カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

あきらめから始めよう(社会から距離をおくということ)

2020-03-31 | net & 社会

 スーパーなどの買い占めのニュースなどを見ていると、最初は何故かが予想できず驚いてしまう。ああそうか、という原因はすぐに分からないくらい鈍感だからである。そんなことになる予想が、まったくできていない。自分の中で、原因と結果が素直に結びつかない。その後にじわじわ感じられるのは、悲しいというか、そのような人々をさもしくも、哀れであるように思う気持ちである。行動を起こしてしまう人々の気持ちが、分からないからこそ沸き上がってくる素直な感情である。そうして、このような人々の行動が、いずれは我が身にも降りかかってくるだろう災難を予感させられる。必要な人に必要なものが届かなくなることは明確なので、迷惑な行動なのは間違いない。自分さえよければよいというエゴが透けてみえるし、我先に恐怖から逃れたい衝動を抑えられない動物の群れを見るような感じでもある。しかしそれらの人々の中には、そのような迅速な行動こそ、自分自身の賢さのように思っている人もいるかもしれない。不思議だが、それが自己正当化ということだろう。
 これを報道の過剰さのせいである、という論調で語る人もいる。もちろん、報道は過剰である。それは明確な事実ではあるものの、今度はその論調を受けて、そのような報道のサインのために、彼らはそういう行動に移ったか、ということとの関連はそれほど明確ではないという意見も生まれている。恐怖の飽和感を煽っていることに間違いはないが、発火点ではないということだろう。サインは読み取っているものの、買い占めは自発的なものだということを言いたいのかもしれない。
 少なくとも信用の問題なのは間違いが無くて、自粛要請などという政治パフォーマンスの先には、一時のもの以上の、さらに連鎖して続く不確定な長期戦を予期させられるものが含まれている、という読み取りがなされたということであろう。そのために自己防衛本能に火が付き、そのための行動を、選択させたということだ。同時にそう感じた人がいたからこそ、買い占め行動が顕在化する。そうして後追い報道が、その過剰さを拡大させるということだろう。一度そのようなスパイクが起こると、収縮までに時間がかかる。結果的には品不足の解消が遅れ、二次的な波が再発されるのである。
 収束が見えないのは、誰のせいでもない。しかしそれらの要請がなされてしまうと、終わりの判断をどうするのか、という素朴な疑問がわく。そうしてそれはたいへんに難しい問題だということが容易に理解できる。始めてしまうと終わりが予見できなくなるのである。では始めなくてよいかといえば、出来るだけ早く始めること以外に、自己の責任から逃れるすべがないことに気づかされる。要するにこのように答えのない問題に対しては、早めに責任は他人に転嫁したものの勝ちなのだ。そのバトンが次々に渡された先に、この問題から最後まで逃れられない責任まで行き着く。それが多かれ少なかれ自己責任の一番最後の自分の判断ということになってこよう。まだまだ逃げる人はいるから、今度はそれを他人から教えて欲しがる人ばかりになってしまうだろう。そうしてそれにこたえられる人というのは、極端に無責任な人か、まったくのクレイジーな人くらいしかいない、ということになってしまうだろう。だから人々は、公的には口をつぐんでしまうのである。
 自己責任感があっても批判される。今度はその恐怖感との戦いになる。これが社会性のある人間の最大の欠点である。だから答えとして最適ではないにせよ、一定の距離感を持って行動するほかに、手立てはないということである。それではみなさん、ごきげんよう、ということになるんでしょうか。
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犠牲者が出ないと許されない世界   僕たちは希望という名の列車に乗った

2020-03-30 | 映画

僕たちは希望という名の列車に乗った/ラース・クラウメ監督

 戦後10年という設定の東ドイツ。西側のニュースでポーランド隆起を知った学生が、そのポーランドの行動を起こしている民衆に対して(その鎮圧にあたるソ連に対する抗議として)授業の開始2分間に黙祷(実際は黙っているだけ)をささげる。最初は意味が分からなかった先生が、学生たちの反抗的な態度としてこれに憤慨し、問題はどんどん大きくなっていく。ついには国の大臣までが問題視し、この黙祷の首謀者を割り出して、処罰しようとする。
 東側の優秀な学生たちの特別クラスのようだが、西側の動向がやはり気になり、西側のラジオ放送などを集まって傍受して聞いたりしている。またこのころはまだ西側にある墓参りなどの理由で、(おそらく移住でなければ)移動できたようだ。検閲はあるが、認められれば西ベルリンなどのまちに繰り出して遊びに行ったりしている様子が描かれていた。そういうこともあって、若い彼らは、祖国としての連帯の意識はもちながらも、東側体制に対して懐疑的な感情も持ち合わせていたものと思われる。
 さらにポーランドの大衆の隆起というものは、抑えているソビエトの存在がある。東ドイツも同じだと思うが、強大なソ連邦という存在に、おびえながらも頼らざるを得ない祖国の立場ということや、そうやって建国した親世代たちとの意識の違いもあることだろう。エリート集団の個々には、それぞれに今の境遇に至った立場の違いがある。親たちの考えの違いもある。彼らはそのはざまに立たされて、激しく葛藤し苦しめられるのである。
 結果的に一番追い詰められたのは誰だったか? ということはあるが、皆それなりに可哀そうである。ほんの出来心というか、ちょっとした若者の正義感が、多くの人のその後の人生まで決定的に変えてしまうことになる。それが冷戦であり、国家の権力の及ぶ我々の立場である。現代の比較的西側に所属する私たちが享受している自由というのは、ただの空気ではない。他国の歴史的な物語だが、たまにはその閉塞感も考えてみるといいのではないだろうか。
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ひどい出来栄えカルト作品   マンディ 地獄のロード・ウォリアー

2020-03-29 | 映画

マンディ 地獄のロード・ウォリアー/パノス・コスマトス監督

 妻と仲睦まじく人里離れて暮らしていたが、カルト集団に拉致されて、目の前で妻を惨殺される。復讐に燃える男は、妙な鎌のような武器をもって殺戮に走るのだった。
 という内容のカルト的な作品のようだ。間が長く、赤っぽい映像で見にくい。何が面白いのかよく分からないが、そういう残念な気分にさせるための映画なのかもしれない。ベルギー映画であることと(なんと偶然にも今月はベルギー二本観てしまった)、ニコラス・ケイジ主演作ということで、多少話題になったせいで観た人が居たのだろうと思われる。失敗してしまったと思ったが、あんまり先入観無く観ようと思って、情報を収集していなかったのが痛かった。後悔先に立たずである。面白くないので、基本的に観ない方がいいと思います。
 しかしながら世の中には物好きな人というのはいるのであって、こういうことを書いてもかえって興味を持ってしまい観てしまう人が出てくるのかもしれない。そんなこと言うけど、本当は面白いんじゃないかとさえ考える人が居るかもしれない。また、僕がほめていたから観たけど、案外つまらないと思った経験があって、僕がつまらないと思った作品ほど面白いのではないか、と考える人もいるかもしれない。そうかもしれないけど、これは警告であって、本当にお勧めではない。そのように考えた人々は、自己責任でもって、断固とした態度で観るべきであろう。
 とはいえ、妙なものを見たという変な優越感は味わえるかもしれないので、そういう人向きの作品ということにしておきましょう。
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金塊見つけた者勝ちの世界   ペイル・ライダー

2020-03-28 | 映画

ペイル・ライダー/クイント・イーストウッド監督

 今や古典的な名作ともいわれる西部劇。シェーンと、荒野のストレンジャーが混ざったような内容の作品。
 金採掘でもめている西部にある谷あいのまちで、その地区で強大な勢力を誇る一団に絡まれている労働者を流れ者の男が助ける。それは謎の多い牧師さんで、線は細いものの二枚目で、悪党にも動じない力強さがある。巨大悪党勢力に圧力をかけられ苦しんでいた集落の皆は、この救世主が現れたことで活気づく、金塊も徐々に見つかりつつある。この谷をわがものにしたい巨大勢力は、殺しも辞さない凶悪保安官集団を金で雇って(要するに刺客)救世主の牧師をつぶしにかかるのだった。
 牧師がかっこよすぎるので、匿った家の15歳の娘から熱烈に好かれる(これが疑似シェーンのような感じ)。さらに母親も実は熱を上げているらしい。しかしこれは婚約者というか、一緒に暮らしている男と結婚はしたいらしい。まあ、そこのところは困ったことなのかどうかよくわからないが、イーストウッドがそれほどかっこいいというナルシスト的な演出なのかもしれない。
 一度は、集落と権力者の男と採掘権の交渉のつなぎ役となる牧師だったが(それもそれなりの妥協点まで値段を釣り上げたうえで)、救世主がいる中で強気になっている集落民は、徹底して戦い抜くという話し合いの決議を取ってしまう。翌日しかし、牧師はどこかへ消えて出て行ってしまうのだった。このあたりの民衆の心理のふらつきながらの描写が見事というか、一定の緊張感に包まれる。自分たちだけでは何もできないと思っていたことが、牧師の存在で、必要以上に自分たちの力を過信するようになってしまったのではないか。それにことによると今度は命がかかっている。本当の引き際というのは、今この時なのではなかろうか。
 そういう葛藤あってのカタルシスは、ちゃんとあるから西部劇である。結局そういう思いを持ちながらも、逃げなかった集落の人々に対して、牧師は行動を起こしたということなんだろう。こういうカッコよさは、やせ我慢だからいいのである。洋の東西を問わず。というところでしょうね。
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鯨は食べるために捕りましょう   白鯨との戦い

2020-03-27 | 映画

白鯨との戦い/ロン・ハワード監督

 メルヴィルの白鯨誕生秘話らしい。鯨油を取るための捕鯨船が、より大量の鯨を求めて遠洋に繰り出した。長い航海の後鯨の大群に出くわすが、この鯨の群れを率いていたのは、特に巨大な白いマッコウクジラだった。銛を打ち込んで仕留めようとするが、当然暴れられ、母船は火災となって大破。投げ出された船員たちは、小さな補助船数隻に分乗し放浪し、無人島に漂着する。ホッとしたのもつかの間で、そこでの将来性が見込めないとして、一種の賭けに出て、さらに海に繰り出し帰ろうとするのだったが…。船上での激しい飢えと渇きの中、死んだ仲間の死肉を食らうことによって、生き延びようとするのだった。
 要するに、白鯨という小説が誕生する前のルポルタージュを映画化したものらしく、実話がこれだったということのようだ。それだけ壮絶なサバイバル航海の記録が、結果的にフィクションとなって世に出たのは、当時としては、人間倫理の面から語られてはならない、共食い(カニバリズム)の問題があったためだということなのだろう。文化的禁忌というか、宗教的な考え方に抵触したショッキングな出来事であるということかもしれない。まあ、その苦しみも分かるが、相手も死んでいることだし(殺したのなら話は別だ)、仕方なかったものではなかろうか。
 クジラに対するものの見方も、やはりずいぶん日本のそれとは違うわけで、鯨のことは石油や金塊のような捉え方をしていたことも見て取れる。200年前から、アメリカ社会はエネルギー依存型だったのだろう。
 娯楽作品としての迫力ある映像にはなっている。全体の半分は敵としての鯨の姿を現しているが、後半は人間哲学のようなことになっていて、ちょっとまとまりが分かりにくいお話かもしれない。結局あの鯨は何だったのだろう、という印象だろうか。人間模様としても、船長と船乗りの確執が、中途半端である。まあ、事実とはそんなものかもしれないが。
 それにしてもせっかく捕った鯨を、油を搾って捨てるようなことでなく、食いつないで航海するなどすると、もう少し効率よかったのではなかろうか。こんなことをしているアメリカ人の愚かさもあるけれど、現代の西欧人も(そしておそらく日本人の多くも)原型としてはこんなもんかもしれない。まあ、それはもうひとつの現代的な見方に過ぎないのだろうけど。
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アニメに負けない奇想天外さ   ミッション:インポッシブル/フォール・アウト

2020-03-26 | 映画

ミッション:インポッシブル/フォール・アウト/クリストファー・マッカリー監督

 盗まれたプルトニウムを、悪の組織に渡さないようにスパイ組織が活躍する。内容は何度も反転して進むので、めんどくさくて説明しにくい。ちょっと複雑になりすぎていて、進行している状態が、いったいどうなっているのかも分かりにくくなっているが、とにかく軽快にアクションを交えて進むので、あまり気にしなくていいのかもしれない。騙されたりはめられたりするが、同じく相手をうまくやり込めて騙したりしている。知恵比べなのであるが、結果的に勝てばいいゲームなのだろう。
 カーチェイスも見どころであるが、ヘリコプターでのアクションもある。ふつうは死んでしまうところ、生き延びる。基本的には生身の人間がやっているという設定のようだが、とにかく死なない。しかし、他には死んでいる人がいるようであるから、何か特殊な能力があるという設定なのだろう。
 とはいえ、この作品は娯楽性という意味では、かなり抜き出ている出来栄えではある。複雑すぎて何が何だか分からないといったが、何が何だかわからなくても、なんだか崇高に感心できてしまうし、スケールはでかいし、芸は細かいし、スピード感はあるし、たるんだところは見られないし、敵も天晴だし、アクションに用いられるモチーフのアイディアも素晴らしいし、逸話もたくさんあるし、キャラクターの造形もできているし、敵の一部はあんがい肝心なところで弱いけど、しつこくいろいろ出てくるし、そうしてやっぱりトム・クルーズはかっこいいのである。この人はアニメキャラでも十分にやっていけるだろう。
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ラーメン:時々出会えばいい関係になる

2020-03-25 | 

 以前より食べなくなったものに、ラーメンがある。嫌いになったわけではないが、なんとなく避けているということもあるかもしれない。麺類全般が好きであるけれど、麺を食う時に、ラーメンがなんとなく外れる。そういう感じになっているのではないか。
 ラーメンにもいろいろあるから、そのすべてをひとくくりでラーメン好きと考えては乱暴な気もする。例えばインスタント麺であるが、その中ではチキンラーメンははっきりと嫌いである。理由もはっきりしていて、あんまり旨くないからである。それはたぶん僕が九州の人間で、あの味付けが合わない所為だろうと思う。インスタント麺は、たいして旨くなくてもふつうは気にならないものだけれど、チキンラーメンは別である。こどものころに、旨そうだと思って食べて、これは裏切られたと思った。大人になってあの頃の思いは間違いではなかったかとふと考えて再チャレンジしてみたが、やはりこれはひどいものだな、という確認に過ぎなかった。ああいうものを食べる地方というのは、何か根本的に食文化が違うのだろう。
 いや、嫌いなものを食べないという話では無かった。ラーメンを比較的食べなくなったということだった。
 第一は、やはり体のことを考えるというのがあったと思う。それでも〆のラーメンで後悔することは年に数回くらいはあるだろうから、懲りているわけではない。しかしそれなりに意識がはっきりしているのならば、僕の自身の選択として、ラーメン屋に入ることが稀になった。一人で食事があんまり得意ではないというのはあるが、しかし一人でも飯は食う。ラーメン屋はたいへんに魅力を感じているものの、まあ、よそうかな、と思いとどまることに成功しているということなんだと思う。
 何より他に選択肢があるというのがいい。ラーメン屋ばかりしか無いまちというのは少ない。うどん屋もあるし蕎麦屋もある。定食屋もあるし、チェーン店だってある。ラーメンだけを選択していた人生の方が、何か極端に狭い道を歩いているようなものだったのではないか。
 それともう一つは、何かご飯に対する郷愁が、年を取ることでよみがえったのが大きいのではないか。僕は特に米食を中心に生きてきた日本人ではない。どちらかというと麺類が好きだったし、ご飯が無くても特に何の問題も感じていなかった。さらに留学をしたのが決定的だったのか、本当に年に数度しか米の飯を口にしないという期間が生まれた。夜は酒を飲むので、まず米は口にしない。夜であれば、寿司屋であっても寿司そのものを注文することがあまりなかった(まあ、寿司屋に入る機会なんてもともと少ないし)。宴会料理でも、無視しているわけではないが、コメは食わない。それは若かったからだということが、今頃になって分かってきたのだ。
 そのような生活をしていたからと言って、そのようなスタイルがずっと定着して続くわけではない。年齢を重ねると、段々と生活スタイルは変わっていく。やはり米を口にすると、改めて旨いものだと気づかされることが増えていったように思う。そうして最近になって確信を持つようになったが、別段米を嫌っていたわけではなくて、格好をつけてやせ我慢していただけだったのではないかと思ったのだ。僕は米を避けて生きてきただけのことで、米の魅力を知らなかったわけではないのである。
 ということで、麺類さえ食っていれば米は必要ないという考えを、改めたに過ぎない。そうすると、麺類の中でも特にラーメンが、少しづつ影を薄くしていったのではないか。
 もちろん、今も変わらずラーメンは好きなのである。大好物と言っていい。しかし選択の中の一つになって、今まで避けられた分野が確固たるウェイトをもって存在するようになって、今の瞬間是が非でも摂らなくてもよいものになったということだろう。
 いつかはまた変化するかもしれないが、このままの人生で悪くないと思う。時々考えて接するくらいの付き合いが、これからは望ましい関係なのではなかろうか。
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変だけど名作感の漂う作品   さらば冬のかもめ

2020-03-24 | 映画

さらば冬のかもめ/ハル・アシュビー監督

 今から47年(1973年)もの昔の映画。若き日のジャック・ニコルソンを観ることができる。
 わずか40ドルを盗んだ(実際には未遂)罪で、それが司令官の夫人が管理していた募金箱であったために、懲役8年というむやみに不当に長いものになってしまった若い海兵隊員(要するにものすごく運が悪い)を護送する任務を命じられた二人の下士官だったが、実際に護送中に、なんだか気の毒になってしまって、この罪人青年に、酒を飲ませたり、女をあてがったりして、つかの間の人生経験を積ませようとするロードムービー。公共交通機関を使って移動させなければならないようで、勤務しているノーフォークから北上してポーツマスという街まで、624マイル(約1004キロらしい)をさかのぼっていく珍道中になる。護送兵も、いわゆる人の良さも無いわけではないが、要するに不良であって、若い後輩兵隊が(手癖は悪いが)かわいいのである。気の毒に思えて仕方ないのである。何しろ懲役8年だから、青春がつぶれてしまうのだ。この時期には楽しいことが山とあるはずなのに…。
 まあ、危なっかしくて大変なのだが、これが妙に心に残るのである。ベテラン海兵隊コンビにしても、白人の方はアル中で、黒人は比較的まじめな良心がありそうだが、不真面目でないわけではない。青年はおとなしく手錠を外しても逃げるそぶりさえない。単なるやっつけ仕事でもよかったのだが、道中距離もあることで、いろいろ寄り道して時間をつぶす。単に飲んだくれて、妙なところに顔を突っ込んで、騒ぎを起こしているだけなのだが…。
 罪を犯したことは悪いことだが、いわゆるそれは、海兵隊組織としてのメンツというか、あらがい難い権威主義である。さらに大きく解釈すると、閉塞感のあるアメリカ社会なのかもしれない。みんなそういう社会のあらがい難い閉塞感の中で、個人としては汲々と生きていくしかないわけだ。しかしながら、その不当さに対しては、はっきりと反発する心がある。個人で出来る限りの抵抗を、ちょっと的外れかもしれないが、彼らはやりながら旅をしているということなのだろう。そうしてそのことに、観ている人間も共感してしまうのかもしれない。変な映画だが、それなりの名作とされているのは、そうした時代を見事にとらえているからであろう。
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立っていても、書ける

2020-03-23 | 雑記

 ヘミングウェイは立って書いていたという。タイプも立って打っていたらしい。見た人がいるんだろうけど、本人もそう言っている。鉛筆をたくさん削って(20本という説もあるが、7本と答えたりもしている)紙に大きな文字で書く。大きな文字だから、ピリオドが×になったりするんだそうだ。そうして、早く書くときはタイプを使ったりするという。何度も書き直すらしく、タイプで打って、さらに書き込んで、タイプに打ったりということをするんだろうと思われる。場合によっては、30回以上書き直したらしい。
 近年は、一般の会社でも立ってパソコンを操作するなど工夫しているというのをニュースで見た事がある。座って仕事を長時間やるのは、健康に良くない所為だという。立って仕事をすることで、効率よく、捗るなどいいことづくめだとか。そういう高さを変えられる机もあるんだそうだ。製図版なんかもともとそうかもしれないが、これはこれで出費である。
 呉智英は立って本を読むと書いていた。これは多少影響があって、いつもじゃないが、僕も立って読むことがある。厳密にいうと立ったり座ったりして読む。どっちもきつくなったらやめる。健康のためというより、そうしたら読みやすいということもあるような気もする。もちろん寝っ転がって読んだりもする。読むというのは時間がかかることもあるから、そうなるのだろうと思う。
 携帯電話で話していると、いつの間にかウロウロ歩いていたりする。話をしているときに歩くと頭が活性化するような気がしないではない。ウロウロしていると、話しながら何か思い出したりする。電話と違う内容だったりすると、電話をクビと耳のところに挟んで、メモ書きする。忘れないようにしなくては。そうやってメモしていると、忙しそうに働いている人と思われるかもしれない。普段は田舎暮らしだから、そんなことを気にする必要はないけれど。
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偏愛こそが価値を生む   文房具図鑑

2020-03-22 | 読書

文房具図鑑/絵・文 山本健太郎(いろは出版)

 著者が小学6年生の時の自由研究が話題を呼んで出版されたというものらしい。著名の通りで、好きな文房具について絵入りで詳細に自分の解説を加えた作りになっている。
 文房具なので、消しゴムやノートなども紹介もあるのだが、特にボールペンへの偏愛がみられて面白い。形をラフなタッチで再現しているのもいいし、実際に書いたインクの感じなども記してある。これを見て欲しいと思うようなものが数本あり、実際にアマゾンでクリックしてしまった。それなりに影響力も持っているのである。
 なぞなぞがあったり、漫画があったり、なんとなく落書きのような書き込みがあったりする。自由研究としての自由な発想と、本としてのバラエティさがあるのかもしれない。時間をかけて書き込まれていることは分かるが、中だるみのようなところもあって、かえって微笑ましいかもしれない。
 ただし、というか、当然というか、これは小学生が書いている自由研究だから面白いのであって、大人が微笑ましく読むというたぐいではある。そういう目的なのでそれで十分かもしれないが、僕としては大人になった健太郎君に、ぜひともこの続編を書いてもらいたいと思う。それというのも、大人になってもこの偏愛のまま、さらにどのような深みのある世界を展開しているのかを知りたいからだ。文房に対する愛着を持っている人間はたくさんいると思う。別段文房具を作っているメーカーの人間でなくとも、普段使っているからこそ、いろいろと考えている人がいるはずだと思う。実際に僕もその中の一人だとは思うが、だからと言ってこういうものをあえて作ろうとはしない。こどもだからできることは、大人になってもできると思う。そういうものこそ、実際には世の中には必要なものなのではないか。
 というわけで、一家に一冊とは言わないが、可能性の感じられる自由研究だと思う。出版にまでこぎつけたのだから、商業的にも価値があるという普遍性のある本ではなかろうか。
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二つに分けて考え行動すべし

2020-03-21 | 時事

 僕を個人的に知っている人なら、僕がブログでどうして新型コロナ関係のことを書かないのだろう? と訝(いぶか)しんでいたのではないか。当然僕も見解は持っているが、確かにあえて書かなかったということはあるかもしれない。とにかく連日大騒ぎだし、ニュースでも巷間の話題でも、このことから逃れることができない。そうであるから、あえて書かないということはあったわけだが、まあ、それくらいバカらしいからということはある。話が通じないことが分かっているのに、あえてかかわるなんてことをするのは、肥溜めが臭いのに近寄って行ってウンチが服につくようなものである。
 これまでのことで分かってきたことは、大きく二つある。一つは、いわゆる科学的だとされるコロナの脅威ということと、政治を含めた社会現象は、分ける必要があるということだ。関連があるはずのことなのに、本当には関連が無い、というか、もうこれは連動していないということが、はっきりと見て取れるからだ。これは多くの人がすでに気づいているはずだが、もうどうにもならない。少なくとも当分は、どうにもならないであろう。だからこれは本来トレードオフで考えるべきことなのだが、そんなことを言うこと自体がけしからん、などという人たちとも戦うことになるわけで、気が重たい。
 もう一つは、だから個人の問題というか、個人が取れる行動と、公的な物事の捉え方とは、分けて考える必要が出ている、ということだ。はっきり言ってしまうと、もう世間の人々の大部分は洗脳されつくしている。彼らの呪縛を解くには治療が必要なのであって、それは僕らの役割ではない。そういう中で、自分を守り健康で生きていくのは、やはり自らで考えるしかないということだ。
 これは将来検証されるだろうことだが、今回の初動として指摘されてもいるが、いわゆる専門家という人は極めて限定的に少なすぎた事と、そうした当事者たちは忙しくなりすぎて、発言の機会を持てなかったということがある。また厳密には誤解されるだろうことを察知して、発言を控えた人たちが大部分でもあったということだ。そうしていわゆる世の中に現れた専門家たちは、発言者としてはマスコミ・フレンドリーではあろうが、いわゆる暇な専門家に限られてしまった。もしくはそもそも専門家ですら無いという人が、無理に発言をしたのかもしれない。それ以上は言いたくないが、それに従って対策を打ったところで、ほとんど意味など無いことは明らかだ(政治的シグナルとしては意味があるが)。何しろそもそもが、誤りなのだから。さらにもう少しいうと、ゼロリスクで物事を考える悪い癖が、原発事故などと同じように、人々を支配してしまった。これは科学的以前のことで、必ず答えを間違ってしまうという原因である。

 今の状況を素直にとらえるとすると、我々は答えのない問題に取り組まなくてはならないということだ。これは日本人にはきわめて難しい設問だといわれているが、やらなくてはならないことに変わりはない。しかしちょっと楽観的に考えてみるとすれば、日本人は失敗もしてきたが、それを修正できなかったわけでもない。そうしてその状況にあるのは、特に日本人に限ったことでも、やはり違うということだ。誰もが同じという感覚になると、がぜん日本人は張り切ったりしている。そういう意味では、いろいろ課題がもともと多かった日本において、この困難な状況は、先々様々な反転の機会やアイディアを活かせるチャンスかもしれない。
 もっともその前に、結局何もできなくて、焼け野原になっているのかもしれないのだけれど…。
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トラックのCMは感動的だったけどな   その男バン・ダム

2020-03-20 | 映画

その男バン・ダム/マブルク・エル・メクリ監督

 かつてはハリウッドのアクション映画界を席巻したバン・ダムだったが、今では落ち目というか、あまり大作とも縁がなくなってしまった。そのうえ妻との離婚訴訟で娘からも愛想をつかされている。とうとう銀行預金も底をついてしまい、地元ベルギーに帰っている折にお金の工面のために郵便局に寄ると、ちょうど入っていた強盗団に囚われてしまう。さらに人質として脅されながら電話での警察との交渉役にさせられているのに、犯人グループの主犯格と警察やマスコミに勘違いされ、国中の大スキャンダルに発展していくのだった。
 郵便強盗以外の出来事は、まさにバン・ダム自身の自虐的なパロディに設定上なっているということらしい。空手の達人でアクション・スターであるにもかかわらず、実際の銃を持った凶悪な強盗団の前では、何もすることができない。映画なら簡単なことなのに、想像と現実は大きな隔たりがあるということなのだ。さらに世間一般では、元大スターということと、事ベルギーにおいては、国民的な著名人でもある。町中の人々で、バン・ダムを知らない人なんていない。ちょっとでも変な態度を取ろうものなら、非難され、弁解しなくてはならない。誰もバン・ダムの本当の心中なんて察してはくれないのだ。
 劇中でモノローグがあるが、これがバン・ダムの、本当の肉声に聞こえるくらいの名演技である。確かに本当のことも含まれているように感じられるが、微妙にフィクションなのだろうと思う。そうでなければ、この映画に主演して成立させる意味はないわけで、観ているものを複雑な気分にさせてしてやったりにならないからである。そういう重層的な構造を持った作品であって、制作側は観ているものも笑ってしまおうという魂胆なはずである。実になるほどな、と感心してしまう出来栄えであった。
 ただし、事件の顛末も含めて、お話の最終的な部分に関しては、やはりそうはならない気がする。裁判がそうなるなんて、ちょっと考えられないからだ。オチを面白くするためであろうとは思うが、ちょっと残念かもしれない。また、この映画の後演技派として再出発したかどうかもよく分からない。このようなメタフィクションは、現実との絡みも面白さの要素である。もう少しヒットするなど世情を動かせたら、もっと面白くなったかもしれない。
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貞子さんの献立再現

2020-03-19 | 

 NHK火曜の夜にEテレで、「365日の献立日記」(再放送あり)という番組がある。女優の沢村貞子さんがつけていた献立の日記が残されており、その日記にある料理を再現するというものだ。ナレーションを鈴木保奈美がつけており、なんとなく意外な感じがするけれど、それがあんがいこの番組に合っている。こういうのを分かるディレクター(が決めるのかな?)って、凄いですね。番組の雰囲気とトーンが、妙になじんでいる感じなのだ。
 さらにすごいのは、何と言ってもこの再現料理を作る人である。飯島奈美という人らしく、お顔は見えないが、作っている手先は見て取れる。この手つきというか、台所での作業の音が、何とも言えずいい感じなのだ。料理って僕はほとんどできないしやったことが無いけど、台所の音はいつも聞いている。その音のリズムのようなものが、この番組には凝縮されていて、本当に心地いいのである。そうして、食べることは許されないが、出来上がりも当然美味しそうなんである。
 貞子さんの献立日記は、実は料理の名前しか書いていない。調理方法は、だから実際のところよく分からないはずだ。詳しくネットで調べたわけではないが、貞子さんには調理の著書があるようで、そのあたりから調理法を再現しているのだろうか。メニューしか書いてないのに、ここはこうしようというようなナレーションが入っており、恐らくだが、飯島さんが、(貞子さんなら)どうしてたんじゃないかな、と考えて再現しているらしい様子は伝わる。さらに台所なんだが、和風でもあり洋風でもあるようで、それがまたノスタルジックなのかコンテンポラリーなのかよくわからなくていい。サル(とバナナ)の置物がまた良くて、どこで売ってるのかな、と気になる。
 毎日の食卓って何気なく食べているときの方が多いのかもしれないが、こういうことが積み重なって生きてるんだなって思う。もうそういうのを、あと何回経験したら死んでしまうんだろうか。何故だか、そんな切なさも思うのである。
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死んでしまうまで諦めない者たち   ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ

2020-03-18 | 映画

ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ/ステファノ・ソッリマ監督

 アメリカ国内で凄惨な自爆テロが発生する。原因はメキシコの麻薬カルテルが密入国の手助けをしている中にテロ支援が隠れているとにらんだ政府は、麻薬カルテルの首謀者の娘を誘拐し、他の組織の策略に見せかけて、攪拌させる作戦をとるのだったが…。
 前作の続きというか、一定の流れはあるようだが、別物でもある。とにかく麻薬組織と対抗するための警察自体が、地元のマフィアよりずっと凶悪で非情というところに、お話の複雑さと妙味がある。敵も悪いが正義はもっと悪いかもしれないのだ。
 いくら麻薬カルテルの連中が極悪非道な武装集団であるとしても、本当の軍備を持っている米国の警察組織の比では無い。その圧倒的な武力の差を埋めるために、彼らは重層的な情報網を張り巡らせて、さらに地の利をいかしてゲリラ的に対抗してくる。麻薬という資金があるので、彼らも命を張りながら、警察力も軽々と超える組織力を誇っている様子である。断片をつないだような流れしか分からないが、あっという間に足元をすくわれるような緊迫した空気の中、いつも死と隣り合わせにある恐怖感と、また逆にその死さえマヒして感じなくなっている連中の、頭脳戦が展開されていく。はっきりとはよく分からないまでも、それなりの理屈でもって戦っており、局面的に勝ったり負けたりを繰り返しているのだろう。それで何になるのか分からないような感じながら、一定の均衡を保ち、壁際での麻薬との戦いは行われているということなのだろう。
 結局誰が悪いのか最後まで分からないが、あるものは生き延び、あるものはただ死んでいく。その繰り返しだけの中にあって、新たな勢力が、また自分の強い思惑をもって動こうとしている。それは単なる欲望ではなく、はるかに深い怨念のようなものかもしれない。そうして手段を選ばないという自分なりのルールさえ確立できれば、それなりに動き回ることが可能なのだろう。絶望的でありながら、いやにしつこい生き方もあるんだな、と思ったことだった。
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万歩計にまたまた振り回される(8年ぶりだけど)

2020-03-17 | 散歩

 また万歩計の調子が悪くなった。また、と言っても2011年の年末からなので、寿命なのかもしれない。
 最初は、もしやと思って電池を変えてみた。電池切れ前には表示があるのだが、以前にも電池切れちょい前くらいに調子の悪かったことがあったからだ。とりあえず動いてはいる様子だが、後で考えるとカウントが弱い。もっと歩いていたはずの歩数に満たない気がする。こういうのは習慣的にだいたいの感覚として分かるもので、ちょっと損した感じだ。歩いたことを認めてもらえてない悔しさのようなものがあるのだ。
 さて、それは昨日のことで、今日になるとそのことをちょっと失念していた。いつものように生活し、昼休み散歩する。途中でふと、歩数確認するが、やはりカウントが少ない。三十分歩いたのに2000歩に満たない。そんなことは無い筈だし、さらに10分以上連続して歩くと初めてカウントされる「しっかり歩行」が10分しかカウントされていない。これはもう故障であろうな、とあきらめて散歩も断念して帰ってきた。歩き甲斐が無ければ、歩いたって仕方ない(気分)。
 実はちょっと前にそのように調子が悪い時に、すでに製造中止になっていたこともあって、ネットでこの機種を買っておいたのがある。もう手に入らなくなるかもしれないのが不安だったからだ。万歩計にも相性のようなものがあって、後継機種や他のメーカーのものが、今一つ気に食わないというのもある。いっそのこと万歩計生活に頼らずに行こうかとも考えたのだけれど、なんとなく、やはり万歩計があったほうが僕のような人間にとってはいいような気もして備えていたというわけだ。
 電池を入れて作動させ、さて、とりあえずまだ昼休みの時間はあったので、試しに二つ同時にもって10分程度散歩してみた。そうしたら、何と前のヤツも普通に動くではないか。念のために再起動させてカウンターはゼロにしてみたが、誤差は100歩も無い。何故かカロリー消費が以前のものの方が0.1グラム多いのだが、理由はよく分からない。調子よく動かなくなったのは残念だから取り換えようとしているのに、ちゃんと動くと、それはそれでなんだか残念にも思うのである。複雑な人間心理である。
 しかしこれはもう、僕個人の信用問題というのがある。いつまでも二つ持って歩いているのも馬鹿らしいし、ちょっと動きが正常に戻ったように見せかけておいて、またちゃんとカウントしてくれない方が困ったことになる。僕はそういうのが嫌いである。
 というわけで、やっぱり持ち歩くのは新しいほうだけにすることにした。いつまでもこういうことに気をかけているのが、嫌なのかもしれない。そうしてちゃんと断ち切ってしまわないと、僕のような人間はいつまでもこだわってしまいかねない。それでは人生が少なくなってしまうんじゃなかろうか。
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