思うのかもしれないが、日本人という公平感のある潔い思想を持った人間だからこそ、そうした差別に毅然とした態度で戦うことができたのではないかという共感も相俟って、実に清々しい読後感をもたらされるのである。
 仕事はなんのためにするのか。それは個人個人で違ってもちろんかまわない哲学的な問いだ。個人は一つしかない答えのために働いているわけではないし、そうでなければならないいわれはない。しかし仕事を成し遂げる上でしあわせとは何だろうか。そういうことを考える上での一つの答えは、この本の中にある。僕は服部氏がしあわせな仕事人であったという勝手な確信を持ってこの本を読んだ。故人であるから確かめようのないことではあるが、少なくともこのような生き方のできる人が不仕合せであるはずが無いような気がするのであった。
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Lady Gaga

2010-03-30 | 音楽
 名前はだけは知っていて、最初はクイーンでも好きな日本人向けの人かと思ってたんだけど、ぜんぜん違う感じの人でびっくりした。
 世間的にはその奇抜さというかセクシーさも話題だったのかもしれない。
Lady GaGa - Just Dance - Official Music Video (HD/HQ)



 実は通勤中に聞いていて、じわじわいいなあと思うようになったクチです。
Lady Gaga - Bad Romance [ Official Video ]


 歌唱力もしっかりしてるんですよ。案外賢い人なのかもしれないとも思うのですが、たぶん勘違いでしょう。
Lady Gaga Speechless Royal Variety Bad Romance HD


 なんとなく好きだと言い出しにくい人のように思えるのは、たぶん僕が日本人だからでしょう。


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デービット君が金持ちになった訳

2010-03-29 | culture
 世の中にはどのようなチャンスが眠っているか分からない。ある意味で宝くじに当たったようなものなのかもしれない。

歯医者帰りの映像で有名に

映像としては以下のようなもの。  
オリジナル。
David After Dentist


 子供がラリっている感じが可愛くもあり面白いということなんだろう。
 日本では麻薬の文化があんまり無いので分かりにくいが、彼らにとってはハイになっているものを楽しむ文化のようなものがあるらしい。文学作品もあるし、映画や音楽はその為というものも多い。
 
 それなりに反響が大きかったことを示すのはパロディが続々生まれていることからもうかがえる。 
パロディの方。
David After Drugs


 悪ノリだけれど、分かりやすい。

 いづれにせよ、面白いものがとれたら映像をとりあえずUPしてみるということは、ひょっとするとひょっとする人生を変えるものになる可能性があるということだ。
 面白い時代に生きているものだと、改めて思わされたのであった。
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ウナギさんたちへ

2010-03-28 | net & 社会
 弛緩しているので声高に世間様に何か言いたいことなんかない。その前に僕の言葉は世界にとってほとんど無意味だろう。それでも人はつぶやかずにいられない動物であるというのは、いったいどうしたことなのだろう。
 ひとつは個人の精神浄化であることは疑いが無い。吐き出すというのは、排泄と同じだ。いつまでも自分自身の中に溜め込んでおくわけにはいかない。上手く出てくれると大変に気分がよろしい。
 そしてやはり共感ということを求めているのだろう。世界の中心であろうと端っこであろうと、叫んだ声を聞いてくれる人がいることが救いになるのだ。
 一見ネットというのは無反応な場合の方が多い。あきらかなミスの方が人はたやすく反応してくれて、簡単に暴力を振るうけれど、よく分からない問題は、無視すればいいのだ。
 twitterを考える際に考えてみようと思っていてまとまりきれていない問題に、この無視ということがある。多くの人は平然と無視する。しかし、それを了解済みで、人はつぶやくのだ。みられてはいる。それは間違いないのだが、無視してくれるから好きなことを言うことができる。ネットというのは双方向の対話のように解説する向きが多いのだが、実際は対話というものはちょっと違うものだと思う。かといって一方通行でもない。そういうネット社会の魅力を図らずも明らかにした姿がtwitterだったのだと思う。
 僕の叫びは誰かが聞いてはいる。それは少なくとも無影響なのではなかろう。期待は返ってくるわけでは必ずしもないけれど、まったく無駄なのでもないのである。多くの無視する背景こそが、僕らを救う鍵なのだ。
 村上春樹は読者という他者に向かって書くということとは別に、たとえばウナギに対して文章を書いているというようなことを、対談の中で語っていたことがある。ウナギっていったいなんだ。禅問答のような不思議な答えだが、そういう態度であるから、文章を書いていけるモチベーションが生まれるのではなかろうか。そこに文学としての自由が生まれるのではないか。
 ネット社会の他者は、必ずしもウナギではないのだが、物言わぬウナギであっても、無視してくれる存在ではありうるのではないだろうか。
 僕は確かに僕に対する世間の批判が怖い。多くの場合は無理解のまま糾弾されうる危険が伴っている。そういうリスクを伴いながらも、僕を含めた多くの人が、それぞれにつぶやき、または叫び声をあげる。中には馬鹿が発言する機会ができただけのことだと喝破する人もいるようだが、そしてもちろんそれは事実ではあるけれど、人々がつぶやいている本質なのではない。人々は、たとえばウナギという存在に気づきだしたということなのだと思う。
 ウナギが喜んでくれるような考えを話すことができたら、どんなにすばらしいだろう。それがtwitterが本当に増殖した大きな理由なのではないかと、僕は疑っているところなのである。
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文法を作り出す能力

2010-03-27 | 雑記
 バラエティ番組を見ていると、明らかにテレビ的な頭のよさというものがあるらしいことを感じる。学歴や勉強ができるということとはまったく別の頭の使い方のようなもの。それはテレビというものに対する慣れのようなものが前提としてありそうだが、同時にその場を動かす文法のようなものを先に作り出す力のような気もする。そういうものを作り出すことができる人が、流れを支配し君臨できる。
 芸人というのはやくざ的な仕事だとは感じていたが、そういう立場というだけでなく、実際に存在感が大切なのは、そういう意味において当然なのかもしれない。見た目の美しさはもちろん力があることであるし、そういう頭の使い方が、またそうなのであろう。
 現実的な社会でそのような能力があることは、それはそれで有利には違いないが、しかしそれは絶対的な力なのではない。またそのような頭の使い方が、たとえばビジネスにおいて必須的に必要なのではない。
 しかしながら、文法を作るということについては、参考になることは確かだ。多くの人に賛同され支持される文法を作り出す。そういうことができるならば、おそらくそれは仕事のできる人である。
 ネタばらしすると、昨日見たバラエティでの有田という人の存在に、そのような頭の良さを感じる。相棒の人の名前は忘れたが、彼は瞬時にその考えを読んだ上で役を演じることにしているように見えた。彼らの信頼関係が周りを巻き込んで文法を決定させる。ただのダベりのように見えて、なかなかやるものだと感心してしまった。
 ひょっとすると、ほかのバラエティも似たような仕組みなのかもしれないが、それが島田伸介だったり、えーと、その他のボス的な人たちのやり方なのかもしれない。
 今さらなんですが、バラエティって知能ゲームでもあるんですね。おみそれしました。
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P2

2010-03-26 | 映画
P2 Trailer (2007)


P2/フランク・カルフーン監督

 P2というのは地下二階駐車場という意味のようだ。パーキング2ですね。3もあるようで、地下ながら結構広い駐車場のようだ。この映画の場合大きなビルの下にある普通の駐車空間。つまり都会の閉鎖空間の象徴的な場所なのかもしれない。
 クリスマスの夜なのに残業で一人会社で頑張っている。日本だとありふれた状況だろうけれど、この時点で少しこの女性は変わっている感じはする。家族は当然のようにクリスマスパーティのために彼女を待っている状況のようだ。繰り返すが、日本では当たり前であっても、おそらくこのような状況で仕事をやるようなお人よしということなのかもしれない。基本的にいい人すぎる人ということも考えられる。
 やっと片づけて帰る算段になり車に乗り込むと、何故かエンジンが掛からない。仕方が無いのでタクシーを呼ぶが、扉が開かず外に出ることができない。何故か警備員も不在で一階から外に出られないようなのだ。ついてない日はとことんついてないようだ。気持ちは焦るがどんどん裏目に出てしまう感じだ。仕方が無いので再度地下の駐車場から外に出ようとするのだが…。
 気がつくと、拘束した相手は地下駐車場の夜間警備員で、どうも以前から彼女のことを知っているらしい。服もドレスに着替えさせられており、鎖で足を繋がれたまま二人きりでクリスマス・ディナーを楽しもうという算段らしい。もちろん彼女は恐怖と嫌悪しか感じていない。ストーカーは自分の計画通りことが運んでいることとは裏腹に、彼女がことのほか喜んでいないことにかえって疑問にすら感じているらしい。そこのあたりは典型的な変質者という感じなのだが、当たり前のように行き違う感情に、恐怖以上の憎悪がどんどん増幅していくことになる。彼女のためと称しながら同じく拘束していた上司を殺してみたり、何とかその場を逃れても駐車場からは出られない状況が続いたり、ホラーとサスペンスが続いていく仕掛けである。
 この映画がもう一つ恐ろしいと感じたのは、この変質的ストーカーの行き過ぎた行動に苦しめられることで、被害者の女性のみならず、おそらく観ている人も同じように、激しい憎悪のためにストーカー本人を殺したくなっていくことにあるようだ。そういう意味では、途中から僕自身は結末は予感はしていた。それ以外にこの映画を終わらせるわけにはいかない。そうでなければ観るものは、この映画自体に憎悪を募らせることになってしまうだろう。
 後味が悪い映画のはずなのに、妙にカタルシスを味わえるということもあって、なかなか楽しめたのだった。何事もやりすぎるためには、これくらいのことが無ければならないということなのかもしれない。もちろん、それで正当化されていいのかは、冷静に考えるとよく分からない話ではある。それこそが人間的な感情であって、そういう感情を激しく揺さぶられる侮れない作品なのではないだろうか。

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ダイエット・リターンズ宣言

2010-03-25 | 
 実は、というか、なんとなく伝わっているものとは思うが、ダイエット中である。
 もう既に何度目か、ということはさておき、それなりのダイエット道というか、ウンチクもたまっていて、自分なりのダイエット成功法というものは身につけたつもりではいた。実際にその成果を味わい楽しんだ経験も大きい。
 しかしながら、ここ最近のダイエットは連敗が続いている。栄光を味わっていたころと比べると7キロ以上も増えてしまった上に、その下落がえらくむつかしいものになってしまった。
 基本的に量るだけダイエットを励行しているわけだが、この効果が表れにくくなっているようである。それなりに成功する時期もあるけれど、肝心の持続力が発揮できない。ここ一月のグラフを見てみると、始めたころの体重と今朝の体重がまったく一緒である。内訳は二キロ弱落ちた日もあり、徐々に増えだして当初に戻った。
 反省好きではない人間だが、反省すべきところがあることは理解している。つまり、グラフを真剣に読んでいないということに尽きる。それにダイエットを楽しめていない。一日をダイエットのために費やしていない。結果を神頼みにしているようなところもある。それでは量るだけダイエットの意味さえないということなのである。
 本当に仕切り直すつもりはあるのか。今問われているのは自分自身に対するそういう問いである。答えるのは自分自身だ。
 どうしてこんなことを書いているのは明白で、欲求がありながら迷いがある。それはダイエットを出来るという過去の自信が、僕自身を傲慢にしてしまっているためである。成功という事実が、これからの怠慢の原因になっている。もっと謙虚にグラフに対峙する。そういう初心を忘れてしまっていたようなのだ。
 もちろん、これは僕の仕切り直し宣言だ。有言実行は自分を追い詰めるだけ以上の効果があるものと期待できる。幸い暖かくなると外に出ることだけでも楽しい。また楽しいサイクルを掴んで、気分よく長期戦を戦っていきたい。僕自身に斯うご期待あれ。
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雨の日は音楽の日

2010-03-23 | 雑記
 散歩好きの身の上であると雨が降るのはつまらない訳だが、読書人である身の上であると、雨が降るとそれなりに心躍る。
 しかしながら今日は外出。他につれもいるので、読書で孤立する訳にもいかない。ほとんど移動で車の中だとは思われるので、飴でもなめて話に花を咲かせることになるのであろう。
 音楽に関しては、経験上今日は音源を持ってきている人が居そうである。なんとなく若い人にこのあたりは譲ることになる。僕の音源はおそらく皆迷惑であろうし…。こういう機会に、おそらくこれは予想だが、コブクロのような人の歌を聴くことができるということになるのだろう。それもまた勉強ということで、雨を眺めながら聞けばいいのである。
 実は雨の日にはクラッシックもまたいいのだけれど、そういうものを持ってくる人はいそうにない。雨の日に床屋かなんかでゆっくりクラッシックの名演奏を聴きながら居眠りできると、それなりにしあわせそうだな、とは思うが、まあ、今日は夢想するだけで我慢しておこう。
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ミドリムシクッキー

2010-03-22 | 
「一枚に二億匹」ミドリムシクッキー
 うーん、センス的に意外性があって、良いのか悪いのかよく分からん。おみやげにして買って帰って喜ばれるものだろうか。ひとえに認知度次第かもしれませんけどね。
 もちろん僕自身は食べることに何の抵抗もありません。クッキーを食べるということのハードルの方が高いかもしれない。しかし、ミドリムシだけだと明らかに食べたくないので、僕の認識の方に作為的な誤りが隠されているということの方が正しいのかもしれない。少なくとも子供がもう少し小さかったら、もっと喜んでくれるかもしれないという残念さがあるのは間違いないようである。
 いや、それでもやっぱり買ってしまうだろうなあ。身近に手に入る存在になっていただきたいものである。
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僕の方が不審だったらしい

2010-03-21 | 雑記
 携帯電話に覚えの無い番号で着信履歴が残っていた。時間的にほんの30分程度前だったらしい。世間的には連休というところも多いだろうから、連絡の必要な要件かもしれないので折り返し掛けてみることにした。
 呼び出しにそれなりに時間がかかり、あきらめて切ろうとしたらやっと先方が出た。声からして同じくらいか上くらいの年代の女性だった。どなたですか、という問いかけに反射的に名を名乗り、そちらからの着信にかけ直したという事情を話した。
 しばし考えているふうの返事があり、あなたは商工会議所の方ですか、と聞かれた。僕は既に卒業しているがJCOBなので、JC自体を商工会議所と勘違いしている人も多いことから、そういう経緯も一応お話した。しかしながらなお考えているふうだったので、そちらのご用件が無いのでしたらお間違えだったのでしょう、というと、やっと、ああ、それは申し訳ないという言葉が出た。それからのことわけの事情をいろいろ話されるのだが、なんと言うか、特に僕は怒っているわけではないし、つまるところどこのどなたなのかはよく分からないし、あのう、そういうことならこれで失礼してよろしいでしょうか、と断りを入れてやっと電話を切ることができた。
 そんなことをしていたから、見ようと思っていたテレビ番組の冒頭を見逃してしまった。幸いなことにつれあいがビデオに予約録画しておいてくれていたので、後で見直すことができたのだけど。だから僕は怒っていないので、この電話の方の記録を残して後で苦情を言うことはおそらく起こりえないことなのであった。
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後悔した未来の僕に向けて

2010-03-21 | 雑記
 僕は比較的ものを捨てるほうだとは思うが、それでもいろんなものが溜まっていく傾向が残っていることは認める。それが無くなったら飛び上がるくらい困るというものでない限りいらないもの(捨てていい)である、という話を聞いて、そんなものなんてもちろんそんなにたくさんは無いから、目の前に溜まりそうなものは普段なら躊躇無くどんどん捨てる。
 しかしそうではあっても割り切れないものはあり、たとえば本などはなかなか捨てられない。自宅にも溜まるし職場にも溜まる。職員がこっそり定期的に捨てているようだが、捨てられる予定のものはできるだけ見ぬふりをしてほっとしている。僕が手を出すと拾ってしまう可能性がある。必要なら買えばいいし、どの道そういうものを改めて読んだりすることなどほとんど無いのだ。買うべきか躊躇している本を全部買ってもおそらくは手にも取らないのに、こういうものはどうにも割り切れるものではない。
 この間階段下の倉庫の奥から、十年以上前の懐かしい資料が見つかった。手書きで下書きしたりした企画書などもあったりして、思わず懐かしさに見入ってしまった。写真などもけっこうあって、そのころ一緒に活動していた人たちなどを懐かしく思い出されたのであった。少しかび臭くなったそれらのものをテーブルの上に広げて楽しかったのだが、ふと思い立って、やはり全部捨てることにした。十数年無くても特に困らなかったこれらのものは、そのまま見つからなくてもいいものだったのかもしれない。下手に今愛着をつけてしまうと、結局それらのものは溜まり続けていくのではあるまいか。
 ひょっとすると僕がもう少し年を取って、これらのものをもう一度見たくなることもあるのかもしれない。それはそれで大切なものには違いないが、もう捨ててしまったのならあきらめるより仕方なかろう。今の僕としては将来の僕に、そのような仕打ちをすることを許してもらうより無いだろう。どの道後悔は先にたたない。未来の僕よごめんなさい。
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ハート・ロッカー

2010-03-20 | 映画
映画『ハート・ロッカー』予告編


ハート・ロッカー/キャサリン・ビグロー監督

 リアルな戦争という映画はたくさんつくられている。現実の戦争はこういう世界だ、という文法は、すでに目新しいものではない。しかしそうであっても、映画というものはあくまで疑似体験であって、本物に似せれば似せるほど、実は作りものであるという現実から逃れられないジレンマを伴っている。ではいっそのこと作りものに徹するか、似せたものでなくオリジナルの戦争をつくるか、ということになっていくのかもしれない。
 この映画にはスジらしいスジは特にない。主に爆弾処理を通じたイラク戦争という現場世界を描こうとしているが、戦争賛美や反戦映画ですらないのかもしれない。いつ爆発するか分からない、つまりいつ死んでもおかしくない状態がどういうものか、ということに徹しているのかもしれない。そういう状況として、単に戦争という設定を選んだということなのかもしれないのだ。そう、人は無理やり死と向き合うとどういう状態になるのか。監督がそういうテーマで描きたかったかどうかは知らないが、少なくとも観る者には、その場面を観るだけで、そういうテーマを考えざるを得なくなる。
 ところが、この映画の主人公は、死と対面するという究極の緊張感の中に立たされながら、どこか滑稽なまでに、その状態を楽しんでいるように見える。いや、もちろん死の恐怖におののいていることは見て取れる。実際苦悩のあまり、奇矯な行動を取ったりもする。しかしながら、本当に死と隣り合わせに立たされている時間そのものには、むしろ開き直るというよりは、積極的にその時間に身を寄せて楽しんでいる(もしくは充実しているとでもいえるか)というような事を感じさせられる。チームとして爆弾処理にかかわっている仲間たちは、そうした彼自身の行動に、むしろイライラし、精神的に追い詰められていく。死の場面に耐えられない人間としての素直な姿との対比は、おそらく観ている観客も同じ気持ちになるのではないか。
 吾妻ひでおの漫画を読んでいたら、彼が実は酒があまり得意ではなかったということを示唆している場面があった。酒のように不味い(もしくは苦しい)ものに対して、激しい嫌悪を感じていたにもかかわらず、彼はいわゆるアル中になっていくのである。ジャンキーというのは、むしろ嫌悪しているものの中に浸かる状態なのかもしれない。それってマゾだからそうなのではなく、本質的にそういう魅力のないものだからこそ、いや、嫌悪するものだからこそ、その人を捉えて離さなくなるのではなかろうか。
 戦争というものは、おそらく誰だって最初から好きな人間など稀だろう(あえて居ないとは言えないが)。本当に死ぬのが好きなら、自分で死んでしまえば済むことだ。死ぬ事はまっぴらごめんだし、死ぬほど嫌なことであるはずなのに、しかし真正面から死と向きあうと、たまらなく人を捉えて離さない本質を持っているのではないか。
 もちろんきっかけは大義あってのものだったろう。誰かの命を守るため、本当に必要とされているからこそ、軍隊に入り戦地に赴いたはずなのだ。
 ハート・ロッカーは戦争を賛美している映画ではない。しかし究極の死の恐怖の世界であっても、人間はそういう世界に憑かれる生物だということを見事に描き出している。決して爽快感のある映画ではないけれど、ある意味で観客までも突き放した現実を描ききって潔い映画だと感じた。そういう意味では流石に賞を取るだけの映画だということが堂々と言える見事な作品ではなかろうか。
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年度末にはこういうことも…

2010-03-19 | 雑記
 いろいろと役職がある中で、遠方の人とやり取りをするだけの関係とはいえ、一緒に仕事をするということが多い。資料はメールでやり取りするが、綿密なものになると、その画面を見ながらあれこれと電話で打ち合わせする。顔を見るのは年に1,2度あるかないかだけど、声の方は実に馴染みのある関係になる。
 今朝もある仕事の最終打ち合わせを電話でしていたわけだが、じゃあそれで行きましょう、ということが決まった後に、先方が「実は…」と声のトーンを変えた。なんでも今年度限りで転職をすることになり、これで一緒に仕事をするのが最後になるという。
 確かに電話では仕事の話ばっかりなので、そういう事情はまったく預かり知らないことであった。当たり前といえばそうかもしれないが、それなりにお互いに慣れて仕事を進められる関係であったために、ちょっと複雑な心境ではある。担当の方との引き継ぎは済んでいるらしいので(多少は最初は不都合があろうが)滞ることはなかろうが、正直言って寂しい気持である。
 結局どのような仕事に就かれるのかはおっしゃらなかったが、業界が違うのかもしれない。僕らの業界も先行きを考えるとそういう人も出てくるということなのだろう。
 いづれにしても、お世話になりました。仕事は変わっても頑張ってもらいたいものだ。僕も今まで通りというだけでなく、切り替える季節なんだろうな、などと考えながら次の仕事に向かわねばならないようだ。
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頭髪の爆発

2010-03-18 | 雑記
 床屋に行くタイミングを失ってしまって困るのは、当然髪が伸びることなんだが、特に朝からの寝癖がひどくなること。
 つれあいが髪を切ったので、僕の方が彼女より長くなってしまった(らしい。僕は鏡を見ないのであんまり比較が分からん)。
 だいたい朝から寝癖を直してもらっていたのだけど、最近は特に爆発状態らしい。自覚症状はあって、髪が乱れていることで首の上状態が少し不安定になっている。出張中は目覚めにシャワーを浴びることが多いので何とか乗り切っているのだろうけど、そうでない日は、まあたぶん日中は寝癖の人ということになっているに違いない。
 僕は極端に髪の毛が細く若いころから薄毛なんだけど、それと関係があるのかどうかよく分からないが、とにかく寝癖がひどい。高校生の頃にクラブ活動が終了して髪が伸びだした頃に、鬼太郎とかアトムとか、時にはベートーベンといわれたりしていたことを思い出した。僕としては009がいいんだけどな、と思ったものだった。
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スカイツリーを見てきた

2010-03-17 | 散歩
スカイツリーを見てきた。
 東京見物は出張のおまけだけど、楽しみの一つだ。そういう訳で今回の目玉はスカイツリー。まだ建設途中だけど既に話題になっているということで、見てみることにした。
 素直に近い最寄駅なら押上(おしあげ)駅というところらしいが、背が高いのでJRの錦糸町駅からだんだん近づくのも散歩がてら楽しそうだということを書いているブログを読んだこともあり、また、ちょうど乗っていた電車が錦糸町駅というアナウンスを流していたこともあってそれにならうことにした。
 歩くので駅から下りてコインロッカーに荷物を預け、ビルの隙間から見える空間にタワーらしき存在を探した。ところがそれらしきものはよく分からない。実は何にも考えないで南口から出てしまって、単に反対方向だったためである。自転車に乗って移動していた婦人警官の人を呼びとめて聞いたら、とにかく向こうと駅の反対側を指さして教えてくれた。ま、見えてくるんだろう。
 線路のガードをくぐって適当に歩くと、やあ、ありました。見えました。もうこの時点でそれなりに感激したんだが、見える感じからするとけっこう遠いんじゃなかろうか。天気の所為かなんとなくかすんでいるような感じもしないではない。荷物、ロッカーに入れちゃったし、300百円だったし、というセコイ考えが原動力になって、とにかく歩くことにした。

 まあしかし、暖かくいい天気。犬の散歩してる人や、保育園児の外出の列に遭遇したりして、なんというか普通の日常生活の住宅街という感じの路地をてくてく歩くのは快適だった。スカイツリーもちゃんと目の前にそびえているし、期待がどんどん高まる感じだし。
 近づくにつれ、僕のように見上げながら歩いている人が結構いることに気づく。皆目的に向かって歩いている仲間たちなのだ。如何にも営業という感じのサラリーマンやウェストポーチをつけたオジサンなんかが、僕と同じようにてくてく歩いては、時折携帯のカメラなんかで写真を撮っている。

 駅から離れると背の高い建物が減ってきて、その存在感はますます威圧的になっていくスカイツリー。てっぺんのクレーンの動きもはっきり見えるようになり、実際に工事現場の音も聞こえるようになり、いかにも建築中という慌ただしい空気が伝わってくるのであった。
 という訳でやっとのことでたもとに着いたわけだが、川の護岸工事なんかをやっていてそれなりの喧噪である。それに当然ながら近すぎて却って全貌を掴みにくい。何しろ今やっと計画の半分だというのに、すでにその巨大さは尋常ではない。こりゃあえらいものになるな、ということで、途中だというのにかえってその凄さが威圧的に伝わってくるのである。
 工事防護のためのフェンスが張り巡らされた道路にぽつぽつと連なって、いろんな人が上を見上げている。立派なカメラを持った外国人まで居たりして、すでに観光名所化していることは間違いないのであった。
 

 完成したら、またきっと見に来ることになるのだろう。今の感じとどう違うのか、しっかり記憶に焼き付けておきたいと思ったのであった。
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