スーパーなどの買い占めのニュースなどを見ていると、最初は何故かが予想できず驚いてしまう。ああそうか、という原因はすぐに分からないくらい鈍感だからである。そんなことになる予想が、まったくできていない。自分の中で、原因と結果が素直に結びつかない。その後にじわじわ感じられるのは、悲しいというか、そのような人々をさもしくも、哀れであるように思う気持ちである。行動を起こしてしまう人々の気持ちが、分からないからこそ沸き上がってくる素直な感情である。そうして、このような人々の行動が、いずれは我が身にも降りかかってくるだろう災難を予感させられる。必要な人に必要なものが届かなくなることは明確なので、迷惑な行動なのは間違いない。自分さえよければよいというエゴが透けてみえるし、我先に恐怖から逃れたい衝動を抑えられない動物の群れを見るような感じでもある。しかしそれらの人々の中には、そのような迅速な行動こそ、自分自身の賢さのように思っている人もいるかもしれない。不思議だが、それが自己正当化ということだろう。
これを報道の過剰さのせいである、という論調で語る人もいる。もちろん、報道は過剰である。それは明確な事実ではあるものの、今度はその論調を受けて、そのような報道のサインのために、彼らはそういう行動に移ったか、ということとの関連はそれほど明確ではないという意見も生まれている。恐怖の飽和感を煽っていることに間違いはないが、発火点ではないということだろう。サインは読み取っているものの、買い占めは自発的なものだということを言いたいのかもしれない。
少なくとも信用の問題なのは間違いが無くて、自粛要請などという政治パフォーマンスの先には、一時のもの以上の、さらに連鎖して続く不確定な長期戦を予期させられるものが含まれている、という読み取りがなされたということであろう。そのために自己防衛本能に火が付き、そのための行動を、選択させたということだ。同時にそう感じた人がいたからこそ、買い占め行動が顕在化する。そうして後追い報道が、その過剰さを拡大させるということだろう。一度そのようなスパイクが起こると、収縮までに時間がかかる。結果的には品不足の解消が遅れ、二次的な波が再発されるのである。
収束が見えないのは、誰のせいでもない。しかしそれらの要請がなされてしまうと、終わりの判断をどうするのか、という素朴な疑問がわく。そうしてそれはたいへんに難しい問題だということが容易に理解できる。始めてしまうと終わりが予見できなくなるのである。では始めなくてよいかといえば、出来るだけ早く始めること以外に、自己の責任から逃れるすべがないことに気づかされる。要するにこのように答えのない問題に対しては、早めに責任は他人に転嫁したものの勝ちなのだ。そのバトンが次々に渡された先に、この問題から最後まで逃れられない責任まで行き着く。それが多かれ少なかれ自己責任の一番最後の自分の判断ということになってこよう。まだまだ逃げる人はいるから、今度はそれを他人から教えて欲しがる人ばかりになってしまうだろう。そうしてそれにこたえられる人というのは、極端に無責任な人か、まったくのクレイジーな人くらいしかいない、ということになってしまうだろう。だから人々は、公的には口をつぐんでしまうのである。
自己責任感があっても批判される。今度はその恐怖感との戦いになる。これが社会性のある人間の最大の欠点である。だから答えとして最適ではないにせよ、一定の距離感を持って行動するほかに、手立てはないということである。それではみなさん、ごきげんよう、ということになるんでしょうか。