カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

巣立ちに失敗したような身だけど

2016-04-30 | 境界線

 親の住んでいたところに建て替えて住んでいるので、子供の頃からずっと同じ環境にいるようなことになっている。しかしながら子供の頃とは周辺は一変しているし、徒歩や自転車生活と、今のような車中心というのとでもまったく感覚は違う。
 ご近所は増えたが、以前からの人々はそれなりに年を取ってしまった。あい中が飛んで僕ら世代があって、ちょっと若い人がボツボツという感じだろうか。
 それでも若いころにはちょっとの期間だけだが、別のところに住んでいたことも無いではない。当時のことは忘れてしまったことが多いけれど、漠然と違う場所での生活への期待の方が大きかったようにも思う。
 後になって聞いたことだが、人間も他の哺乳動物と同じように巣立ちのようなものがあって、住み慣れた場所から離れて暮らしたい欲求のようなものが芽生えることがある、という。知り合いにも矢鱈に屋移りを繰り返すような人間がいて、あれは若さの一種だろうと思っていたが、それなりに落ち着いていても、時々また移っているとも聞く。別に転勤族でもない訳だし、これは若いだけの習性ではないのかもしれない。
 多少例外的なものはあろうが、若いころには少なくとも、一人になりたい、というか、独立したいというか、そんなような気分があるのは間違いないのではないか。人間は社会性の高い生き物だから完全に孤立したい訳ではなかろうが、いわゆる自立のまねごとというか、そんなような気分はあるのではなかろうか。
 まあ家にいると何かとめんどくさいというか息苦しいというか、そのようなシグナルを受けて仕方なく出ていくような人もいるのかもしれないが、やはりある程度のタイミングで家を離れるような経験が無いと、下手に巣篭りが続いてしまうようなことにもなって困ることになるかもしれない。それでいい人は別にいいけど、外に出てみて帰ってくるのと、そのままそこにとどまるのとでは、なんだか少しくらいは違いがありそうな気もしないではない。
 そうはいっても実質上一人暮らしをしたのは3年程度のことで、後は親と暮らし、家庭を持ってしまった。だからといって家庭的な男とは言えないだろうことは、なんとなく分かっている。まあ、でも一人で生きるには向かないだろうことも分かっている訳で(たぶんほどなく自殺でもしてしまうのではなかろうか)、万事はこれでいいのだろう。
 時々旅行や出張などで、もうしばらくアパートなどを借りて住んでみると面白いところかもしれないな、と思うことがある。でもまあまた来ればいいだけだな、とすぐに思い直す。新しく何かを準備するようなことも、なんだかけっこう億劫だ。結局それはかなわない訳だし、何というか向いてないな、とも思う。結局仕事場に通える範囲の場所で暮らしていかなければならない訳で、そうするとベストポジションがやっぱりここになってしまうのかな、ということなんであろう。
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行進文化とはなんだろうか   パレードへようこそ

2016-04-29 | 映画

パレードへようこそ/マシュー・ウォーチャス監督

 英国サッチャー政権下、ウェールズにある炭鉱が廃坑の危機にあった。労働組合は長期化するストで疲弊している。そういう中にあって、同性愛のグループがその活動の閉鎖性を打破するというか、ちょっとした思い付きをする仲間のアイディアで、この労働組合の支援を打ち出して募金活動を展開する。そうして実際に少なからぬ募金を集め組合と交流を深めようとするのだが、何しろ閉鎖的な男たちと保守的な家族構成の炭鉱の町なので、ある意味特殊な連中の訪問に、支援とはいえ戸惑いと軋轢が次々に生まれていくことになるのだった。
 労働組合の問題もそうだが、同性愛の社会的な認知というのは、いわゆる偏見との闘いである。本人たちの多くは、まず最初に家族との軋轢で心に傷を負っている。さらに仲間が少数だからたむろするわけで、かえって目立ってまちなかで好奇の目と非難とがないまぜになっている立場だ。むしろ敵意をむき出しにして襲いかかってくる連中もいる。そこにいるだけで生命の危険さえ脅かされるような場合があるわけだ。
 そういう中ではあるが、英国というのは(まあ英国には限らないことではあるが、特にこのような社会環境の見本のような国だし)デモ行進を日常的にやって自己主張をするような、そうして直接市民に支持を取り付けるような風潮があるらしく、頻繁に街に繰り出してデモを行い、そうして警察と衝突したりしているようだ。ウェールズの田舎の炭鉱の人々は人数は多くてもそのような日常には長けておらず、むしろロンドンに住む同性愛者の方が、環境的にはデモ慣れしているような背景があるようである。
 立場も違うし軋轢も多いが、徐々に互いに理解者が増え、交流や信頼は深まっていくが、どうしても相容れられない組合側の人間もいる。彼らの心は容易には開けないし、むしろ反発は強まり攻撃的になっていく。同性愛側にもそれぞれに問題は抱えており、中心人物などは離脱してしまうなどトラブルが絶えない。結局何もかもがはじけて崩壊してしまうように見えるのである。
 実話をもとにしていて、エピソードがそのままそうなのかは分からないが、かなり素材は使われているのではないかという想像は働く。また、すでにその時代という感じもあって、現在では日本はとりあえず別にすると、はるか遠い昔の偏見受難な時代という感じは少しする。
 基本的には社会的な映画とはいえるけれど、コメディの部分も上手いし、サスペンスとしての展開も楽しめる。娯楽として楽しんで観て、そうして啓蒙としても理解を深めることに成功しているのではないか。苦いところもちゃんと残しているし、これからの話も考えさせられる。
 結局日本のことを考えてしまうが、日本だと、後50年くらいはかかるかもしれないな、などと残念な感慨をもったことだった。いや、それでも楽観過ぎるだろうか…。
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制服は没個性か

2016-04-28 | culture

 外国人の多くが日本に来て思うことの一つに、日本の制服姿の多さというのがあるようだ。小学生を除くと幼稚園や中学、高校、専門学校などの学生なんかも制服のあるところが多いし、会社の受付をはじめ、さまざまなサービス業を中心とする労働者が制服を着て働いている。諸外国でもまったく無いとは言えないまでも、圧倒的に日本の社会の方が、制服を着ている割合が高いということかもしれない。
 面白いと思っているところもあるにせよ、本心からいうと、軍隊などの規律が必要なところ以外で制服を強要しているように見える日本社会に対して、ある種の揶揄が含まれているようだ。さらに制服を好んで着るような没個性的な社会についても、ちょっとした警戒感を持っているとも思われる。それはおそらく日本人に対するイメージにも直結しており、外国人それぞれの印象として、日本人へのレッテル通りの理解になっている可能性があるように思う。
 外国人がそう思うのは、やはりわかりにくい日本人の内面というのがまずはあるのかもしれない。子供っぽい顔つきをしている人々が、比較的おとなしく規律正しく物わかりよく機械的に動いているように感じる。そうしてそのような印象と制服文化が、現象として表れていると思っているのかもしれない。
 実際に外国人と比べて日本人が没個性的であるということは無いが、個人主義と混同して考えてしまう偏見の前には、いささか説明が難しいところはある。むしろある程度の規律の存在する社会である日本の方が、その殻を破るような強烈な個性を持つ人が多いように思うが、それすらもやはり見えづらいということかもしれない。僕なんかは外国人のファッション一つとってみても、実に没個性的な感じがするんだけれど(少なくともあんまり考えてはいない。もっとも考えていない僕が言っても説得力はないが)、まあ、現代の日本人の多くも、多少はそういう傾向があるんでお互い様かもしれない。
 しかしながら制服の多くは、恐らく対人関係を考えすぎる所為で着用しているケースは多いようには思う。学生なんかは、その学校の生徒であるマーキングと、外からの批判にこたえるのがめんどくさいという大人の事情だろうし、会社なども、やはりその会社としての分かりやすさを客に伝えたいというか、無難にかわしたいという考えの一つだろう。要するに手を抜くために説明を省略している訳で、むしろ明確にいちいち説明する時間がもったいないとでも思って、結局コストをかけているということかもしれない。
 このようなことに金を掛けずに個人負担で価格を抑えるというようなことを、単に多くの外国人の経営者が考えているだけのことだとも思う。むしろ過剰サービスの部類にあるのが、日本の制服のコストなのではないか。しかしながらそれくらいは会社が負担しろよ、というのもあるのかもしれないが。
 制服には実はまったく興味が無いが、これで外国人が勘違いしてくれた方が、日本社会にとっては、少しくらいは有利なものがあるかもしれないとは思う。日本人に独創性が無いと思ってもらった方が、日本人が楽に独創性を発揮できるのではないか。まあ、そんなに素直な人は日本人には少なそうだから、結局外国人の目を気にして、無難に元気がなくなってしまうのかもしれないけれど…。
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将士の生活とは   将棋の渡辺くん

2016-04-27 | 読書

将棋の渡辺くん/伊奈めぐみ著(講談社)

 まだ一巻のみ(おそらく続巻があるだろう)だが紹介。渡辺明将士のおくさんが、夫である将士の日常を描いた作品。たぶん実話をもとにしているはずだが、これがのほほんと面白いというか、なかなか凄まじい変人ぶりで、結構おどろいてしまった。僕は将棋を指せない訳ではないが、いわゆるすぐに負けるのであまりのめり込むことのなかったクチだが、将棋が強いというだけで、それで飯を食っている人たちというのがそれだけですごいことだが、将棋のことを考えすぎるあまり、ほとんど世間的にズレまくっていて平気そう(そうでもないこともあるようだけど)な感じがとても良い。何というか、男として共感できるというか、勝負の世界として苦しいが、しかしそれはそれで前向きに取り組んでいるというか、まったく変人万歳である。まあ変人になりたい訳ではないけれど、変人が存在するのは嬉しいです。
 将棋のことを考えたいために他のことには無頓着になるというのは分かるが、例えば干支や血液型なども知らないようなのだ。実は僕も最近干支は憶えたが、血液型は知っている。まあ、そしてそれらに興味が無いのはよく分かるのだ。子供に聞かれても知らないものは知らない。そういうところが潔いのだが、むしろ知らないままで生きていきたいような感じが特にいいと思う。そうして異常に虫が苦手で、しかし死んだネズミなんかは平気で触ることが出来る。ぬいぐるみが大好きで集めていて、モー娘のコンサートに行くくらい好きらしい。若者らしいということでもあるし、子供のままというのもあるかもしれない。将棋の展開はかなり深く読んでいるくせに、いわゆる人の空気は読めない。運動神経は良かったと思っているようだが、当然そういうのはダメなようだし、服を自分で買うこともできないようだし,あや取りさえできない。ライターはつけられないし、蚊取り線香も立てることを知らなかったらしい。文章で書いても変なことばかりだが、これを漫画で紹介してもらうと、この面白さが倍増するだろう。
 実は渡辺将士のことは、それなりに以前から見たことがある。雑誌にエッセイを書いていたのも知っている。強いというのも知っていたが、ここまで変人とは知らなかった。実物も「魔太郎」に似てユニークである。もちろんこの漫画を読んで、ますますファンになってしまった(将棋は興味ないけど)。
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自国語しかできない二つの国のこと

2016-04-26 | ことば

 これからの世の中英語が話せない人間は使い物にならない、という話はさんざん聞かされてきた。そんな話既に40年くらい聞いてきたかもしれない。以前の僕なら、まあ、そうかもな、くらいの共感というか、知らずに同意してしまいそうな気分というのはあったかもしれない。いやいや、実際の話、会社では普通に公用語だよ、というのも聞いたことがあるし、実際にそういう境遇にいるらしい人間も知らないではない。特に専門的に英語の能力で採用されたわけでもないが、会社の事情で少なくとも文章は英語ばかりだというのは、実状として多くの企業ではそんなに珍しく無くなってはいるのかもしれない。もっとも田舎ではまだそんな企業はちょっと珍しいけれど。
 日本の企業が諸外国との付き合いを深めている、もしくは国際化しているということなら、それは極めて当たり前の話であるから仕方がない。そうしてみなさんご苦労様であるな、と素直に思う訳である。
 でもまあ引っかかるのは、実際の顧客が英語圏ばかりでもない訳で、便宜上英語が便利であるというのはあるだろうけど、やはりいつまでもそんな感じで話が続くわけでもないんじゃなかろうか。広域のことを考えるとスペイン語も有力だろうし、アフリカなどでは一部フランス語も有利だろう。最大の人口を誇る中国の経済力がさらに増すと、当然中国語の方が強くなる未来の可能性も高かろう。特に東アジアは。
 それともう一つ引っかかるのは、自分が英語ができないからということもあるんだろうけど、仕方ない現実が実に不公平だと感じられるからではないか。日本人は英語ができないかもしれないが、英語圏の人間もそんなに日本語ができるわけではない。つまるところ英語圏でない国で英語を必要としている国はあるのは仕方がないが、それは単に不幸なことであるようにも思える。そうして日本のような一ヶ国語しかできないらしい国というのは実はもう一つあって、それは他ならぬ米国らしい。何とも皮肉な二国間の共通点であるが、結果は同じでも事情はかなり違う。特にアメリカは、出来なくてもそれでいいといつまでも思っているらしいが、日本はそうではない。なんとなくいやらしい話なのである。国際化できない立場としては、どちらも似たようなものなのに(どちらの国民もけっこう保守的だし)。
 要するに、顧客の立場でいるような経済力の問題というのが、言葉の問題よりも胡散臭い。日本の会社の一部は外貨を稼いでもらって頑張ってほしいが、事実上内需が中心になっている日本社会は、ますます二極化して、さらに英語の必要性の無い人々は将来的にも残っていくだろう。それで何の問題も無いのだけれど、日本人という数は将来的にはどんどん減っている訳で、相対的には日本語話者も、ずっと減少傾向は変わらないのだろう。個人の僕がいくら憂いたとしても仕方のない話だが、そういう自然の流れの中で、もうもがいてもやはり仕方ないようにも感じる。人間の脳の機能として、すでにある一定の年齢になると新たな言語の取得は極めて難しいと分かっている。これからのことは、若すぎる人に頼るより無いのであろう。
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逃げられるのに逃げられないのは…   トム・アット・ザ・ファーム

2016-04-25 | 映画

トム・アット・ザ・ファーム/グザヴィエ・ドラン監督

 最初の頃はよく分からず見ていたのだが、なんだか不快な展開になって来てしばらくして、ふと、ああそうか、ゲイだったのか、と気づいた。それでもそんなに分かりの良い作品ではないが、最初から知っていたら、もう少し理解が早かったかもしれない。
 (最初は友人だと思っていたが)恋人が死んで彼の実家の田舎町に葬儀のために行くと、暴力的な兄がいて、精神的な葛藤がありながらそこに牛の世話を手伝いながらとどまることになってしまう。母親には死んだ恋人には女の恋人がいたというウソをついており、実際に知り合いの女性を呼んで取り繕うのだが…。
 まあ、最後までよく分からず観ていて、そういう気分に巻き込まれるような心理というのがあるらしいな、ということを考えながらその不快さに付き合うような映画である。一応サスペンスというか、謎解きのようなものがあるのだけれど、だからといってそれが物語の流れを持続させるようなものになっている訳ではない。結果的にそれはカナダの置かれているアメリカとの立場を暗示しているということらしいのだが(それは最後の方で分かるようになっている)、そういう意味でもカナダのフランス語圏の物語にしているうえに、ゲイという存在を上書きしているということにもなるんだろう。まったく分かりにくいが、その分かりにくさ自体が、この映画の味にもなっているようだ。めんどくさい上にそんなに面白い映画ではないが、まったく面白くない映画でもない。
 しかしながら僕に理解がしづらかったのにはそれなりに訳がありそうである。要するに逃げられる環境にありながら、暴力にあらがえず逆に惹かれていくような心理というのが分からないからではないだろうか。実際にそういう境遇になればそういう心理が働くのだというのは理屈としては分かるのだけれど、そういう抗いがたいものがあるのなら、いつかは殺してやろうという気分の方が勝るような気がする。まあ今まで人生で実際に殺すようなことに至らなかったのは誠にラッキーだったが、僕なら牛の世話をする前にナイフを研いでいたことだろう。
 変な映画だが、それなりに考えさせられるのも確かだ。物好きにはいい映画かもしれない。
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同じものを毎日でいいか

2016-04-24 | 

 食べ物が不味いということで有名な国と言ったら英国であるが、不味いといわれてもそんなに気にしてないような気もする。恐らく宗教的な理由もあってか、食事は栄養を摂ってナンボのもの、というような考え方があるんではないか。それは英国人に限らず、どうもいくつかの西洋の国においては、似たような感覚があるようにも感じる。食事に対するというか美食に対する情熱が薄いというか、特に日常のルーティンとしての食事と、ハレの行事のような時の食事を明確に分けているような感じかもしれない。
 僕はもともと食べないが、朝食にシリアルを食べるという人が居る。有名なケロッグ博士が栄養を考えて考案したらしいが、あれを毎朝食べるような食生活がいいとはとても思えない。
 ちょっと高級なホテルにおいても、朝はコーヒーと茹で卵とパン(これにベーコン程度というところもあるが)というようなところもある。フレッシュジュースもある場合もあるが、それぞれに素材的に高価であるとされるが、きわめて貧相な食事という感じがする。上等な部屋に泊まったとしても、朝から気分が台無しである。
 昼飯をサンドイッチなどと決めている人もいる。それは自由な問題だし、めんどくさいというのもわかるが、やはり同じものを毎日というのに抵抗がある。一時期イチローが毎日カレーを食べるというのがあったが(今はやめているらしい)、あれは毎日同じように努力をするという意味であったようだ。
 昼飯だけでなく、どうもあちらでは大鍋で大量に作った料理などを、一週間くらい毎日食べるような家庭も珍しくないらしい。ひき肉を買ったら毎日ハンバーグばかりなんてことを平気でするらしい。ホームステイをしたという友人からそんな話を聞かされて、恐怖を覚えたものだ。いったいどういう神経なのだろう。
 しかしながら多くの外国人が、日本の家庭料理のバラエティさを、ちょっとやりすぎと感じているという。日本女性(男性もいるかもしれないが)の絶え間ない努力をなんだと思っているのだろうか。しかしながら、そこまで厳密に彩り多くなくてもいいとはちょっとだけは思うけれど。しかし、やはりそれなりに日によって違うものを食べるというのは、習慣づけられた感覚もあるのかもしれない。僕の母は昭和ヒトケタだが、そのような世代から伝わった習慣があるのかもしれない。以前の日本人がいろいろ食っていたはずは無いし、食文化は近代的なものが多いようだ。そういうごくごく近い過去に、日本で何かがあったのだろう。
 考えられるのは勘違いである。西洋的な文化を見て、実は多様な食事を毎日品を変えて摂っていると思い込んだ人たちが多かったのではないか。それが高度成長とあいまって、今のような感じになったのではなかろうか。結局いろいろ混ざってバラエティ化して、毎日が豊かな食生活になったのかもしれない。
 もっとも実際に毎日の食事を写真に撮ってもらうと、それなりに現代人は貧相な食生活であるという調査もあったようだ。お惣菜は作るのではなく買うものだともいう。まあ、そこのあたりは、実際にはずいぶん多様化したのではあるだろうけど。
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老後はホラー世界か  下流老人

2016-04-23 | 読書

下流老人/藤田孝典著(朝日新書)

 副題は「一億総老後崩壊の衝撃」。高齢者の多く(9割だそうだ)は今後貧困が進み、いわゆる下流化すると警鐘を鳴らす書。若者や子供の貧困問題なども少し出てくるが、要するに自由経済界にあって格差というのは当然出てくるわけだが(それ自体が悪いということでは無い)、平穏な世の中にあっても人生の中で長い高齢期を過ごすことは、それなりに大きなリスクがあるということがよく分かる。蓄えが足りなかったり特にその個人が準備を怠った訳でもない場合であっても、貧困化するケースはずいぶん多いわけだ。何しろ高齢になると仕事は定年だし、仮に仕事があっても低賃金だし、若いころと比べると病気にかかる確率も格段に上がる。介護を受けようにも十分な整備がなされている訳ではないし、自己負担で長年お世話になると貯蓄が底をつくのである。まさに明日は我が身。安心の老後を送れる人なんて、ごくごく限られた環境と資産を有した人に過ぎないのだろう。
 また、そのような高齢による貧困になってしまえば、当然公的な援助を受けるべきなのだが、生活保護などの公的な援助を受けることに多くの人が抵抗を感じているらしいことと、明日はわが身の一般の人々にも偏見が根強く、なかなか相談さえ躊躇する現実があるらしい。結果的に重篤な状態に陥ってしまうケースも少なくなく、ここは本当に日本の現実なのかという不幸な人々がまちにあふれるようなことになってしまっているらしい(特に都市部がひどいようだ)。実際に生活保護の受給者の半数近くは既に高齢者になっており、割合だけでなく実数が今後減っていくことは無いだろう。これを社会問題と真摯に捉えなおして対策を練らないことには、貧困問題のみにとどまらない悲劇が日本社会を直撃することになるのだろう。
 ではこのような老後貧困に陥らないために個人的に防御するにはどうしたらいいのかということになるが、老後の貧困のさらに悲惨なことになる原因の多くに孤立化というのがある。日本の家庭が核家族化しているのみでなく、高齢者の単体そのものが社会問題化しているとも考えられる。病気や高齢でパートナーと死に別れてしまうというのは仕方がないが(それでも問題だけど)、そもそも結婚していなかったり、離婚してしまったり、子供がいても遠方すぎたり、親戚や近隣住民との付き合いが希薄だったり、結局一日テレビを見るくらいしかしない日常を送っているような状態になると、これはもう救い出すだけでもずいぶんと大変なのである。貧困に陥らない生活習慣を身に着けるような手立てさえできない上に、既に公的な扶助以外に生きる術がなくなってしまうということらしい。
 本の題名からしてショッキングなものだけれど、それに多少問題提起のためにさらに問題の多いものを取り上げていることもあるのだけれど、まあ、そうなる社会情勢の中にあって、個人の貧困化から逃れられない人々の方が、日本の社会では当然になってしまうということだ。年金や生活保護などの公的な扶助を効率よく利用するより方法は無いが、そのスタイルさえちゃんと享受できない人々の老後は悲惨である。そういうことと無縁でいられる一割に入っていないと考えられる人々には、恐らく自覚さえないことが、この本の一番ホラーなところであろう。
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竹を食べる者

2016-04-22 | 時事

 パンダの名前の由来は、ネパール語のネガリャポンヤ(竹を食べる者)がなまったものとされる。もともとレッサーパンダの方が先に知られていて、これをパンダと呼んでいたようだが、後にジャイアント・パンダが発見される。すると小さい方を小さい方という意味のレッサー・パンダという名前にしてしまった。本人には発音などどうでもいいことだろうが、勝手に困ったことである。
 ところでパンダは中国に生息しているが、中国語では熊猫である。ジャイアントは大熊猫と一般的には書く。発音にパンダの音は無い。レッサーは小熊猫。大きなパンダは猫とは考えにくいが、当然小さい方から名前が付いたのでこうなった。小さい熊猫も実際にはスカンクやアライグマなどに近いようだから猫らしくもないが、小さいから猫くらいの名前がついたのかもしれない。さらに実は以前は猫熊と書かれていたらしいのだが、中国語は日本語とも同じように右から左に読む習慣があるので逆から読んだ人が居て、熊猫の方が定着した。だから台湾地方のように、いまだにパンダを猫熊と呼ぶ地域もあるという。
 つくづく名前に混乱の歴史のある生き物である。実際には氷河期から生き残ったとされる数少ない哺乳類(大きい方は)でありながら、単に人間が知らなかっただけの存在だったのに、人間に知られると可愛いので捕えられてしまう。パンダの災難は続くのである。
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じわじわと迫力のある野球物語   KANO‐カノ‐1931海の向こうの甲子園

2016-04-21 | 映画

KANO‐カノ‐1931海の向こうの甲子園/マー・ジーシアン監督

 戦時下日本の占領下にあった台湾の旧制中学(嘉義農林学校というらしい)の野球部を舞台にしたもの。純粋な現地の少年を指導するのは、何やら訳がありそうな影のある、しかしどうも凄腕らしい日本人の監督さんである。気難しいところが多く、そして言葉数も少ないが、指導は的確で、甲子園に連れて行くことを、至上の使命と考えているようなところがある。そうして最初は草野球に毛が生えた程度の実力だった少年たちがメキメキと力をつけていくのである。
 戦中のことを知っている年配の方々には、この台湾のチームのことはかなり有名らしく、よく知られた実話らしい。映画の方もかなり丁寧に作られていて、史実をそれなりに忠実に再現した物語になっているのではないか。高校野球を題材にしているので、実際に試合のシーンが多いのだけれど、野球をやっている動きそのものが、実に本当に上手いプレーというか、なかなかの迫力なのである。日本人も混ざった混成チームであったらしいが、台湾の人間も、占領下であるからたどたどしい日本語を使う。その下手な日本語がまた、この映画の真実味を見事に表しており、占領下の複雑な環境と、一部の日本人の悪意に満ちた偏見と、しかし大衆はこの快挙に熱狂している様子がよく表されている。本土日本からすると、統治下の辺境の地から、日本のお家芸ともいえる野球で勝ち上がってきた少年たちの活躍が、物珍しくもあり、感動を呼ぶものだったのだろう。現在も台湾は野球が盛んだから(世界の王貞治さんだって台湾からの人だし)、この時代からの伝統が、今に続いているということなのかもしれない。
 多少丁寧過ぎて映画としての尺が長くなっているが、単調に飽きさせられるということは無い。内容は知らなかったが物語としては展開が予想できるのだが、それも特に気になるようなことでは無かった。緊張感は続くし、確かに感動的だ。事実(もちろん映画としての書き換えもあるだろうけど)という強さもあるし、過去にこれだけの偉業がなされたというのは、確かに驚きである。出演している野球の選手たちは、恐らく役者としては素人が多いのだろうけれど、それがかえってみずみずしさを醸し出しており、なんだか元気になるような気分になる。監督の厳しくも心の底から選手たちを思っているらしい静かさも、なかなか昔の日本人らしくていい感じかもしれない。実際にそばにいると困る人間かもしれないが…。
 台湾では興業としてもそれなりにヒットしたらしいが、日本ではそれほどでもなかった印象がある。日本人が観ても十分感動的な話だから、もっと観られてもいい映画ではないだろうか。
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気の毒はウサギ?マングース?

2016-04-20 | 雑記

 アマミノクロウサギというウサギがいる。名前の通り奄美諸島などにいるらしい。外来のウサギが入らなかったために独自に生き残れたのかもしれない。
 面白いのは子育てで、穴を掘って巣にしているが、授乳が終わると巣穴の入り口に土をかぶせて塞いでしまう。天敵から守る為だと当然考えられるが、結構しっかり塞いでしまう。外からの侵入からは守られるかもしれないが、恐らく子供は自力では外に出られないだろう。
 そうやって親はまた巣から離れて餌などを求めて活動するんだろうけれど、睡眠もとらなければならないだろうし、いろいろと大変である。親自体が捕食者に捕らわれるなどしたら、穴の中の子供は餓死するより無いのではないか。もっとも他の動物でも、それは多かれ少なかれ同じことかもしれないが…。
 アマミノクロウサギの最大の捕食者はハブで、このハブの繁殖が増えると、人間にも脅威である。実際にこのハブの繁殖を防ぐために、島にはマングースが放された。ところがこのマングースが、実はアマミノクロウサギも食べるらしい。毒を持つ厄介な獲物であるハブを捕食するより、アマミノクロウサギを捕食した方が効率がいいのだろう。そういう訳でハブからもマングースからも命を狙われ、アマミノクロウサギは繁殖数をどんどん減らし絶滅危惧種になってしまった。あわてた人間は、今度はマングースを駆除することになる。現在は、島にはマングースを捕える罠がいたるところにあり、かなりのマングースの駆除に成功したといわれる。効を奏してアマミノクロウサギの生態数も、回復しているという。
 悪者になってしまったマングースも気の毒なわけだが、人間というのはつくづく悪魔的な動物だと思う訳である。しかしながらそのような恣意的な行動をしてしまう愚かさというのは、やはりそう簡単には治らないのであろう。
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一芸で飯を食うのは大変である   さよならドビュッシー

2016-04-19 | 読書

さよならドビュッシー/中山七里著(宝島社)

 音楽専門科のある高校に、ピアノの特待生として進学の決まっている遥。一緒にレッスンを受けている従姉妹のルシアは、スマトラ沖地震で両親を失い同居している。祖父の香月玄太郎はある程度の資産家で、車いすの介護生活でありながらそれなりに元気で、当主としての威厳を保っている。遥の両親や、同じく同居している叔父さん、そして玄太郎の介護士さんが帰った後、離れにルシアと共に泊りに行っている夜に火事になり、玄太郎とルシアは焼死、生き残った遥も全身に大やけどを負う。整形科医の奇跡的手腕で元通りになったらしいとはいえ、全身包帯に包まれ松葉杖の生活のまま進学し、特待生としてピアノのレッスンに励む。そういう中母親まで何者かに殺される。どうも玄太郎の遺産を巡る思惑が、その背景にあるらしい。ピアノの個人レッスンの先生として岬という人物がいて、これが事件の謎解きと遥のリハビリを兼ねたコンクールへのカギを握っているのだが…。
 まあ、普通は手に取らんだろうな、という作品には違いないが、息子が面白かったと言って貸してくれたので読んだ訳だ。なるほど、若い人にはウケるのかな、という感想はもった。少なくとも中年男性向けでは無いし、少しだけミステリ作品好きとしても、ちょっと不完全燃焼かもしれないとは思った。ピアノ描写がやたらに長いのだが、そういう方面のことが好きな人にはいいかもしれない。まあ、これは伏線が集結するまでの仕掛けにも影響があるものではあったのだが、文章が映像化されやすい展開なのかもしれないとは思った。
 難点としては、登場する人々が、日常生活を送る上ではちょっと困難になりそうな人格障害の人ばかり出てくることかもしれない。恐らくリアルな社会では、精神科にかかっているだろうレベルの人が次から次へと登場してくる。結局バイオレンスまで発展するが、当然と言えば当然で、これで破綻しない人間関係などは無いだろう。
 そういう中で超人岬という人物が物語をコントロールすることになっていて、かなり漫画的ではあるにせよ、これはシリーズ化するんだろうな、ということも分かるのである。この本は香月家の物語であるにせよ、実際には岬洋介シリーズの布石ともいえる作品ということなのであろう。
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宇宙からのラブレターはどこにある?

2016-04-18 | Science & nature

 宇宙人はいるのか? という問いに対して答えると、確率上は必ずいる筈である。また宇宙の歴史から考えても、ほぼ間違いなくいるだろう。また僕ら人間の存在を考えても、実際に実例があるということもいえるので、他に居てもおかしくない。もっとも宇宙広しといえども、それなりに奇跡的な偶然が重なって、ほんの一時の時間、地球上に人間のような存在がいるだけのことかもしれないのだが…。
 まあ、それはいいのだが、肝心なのはその宇宙人と地球人はコンタクトできるのか、という問題がある。先に書いてしまったが、地球が安定して人間の住めるような環境でいられる時間は、人類にとってはそれなりに余裕があっても、宇宙の時間としてはほんの一瞬のようなものだ。そういう時間帯にたまたまであるとか、意図的に地球人と出会うような宇宙人が出てくる確率は非常に低かろうと考えられる。物理的に宇宙は広すぎて、光でも何万年も時間をかけて移動するような範囲でなければ、同胞には巡り会えまい。さらに物質として質量のある有機体が、光のような速度で移動することは、今の分かっている物理的な問題としては不可能だ。地球人に会いたいという酔狂な宇宙人があらわれて移動を始めても、恐らく地球に着くころには、人間は滅んでいることだろう。
 しかしながら、人間という存在がまだなかった地球に、すでに宇宙人が来ていた可能性はそれなりにあるんだそうだ。有機体としての生命はまだ育っていなかっただろうが、将来は育つだろうとは予想できるくらいの知能の宇宙人だった可能性もある。来たには来たかもしれないが、地殻の変動の激しい地球に、来たという痕跡を残すのは至難の業だ。しかし、やはり将来の人間のような存在に対して、何か痕跡を残したはずだと考えている学者はそれなりに居る。石のようなものに文字を書いても、地球人は見つけることは出来ないだろう。ならばどのような方法でその痕跡を残したのだろう。
 結構有力だと言われているのは、他ならぬ生命のDNAに何らかの方法で痕跡を書き込んでいるのではないかというのだ。もちろんDNAだって変わっていくのだから荒唐無稽な話なんであるが、他の何かに書き込んだとしても、恐らくのちの世代の知的有機体は、その痕跡を見つけられない。見つけるとしたらやはりDNAが最も有力な記録媒体なのではないかというのだ。
 今のところ人類は、このDNAから宇宙人の痕跡を発見できていない。それが分かるような知的レベルに無いだけのことかもしれない。
 もっともそれが読めるようになったとして、果たしてそれが地球人にとって有益な情報なのだろうか。単に寄ったことがあるよ、程度のことでは無かろうが、例えば宇宙のどこにいるよ、というメッセージだったとしても、会いに行くには時間がかかりすぎるだろう。結局読めても、恋文は片思いのままであろう。
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耐えて頑張るより無い

2016-04-16 | 掲示板

 連日の地震。本当に恐ろしい。未明の地震は体感の揺れが20分くらい続いたのではなかったか。こんな経験は本当に初めてのことだ。揺れとしては小さなものだが、何度も繰り返して起こる余震は、まったく精神的なダメージとしてボディブローのように効いてくるようだ。
 14日の地震を前震とし、今回を本震と位置付けたようだが、本当に今後一週間程度を余震と考えていいものか。そういう不安もよぎる。震度の浅い地震は、共鳴のように他の断層への影響があるという話も聞いたことがある。熊本を震源とする地震と、大分を震源とするものがあるのはそのためなのだろうか。勝手な想像だが、火山の噴火も気になるところだ。
 職場の建物は耐震構造としては問題が無いが、震度いくつだから大丈夫ということでは必ずしもないようだ。仮に震度6程度であっても倒壊しない耐震性があると思われる。ということは今回の地震で長崎県の位置を考えると、建物の中にいることの方が安全である確率はかなり高いと言えるだろう。
 今日は用事があって佐世保を往復してきたのだけれど、地震に対する温度差のようなものが少しあるのかなという感じでもあった。心配していない訳ではないが、特に話題に上がったりもしない。それはそれで目的が違うので当たり前かもしれないけれど、ちょっと不思議な感覚かもしれない。実は昨日も佐世保だったけど、雑談でちょっと話題が出た程度だったし、やはりそこまで揺れている感じではないのかもしれない。訳あって明日も参りますが、まあ、距離があるのはそれなりに平安かもしれない。
 しかしまあ、実際には身の回りで被害が出ているということでは無い。皆怖がっているので話をして、そうして少しくらいは安心してもらえるように心がけるしかない。もちろんここでこれだけ怖いのだから、被災している熊本を中心とする地域は大変であろう。東北の地震の時も心苦しい気持ちはあったけれど、やはり距離感と実感がぜんぜん違うのも確かだ。今はその実感が強くて、地震というのはこんなにも人の心をかき乱すものだということが、ただただ驚きである。相手は自然だから、こちらの気持ちなどはまったく関係が無い。おさまって欲しい思いがいくら強かろうと、そのような人間の思いを斟酌するような対象ではない。そのような無情さの中にあって、人は生きなくてはならない。そういうことをどうしても考えざるを得ない訳で、何かもやもやした不安がずっと頭から離れないのである。
 追い打ちをかけるように天気も心配なところである。逃げると言っても限度がある。どれだけ踏みとどまれるか。今が一番で、そしてその後もここにかかっているようだ。
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カタカタ音が不快だった

2016-04-15 | HORROR

 数人の携帯の警報音が鳴りだして、ちょっと?という沈黙が数秒、そして揺れが始まった。恐らく30秒くらいは続いた。震度3か4という感じはした。しかしその時間はとても長く不快なものだった。
 簡単に片づけをして、それぞれ帰ろうということになった。外に出て車に乗る前に、今度は建物が軋むような、それと何かを引っ掻くような音が鳴った。余震のようだ。
 熊本が震源らしいという情報は分かった。家人への電話はすぐにはつながらなかった。LINEはOK。ひとまず安心して車を運転していたが、何やら動悸というのだろうか、外の暗闇が恐ろしいような妙な気分に襲われる。子供の頃に合宿で上級生から肝試しをするように言われているような気分。トイレに行くのが怖いような、そんな感じだ。
 家に帰ると家人も離れも大丈夫ということで、言葉の上では良かったと安心しようとしているのだけれど、ストーブをつけなければ寒くて仕方がない。しかし余震が断続的に続いていて、ストーブを点けたり消したりしている。手先が冷えて仕方がない。お湯割りを飲んで温まるより無かった。
 布団に入ってからも警報音とすぐに少し大きな余震。近所の防災スピーカーも大きな音で地震注意を告げている。寝室は二階で、揺れがやはり大きく感じる。
 何とか寝たように思っていたが、余震で断続的に目が覚める。今度は体が熱くて仕方がない。掛け布団を一枚はがし、毛布から手足を出して体温を下げようとする。汗がジワリと噴出してくる感じは不快だ。外気は少しはひやりとしているけれど、熱さはなかなか収まらない。そうして余震はやはり時々ある。熊本は本当に大変だろうな、と、さらに心配になる。

 朝新聞を取りに外に出ると、なんとなくふだん通りという感じである。外が明るいのはこんなに救われる気分になるものだ。人間の感情は、自然に左右されるものなのだな、と思う。今日はやっていけるような気分も湧いてきて、吹っ切れたかもしれない。
 まだ注意は必要だと思うが、近辺はとりあえず落ち着いたという感じ。僕はまだ子供だな、という恐怖感だった。
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