カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

決意のための力を借りる

2012-04-30 | 読書

そろそろ本気で継続力をモノにする!/大橋悦夫著(JMAM)

 こういう本を手にしてしまうのは、ほかならぬ継続力に自信が無いからだ。いわゆる三日坊主のような気がするし、そうして続けることによる成果があまり無いように思える。まあ、書いてあることは類書もけっこう読んでいる方なので個人的には目新しいことはあんまり無いんだけど、それでも一定期間はやる気になれるということはあるのだろうと思う。平易に書いてあるのでサラサラと読んでしまえるだろうし。
 三日坊主とはいえ、特に欠勤すること無く仕事には行っているし、特に遅刻をすることも無い(これは家人のおかげだが)。散歩も必ず毎日とはいえないがするし、ほぼ毎日何か活字は読んだりする。ブログだって書き溜めてるから可能だとはいえ、ほぼ毎日はアップしている。酒も休肝日が無ければ間違いなく飲めるし、そんなことを言い出したら、毎日運転したり飯を食ったりは平気だ。段々変なことを言い出しているがつまり、続けられることは続けることは本来可能なはずなのだ。
 ところが続けられないことがあるということがあって、それは何故かということになると、それはたぶん自分に嘘をついて自分には無理なことを目標にしてしまうためなんだと思う。そうありたいという自分の理想のようなものと、現実の自分とは別の人間に違いないのである。
 何かをやり始めるためには、恐らくそれまでやっていた何かをやらなくなる訳で、何にもしていなかったという印象があったとしても、その何もしていなかった本来の自分を変える必要がある訳だ。時間配分を変えるということは、自分の生き方そのものを変えるということになり、今の生き方を変えるというのは、恐らく明日の将来の自分自身を変えるということにつながるのである。
 今の自分であり続けられないということを目標にしている訳だから、習慣を変えるのは実際に大変なのだ。それくらいの大事業に取り組むということになると、やはりそれなりの覚悟と計画と準備が必要になるということになる。
 しかしながら例えそうであっても、つまりその最初の一歩であるやり始めるということが、実は一番大切だったりする。続くか続かないかというのは、大局的なメタ視点から自分を鏡みて、あとから実感すればいいということになるだろう。ひょっとすると最初は上手くいかないという手痛い失敗がある方が、後の大きな成功のカギを掴むことになるかもしれない。
 いろいろ考えてみても最初の一歩さえ踏み出さない目標のいかに多いことか。しかしながら全部何もかも実行できるはずなどはやはり無くて、自分の身の丈を少しずつ伸ばしていくような事をしていくよりほかに無いのであろう。
 以上、分かっちゃいるけど、しかし実際にやれないという強大な壁の存在と戦う決意のための備忘である。そしてそういう精神を鍛えるためにも、時々啓蒙本の力を借りるという訳なのであろう。
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美しい人

2012-04-29 | 映画
美しい人/ロドリゴ・ガルシア監督

 9つのオムニバス作品。短編小説集という感じ。もっというと断片小説的というか。映画ではあるけれど長回しのワンシーンのみの断片集になっていて、お話のつながりは特にない。
 テーマは確かに女性ということらしいことは分かるが、僕は男なのでこれが女性的な物語なのかは何となく自信が無い。女の悲しみというか、さまざまな立場に立たされた女の苦悩というか。
 演劇の腕比べ合戦という感じもする。熱演ばかりで、見る人が見るとそれなりに感心しそうである。若い人から年配の人まで、上手い人たちが競っている上に、そういうものが映える演出ということかもしれない。
 断片で適当なところで話が切れるので、わけのわからないものもあるのだが、オチがどうということを言いたい訳でなく、そういう状況になったらこのような感情になるだろうということを言いたいのだろう。
 この監督は少なくとも、こういう状況は女の方が絵になるという思いがあったのだろう。もちろん男も出てくるのだけれど、やはりかき回し役である。きっかけが女の方だった場合があったとしても、結果的にひどい目にあわされたり、感情が揺さぶられるようなことに陥らされてしまうのは、ある程度男のせいである。繰り返すが僕は男なので、そういう状況になってしまう女の人に、妙にお気の毒な気分にさせられてしまった。よく一方的に男が非難されることが多いように日頃は感じているのだけれど、やはりお気の毒なのは女の人の場合が多いのかもしれない。そうしてある程度はそういうものを引き受けてくれる人が居るために、相手の方だってある程度は救われている訳だ。
 しかしながら男の方だって、日頃は女の人からひどい目にあわされたり、振り回されたりしているように感じているものだ。ただ、だからお互いさまじゃないかと手を差し伸べたとしても、恐らく振り払われるのだろうな、とは思う。そういうバランスの悪さというのは、いわば宿命めいたものであるということだろう。まあ、時にはそういうことを確認して、仕方ないもんね、とため息をついて忘れるより方法が無いのであろう。
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主役すぎるので遠慮してもらう

2012-04-28 | 

 居酒屋でも何でもいいが、とりあえず刺身で一杯やるのは定番と言えばそうだ。その折に刺身醤油か普通の醤油か迷うことがある。自宅だと普通の醤油で刺身を食うので、慣れという点では普通でちっともかまわないのだけれど、寿司やなんかだと当然のように刺身醤油がそのまま出てきたりする。作る側が刺身醤油で食べて欲しいという考えがあるのだろうと思うと、少し考える訳だ。好みなんだからどうでもいいことだとはいえ、確かに少し感覚が違う。ビールでの乾杯後の刺身であれば普通の醤油くらいでちょうどいいと思うが、しばらくして焼酎のお湯割りなどを飲みだすと、少し甘い刺身醤油の方がなじんでくるようにも思う。ここのあたりは微妙なのだけど、刺身醤油を足してみたくなったりする。もっともその頃には既に刺身は済んでいることも多いが。
 いろいろ食べ物にうるさくなるのは年を取ったせいだと思うが、最近はこの醤油自体がなんだかアクセントが強く感じられて、ポン酢くらいがいいような気がしてきた。もともと刺身の種類によっては最初からポン酢という場合があるが、確かに鯛とか白身の魚の場合には、醤油はいささか強すぎるようである。クジラなどの湯引きやキビナゴみたいになると普通に酢ヌタでいいが、これはそういうものだということで、やはりポン酢でも行けそうな予感はする。
 醤油というのは万能で素晴らしすぎる調味料であるとは認めるが、やはり主張がそれなりにある。なんでもとりあえず醤油を使うと、旨いか不味いかをとりあえずおいておけば、大抵は食べられるようになる気がする。ほとんど醤油をなめるために素材を食っている感じがして、これに慣れ過ぎるのはちょっと危険かもしれない。いや、具体的には何の危険も無いが。
 まあしかし、ポン酢と言っても考えてみると醤油の一形態なんだから、ぜんぜん醤油の否定ということにはなっていない。ただ、醤油をそのまま使うということでは無くて、少し変えて使われた方が、結果的には醤油の味が生きてくるのかもしれない。
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壮大な愚かさの連鎖の物語   ソーシャル・ネットワーク

2012-04-27 | 映画

ソーシャル・ネットワーク/デビット・フィンチャー監督

 見終わって思い出したのはグレート・ギャッツビー。最初はぜんぜんそんな感じじゃなかったのだけど、ザッカーバーグはギャッツビーだったのだ。そして、多かれ少なかれ失恋男子の代表ということなのだろう。
 単純なサクセス・ストーリーでは無い。何しろ現実的な結果は多くの人は知っている訳だ。そして本人は現在も健在で、なおかつ若い。実話の映画というのはたいてい実話では無いことが多いのだけれど、これもひょっとすると違う面もあるのかもしれないけど、恐らくかなり本当のことが含まれているに違いない。そうして彼はこの映画の作りを認めているのだろうから、さらに驚きだ。あり得ないことだが、想像力を膨らませて考えてみれば分かることだろうが、自分自身のこととして、このような映画を作られることに耐えられる人間というのは、どれくらいいることだろう。
 やっていることは人間としてどうなのか? という「?」がどんどん溜まっていくような話が続いて行く。訴訟の全貌ということなのだから犯してきた悪さを積み上げているということなのかもしれないが、それにしてもひど過ぎるだろう。そういう人間がどんどん成功して行くというのはスリリングな快感があるのは確かだが、ちょっと複雑な気分というか、なんだか逆に落ちぶれていくようなものである。殺人を犯さないというだけのことであって、他人を陥れたり騙したり裏切ったりのオンパレードである。
 そういう人間である当人は、しかし極悪人では無いのである。単純にオタクで冴え無い、しかし多少は頭のいい青年である。野心はあるが、本当に金持ちになりたかったのかどうかさえよく分からない。女にだってほとんど目もくれないように見える。ビールは連続して飲んでいるようだけど、基本的にパソコンの前に座っている。何を考えているか分からないというより、思っていることを口に出し過ぎるくらい(それで失敗しているように見える)の、ある意味で変な奴だけど素直な空気の読めない人間のようだ。辛辣だけれどユーモアだってある。いささかやり過ぎだけれど。
 こういう人間が好きか嫌いかと言えば、とても好きにはなれそうにもない。しかし、やはり魅力的なのだ。それは、成功していくからか、金を持っているからか、ある意味で実行力があるからか。たぶん、全部NOだ。でも実は、彼は、人間的だからだ。人間的にクズのような事ばかりやらかすオタク青年のどこが人間的なのか。それは映画を観るしかない。好き嫌いは分かれる映画かもしれない。しかし、僕は人間ドラマとしてかなり秀作だと太鼓判を押したい。嫌いだけどいいじゃないか。人間の生き様として、実は彼は素直で正直なのだ。実際に汚れているのは誰だ? そんなことまで考えさせられてしまう。
 しかしながら日頃からフェイスブックにはお世話になっているのだけど、美人投票が元だったとはね。そういう最低で下らないものが、世界的に席巻して僕らの生活を変えてしまう。現代社会というのは、なんとダイナミックなものなのだろう。人間って愚かだけど、面白い生き物だとつくづく思いますよ、実際に。
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タクシーの自動ドア雑感

2012-04-26 | culture

 タクシーの自動ドアは日本人にとっては当たり前すぎるので気にしている人は無いだろうが、海外ではほとんど見られないのだそうだ。64年の東京オリンピックの時に一気に全国的に普及し定着したのだという。外国人のお客を迎えるために、いわばサービス精神がそうさせたのではなかろうかということだった。発案者は、雨の日に荷物を持って車に乗るのが困難だった経験から開発を思いついたのだとか。
 そういうこともあって、外国人が日本に来ると、このタクシーの自動ドアにそれなりに違和感を持つものらしい。面白がる人もいるようだけれど、なんで自動でなきゃならないのだろうと疑問に思ったりするようだ(西洋人は特に保守的だからね)。最初は外国人のためのサービスだったのに、やはりこれは日本人向けのサービスという感じもする。何故日本では自動なのかということを考えるとき、日本人は清潔好きでドアに触れるのを嫌うためではないか、などと考察している人もいた。そういう考え方に嫌なものを感じている様子だった。つまり日本特有の行き過ぎ感ということだろうか。日本のガラパゴス化は、過剰さである場合が多いので、既に彼らには理解不能ということなのかもしれない。まあ、同じアジア人にはウケそうだとは思うけど…。
 日本のタクシー会社の中でも、あえて運転手がドアを開けに行くサービスを売りにしているところもあるそうだが、今となっては、自動で無い車に当たることの方が困難であると考えられる。僕はたまに歩道の反対側に回って自動で無いドアを開けて乗ったりするので運転手に驚かれることがあるけれど、普通の日本人は、たぶんそんなことはしないだろう。僕としても中で席を詰めるのがめんどうで、そうするだけのことだけど。
 そういう訳で日本人が潔癖だから自動ドアになったのでは無かろうし、自動ドアが普及したから、さらに自動でなければならなくなったということになるんだろう。もとはサービス精神だったから、タクシー会社各社がサービス競争をやった結果だとはいえるかもしれない。
 さてしかし、自動化が進んだ理由の背景には、やはり周りの交通への配慮という観点もあるようにも思う。すばやく乗車してもらって出来るだけ交通の妨げを防ぐという配慮もあるのではないか。乗客の方もそういう感覚は当然持っていて、自分のために他の車に迷惑をかけたくないという心理が働くような気もする。そういう周りに対する配慮の感覚は、恐らく諸外国の人々には分かりにくいものではあるまいか。

 ところで若いころに香港の友人とよく遊んでいたのだけれど、彼らがタクシーを停める情熱のようなものに圧倒された思い出がある。特に女性がその場にいるときは、男たちは車道へ走って必死に車を停めようとする。そうしておもむろに後から歩いてくる女の人をエスコートして、車に大仰に招き入れるのである。これには日本人の男たちはただただ呆然と無能さをさらけ出す感じだった。日本女性が彼らとすぐに付き合うようになるのは、悔しいけれど、まあ、当たり前かな、とも思ったものである。
 文化の違いに過ぎないのだけれど、日本の男は間違いなく日本の国内だから女性とつきあえる可能性もあるのかもしれない。そういう意味では日本の男社会のために、自動ドアというものが受け入れられたのかもしれないと、ちょっとだけ思うのであった。
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出会いたくないもの

2012-04-25 | HORROR

 散歩にはいい季節ではあるんだけれど、この時期になると道端でゴソゴソと動く小動物が格段に増えてくる。小動物だけならまだ何とかなるのだが、やはり嫌なのはヘビである。実際には僕が近付いたために驚いて逃げているのだろうけれど、その逃げている姿を見て僕が驚く訳だ。里山の人の居ない場所だから何とかなるが、他人に見られたら笑われるぐらいびっくりして飛び上がってしまうことがある。なんでまたそんなに驚いてしまったのか、自分でもびっくりしてしまう。
 時々道の真ん中に日向ぼっこしている長い奴がいて、遠くからでは道の傷か模様のように思っていたら、いきなりダイナミックに動くので、これもまた大変に嫌な感じだ。変温動物なので、体を温めてから行動するつもりでいたのだろう。そのまま車にひかれる奴もいるようだからお気の毒ではあるのだけれど、道で寝るのは危険だけでなくよくないと思う。もう少し驚かれない場所を探して欲しいと願っている。
 テレビでチンパンジーにカップラーメンを食べさせているものを見たことがあるのだが、彼がホークか何かで麺をビローンと伸ばしていくと、ある程度長くのびたところで急に驚いて逃げてしまっていた。おそらく何かを連想したに違いないと思うのだが、彼らだってヘビが怖いに違いないと思われたのだった。野生のチンパンジーがヘビを嫌うのか個体の性質なのかまでは詳しくないけれど、彼らでもあの長い生き物を怖がるということであるのなら、親戚である人間が怖がるのも、ある程度納得できるような気がしないではない。原初的に恐れられる対象として、いわば本能として恐れられているに違いないのである。
 ヘビが恐ろしいのが本能的なものであるのなら、道端で怖がっても仕方のないことと諦めるより無いとも思う。普段見掛けるヘビたちにおいては、特に毒蛇という訳ではなさそうなのだが、とっさのことにそういう判断において選別して驚いていては遅すぎる場合もあるだろう。ご近所の本当にヒラクチにかまれたことのあるというおばさんのお話によると、彼等は飛びかかる時には、まるで空を飛んでくるようであったという。想像するだに恐ろしい。
 集団で小道を歩いていても、ヘビに咬まれるのはあんがい二番目とか三番目の人だという話も聞いたことがある。ひとり目でも驚いておられるのだろうが、二人目くらいで噛みつく決心がつくのだろうか。そこらあたりの研究が進んでいるという話も聞かないし、そもそもその話が検証可能なほど実際的な話なのかも分からない。そういう具合にヘビに選ばれる人間にだけはなりたくないものである。
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長期のリーダーを切望しているけれど

2012-04-24 | culture

 日曜の新聞を読んでいたら、ジャック・アタリが日本の首相をある程度の年数交代させない制度にすべきだと提言していた。
 日本に足りないのは長期的ビジョンであり、日本の産業の成功例は長期ビジョンのしっかりしたものが多いという指摘もなされていた。また、特に政治においては、国民に不人気な政策でも(つまり痛みを伴うもの)実行させる必要がある場合があると思われる。圧倒的多数や、強権的にならなければそれが出来ない訳で(それでも日本は出来なかったが)、そのためには、やはり不人気になってもある一定期間はそれが平気である必要がある。交代できないというのは、やはり長期的には利点が大きいようだ。もちろん大きく損なうことも可能そうだけれど…。
 まったくもってその通りなんだとは思うが、結論としては地方の首長制度を見本とすべきだということのようである。大統領制では無くと断りをしているのは、暗に日本には天皇がいるということなのかもしれない。いずれにしても、国民が直接首相を選ぶ制度にするということになれば、大統領制との違いはそんなに無いだろう。
 大賛成なのだが、これが簡単そうではないのは、やはり日本の政党政治制度において、直接選ばれた首相であっても、総出で国会が足を引っ張ることが目に見えているように思われてならない。米国でもレイム・ダックなどと揶揄されるように、手足を縛られる状態になってもリーダーシップを発揮できるのか微妙な時期がある場合がある。もちろん万能な制度などは無いのだから、今よりいくらかはましになるという程度なのかもしれないが、やらないよりやった方がいいということなのだろう。
 さらにまた問題に思えるのは、そのような大統領制なり長期首相制に移行させる議論も、今の国会で議論できる状態になりうるんだろうかということも、追い打ちをかけて不安である。何も決めきれない彼らに、そのような改革なんかが出来るはずもなさそうだ。国民世論が、そのような案に猛烈に支持をするということにならなければ、かなり難しいことであるだろう。
 そういった気運の高まりは、橋下市長人気を見ると相当ありそうな気はしないではない。しかしながら、橋下さんが国政に打って出ても、これが実行できる可能性は極めて低そうだということも、また事実として知っておくべきだと思う。マスコミでは盛り上がっているが、日本の国政選挙で維新の会が大局を占めるというのは、ほとんど夢物語だ。そうするとどのような連立を組んでという話になるが(その前にやはり選挙だが)、そういう政策調整が可能な政党など、やはり現在の日本には存在していないようにもみえる。
 結局は相当先に気運を見てやれるかやれないか問題であるということで、このような議論は不必要ではないにせよ、やはり今の状態を打開しうる案では無いという悲しい現実を思い知るのである。
 まあ、夢を見てなきゃやってらんないわけで、アタリさんには次の提言も期待しておこう。
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裸踊りといえば

2012-04-23 | culture
デレク・シヴァーズ 「社会運動はどうやって起こすか」


 裸踊りといえば、一般的にこのデレク・シヴァーズの有名なスピーチのことになる。この考察以外にも色々な場面でこの映像は有名になった。共産主義革命やら組合運動なんかは、実際は社会の多数派でなくとも革命をおこせたのは、このような少数でも強固なフォロワーの力が大きいとも考えられる。つまりやらせのようなものでも人々は動かせるのだ。
 しかしながらこの映像を考えるときは、やはり背景のほうが大きいのではないかという気がしないではない。人々は踊ってもよい、というか踊ったほうが断然楽しいという状態にあったにもかかわらず、そのきっかけをつかんでいなかった。むしろのんびり音楽を聴くような環境になかったのではないだろうか。あるていどの飽和状態にジェット飛行機が飛んでいくと飛行機雲が発生するように、共感の得られやすいきっかけや見本がそこに生まれたからこそムーブメントになったのではなかろうか。
 きっかけを作った人が、いわゆるイケてない、裸の踊りのあまりうまくもない、ひょっとするとラリっている可能性のあるアブナイ人のような感じであることが、この映像の面白さを醸成しているとは思うのだが、しかし、考えようによっては、そのような人でも人々を先導できるような土壌がすでにあり、図らずもその発見を彼がしてしまったという偶然が、このような感動的なムーブメントの見本になったように思われる。どんな時でも踊れば成せるという話では、やはり違うのではあるまいか。
 もちろんこの意外性が、楽しさを倍増させているということは言えて、計算してこの状態を作ることは、やはり難しいとも感じる。作ろうとした流行は、やはりその計算という行為が面白さを半減させてしまうのではなかろうか。
 レアケースから社会運動を解説するのは、やはりちょっとばかり無理がありそうな気がしないではない。面白いが、それはやはり面白いくらい奇跡的だったのではなかろうか。
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既に得体が知れなくなりつつある

2012-04-22 | net & 社会

 日常やタイムリーさが重要であったり楽しかったりするのは皆さん理解しているところだろうけれど、考えてみると自分のそのような言葉というのは、恐らくずっと長い間ネット上にはアーカイブされているというのがなんだか不思議な気がする。残されているに違いないとは理解するものの、その言葉を検索するのはものすごく大変そうだ。そういう過去はよっぽど根気よく探す必要があるために、恐らくそんなことをする人はめったにいないだろう。しかしどんどんそのような情報は積み上がっていき、パンクしたりしないのだろうかと思うのだ。あるいはそのような保存機関の大手のものは、いわゆる民間の企業であったりする訳で、公共のものより信用できるとはいえ、可能性として倒産なんかしたりすると、そのような情報というのはどうなってしまうのだろうか。
 いわゆる膨大すぎる量になると、そういう情報そのものを溜めておいても、検索できなくなって、どんどん埋もれていくようなイメージがあるのかもしれない。ある程度リテラシーのある人ならば、そのような埋もれたものであっても探し出すことが出来るのかもしれないけれど、むしろ無料で便利に使っているだけの人が、有料で過去のことを調べたりする時代もやってくるかもしれない。
 検索というのは誰でもできるようでいて、かなりその技術に差があるらしいこともあって、情報を探したり編集したりすることが、特殊な技能として重宝がられるということは十分に考えられる。または過去のものは、案外既に情報として劣化しているものがあるような気もするし、そうすると、そういう劣化したものを、金属の錆を落とすように、再生させるという技術者だって存在するのかもしれない。情報は新しいから必要ということでは無くて、実際にはそのように積み上がったものをどのように再生させうるか、ということの方にも大きな比重があって、例えば数十年後にわれわれのつぶやいた言葉の貴重さというものが発掘されるということも起こりうるのではあるまいか。
 現在は既に大海の中に紛れ込んでしまってどうにもならないものであっても、その中の成分を抽出するように情報を取り出すということが、将来的には必要になる可能性もあるのではないか。
 これまでの文献などを読みこんだり発掘したりする作業であっても、膨大で気の遠くなるような情報量であったと思われるのだけれど、これからのネット上に埋もれている情報を検索発掘編集したりする作業においても、未来の人間は大変な苦労をすることになるのではあるまいか。より正確なものを知ろうとするあまり、大変な時間の徒労を味わうことになる人間が現れるに違いないと思うのである。ただでさえものを捨てられないという人も多いだろうと思われる中で、ネット上であるからという理由で溜めこんでいくものというのは、なんだか恐ろしげな塊がどんどん増殖していくような気がしてならないのである。
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リトル・ランボーズ

2012-04-21 | 映画
リトル・ランボーズ/ガース・ジェニングス監督

 シルベスタ・スタローンのランボーの衝撃というのは確かにあったような気がする。学校でランボーのような格好している男の子も当然のように居たみたいだった。僕がランボーになりたかったかどうかは既に良く覚えていないが、当時さまざまにあったベトナム反戦映画より、僕らはこの映画で改めてベトナムの悲劇を考えたようにも思う。今となってみると他の映画の方が映画的には優れているものが多いようなのだけど、娯楽映画とセットになってなんだか考えさせられる映画としては、ランボーの役割は大きかったのではあるまいか。
 社会的には不器用で不適応な男であっても、戦闘能力とサバイバルする能力はけた外れというのも、ある意味でさまざまなサブカル文化を刺激したようにも感じる。ランボー以降の少年漫画のアウトロー的ヒーローの亜流も、大変に多く出現した。もちろんこの映画の監督も、そのような影響下にあってこの映画のアイディアを掴んだに違いないのである。僕らの共感の映画として、そしてそういう背景を通して成長する少年映画として、実に良くできた作品なのではなかろうか。
 子供の友情物語なのだけど、冴えないひ弱な男の子であっても、ある種の才能を認められることによって、逆転のヒーローになれるというお話でもある。そういう要素は少年の憧れでもあって、実際にはそう簡単ではないのだけれど、いわゆるお話的にはよくあるものである。そういう空想めいたものが上手く行くことで、実際にある生活や立場の閉塞感を打開したいと願っているのが、多かれ少なかれ男の子という存在という気がしないではない。ある種の魔法めいたものなのだが、それが自分自身の力である必要が、何より大切な気がする。
 ドラえもんのような共感は、ある意味で他力本願なので、何となく潔い感じがしない。ドラえもんは友人としてより、道具として欲しい夢なんだけど、そういう道具を使いこなせる人間としての憧れの方が、もっと重要な気がするのである。結局のび太が本当に重要なのは、あやとりが得意だったり拳銃の腕前が凄いところにあるような気がする。ぜんぜんだめなだけでは、共感が続かないのだ。
 ランボーのような超人的な力にあやかりたいのは確かだが、ランボーのようなヒーローものを映像化できる才能があるからこそ、少年は他の才能のある少年たちから一目置かれている。自分の何かを磨くことは、自分の持っている欲求の最大のものだということを、改めて思い出させてもらったような気がしたのだった。
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揺り戻しの材料にすべきではない

2012-04-20 | 時事

 木嶋裁判の死刑判決は予想されていたことではあるものの、そのことについて逆に反動的な報道が多かったように感じた。しかしながらその反応を見るにつけ、何を今更という気分になるのだった。たしかに被告人が事件を否認している中での状況証拠のみの判断というのは、もともと非常に難しいものがあるだろう。まっさらで物事を判断するというのはよく考えなくても不可能な話で、ある程度のパーソナリティから勘案せざるを得ないだろう。そうした判断を素人ができるのかという主張がある訳だが、そもそもの話から言えば、玄人が判断することで世論は納得しなかった歴史があったのだと思われる。そうであるならば、このような結果になることの方が必然という感じがする。
 このようなもともと極めて難しいと思われていた裁判について、玄人はあえて積極的な判断からは逃げているように見えていたことが、今までの最大の不満だったことは間違いなかろう。たとえ魔女狩りになる危険性があるとしても、裁判員裁判の利点は踏み込んで判断できるという期待が大きかったからだと思われる(僕はもともとそういうものでいいとは思っていなけれど)。そういう意味ではこのような結果には大変に意味があって、やはり報道時点でかなりの疑わしき人物は、相当な確率で有罪に持ち込めるということが分かってきたのではあるまいか。ひいてはそれが、今までないがしろにされてきたように思われる被害者の救済への視点も含んでいるのだとしたら、本来の意義深い制度移行への手ごたえが大きいということも、また考慮すべきであると思う。
 しかしながら確かにまだまだ問題点や改善されるべき点はいろいろあって、焦点はむしろそのようなものに踏み込んでいくことの方にシフトすべきという感じがした。その最大のものは裁判の事態の可視化問題という気がする。素人問題を本当に問題視するのならば、密室での取り調べはもちろん、裁判の守秘義務自体をもう少し明確化し、事件そのものを当事者が普通に経緯として語られるようにすべきだと思われる。その場だけでの判断ではなく、自分自身がいかに客観視して判断しているのかという抑止にもなるし、より証拠を細かく吟味する意識づけにもつながるのではないか。もちろん今でも慎重にそのような作業を行っているのであろうが、そのような場面を一般の人があまりに知らな過ぎていることが、今回のような不安の連鎖にもつながっているのではなかろうか。問題の本質は素人の負担がどうだというより、本当により充実した裁判を実行できるかということの方が大切なのだと思う。そういうものは誰か専門がやればいいし、自分には関係の無いことだという世論が一方にあって、その反省が大きく現在にいたっているということなのであろうから。
 判決を決めた後でも、出来れば被告には控訴して欲しいと思ったと、裁判員に選ばれたひとりは語った。実に素直な感想だと思うが、そうであるからこそ、玄人にまかせっきりにしてきた我々の責任はより重かったというべきなのだろうと思う。難しい判断だからこそ素人がより世論的な人間感覚を頼りに線を引くことをする。まちづくりや政治もそうなのだが、基本的にはそのようなものを考えることこそ、裁判員制度の本来の意義というべきものだろう。
 もともとこの制度は、焚き火をしていたら火事になったと言われる制度であった訳だが、思わぬ波及が期待できるような気もしている。当初は日本という社会にはなじまないと思われていたものではあるが、日本の市民というのは想像以上に熟成されてきているのではなかろうか。むしろそのような力を活かせていないことにこそ問題が大きくて、やりようによっては十分に力を発揮できているという証明にもなっているようにさえ思われる。既に裁判員制度にかかわっている人々もかなり多くなってきた現在、そのような経験を本当に活かしていく時期に入っているのではなかろうか。
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日本ではリーダーが育たない?

2012-04-19 | culture

 日本にはリーダーが育ちにくいという話を聞かされることは多い。外国には優れたリーダーがたくさんいて、日本人にはそういうリーダーシップを発揮するような人は居ないということらしい。日産もカルロス・ゴーンが来たから復活したらしい。
 確かにそういう話は皆何となく納得がいくものらしい。思い当たるフシがそれなりにあるのだろう。しかしそれが何故なのかということになると、なんだかよく分からなくなる。日本人に気質的なものだという話もあるが、日本人だからそうなる気質っていったいなんだろう。勤勉なのは日本人だからそうなのか。真面目なのは日本人の特徴か。横並びを好み、村社会なのは日本人だからなのか。それらしいというのは気分として分からないではないが、しかし僕には全部意味不明という予感もしている。学問的に検証可能なことって本当はどれくらいあると言えるだろうか。ほとんどは居酒屋談義的な怪しい説に過ぎない気がする。だけれどそんなことを言うと、ときどき僕が日本人からはみ出しているせいだということを言われることがある。僕のようなナショナリストがそういうふうに思われる日本的な思想とは何だろうか、と考えてしまう訳だ。
 歴史的に見ると日本にも優れたリーダーシップを発揮していた人がそれなりにたくさん居るようにも思う。そうすると、現代がリーダー不在ということなのだろうか。いや、国際的にも活躍するスポーツ界などには、それなりに日本人リーダーだって居るようにも感じる。経済界にも居るみたいだし、学問の世界にも、科学の世界にもあんがい居るんじゃなかろうか。
 問題は政治家か。報道で見るとおかしな人は多いけれど、あれはそもそもリーダーというような人たちなんだろうか。小泉元首相はリーダーシップを発揮したという話もあるが、あの人くらい変人はそう滅多にいそうにない。現在は橋下市長が話題だが、これは現在進行形で期待値の段階という気もする。
 しかし根本的な問題としては、文化やシステムなどの背景がありそうである。そうするとそういうものを改善するとリーダーは生まれやすくなるのだろうか。やっぱり資質的なものや、教育の問題なのだろうか。
 細分化して考えてみるといろいろ面白いものが見えてくるようにも思うが、現在のリーダー不在論というのは、単に、いわゆる何を持って理想のリーダーとしているかの定義があやふやすぎるとも感じられる。そもそも望まれるリーダー像って何だろう。
 シリーズ化するか不明だが、ダラダラ考えてみてもいいのかもしれない。
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皆必死の季節になりました

2012-04-18 | 散歩

 今年は「春一番」は無かったそうなのだが、やけに風の強い日が多かったように思う。落ち葉や折れた枝などの掃除が大変であった。森の木々の密度が薄くなっている感じで、向こう側の青空などが覗かれるようになった。木々の隙間から陽の光が差すようになっており山道を歩いていてもなかなか美しい。夕暮れ時に杉やヒノキの間の道を歩くと、オレンジの光が縞模様に美しくあたりを照らしている。ある程度は風が吹いて隙間をあけないことには、地面の側の植物だって育ちにくいのかもしれない。農業用の用水路は枝などで詰まって掃除が大変なのだが、森の再生という自然の営みには、ある程度荒っぽい気象状況も必要になるのだろう。荒っぽすぎるとなかなか回復しようがないが、こういうサイクルの間で生きていくのが生物としての宿命のようなものなのかもしれない。
 植物が元気になると虫たちも元気になって、それを狙う小動物や鳥たちも元気になっていくように感じる。冬の散歩は自分の足音くらいしか物音が聞こえないが、春になるとあちこちからガサゴソ物音が聞こえるし、鳥たちの鳴き声もうるさいくらいだ。時々散歩中に電話をするが、会話の相手にも鳥の鳴き声は聞こえるらしく、のどかですねえ、と言われる。のどかと言えばそうなのかもしれないが、森の人には喧しい季節である。もちろんしかし煩わしい訳ではなく、何となくうかれる騒々しさなのではあるが…。
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偉そうだと思う偉そうな自分

2012-04-17 | ことば

 「上から目線」という言葉がときどき分からなく思う。いや、意味は分からないではないのだけど、この言葉が使われている場面が、何となく分からなくなる。直訳してみると、偉そうなもの言いや態度、という感じなんだろうけど、つまりある発言がなされる時、多くの場合非難として使われているとは了解している。
 石原慎太郎のような人だと、僕でも何となく理解しやすい。偉そうというより、はっきり人を見下しているのは良く分かる。周りの人間が馬鹿に見えて仕方ないんでしょうね。確かに本当に馬鹿な人もいるのだろうから、お気の毒な気がしないではないが…。
 しかしながら考えてみると、石原慎太郎は都知事であって僕より年上だ。横柄な人には違いないが、僕が面と向かって話をする機会があるとすると、あのような態度で話をされたとしても、そんなに腹が立たないような気がするのである。そういう人物という了解があるのもそうだけれど、僕より偉くてもぜんぜんかまわないという感じもするのは確かだからだ。第一僕はぜんぜん偉くないのだから、石原慎太郎以外の偉そうな人から上から目線で話されても、やはりまったく平気である。もちろん知らない人からいきなり偉そうに何か言われると頭にくることもあるかもしれないが、頭にくるよりびっくりする方が先のような気がする。
 僕は録画以外のテレビはほとんど見ないのだけど、そういう訳でタイムリーなニュースはなかなか見る機会が少ない。多くの人は、テレビに出てくる人物を評して、上から目線の発言や態度を非難しているケースが多いように思う。
 そう言われると心当たりがあって、僕はみのもんたや古館一郎が何か意見を言うと、ちょっと不機嫌になることがある。よくもまあ無責任にものが言えるものだなあ、と呆れるからで、それは僕が彼らを馬鹿にしているせいだろうと思う。実際に彼等は本当に馬鹿にしか見えないから、あれはテレビの演出なのだろうと疑っている次第だ。しかしながら繰り返しになるが、僕が彼らに実際に会って話をする機会があるとすると、たぶんぜんぜん見下されて平気に違いないとも思う。テレビを見る分には不快だけれど、身近にいてもたぶん平気だろう(実際には独特のオーラを感じるかもしれないが)。
 思うに僕らは、テレビに映る人物に対して上から目線の立場にあるのではあるまいか。視聴者という立場は箱の中の人より上位に位置しており、したがってその箱の中の下々の者が、何か意見を言うのが気に食わなくなるのではあるまいか。ある意味でお金を払って視聴している立場というものが、上から目線で彼らを断じさせる気分を醸成しているのではあるまいか。
 僕は人間に上下は無いという思想は好ましいものだとは思うものの、やはり世の中には上下関係というのは現実的に存在することを認めている。理想は理想として、現実的な人間社会というのはそういうものだと思うからだ。実際にその上下関係をどのように使うのかということで問題が生じた場合に、改めて問題視すべきなのかもしれない。上から目線そのものより、やはり内容が大事なんだよな、という議論をこころがけたいとは思うのであった。
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カーペット・ボミング

2012-04-16 | 境界線

 戦争犯罪として裁かれる問題に、無差別虐殺というのは大きいと思われる。しかしながら周知の通り、戦争犯罪というのは勝者の論理で敗者を裁くためのものであるために、この無差別虐殺問題は敗者の側の人間しか対象になっていないようにも感じられる。
 戦争だから無差別虐殺は、ある意味では当然だと考える人もあるかもしれない。人を殺す目的において戦争が行われているのであるから、当然と言えば当然かもしれない。しかしやはりその中にも秩序あってしかるべきでは、という議論もあるということなのだろう。
 戦闘員を殺してもいいが、民間人を殺すのはけしからん、という話がある。そのような残虐行為を行うのは、民族性があるのではないかという話もある。おもに日本はそのような国だから残虐行為を行ったということをいう人が、日本人の中にもいるようだ。残酷な民族性って、本当に証明できるものなのだろうか。僕なんかは暴力映画なんかを見ていると、偏見ながら肉食系という印象を受けるが、別に草食系が暴力的であっても何の不思議もないとは思う。
 さて、東京大空襲のドキュメンタリーを見たせいである。この空襲は米国でもカーペット・ボミング(絨毯爆撃)と言われていて、当初は軍事施設の爆撃計画だったが、無差別に発展したということは(暗に)認めている。もちろん大義名分は、戦争の早期終結につながるという考えのようで、そのための多くの人命の救出ができたと現在でも言い訳している。戦闘の長期化による人の命(もちろん米国人)を助けるために、大量の人の命を犠牲にすべきだという考えである。
 空襲で生き延びた人の証言に、最初は誤爆ではないかと思っていた様子があった。軍事施設なんてものは近所には見当たらないし、なんでこんな民家が焼けてしまったのだろうと考えるのは、ごく自然なものだろう。しかしながら執拗に空爆は繰り返され、東京の街は寒空の中瓦礫と廃墟の街に変貌していく。
 しかしながら、実は最初から軍事施設を爆撃するという考えでは無かったようである。米軍は日本家屋の街を砂漠に再現し、焼夷弾の油の配分を調整し、いかに効率的に日本の街を焼き尽くすことが出来るのかという詳細な実験を行っていた。焼き尽くすことが目的だから、乾燥して強い風の吹く季節を選び、空爆を実行した訳だ。もちろん建物の中に人が住んでいないとは想定しているはずはない。如何に効率的に大量に無差別に殺戮できるかということを計算し尽くして、絨毯爆撃を執拗に実行していたのである。
 もちろんこのような一連の攻撃が、戦争終結を早めたという議論は存在する。原爆においてもその衝撃は大きかったとはいえるだろう。もちろん米国はすべての日本人を焼き殺す本気度を示していたということだから、単に終わるまで実行を繰り返していたということだろう。
 情勢が決定的になったから、このような人体実験的な行為を行ったという議論もあるが、まあ、今回は止めておこう。どのみち認めることは無いだろうが、日本人が黄色人種だったことは事実なのから。
 戦後米国でも「きけわだつみのこえ」がベストセラーになったことがある。多くの米国人がこの本に興味を抱いて読んだのは、書いた日本人が実は米国人と同じ人間感情を持っていたことに驚いたためだと言われている。日本人は人間としては下等だから残忍な戦闘行為が可能(ハラキリや特高隊はそのように理解されていたようだ)なのであって、よって大量虐殺は正当だったと信じていた人たちには、少なからぬショックがあったということのようだ。
 日本でも鬼畜米英と言っていたのは、彼らは同じ人間では無いという意識が無いことには、やはり人間を殺す行為は難しいということを示しているものと思われる。そんなことを本気で信じるということではなく、気分としてそのような気持ちで行くということなのだろう。
 しかしながら、いまだに米国人の多くは、大空襲や原爆の無差別大虐殺の罪を認めてはいない。むしろ人命救出の功罪として称えているくらいのものである。それは戦争に勝ったものの特権という程度にしか、認識が無いのかもしれない。
 僕自身は吊るしあげを行いたい訳ではないのだが、そのような考えは、残念ながら次の虐殺の布石にしかならないことだという気がしてならないだけである。既に戦争犯罪としてあげられる人物などいない時代になりつつある。人類の愚行として、アウシュビッツと並びうる虐殺の歴史に数えられる日が、いつかは来ることを願うのみである。
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