カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

馬鹿は心を清める   プライズメイズ

2015-10-31 | 映画

プライズメイズ/ポール・フェイグ監督

 副題は「史上最悪のウェディングプラン」。女友達が結婚することになり、親友として、そしてその花嫁の付添人(そういう役をプライズメイドというらしい。題名はその複数形)として活躍するお話。というか、親友の結婚を一番祝いたい立場であるのに、その一番の親友の地位を揺るがす存在があらわれ、翻弄される。その前に自分の夢として心血を注いだケーキ屋を破産させており、暮らしも仕事も安定しない立場にあるという前提もある。男も浮気相手の都合の良い存在として(いわばセックスだけ)の立場にあるという状況。そういう閉塞感もありながら、何とか親友の結婚式を大成功にしたいという思いが、逆流のようなハチャメチャな行動として爆発していく。
 いわゆる、痛い話で、その痛さが強烈過ぎて、ぶっ飛びすぎて、多くの人は引くだけ引いてしまうだろう。これだけのことをやらかしてしまったら、ちょっと表通りはしばらく歩けない。歩けないどころか、普通は近所には住み続けることも困難だろう。犯罪も犯すし、多くの人の生命も危険に冒したかもしれない。いや、それらのドタバタは大変に面白いのだが、日本人の感覚としてはかなり行き過ぎで、いくら映画とはいえ、女の人がやらかす失態としてはかなりどぎつい感じなのである。頭がカッと来たらある程度の無茶をやる人はいるだろうけれど、この人たちがやらかすことは、破壊の上にさらに泥を塗るような徹底ぶりなんである。徹底的に人を傷つけ、自分も傷ついてしまう。そりゃそうだろうということも考えないではないが、ここまでやれたら、さぞかしそれは愉快かもしれない。実際面白い訳だが…。
 しかしながら、やはりそれでも考えさせられるのである。自分が不幸な状態に陥り、しかし好転するような兆しはある。もう一度夢を追いたいのは山々なんだが、本当に深く傷ついて、臆病になりすぎている自分がいる。その殻を破るのは今ではまだ早すぎるのだ。でも、そのようにすがってしまうにはあまりにいい人過ぎるようにも感じる。それに、本当に運命の人なのかも今一つよく分からない。ものすごくかっこいい白馬の王子様ではないのだ。さらに親友の心も自分から離れていっているように感じる。本当にお互いに心のよりどころにしている親友に、このような心情さえ相談することもできない。フラストレーションはたまりにたまって、大爆発するより無かったのかもしれない。しかしやってしまうと当たり前だけど、事態はもっと最悪になるばかり。いったいこれから彼女らはどうなるの? というお話なんである。可哀そうだけれど、本当にたまらなく面白い。
 以前からこのようなアメリカン・コメディはそれなりにあるようだ。ただし男子専用。日本での配給も少ない。何しろ下品でくだらないし、男同士でビールでも飲みながら下ネタを連発して屁でもこきながら馬鹿笑いするような映画なんで、結局人を選んでしまっていたのかもしれない。そうしてその女性版なのだ。日本の女性がこれを観るかというのは、まだまだ教育的に難しいのではないか。
 ところがこれが、やはりお勧めしていい作品だと僕は素直に思う。僕は、何というか、このような馬鹿で正直な人たちというのが、本当にいとおしいと思える。物語そのものも素晴らしいし、このような映画をつくって馬鹿笑いしようと考える人たちも大好きだ。それに確かに下品だけれど、そんなことって本当にあることも含まれているんじゃないか。人間の邪悪さというのは、これをみないで、目を背けて唾を吐くような人にこそあるんじゃないか。そんなことさえ考えてしまうのだ。それに、いくら下品だからといって、この作品はちゃんといい話になっている。実にまとまりがいいのだ。それはやはり良心がちゃんと働いていて、バカだけど善良だという証明でもあるのだ。だからこそ、最初は戸惑っても、素直に身を任せて楽しんでいいはずなのだ。できれば女友達と一緒に、ポテトチップスでもつまみながら見るといいだろう。男の僕でも感動するのだから、女の人が観た方がもっと感動的なのではないか。馬鹿は人の心を清めてくれる。そんな感じさえするコメディ作品ではないだろうか。
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坂のついた名前など

2015-10-30 | 掲示板

 某会の懇親会無しの例会を初めて開催する。町の持ち物らしい建物の二階に会議室があり、T運営幹事さんが先に来ていた。僕は当然今まで例会になどロクに出席したことが無かったので、この会場には初めて来た。例会のしきたりのようなものがあり、開会ゴングの鐘を探すが見つからない。7時頃にもう一人の会員がやって来てロッカーを探すと、七つ道具が入っているらしいバッグの底に入っていた。7時を3分ほど過ぎたけど、なんだかあとは誰もくる気配が無いので、ゴングを鳴らしてそのまま挨拶らしきものをして開会。
 一応今後の予定がいろいろあるのでいろいろ相談。途中脱線して、この町の苗字で出身が分かることや、六坂といわれる坂のついた名前の多さなど面白い話はいろいろ聞けた。脱線は面白いがそればかりでは例会にならないのでやっと本文に戻って、話し合いも少しする。結局行事ややるべき清掃などの事業の日取りというのは、しかるべき人たちの日程を聞いて調整する必要があるようで、何しろ三人しか出席してないような例会で、そのような日程調整が上手くいかないことは目に見えていた。まあ、当日もたいした数は集まらないだろうにせよ、さびしいことには違いは無い。まあ、さびしい方が僕としては気が楽でよろしいが。何しろ100%例会のような無謀なことを考えるような人など皆無というところが何より素晴らしい。ということで、一人のメンバーが土日に東京に行くという妙な理屈のために(いろいろ忙しいという意味らしい)早く終わってしまおうということになった。異論がないのでゴングを二度鳴らして閉会。
 ところが会場のカギを誰も持っていない。どうやら昼のうちに事務局から預かっておくべきだったらしい。いろいろなところに電話して確かめるが、カギを持っているらしい人は捕まらない。建物はセコムに入っているというから、もう帰っていいよと電話の誰かが言った。ということで会議はすぐに終わるが、電話が長くなり一時間以上会場に居た。いや、でもそれくらいで済んで良かったです。次は15分くらいで終わるといいな。
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無茶な狂気は正常の道   地獄でなぜ悪い

2015-10-29 | 映画

地獄でなぜ悪い/園子温監督

 学生時代から究極ともいえる映画作りに夢を抱き続ける変な仲間たちと、やくざの抗争でいがみ合っている組同士の、妙な関係からなる本当のリアルな映画作りの思惑が一致する物語。単純に言うとそうだが、その経緯や絡み方のエピソードがてんこ盛りで、スピード感はあるが、なんだか感情移入が追いつかない感じの変なエンタティメント・コメディに仕上がっている。面白いんだが、妙にイライラもする。チープなんだが、時々おおっと唸るような高揚感もある。筋はそれなりにまとまっているが、とにかくまとまらずにめちゃめちゃになっていくという感じかもしれない。
 恐らく園子温監督の自伝的部分もありそうな感じが匂わせてあり、しかしその狂気が痛いギャグとしてはなんとなく空回りし、妙にイライラする。しかしその伏線があってこそ、後半の(よく考えるとリアルとしてはちょっと行き過ぎたが)ヤクザの本当の狂気が原動力となる迫力の映像と結びつくのだ。巻き込まれる男はなんだか可哀そうだけれど、まあ、惚れちまったのだから仕方ないよな。敵方の兄貴も、まあ、惚れちまったのだから仕方ない。親分にしても、自分の女房の夢のためなんだから仕方がない。皆つき合わされて、気の毒といえばそうだけれど、映画の神様が降りてくるというのは、このような仕方なさが重ならない限りは不可能なのかもしれない。
 無茶な映画なんだが、しかし、それはそれで分かるような気もする。いや、危ない部分で分かるということでは無く(多少は含まれるけど)、何か物事を一所懸命にやろうとするときの心情のデフォルメに、そうして女の子と対面した時に、いろいろ理屈をつけて自分を納得させないとどうにもならないようなダメな男というものに、ちょっとしたデジャヴ感を覚えるのかもしれない。僕とは似ても似つかないまったく共感の出来ないキャラクターが繰り広げる狂気にあって、しかし、その感情の根本にあるのは、本当にダメだった過去の自分がちゃんといる。今でもいるかもしれないが、ダメだけれどそういうものを抱えているから、誰もが大物になんかなれないのである。そういうアンチな成功を遮る自分自身の壁のようなものが、逆説的に語られている映画ともいえる。そうして実際の映画は、そういうダメな男たちの欲求をどんどん抱えたまま、構わず前に突き進んでいくのだ。これが園子温という監督の才能で、だから彼はまた映画の依頼が舞い込んでくるのではないか。人を選ぶような映画を撮っていながら、しかし興行的にはそれなりにいける楽しさを持っている。馬鹿だけど凄い感じもちゃんとある。狂っているけど、これはだから普通の人にも分かる映画なのだと思う。
 嫌悪を覚える人もいるだろうけれど、素直になればこれくらいはみんな馬鹿だと思う。いや、実際にはこんな人たちはいない。たぶんいない。しかしどこかで発散させなければ本当に恐ろしいことになるかもしれない。ある意味で彼らのような生き方は、羨ましいことなのかもしれない。
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助けて、美子ちゃん

2015-10-28 | 感涙記

 先日面接に来た20代半ばの女性の履歴書の文字が、きれいに整っていて感心した。そこで思わず「日ペンの美子ちゃん」でもやってたんですか? と聞いてしまったのだが、まったく意味が分からないようだった。どうも現在は、美子ちゃんの宣伝は漫画雑誌などでは無くなっているものらしい(もちろん後でググってみた)。
 今となっては明確に内容まで思い出せないが、友人の悩みがきれいな文字によって解決されるというようなものが多かった。なんとなく興味があったが、やはりハードルが高い気がして、申し込んだことは無い。
 確か高校生くらいの時だったか、友人の女の子が、以前日ペンの経験がある旨告白した。きれいな文字の見本があって、それを模写するという単純なものだったらしい。せっかくだからいくらかは努力したらしいが、一時のことだったという。実際に文字を書いてもらったが、それなりに上手いとは思ったが、彼女はなんとなく不満そうだったし、まあ、冗談のタネのような話だったのだろう。
 ところで悩むほどのことでは無いが、今はワープロになってホントに助かると思うほどに字は汚い。しかし弁解するとこれには訳がある。中学生くらいの頃にたいしてもともと成績が良くなかったくせに、さらに成績が下がったことがあった。父が何を思ったか僕のノートを見せろという。ぱらぱらと眺めて、「字を丁寧に書きすぎるのが原因だ(大意)」というようなことを言って叱られた。文字というのは書いたものが読めさえすればそれでいいのだ。さらに自分さえ分かればそれでいいので、丁寧に書くような無駄な努力をするなら、まともな勉強ができるわけがない。というような理屈だった。まったく納得がいかなかったが、まあ、下手でいいのであれば苦労は無い。僕はそれから意識的に字をへたに書く努力を怠らなかった。それで勉強をしたかといえばまったくだめで。自分が勉強するのは自分のためであるなら、学校の評価につながらないことの方が価値が高いと考えて諦めた。というかそういう理屈でサボった訳だ。
 今なら父より日ペンの美子ちゃんの方を信用した方が良かったことは明確だ。芸は身を助く。学問が芸と一緒であるかは議論の有ろうところだが、まあ、そういうこともあろう。身につかない言い訳のために、自分を助けてはいけない。結局逃げている自分に甘いことが、現在の自分であるに過ぎない。まったくひどい教育を受けてきたものである。
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キモかわいい?   ランゴ

2015-10-27 | 映画

ランゴ/ゴア・ヴァービンスキー監督

 CGアニメーション。日本では副題に「おしゃべりカメレオンの不思議な冒険」となっている。が、これはあんまり子供向けのお話という感じではない。そうでありながら、いわゆる大人すぎる作品でもない。日本人には少し分かりにくい、米国的に精神の発揚のあるコメディである。
 水槽ごと砂漠に落ちてしまったカメレオンが、砂漠の水不足にあえぐ町にたどり着き、ひょんなことからヒーロー的な保安官に任命されてしまう。水不足に陥った真の原因を探ると共に、実は単に人に飼われていたという過去しかない口達者のカメレオンの奮闘を描いていく。
 まず、キャラクターの造詣が、ちょっと違う。リアルな感じもあるにはあるが、デフォルメの仕方が少しグロいという感じかもしれない。ヒロインのイグアナ(かな)にしても、決して美しくないし、男たちはおおむね皆気持ち悪い。主人公も滑稽なカメレオンだし、爬虫類特有の、表情が分かりにくい感じもそのままだ。しかしながらそうであっても、ちゃんと感情は伝わってくるのだから不思議といえば不思議かもしれない。いや、むしろ抑制が効いていることで、かえってその感情の揺さぶられ方を、観る方が勘案してみているのかもしれない。
 さらに、砂漠の生き物たちの非情な感じも西部らしい。保守的な仲間意識を持ちながら、どこか抜けており、そうして強がっても無力なのだ。そういう中で際立った悪人があらわれ、恐怖のどん底に陥る。生き物の力関係の図式もはっきりしており、このような窮地を、実に巧みなアイディアで乗り切っている感じだ。そういうところは、だからアニメなんだということで、実に成功しているのではないか。人間のリアルな西部劇では、もうすでにこのような世界は描きにくくなっているのかもしれない。悪と戦う正義にしても、内面に複雑なものを宿しており、悪人だって実は事情がありそうである。時には単純に展開するが、その実その複雑さを勘案するから、嘘の仮面のカメレオンから、等身大のヒーローとしての脱皮が感激的なのかもしれない。
 北米では大変に成功した映画となったが、他の国ではどうなのだろうか。このような精神的な復活の夢というのは、まさに変貌したアメリカン・ドリームかもしれない。それが他国の人たちにはいまひとつわかりにくいのではないかとも感じた。もちろん理屈抜きに大変に楽しく観たが、声がジョニー・デップだからとか、そんな感じでは本当には面白くないのではないかとも思った。観てもらうための話題作りとしては掴み程度で、やはり自己啓発に近いようなものが、この映画のメッセージなんだろう。ま、頑張って仕事しましょう。
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運には近づいて欲しくない

2015-10-26 | culture

 僕はFBでも時々NHKの「たなくじ(0655という番組の1コーナー)」をUPしたりするので、縁起を担がない訳ではないのだという前提はあるはずなんだが、しかし、気分的にはほとんど、そのような縁起物のようなものに対して、深い関心は無い。いや、無いようにしたいということかもしれないが。
 お正月におみくじを引くことも以前には紹介したが、これもまったく信じてない。大吉が出ると嬉しいという気分は少し分かるが、むしろこれで運が悪いのなら救われないと、はなから嫌な気分になることさえある。凶が出ると何か誇らしい気分になるかもしれない。恐らく大吉より数は少なかろう(勝手な想像だが)から、実に貴重である。
 しかしながら、世の中にはゲンを担ぐ人というのはそれなりに居て、ああすれば運が良くなるとか、こうすればいいことがあるかもしれないなどという話はよく聞く。中国に留学中はあちらの人が大変にこれらに関心が高いことに文化的に驚いたが(共産主義というのはそういうものを信じないのだと勝手に思っていたこともある)、香港のような都会の人でも風水のようなものを盛んに気にすることだったし、同じようにベトナムやタイのようなところでも、やはり風水のようなものがあった。信心深いということとは少し違うような、真剣なまなざしがそこにはあった。そういうのを実地にみていると、やはりこれはアジア的なものが起源にあるのかもしれないとは思った。しかしアジアでなくともそういうことはあるらしいという話は聞くところで、やはり人間の根元的な欲求のようなものに、縁起を担ぐような気分があるのかもしれない。
 罪のないものであればそれでいいし、特に関心は無いから僕を放っておいてくれさえすれば何のことは無い。問題はやはり、本来的に関係ない立場で、運と対面したいという気分かもしれない。
 勝負師や、運動選手などもゲンを担ぐ人は多いという。努力を積み重ねるのはもちろんだが、最終的には運のようなものを味方にしたいという感情があるのかもしれない。どうしても勝つのだという意識の強いものは、その真面目さゆえに頼るものが欲しいということなんだろうか。
 実はそういうことと、僕のゲン担ぎのとの距離感は、逆説的に少し似ているのではないかと思ったりする。僕の場合には、やるべきことというか、それなりに一所懸命になって取り組んでいると、どうしても成功したいとか失敗が許されないとか、いわゆる勝ちたいという意識が頭をもたげる。これは当然のことで、そうすると、運に左右されたくないというような感情も同時に現れるような気がするのである。すべては自分の責任にあるのではない場合であっても、確かに運のようなものに左右されるような場合であっても、いや、むしろそのような場合だからこそ、風のような運のような流れに乗りたくない自分がいるような気がする。逆風でない方がいいに決まっているが、たとえ逆風であっても苦しくてもいいのである。そういう場合だからこそ神は沈黙するのではないか、というような感じかもしれない。そうであるから、負けたりすると、かえってさっぱりした気分になるようにも思える。そういうことに運で負けたと思いたくない。努力不足だったかもしれないが、それなりにベストは尽くした。だったら運で負けたのではない。それを自分で受け止めた方が、自分なりに清々する。もちろん勝てば嬉しいが、これは自分だけの手柄じゃないと(たとえ自分が一番だという気分であっても)いうようなこともさらりと言えるような気分になれる。要するに運に流されないことで、安定した気分になれるという感じかもしれない。
 もちろん考え方に過ぎないし、何の科学的な根拠もない。だからこそ、そういう運にまとわりつかれたくない。分かりにくいですかね。どうもすいません。
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幸福な時代を観てしあわせになる  イースター・パレード

2015-10-25 | 映画

イースター・パレード/チャールズ・ウォルターズ監督

 ダンスのパートナーから、自分より契約内容のいいダンサーに乗り換えられてしまった。失意と仕方なさから別のクラブで飲んでいると、そこである若い女が歌っていた。その女を新しいパートナーにして、再起をかけることにする。そうしてそのまま恋愛に発展するというお話。
 ミュージカルで歌と踊りが大切な作品で、少し前に一世を風靡したフレッド・アステアが当時ミュージカルで人気絶頂にあったジュディ・ガーランドと共に主演し、現実世界でも本当に再起を果たした作品とされる。
 1948年の制作ということで、日本は焼け野原で貧困にあえいでいた時代に、豊かなアメリカの風景を見た日本人は何を思っただろうか。ともかく日本でも、この時代のアメリカ映画は大変にヒットしたようだ。今から見ると多少時代がかったところは当然あるが、何の変哲もないストーリーでありながら、やはり楽しい気分になってみてしまう。ダンスも素晴らしくそういうショーじみた映像を眺めているだけで豊かな気分になる感じだ。
 特に好きな分野ではないのだけれど、僕自身も子供の頃から、なんとなくフレッド・アステアは好きなのだ。アメリカは嫌なところのたくさんある国だが、しかし理屈抜きにこのような映画をつくってしまう偉大さがある。本当に凄いことだと思う次第だ。こういうのを見ると、今のアメリカというのはだいぶ凋落している。いや、単に複雑さがそのまま目に見えるようになっているだけのことだろうけれど…。
 ひょっとするとこれは見たことがあったのかもしれないが、都合よくほとんど忘れてしまっていた。僕のような人間には、古典であるだけでなく自分の記憶の弱さのおかげで、いつまでも新鮮さの衰えない素晴らしい作品鑑賞が果たせた。時間つぶしに難儀するような人が居たら、このような映画を繰り返し見て幸福に浸るといいだろう。
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天気だけは共通だ

2015-10-24 | net & 社会

 今更新聞を取って無い、といわれても、それはもうまったく驚かない。そのほうが普通だし、とっている方が少数派であるのは繰り返し聞かされている。さらに普通に新聞は老人文化なのだから、僕のように若くない人間が新聞を擁護する必要はまるでない。僕自身も既に新聞そのものを信用していないし、ある意味、社会の曲がった面を確認するためだけにみているという感じだ。人間はある程度の偏見にさらされないことには、自分自身の軸足を保つことは出来ない。なんていうかっこつけたこと言うからいけないが、要するに惰性が続いているだけのことである。僕は既に老人になってしまっただけのことである。
 ところで新聞を読んでいない人たちはどうしているのか? などという疑問を持つ人がいるようだ。テレビを見ているんだろう、ということと、ネットであろう、という二つの答えが一応ある。そうしてそれで納得するというパターン。それは会話ではお決まりである。しかしながら新聞を斜めに読んでいる僕の感覚では、テレビは新聞を読んでいる人が見ている印象がある。内容が似ているというのが第一だが、例えば職場の人間や、少し若い人などにこのニュースなどの話題を聞くと、たいてい通じない。職場に来て新聞を読んだり、僕より年配の人ならば通じる。結局新聞を読まない人は、テレビでもニュースなどは見ないのではないか。またネットのニュースもだが、これは僕はあんまり見ないが、基本的には新聞と同じである。ネットでは自分のクリックする関心の方向を察知してニュースの選択がなされている傾向があり、それでもかなりニュースは少ない。事故や芸能人のスキャンダルは見出しにあるが、スキャンダルは興味が無いし、ニュースは後追いで内容が薄い。
 ところが東アジアの反日感情のニュースや、美容関係や通販などの情報は、あんがい皆が共通で知っている感じがある。僕はそれのどこにも共感が無く、それもあまりに情報が画一的で驚く思いがする。それはどこが出どころか時折尋ねると、「ニュース」といわれることがある。要するに僕の見ているニュースとは異なるニュースを見ているらしいのだ。それはテレビだろうし、ネットなのかもしれない。
 多様化と言ってしまえばそれまでだが、僕の方が偏っているのを棚に上げて、多くの人はずいぶんと偏ってしまっているんだな、といつも思う訳だ。
 しかしながら台風など天気のことになると、これはいつも共通だ。これだけが通じる。そうではあるが時々まったく違う予報を聞くことがあって、こっそりスマホで確認する。やっぱりあいつは何を見て言ってるんだろう、などと思う。しかし実際に予報通りなのかは五分五分くらいだろうか。要するにどっちが正しくてもいい問題なのである。
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女の目覚めとボクシング   百円の恋

2015-10-23 | 映画

百円の恋/武正晴監督

 三十路を過ぎてもひきこもりというか自堕落な生活をしている女が、出戻りの妹との喧嘩をきっかけに家出して一人暮らしを始める。行きつけのコンビニの深夜のバイトを始めるが、通りがけに見かけるボクサーで、コンビニの客でもあった男と恋に落ちる。何か恋愛において女性性を取り戻すとともに、いざこざもあり自堕落な自分との脱却もあり、どういう訳かボクシングに打ち込んでいくのであった。
 観ていると理解はできるが、こういう展開でボクシング物語になることは、あんがい予測が難しい。いや、最初からお話としてボクシングが関係ありそうだというのは分かるが、しかしなんとなく意外な感じで、実に真摯にボクシングと向き合うことになる。このあたりの変貌ぶりが見事で、主演の安藤サクラの熱演が実に光るという感じだった。体当たり演技というのは、平たく言うと女優として脱ぐという意味が多いのだが、普通はそれなりにせっかく脱ぐのだからきれいに撮影されることが多いのではないかと推察される。ところがこのヌードシーンが、そんなにきれいな場面という訳ではない。最初は肌は見せないが、強姦され、二度目はちゃんと恋が成就しながら、しかし性的に男の欲望のためだけということがかなり明白に見える。そういう、なんだか悲惨な感じが、後半のボクシングに生きてくるという演出なのだ。女優さんも大変だなあと、久々に気の毒になったが、しかしそのおかげで、かなり面白い作品に仕上がっていることは間違いない。もともと変な物語なのだが、妙な説得力が生まれているのは、そういう変なものでも、それなりに変なまま、力が入って表現されているのが良いのではないだろうか。しかし単純にスカッとスポ根には陥らない。複雑なものはそのまま残しながら、しかし後味がそんなに悪いわけではない。この悔しさこそが、まさに生きているという感じだ。たとえそれが安っぽいものであっても、しかし、かなり熱くなっているのである。そうしてそれを見ていた人の気持ちも変える力を持つに至るのである。
 僕は日本の底辺の闇のような社会の事はあまり詳しくないが、そういうものを妙に優等生的に告発するドキュメンタリーよりも、数百倍この映画の方が価値が高いと思った。人を選ぶという見方もあると思うが、しかしこれは子供が観てもいいんじゃないだろうか。どうせ無理だろうと思うけれど、社会科の授業で見せていいくらい、いい映画だと思った次第であります。面白いし。
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古いんだか新しいんだか変わらない面々

2015-10-22 | 音楽

 ちょっと思うところあってFMの放送を聞いていたら、懐かしのモーターヘッドの音が聞こえてきた。しかし、なんとこれが新譜だという。小さな驚きを覚えたが、それにしても相変わらずどんな曲を聞いてもあんまり変わり映えしない。凄いというかさすがというか、新譜の意味があるんだろうか。しかし年寄りが頑張っていることには異論はない。今や珍しくなくなっているとはいえ、これだけハードな人たちが唸っていることを思うと感慨深いものがある。何を唸っているのかは英語が得意でないので分からなくていい感じだ。
 珍しくないとはいえ、ちょっと前にスコーピオンズがやはり新譜を出していなかったっけ? 僕らの若いころにはどういう訳かドイツのヘビメタが結構流行っていた。僕はドイツ人といえばトーマス・マンくらいしか知らなかったけれど、一気にドイツの人の名前をたくさん聞いた時期だった。結局特に好きな分野ではないし、たいして記憶に残ったわけではなかったが…。
 その前の週には何とPILの新譜が流れていて、これもまた変わり映えしない感じではあるんだが、なんとなく斬新なへんてこさがちゃんとあった。何故か妙に音がいい。これも歌詞がそれなりに過激らしいが、やはり年寄りというのは昔から威勢がいいわけで、ロックの世界くらいしか、ロックのような人々は居なくなってしまった。
 古い人が新譜を出すのは、実際は当たり前のことで、長く続けて売れていることと、年を取ったファンが生きているということもある。以前のミュージシャンは、飛行機事故やドラッグなんかで若くして死ぬような人が多かったような印象があるが、生き残った人だってちゃんとロックし続けているということが今のような現実となって表れているのであろう。
 トッド・ラングレンの新譜の方はどういう訳かやたら元気が良くて、以前のような情緒的な良さという感じではなくなっていた。この人はどういう人なんだろう。何でもいまだにヒッピーのような生活をしているという。音楽ではないがヒッピーといえばスティーブ・ジョブズなんかを思い出すが、彼も近寄ると臭かったというから(あんまり風呂に入らないんだろうね)、自然主義というのは厄介な人が多いのかもしれない。でも時々活動して金を稼いで生活ができるんだろう。いい身分である。
 ニューオーダーやデュラン・デュランも今年は新譜をだしていた。こちらはある意味で相変わらずながら何か少し新しめの変化がある感じがある。へえ、今はこんな感じなんだね、くらいのものではあるが、それでもやはり若々しいというか。
 アリス・クーパーが中心となっているらしいハリウッド・ヴァンパイヤーズというのが出ていて、これはほとんど中身においては昔の名前で出ていますバンドなんだが、やはり元気がいい。これくらいになると売る気満々で健全だなという気もする。懐かしいだけでなく、ちょっとひねりもある感じだ。
 そういう中でデビッド・ボウイには引退のうわさがあって、もうライブはしたくないと伝え聞いている。もうそれでもいいとは思うが。
 もっとビジュアル的には老人的なのはキース・リチャーズなんだが、しかし彼はその風貌が人間の老人も越えている感じもする。音の方は歌ってるんだかどうなのかという渋さで、ギターはとりあえず元気で、これはソロでもいいというのはよく分かる。しかしどことなくストーンズより健全に見えるのはちょっと不思議な感じではある。
 ツェッペリンのリマスターも後半になってやっと買ってボチボチ聞いている。インストバンドみたいでいいことはいいし、未発表もあったのは良かったが、やはり現役発表時の完成度の方が勢いがあったことは否めない。それが時代であってまっとうな話ではあるし。
 とはいえ、ふだんは最近普通にパティ・スミス聞いてたりするんだよね。やっぱり成長はしてないままなんでしょう。
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学校は憎むべき場所なのか

2015-10-21 | 時事

 運動会シーズンも終わったわけだが、毎年のことではあるが、この運動会の競技において批判的な記事というは増えているように感じる。みんな学校行事は嫌いなんだろうか。
 そういうことなんだが、ある新聞を見ると、ムカデ競争において骨折した人の人数が全国の小中高でみると482人、という数字が躍っていた。ほー、そんなにたくさんの人が骨折してるのか、と素直に驚く。なるほどムカデ競争は大変に危険らしい。
 で、分母の話である。文部科学省のホームページを見ると(何故か平成19年度現在だが)小学校数は22,693校。中学校は10,955校。高校は5,313校。合わせて38,961校ということになる。全部の学校でムカデ競争が行われているのかは不明だが、一応これを分母にすると、0.014%程度になる。100校に一人くらい骨折者が出るということだ。もちろん怪我人が出るのは好ましいことでは無いが、十分ありうる数字だろう。
 しかしながら、運動会全体でみると、やはりそれなりの人数は怪我をすることだろう。いくら若いとはいえ、運動にはそれだけのリスクがあるという捉え方は出来る。運動会の競技については考える必要はあるだろうにせよ、怪我のリスクは含んだ上でのことであるのは当然である。
 もっと危険といわれる組体操の問題なんかもあるが、危険だからやめるべきキャンペーンというのは、単なる遠回しの教育関係者への批判の色が見て取れるようにも感じられる。ガス抜きでやっている面もあるだろうけれど、過剰反応するのが行政である。最初から怠慢でやりたくなかった人たちへの追い風になるだけのような気もしないではない。頑張っている人たちに水を差す、もしくは冷たい社会というのが日本の世論の一面である。
 少なくとも「482人も怪我人が」のムカデ競争批判には、批判のための情報操作と悪意があるというのが正常な読み方であろう。世の中というのは、このような方法で嘘をつく人がたくさんいる。本当に恐ろしいのは、骨折よりその悪意である。
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洞窟に今でも暮らしていて欲しい   洞窟おじさん

2015-10-21 | 映画

洞窟おじさん/吉田照幸演出

 13歳で家出し、そのまま洞窟などの山野でサバイバル生活を40年以上していたという人の話をもとにしたテレビ・ドラマ。出演リリー・フランキー、他。
 家庭の事情や本人の性格もあってか、虐待を受ける生活に嫌気がさして家出し、犬と共に山野で蛇などの野生の生き物を捕えて生きながらえていく。子供時代はそれで何とか切り抜けたようで、途中で戦争で息子を亡くした夫婦に拾われたり、河原でルンペン生活(家はあるんでホームレスではないんだけど、今風だとそういうことになるはずだ)ながら釣りをして暮らしたりしている。山で採れた蘭を売っていた時期などもあるようで、物語でしか知りえないが、ストリップ小屋でバイトのようなこともしていたようだし、半分というか、それなりに俗世界とも接点はあったようである。
 この話のタネ本(そのご本人が書いたもののようだ)もあるようだが、このようなお話が分かるきっかけになったのは、基本的に警察に捕まったからである。なけなしの現金で自動販売機の飲み物を買おうとした際、お金を入れたが故障があってか現物が出てこない。鉄筋か何かを使ってこじ開けようとしたところを捕まってしまったのである。お気の毒なことであるが、当然ながら尋問を受けているときに、このような過去のサバイバル生活について、にわかには警察には信用してもらえない。そういうところが笑いどころであるわけだが、しかし確かに怪しいのである。本当でなければお話は成り立たないし、恐らく大筋では本当の話だろうと信用するにしても、やはり現代社会人とはあまりにもかけ離れた話で、今となっては両親は亡くなっているかもしれないけれども、途中で兄弟とも出会ったりもするのである。タネ本を本人が書いたということでこのお話の元になった訳だが、途中までは文盲で、やっと名前を書ける程度になったにもかかわらず、このようなお話を書けたものであるのだろうか。中学生くらいで一人で洞窟に暮らすにしても、火を起こすのも大変なことだし、食事にしても塩や調味料すらないのである。蛇は刺身でも食べられたのかもしれないが、寄生虫の問題なんかもあるし、衛生面でどうにかということを抜きにしても、歯磨きや身の回りの品というのは道具が無ければどうにもならない。動物をとる罠にしても、自分で独自に編み出したとされるが、アフリカやアマゾンなどの狩猟民族においても、あのような狩猟の道具というのは、きわめて高度な伝統的な技法があってのものと考えられている。中学生くらいの単独の人間が独自で編み出すには、かなりのひらめきや素地が無ければ難しいだろう。
 いわゆるホームレスといわれる人々が暮らしているのは、多くの場合はやはり都市部である。多くの人が暮らす巨大な街においては、ゴミなどの中にも残飯など、社会的にこぼれた人を養うくらいの分量の生活の糧になるものがあるということだ。田舎や山などの人里から離れたところで生身の人間がサバイバルすることは、実は相当な人間的な能力や努力を必要とすることだろう。大人になってから河原に小屋のようなものをつくって暮らしていることからも、結局は人里離れた生活が厳しいからに他ならない選択だったのではなかろうか。
 ということではあるんだが、このような人がそれなりの数、日本にも残っていて欲しいとは思ったりする。ほとんどいないだろうからお話としては面白い訳だが、そのように常人から離れて暮らす人が日本にもいるということ自体が、多様性として豊かな日本という気もする。本人にどう思われるかは謎だけれど…。それはおそらく集団生活を余儀なくされている都市生活者などにとって、ある種のわずらわしさを感じていることは確かそうであるから、洞窟おじさんのような奇跡のようなお話が愉快なのではないか。社会の底辺でありながら、しかしある一定の満足度が、もしくは僕らの暮らしに執着しない考えがそこにはある。そういうものにあこがれまではしないものの、何か本質的に惹かれるようなものがあるのかもしれない。自分がやるにはまっぴらだが、面白い人に頑張ってほしい。それは極めて無責任に面白い現実なのかもしれない。
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運転者は犯罪予備軍だ

2015-10-20 | HORROR

 日本にいる留学生くらいだと慣れているだろうから十分通じるだろうけれど、「ドライブに行こう」という日本語には、最初はピンとこないという話を聞いたことがある。目的地が無くて運転だけ、というのが、なんとなくわかりにくいという意味らしい。車に乗りながら話をしよう、ということなら分かるんだろうけれど。
 天気のいい日なんかに車の運転をするのは、確かに気持ちのいい時がある。車の運転自体が娯楽性があるというのはある。ジェットコースターやゴーカートなんかが娯楽であるのは、スピードを体感したり運転することを、金を払ってでもやりたくなるということでもある。そうであるならば、自家用の車の運転も、娯楽であるという見方は十分にできる話だ。だから通勤のような目的行為であっても、同時に楽しんでいるという見方をすることもできるかもしれない。
 何を言いたいかというと、運転が娯楽であるのなら、制限してもしかるべきではないか、という議論があるのを知ったからである。酒や煙草は嗜好品であるから、嗜好する人はやってもいい代わりに、それなりの責任とルールがあるように、運転についても、特にドライブなどという行為においては、何らかの方法で課税するなり制限してもおかしくないだろうというものだ。車を買えばその中に税金を含んでいるのだし、重量税その他の特殊な税を別に納めている。保険などの負担もあるし、維持費においても、間接的に税の対象になっているものは多いだろう。それ以上にまだ負担を求めるのはけしからん、という思いの人もいるだろう。しかしながらご存じのように、車は鉄の塊で、さらに十分人を傷つけ、場合によっては殺傷能力の高い凶器である事は間違いが無い事実だ。日本では、一時期のように交通事故の死傷者が増え続けているという状態は脱したが、それでも年に四千人を超える人が自動車事故で亡くなっているという。世の中には様々な娯楽があろうが、自動車のように他人を巻き込んで不幸に陥れかねないような娯楽は、そうそうあるものではあるまい。そうであるならば、特に目的も持たずに凶器を振り回すに等しいドライブのような行為は、慎むべきものではないかという理屈は、それなりに一理あると言わざるを得ない。
 ちょっと前に交通安全啓蒙のビデオを長時間見せられたのだが、加害者となってしまった運転者や家族の悲劇が、これでもかというくらいしつこく繰り返し演出されるものであった。少しでも飲酒をするのはアウトであるにせよ、乾杯してすぐに顧客からクレームが来て早急に駆けつけるよう要請を受けてしまう。実はそれは自分の部下のミスで、そうして実に責任感の強い人だからこそ、急いで顧客の元へ行くには運転以外の選択肢が無い。それで結局お約束の事故を起こしてしまう。結果的に殺めてしまうのだが、繰り返し謝罪に行くが虫けらのようにあしらわれ、刑務所に入り謝罪のお手紙を繰り返し書くが受け取ってももらえず、自宅は借金に取られ、妻子は生活苦でやつれ果て、子供はいじめられ、結局愛する妻は離婚を決意する。会社は事故を起こした人間を出したとして業績は悪化。社長や社員たちも、さらには今回の事故の原因でもある部下でさえ冷たい。亡くなられた人の家族もお気の毒ではあるが、加害者が苦しんで当然であるということのようだった。意味は分からないではないが、正直者で良い人だから、社会罰を受けて苦しんで、精神も異常にならんばかりの苦しみでいいのだという演出に徹していた。悪いことをすると社会的制裁としてとことん犯罪者をいじめていいということを主題にしていて心苦しい。本当にそれでいいのだろうか。暴走運転をして、一つも反省もせず謝罪もせず運が悪かっただけだという開き直りの犯罪者もいるだろうに、何という不公平な社会だろうか。
 要するに車を運転する人間は、ろくでもない犯罪予備軍である。だからそれくらいの罰や制限を受けさせるべきだという考えの人が、一定数いるのだろう。楽しみにはそれくらいの責任の上でのことだと言いたいのだろう。いつの間にか本当に歪んだ世界になったものだと感じたことであった。
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みな若いが濃い人々   冬の華

2015-10-19 | 映画

冬の華/降旗康男監督

 高倉健が亡くなった時に、恐らく予約していた作品。要するに見逃していた訳だ。
 脚本が倉本聡。組を裏切った男を刺殺したが、その男には幼い娘がいた。部下を通して服役中にその娘に援助しながら文通をしている。そうして出所後、堅気になるつもりでいたのだが、関東の組はまた関西の組織と統合という話できな臭くなっている。抗争めいた空気もある中、やくざとしてのしがらみがあって、簡単には足を洗えない。さらに、殺した男の娘は成長しており、援助した自分を慕ってもいる様子。立場上身分を明かせずに苦悩するのだが…。
 もともと任侠映画で人気を博した健さんが、人をバサバサと切り裂いていくようなアクションをあえて捨てて、静かに静かに心の葛藤を描く演技に徹している。多少の立ち回りは見せるものの、ほとんどその貫禄の動きだけであって、アクションとは言えない程度のものである。はっきり言って渋い訳だが、やくざのしがらみや苦悩というのは、普通の会社人間と何が違うのかよく分からない感じでもある。要するにサラリーマンと同じなのかもしれない。確かに暴力はふるうのだが、普通に接待で飲みに行って、ライバル会社と意地の張り合いをしているようなことと、あんまり変わりないような印象も受けた。まあ、日本の会社というのは、限りなくヤクザな世界なのかもしれないけれど。
 それにしても高倉健がちょうど僕くらいの年齢の頃に撮った作品なんだそうで、当然、なんとなく勝手にいろんなことを考えてしまう。まず、結構既におじさんだよな、と思うのだが、僕はやくざじゃないから幼いのだろうか。同時に、いろいろ肩ひじ張って無理をしているのだが、そんなに物事にこだわるほど、もう僕は若くは無いな、とも思う訳だ。単純化していうと、物事の考えは今の僕の方が柔軟だけれど、しかし見た目は健さんの方がずいぶん貫禄があるんじゃなかろうか。まだ殴り合いの喧嘩なんかもしているし、トーストを焼いて食べるときなんかは、無邪気さも残る。まあ、違う人間なんだから当然なんだが、同じくらいの年齢だとは言っても、時代や背景が違うだけで、ずいぶんと異星人じみて違うもんである。映画なんだからそれでいいけど、また何年食らうことになるんでしょうね。僕はシャバで生きていきたいです。
 それにしてもみな若く幼いくらいの人も目立つが、そうした中大滝秀治だけは、当時からかなりの爺さんだ。このころから亡くなるまでずっと爺さんであり続けたというのは、老け顔である以上に、個性的だったということなんだろう。俳優さんたちというのは、皆多かれ少なかれ漫画のような顔をしている訳で、やっぱり変な集団だと、改めてこんな映画を観ると感じてしまう。そういうものだから僕らも好き好んで観て楽しめるわけだ。噂のような名作ということには疑問が残ったが、それなりに楽しい映画なのであった。
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がんばれカラカラ

2015-10-18 | 雑記

 フォークランド諸島といえば、アルゼンチンと英国との紛争といわれるものを思い出してしまうが、結局力のある英国がいまだに自分の領地にしている変な島である。この島には別名フライング・デビルズとも言われるカラカラという鳥がいる。ハヤブサの仲間で主に他の鳥の屍肉などを食べるからそういわれているのではなく、実は好奇心が旺盛で、人も恐れず近づいてきて、持ち物などを奪い去ってしまうことから恐れられたらしい。後に家畜を襲うという誤解もあり人間に乱獲され数を減らした(いつだって人間は罪深いですね)。しかし現在もいくつかの島に点在して暮らしているようだ。
 好奇心が強いだけでなく、まったくずる賢くなんでも奪って食べるのが得意なようだ。ペンギンの雛も隙を見て襲うし、クジラドリといわれる穴の中に隠れている鳥なども、その気配を察知して穴を掘り返して捕えたりする。弱った羊など動物も襲うし、死んだ動物はいち早く見つけ出して食べる。ハゲタカのような掃除屋の性質もあると思うが、要するにそれが彼らの生きる道なのである。
 カラカラは年に4個ほどの卵を産み、育てる。雛から若鶏に至るまですくすくと育つが、フォークランド諸島は厳しい冬が長い。島は多くの渡り鳥たちの繁殖の地となっていて、夏場には何万羽という渡り鳥が集結し、カラカラが獲物を獲得することが比較的容易にできるものと考えられる。しかしながら冬場になると、当然渡り鳥たちの姿は無くなってしまう。進化の過程でなぜカラカラがこれらの島々に生き残っているのは知らないが、カラカラの飛行能力では、他の島々を渡り切ることが出来ない。極寒の環境と乏しい食料のために、若鶏が年を越すことは大変に困難だとされている。
 人間が悪魔と恐れるほどの図々しい好奇心旺盛な鳥は、実は環境的には非常に厳しい中でたくましく生きることを強いられていると考えらえる。そのような賢さをもってしても、多くの個体は生き残ることは出来ないのである。それでも残る個体があって、命をつないで繁殖している。そのようにしてでも生きるということを考えるとき、動物の多様性というのは、実に執念深いものなのだと思うのであった。
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