カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

警察だ!

2009-05-30 | 雑記
 ヒカシューやゲルニカを思い出したら、ついでに思い出してしまったのが、やはりスネークマンショーですね。これの音源を学校に持ってくる奴が結構どのクラスにもいましたよね。みんなで聞いて大笑い。ほんとにお腹がねじれるぐらい可笑しかった。
 いや、素直に面白いんだけど、そういうこそこそやりながら楽しむというのが、正当なスネークマンショー的な面白さだったようにも思えて懐かしいのでありました。


警察だ!


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これぞ名著・大推薦の書

2009-05-29 | 読書
やちまた/足立巻一著(河出書房新社)

 本居宣長の息子で国語学者であった春庭の伝記であり、春庭を通しての著者(足立自身)の半生記(というかほとんど一生)になっている。僕は以前に同じくこの著者の半生記である「虹滅記」を読んでいて、この著者自身が書く自身の半生記は知っているはずなのであったけれど、実に不思議なことに、まったく違う人の半生を読んでいるような錯覚に陥った。確かに文章や、不思議と構成までよく似ているし、やたらに墓ばかり尋ね歩いているところなどほとんど同じに違いないのだが、ちょっと視点を変えるだけ(というかどちらも綿密に描かれているが)で、まったく別人のような人物がたちあがっていて興味深かった。かなりしつこい筆致ながら、その粘着質ともいえる執念がまた面白く、いつまでも気になってやはり続きを読んでしまう。実をいうと今年の初めくらいからぼちぼち読み始めて、何度も中断しながら読み進んだ。古本で買ったので変色しており分厚い上に上下巻である。古文や短歌などが時折入っている所為もあるのか、なかなか読むのに難儀することもあるためか、おそらく読了するのに四十時間以上は要したものと思われる。確かに学術書などはそのような類のものは結構あるので、特に分厚く難解な本ということもないのだけれど、読んで楽しいのにもかかわらずこれだけ時間がかかったというのも久しぶりのことだった。ジワリと感慨深くいい本だった。
 春庭という人は日本語の文法の基礎をひも解いた功績の大きな人らしいが、早くに目が悪くなり、盲人のまま妹や妻の協力を得ながら研究を続けて執筆をすすめたものらしい。もちろんその素養をつくった宣長が偉大だということもあるのだが、よほど明晰な頭脳を持っていたのだろう。またそのように不自由だった所為もあってか、不遇にもかかわらず研究を重ね歌(詩)を詠った姿が何より胸を打つのだが、それに感化される著者の姿がまたなんとも言えない偏屈さで、また同じく読む者の心を打つのである。
 著者は学校の授業でこの春庭を知るのだが、春庭を紹介した白江教授のふと漏らした授業の言葉を時折思い出しながら、春庭の隠された研究について思いを巡らせてゆく。結果的に春庭が考えていた研究こそが元になって今の文法というものが決定的に形作られていることに確信をもって、いまだ見つからないその証拠となるものを探し求める。途中で戦争になり南国へ赴き絶望の淵をさまよいながらも生還することがかない、友人の死や仕事の苦難を乗り越えながらも晩年になっても春庭のことが頭から離れない。そうして歴史的な再評価と春庭の子孫の家から新たに古文書が発見されたりする。気がつくと自ら半世紀も春庭を追っての学問が続けられていたということになっているようなのである。そして誰も学者というものは、結局それくらいの時間をかけて物事を研究するものだということを知るのである。
 改めて一言で言えない執念と凄まじさを感じずにいられない見事な学問道というものの記録という感じがする。そして実のところこれでこの物語が終わったのかということではもちろん違うのである。人間のあくなき探求心とその素晴らしい記録というものについて、改めて考えずにいられない物語である。
 発刊当初も話題にはなったものとは思われるが、このような本が埋もれてしまうには本当に惜しいという気がする。時折この著者のことが発掘されるように紹介されることはあったようで、読んだことのある人間ならば、おそらくそのほとんどは、感嘆の声を上げずにいられない上に感動をつたえたくなるに違いなかったのだろうと思う。今は残念ながら古本としてしか流通していないようだが、今でも比較的に手に入りやすい「虹滅記」であっても良いから騙されたと思って手にとって読むことをお勧めする。最初は少し読みにくいと感じたとしても、いつの間にかその世界に引き込まれることだろう。そしてその綿密で濃厚な世界に入ることができれば、本当に得難い読書の時間を堪能することができるだろう。これこそ日本の名著として動かし難い特殊な本であると推すものである。
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暴力を娯楽として観る

2009-05-29 | 映画
ランボー 最後の戦場/シルベスタ・スタローン監督

 たまには馬鹿な映画も観なくてはいけない。しかしながらそうかまえて探しても、中途半端な馬鹿ぶりに失望することもある。真剣に馬鹿な人間の作った馬鹿作品というのは、逆に心が洗われるような気がするものだ。ランボーの一作目は比較的まともだったが、段々と羽目を外すようになっていった。そうしてスタローン自体が監督して製作したと聞いて、なんとなく予感の働くものがあった。そしてその予感は見事に的中する。恥ずかしながらウチの息子達はげらげら笑いながら観ていたので、やっぱり子供は素直なものだと思ったことだった。
 くだらない作品だと目くじらをたてることはない。映画というのはそういうニーズもあるということだ。ただ間違ってこの映画で素直に監督のメッセージを受け止めることの方が、難しい場合もあるということはある。案外スタローン自身は素直に軟弱なハト派達を揶揄しているのだろうけれど、その思惑を受け止める感受性がこちらには足りないということなのだろう。
 しかしこの映画の教訓めいたところは、人間はしょせん肉の塊で、銃で撃てばバラバラに吹っ飛び、そしてその命は儚くも何の意味もなく無くなる。思想なんてものは一緒に消え去ってしまうものなのかもしれない。ランボーのひねた達観も、そうした無数の死の重なりによってもたらされているということなのだろう。ランボーはそうした無理解に結局は力でもって立ち向かう技術を持ちすぎているということなのだが、しかしそうした悲しい現実に対しては、甘いヒューマニズムではかえってやけどをするだけのことだということなのだろう。本気でやるには相当覚悟がいるぞ、ということは分からないではない。
 映画の構成は基本的には水戸黄門と何ら変わりのない話なのだが、スタローンのちょっとネジの締め具合のおかしさを楽しむにはいい映画だと思う。あえて言わせてもらうと、彼は本当は自分の崇高な思想を伝えたいわけじゃなくて、凄い戦いを見せたいということなのだろうと思う。しかし時代がそれを許さない。逆説的にそれを逆手に取って娯楽性まで高めているとしたら、やはり役者が違うということになる。考えすぎだとは思うが、こういう映画になってしまう原因というのは、結局はランボーが戦わなければならない理由とそう変わらないのではないかとは思うのだった。
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今なら痛い青春(マイナー系)

2009-05-28 | 音楽
 昨夜A山さんと話していて何故かヒカシューで盛り上がった。M野先輩は知らないみたいだったけど、結構売れてましたよね。クラスで何人かは必ず知っている程度には。
Hikashu - At the end of the 20th century

今見ると春日みたい。

ヒカシュー - プヨプヨ


 ついでにこんなのもあったんですね。
加山雄三のブラックジャック ED(唄:ヒカシュー「ガラスのダンス」)

 僕は「うわさの人類」は聞いていたと思うけど動画は見つからなかった。



 それと話の中でなんとなく思いだせなかったのは戸川純だった。
Guernica - Cafe De Psycho (Audio)





 ずっと聞いているのはつらいけど、あの時代とこの空気は案外相性が良かったのです。気恥しくなるくらいに真剣なところが良いのではないかと思っております。今では痛いというのかもしれないけどね…。
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新人研修

2009-05-28 | 雑記

 日中は職場へ通じる道路をスタッフボランティア(後日地域住民での草払いは欠席のため)できれいにする。草払い機で延々と格闘し、払った草で埋まった側溝をきれいにさらう。距離にすると700メートル程度なのかもしれないが、7人総出で作業して丸一日汗だくになる。幸い日差しが弱く絶好の草払い日和で助かった。少し時間が余ったので、職場周辺の草も払う。作業場の脇の斜面は急で、少しでも気を抜くと転がり落ちる。場所によっては片手で木の枝などをつかんで、片手で草払い機を扱うという神技を繰り出さなければならない。しかし格闘の甲斐あって、見事にきれいなった。もの凄く気持ちがいい。通勤の折にきれいになった道を通る満足感も格別である。
 またこの清掃作業は、新人さんの大切な研修という意味もある。道が狭いので離合する場所が限られている。交通量は少ないが、たまに地域の人の車がいきかう折に、うっかり路肩や側溝に車輪を踏み外すことも少なくない。一年も通勤すると、誰もがひやりとする経験をするものなのだ。しかしこの作業で、じっくり細かく手作業をすることによって、道路の形状をしっかりと記憶することになる。どこで対面車にであっても、どこでなら離合できるのか的確に判断できるようになるのである。安全であるばかりでなく、安心も獲得することになる。
 また、作業する姿を地域の人がちゃんと見ている。いわゆるデビューというか、しっかり新人さんも覚えてもらえる。その上で感謝もされて恐縮であるが、やはりなんとなく自分のやり遂げた仕事が認められたようにも思えて、それなりに誇らしいものなのである。
 何でもない作業だけれど、そういう訳で、うちの職場の大切な新人研修になっているのであった。


追伸:夜はさらにOB交流会があって、仕事でヘトヘトだったけど、結局午前3時まえまで飲みとおした。まったく僕ってほんとうに偉いです。朝だってちゃんと市場にも行ったんだもんね。偉い偉い。
 珍しく(失礼!)A治先輩の話にその通りだと心から納得した。長いJC経験の中で、初めての体験だったのではないかと我ながら不思議だったけど、疲れ過ぎていたせいなのだろうか? いや、やっぱり現役が好きにやればいいんだ。先輩のいうことを聞くな、という話だったのだから、その通りなのである。どうぞ伸び伸びやってくださいませ。
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自分の感想と比べるだけでも面白いのでは

2009-05-27 | 読書
「こころ」は本当に名作か/小谷野敦著(新潮新書)


 副題には「正直者の名作案内」とある。趣旨としては一般的に名作といわれる文学作品であっても、あんがい駄目なものは駄目だということを言いたいということである。当然のことであるが、なかなか自嘲を込めてでなければいえない問題であったかもしれない。名作といわれているけれど自分には読み解けない。それはなんとなくコンプレックスになりうる問題だ。分からないという能力欠如、もしくは未熟さの問題。名作といわれる作品の圧力はそういうところもあるとは思われる。ほとんどの古典作品は通読したといわれる著者は、そういう実績を持って判断しているのだということなのだろう。特に一般的にはあまり読まれないのに名作というものでは無くて、ある程度の読者の支持を集めながら名作ではないということをあえて言っているようにも思われ、おそらく感情を逆なでするような意識も働いているものとも思われる。まあ、著者はもともとそういうところが面白い人なのでそれはそれでいいとも思うし、それなり納得できる話も確かにありはした。ほとんどの古典作品が未読であるにせよ、読んだことのある作品については、まあこの人の見方は面白いとは感じるので、正直者という姿勢は必ずしもひねているということではないとは言えるだろう。
 さてそうなのだが、僕は漱石の「こころ」は、名作ということまでは考えていないにしろ、中学か高校の頃に読んでそれなりに感心したのは事実である。女を取り合って自殺するというショッキングさも、若いころの感受性にはわりあい合う作品なのではないかとさえ思う。また、あえてこの作品を選んで批判しているのも、僕のように好んで読まれているということを含めて批判しているということもよく分かる。外の小説群と比較して名作といえるものなのかというと、歴史的に多くの人が批判しているように、それなりの欠陥があるということもそうなのだろうと思う。しかし、それでも「こころ」はやはり面白い小説であるとは言えることだと今でも思うし、漱石の小説が現代にわたって読み継がれているのはやはり無理をして名作宣伝されているというだけのことでは無くて、やはりそれなりに読んで面白いということが大きいのではないか。僕は「坑夫」だとか「硝子戸の中」のような退屈な作品もなんとなく好きなのだが、そういうちょっとおかしな感性が漱石の面白いところだということも言えて、やはりこれからもそれなりに生き残る可能性は高いのではないかとは予想できる作家である。そうした精神的にもおかしな人がおかしいなりに心を打つ作品を残すことは別段異常なことではないし、やはり「こころ」のような作品は比較的に分かりやすいということもあって、「坊ちゃん」とは違った意味での代表作たりえるのはないかとも思うのだった。また僕はやはり十代の後半には「それから」が好きだったし、若い未熟な時期には、漱石は麻薬じみて面白い作家ということなのではないかと思う。自意識過剰でそれなりに自信がありながら実績もない若者にとって、やはり同じく若い頃に過剰な自信の空回りしていたような漱石の心情というのが合わない訳がないように思えて、僕には好ましい作家である。別に文豪でなくてもよいから、普通に偉大でいいじゃないかと思う。
 またドストエフスキーもキリスト教を理解しない人には意味がないようなことであるということらしいけれど、確かに読むのに苦労したという経験はあるにせよ、読んで詰まらないかといえば、やはりそんなこともなかったように思う。大仰で信じられない長舌であるということは読みながら疑問に思わないではなかったが、西洋人はそんなものかもしれないし、それすらも面白いということも感じることもあったわけで、やはりドストエフスキーという作家は、面白いのではないか。確かにとても現代的ではないとは言えるし、これからも読み継がれるのかどうかは知らないが、そんなに非難を受けるほどひどい感じはしない。僕にはバルザックの「谷間の百合」には挫折したが、「カラマーゾフの兄弟」は最後まで読めた。噂では「谷間の百合」は後半になって面白くなるらしいから辛抱が足りなかったのだろうけど、カラマーゾフはそんなに辛抱しなくても読めたということなのではないかと思っている。
 また、僕は北杜夫の影響があったことは正直なところであるにせよ、トーマス・マンも面白く読んだクチである。岩波の短編集は若い頃に読んでそれなりに感心し、僕の友人の松井という男は、勝手に僕の部屋から持ち出して面白く読んだという感想を漏らし、そして勝手に古本屋に売ったらしかった。中国留学中に暇を持て余して「魔の山」を読み、また、同じように留学仲間であるヤッペロンも松井もこの本を読み、酒を飲んでは「魔の山」について語り合ったことがあったが、読破するには苦労はするだろうにはせよ、やはり面白い作品だとは思うし、読んで良かったと思う。著者と意見が合わないのは、合う合わないということにすぎないのではないかと思う。
 まあしかし、流石にほとんどの名作といわれるものは読んだことがない。改めて源氏物語が素晴らしいということも分かり、そういうものかもしれないとは興味は持った(読むかどうかは別だが)。残りの人生でどれほどの古典を読めるものかはわからないけれど、確かに正直に道案内にはなっていると思うので、これを読んでから選択するというのは、それなりに賢い味方、材料にはなるのではないだろうか。またむやみやたらに評判にあやかって読むような色眼鏡をはがすという役目もあるように思われて、そういう考え方には共感をもったのだった。
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オオカミ少年化する北情勢

2009-05-27 | 時事

 報道で騒いでいる割にみんな冷静なのは北朝鮮情勢。
 市場も反応している様子さえ感じられない。どうせ脅しだということは誰でも分かっていることだし、交渉のカードだっていう話もかえって自分の首を絞めているようにしか見えず、理解できる要素がほとんど見られない。反応するのはクレイジーに付き合っているクレイジーのようなものなのかもしれない。また、事実上簡単に鎮圧できるということも言えるようで(その前にそれなりの犠牲があるだろうことは恐ろしいけど)、やるんならまじめにやってよ、という感じかもしれない。大量兵器拡散防止構想(PSI)に韓国も全面参加することを決めたが、以前から韓国の参加は宣戦布告と見なし即時断固たる対応処置をとる、といっていた北の反応は無し。敵ながら情けない。結局みんなこんな遊びには飽きちゃったんじゃなかろうか。二男でも三男でもどうでもいいからさ、早く決めちゃいなよ。
 北の骨のある良識人の反乱が待ち遠しいですね。自分の国は自分で変えなさいよ、としか言えないですね。ま、テーブルに就くのはそれからだ、ということでしょう。
 しかし、本当にオオカミが出たということになると、この慣れというのは怖いことになるかもしれない。それが本当の北の狙い、なんてことは考えすぎか…。
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感情を利用して考えることの実践

2009-05-26 | 映画
ブタがいた教室/前田哲監督
 考えるための映画ということで、そういう視点で捉えるならば、提言として多くの人に観られるためにつくられた映画であろう。材料として提供される設定が最小限になっており、細部を追って検証したい人には不十分かもしれない。しかしそれでも考えるためにはこれはこれで焦点を絞るためだったかもしれず、苦心したということかもしれない。もともとのドキュメンタリーと基本的には同じような流れを組んでいるということもあり、フィクションであり実話的であるということも、考えてみると重たいものだと思う。
 先に僕なりの疑問点をいうと、この設定は食べ物の大切さというだけの問題なのではないと思われた。もちろん世の中は複雑だ。結果的に予定通りに事は運ばないことを思うと、そのようなふくらみを含めて考えるべきかもしれないのだが、映画としては(または教育現場としては)建前としてそれ以上は踏み込めないのかもしれない。しかし人間が豚を食っているのは、食べるためと生きるためということなのだったら、経済はやはり切り離せないとも思う。豚を売るという視点もあればもっと良かったのではないだろか。人間はそこまで残酷であるということを直視するためにも。
 多くの人が感じたことだろうけれど、家畜とペットは混同して考えられる問題だろうか。もちろん家畜なんだから殺していいというのは傲慢だと思うが(もしくはペットだから動物がしあわせなのかということもある)、しかしペット化した生き物は、やはり殺せないというのは当たり前の話だ。そういう住み分けはどちらも人間のエゴであるにせよ、やはり少し食の問題とは別モノのようだ。飼い続けられないペット問題なのではないのか、と感じたのも確かだ。例えばアパートに住んでいて犬を飼えないという問題に近いのではないかとさえ思った。違うという人は、やはり豚を特別視している。ではなぜ豚が人に食われるべき生き物なのか。または韓国人が犬を食ってもいいではないか。
 いや、出発点はやはりいきものを食うということなのであろう。しかしそれが身近な問題になると、このように複雑化する。もともとこの若い先生が考えていた以上のことが結果的に生まれてしまった。このような残酷な事を直視する機会をつくったという発想が、やはり人間的であり、教育的であるとは思える。少なくともこの実践を行うということができたことは、豚の命以上に人間的に価値がある、と人間のエゴでは思う。人間が生きるということは基本的に罪深い。そして生きるために食べるということは、そのような意味を持っているのだということを考えないで生きていくことこそが欺瞞だろう。この体験の所為で豚が食べられなくなると非難するのは簡単だ。普通ならそれくらいショッキングなことから、目をそむけているにすぎないだけの話なのである。

 原作本もあるし、元になったドキュメンタリーもある。考えるためにはどれを観てもいいのではないかと思うので、添付しておこう。

命の授業900日 豚のPちゃんと32人の小学生?


命の授業900日 豚のPちゃんと32人の小学生?


命の授業900日 豚のPちゃんと32人の小学生?



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宗教とは何か

2009-05-25 | 読書
祝福王/たかもちげん著(講談社)

 宗教とは何か。そういう問いを立てても答えが得られるとは限らない。特に宗教っていうものを何かと追及して答えがあるとしても、そのことを理解できるかどうかも怪しい。そうではあるけれど宗教ってなんだろう。一度はそのような事を考えたことはあるだろう。
 日本人の多くは無宗教だといわれたり、またそのように自覚している人が多いというのも分かる。それは多くの場合一神教であるキリスト教に対して(それもごく一部の米国事情を誤解して)そのように信仰する習慣のない人間が無宗教だといっているにすぎない。確かにそのような一神教は信仰していないように見えて、無宗教だと言いきれるということの方が、はるかに宗教というものに対する誤解であるとは思う。しかしその誤解であるということさえよく分からないというのが実情であるらしく、その理解への溝は深い。でも実際に神なんて信仰していないのだからやっぱり無宗教だということを言う人がいるので厄介だけれど、もともと信仰というのはそういう限定的な状態を指していうものではないのだから、やはり誤解にすぎない。人間という存在がある以上信仰というものがなくならないわけで、宗教をもっているということがすなわち人間性だということにすぎないのだけれど、これを説明するのがシロウトの僕の手に負えないことは分かっている。つまりこの漫画を読むべし、ということになる。
 実のところこの漫画を読んでも本当に宗教が理解できるとは限らないところは厄介だと思うが、かなりのところまで、宗教というものについて描いているという感じはする。また漫画だから説明するのにイメージを多様化させて描いており、訳のわからないなりに頭に入ってくるのを感じることはできるだろう。なんだか凄い展開で物語自体が破綻しているようにさえ見えて、しかしやはり宗教の核心をついているようにも見える。少なくとも凄いものを読んでしまったという感動も得られるに違いない。
 たかもちげんという作家はすでに亡くなっているらしく、この漫画を読む限り、非常に残念なことだと思う。これだけのスケールの漫画を描くことができるということも脅威だし、また他のテーマについても掘り下げて描いて欲しかったという思いがする。
 ただ、僕としては宗教の中に様々な奇跡が描かれることにはやはり興ざめするということはある。そのような驚くべき奇跡を見せて現実的な宗教に目覚めるということがやはり信じがたい。遠藤周作の「沈黙」のように、何も奇跡が起こらないにもかかわらず、クリスチャンがそのような事実を描くことに、宗教としての深みを感じるタイプのようだ。しかし宗教が描く奇跡のイメージは、単なる作りものというものでは必ずしも当たらない。そのような世界を作り出す癖のようなものが、人間自体に備わっているということが言えるからだ。死後の世界のイメージが、宗教を超えて似かよっているということも聞いたことがあるが、特定の宗教が作り出す世界観が特殊であるということは必ずしもいえず、そのような人間共通のイメージが生まれるということにこそ、人間そのものが備えている特性であるということなのかもしれないと思う。
 僕自身が考えている宗教というのは、単なる習慣ではないかと思っている。たとえば多くの人は虫歯が怖くて歯を磨くという。実際にそうしている人は多いだろう。その行動自体はごく合理的なもののように見えて、極めて宗教的である。それはそうすることで虫歯にならないと信じて行っているからである。たとえ出発点が合理的考え方であるとしても、信仰を通して行われる儀式というものは、つまるところ習慣的な行動なのである。そうして習慣を励行している人の多くは、実は大変に信心深い人たちと同格である。宗教というものはそういうものではないかと思う。そして日本人の多くが、極めて信心深いということも同時に言えることであると思う。これだけ均質的に信仰の篤い民族もかえって珍しいようにも見えるし、よくもまあ無自覚にふるまえるものだと奇妙でさえある。あえて言わせてもらえば、無宗教という信仰に篤いということなのだろう。
 そういう無自覚でも生きていけることは間違いがないとは思うが、しかし自覚的である方がかなりのところしあわせに生きられるのではないかとも思う。自分の中の信仰とは何か、そしてそういうものを持っている自分に自覚的になるということが、ひょっとすると「悟り」ということなのかもしれない。
 多くの人に目覚めてもらうためにも、また、そのような考え方を理解してもらうためにも、極めて優れた漫画であることは保障する。また、この漫画は昨年末から復刊が進んでいるということで手に入りやすくなっている。大変に喜ばしく価値のあることではないだろうか。
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死んですむとは思えないが…

2009-05-24 | 時事

 韓国の前大統領が自殺したのだという。素直にいつの時代のことなのかという違和感を覚えるのだが、韓国の国のことを単純に卑下しても始まらない。だからこそ現実を直視して自国で改革をやるよりないのだし、韓国の若者(何度も断るが、これは僕の偏見にしろ、今の国を第一線で構成している老人たちにはそれが出来ないだろう)にそれが出来ないはずはなかろう。韓国が変わることで、おそらく北も変わるだろう。僕らとしてはそういう意味で彼らと付き合っていくべきだろう。
 さてしかし、だからといって日本の多くのリーダーたちは、盧前大統領を笑うことが出来るのだろうか。僕自身も自戒を持って眺めなければならないという思いもあるし、いいにくいが知りえる範囲で疑問のある人たちがトップに座っているという風景はそれなりに存在しているように思える。何らかの理由で自分が失脚したら埃のようなものが立ち上がる人が多すぎるように思う。たとえば政治家であっても、多少悪くないと政治家は務まらないなどと理解している人もそれなりにいるのではないか。何もかも潔癖すぎるのもどうかとは思うけれど、そういう社会の常識があるというのは、当然その質に影響がないわけがない。個人の倫理性の高さというのは、一般的には社会的な倫理の質に左右される可能性が高い。もちろんだから皆無に出来るとまではいえないにしろ、せめてトップに立てる人たちやそういう人を推す人たちにも、当然のように根付いた倫理の高さを求めることは、当然過ぎる当然さではないだろうか。
 僕らが失望している以上に韓国の国民が今回のことでは失望しているだろうことは予想できる。そしてそれがあくまでよそ事だと思っているような日本であるなら、この国だって将来は暗いのではないと思っている。
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お湯切りは便利になった

2009-05-23 | 

 以前はよく食べていたのにめっきり食べなくなったのはカップ麺である。これは結婚したということが大きくて、当たり前のように食べなくなった。しかし身の回りのいたるところにカップ麺は転がっていて(カップ麺を持ち歩いている人が意外に多いのだ)、食べようと思えば食べる機会もありそうなものだが、やはり自分で買うこともないから食べない。コンビニは出張した時ぐらいしか入らないし、スーパーで(料理用の)食料品を買うことはほとんど経験がない。中国時代は自炊していた時期があったので、毎日のように食材を物色していたものだが(まあ物珍しく楽しいというのもあったが)、生活様式が変わるとこうも変わるものなのだと改めて気付かされる。
 カップ麺の中でも特に焼きそばを食う機会が無い。同じく学生時代は週に一回は必ずと言っていいほどUFOのたぐいを食っていたものだが、なんであんなに好きだったのか不思議である。その上実際にはあれが焼きそばであるはずはないにもかかわらず焼きそばと認知して食べているということ自体にも疑いが無くて、そのことも今となっては大変に不思議に思える。
 そうではあったのだが、実に久しぶりにカップ麺の焼きそばを食う機会があった。容器にお湯を入れてしかるべき時間後に中のお湯を捨てるのだが、そのお湯を切る新機能が付いており(お湯を入れた反対側から麺がこぼれないようにお湯切り穴が開けられている)それなりに驚いたが、基本的な食べ方には変わりがない。
そうして久しぶりに箸をつけてみて小さく驚いたのは、思っていたより旨くないことだった。いや、もともとマズ旨いものであって積極的に旨いと感動できる味ではなかった気もするが、それにしても久しぶりに再会した感激をかき消すようなまずさなのである。それなりに食べ進んで結局完食しておきながらいうのもなんだが、これはかなり残念に思われた。
 しかしなんでこんなに不味く感じられたのだろう。しばらく見ないうちに何が変わってしまったというのだろう。
 最初は焼きそば本体の質に変化があったのかもしれないとも考えたが、記憶の中にある味も、よく考えてみるとこのような味だったのかもしれないとも思われた。同じ味なのに以前は好ましく思えていたのに、今は好ましい味ではなくなったということなのだと思う。単純に長い間食べなくなって、僕の好みが変わってしまったのだと思う。
 この先何があるのかは予想不可能ではあるにせよ、特にカップ麺の焼きそばは、これからも食わなくていいリストにあげてもいいのかもしれない。それは少し残念な喪失であるような気もするし、正直に言って少し感傷的な気分にさせられないこともない。しかし、これもたぶん僕が若くなくなったということでもあるのだろうと思う。若い頃にはいろんなものがきっと旨かったのだろう。しかし僕も年を重ね、実際には選択してものを食わなければならなくなっていくのだろう。それは経験していったから改めて現れる偏食というものなのかもしれない。人の味覚というものはそういうものなのであろう。
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今の時代の人では到達できないかもしれないが

2009-05-22 | 映画
神様がくれた赤ん坊/前田陽一監督

 同棲中で既に倦怠期のような関係の二人の住むアパートに、男が過去に関係のあったらしい女の子供がつれてこられる。女はすでに駆け落ちして居らず、子供の父親らしい5人のリストとともに子を置いていったということらしい。男はその第一の候補者のようだが、父親としての納得はいかず、他の男たちを疑って父親探しの旅に出る。
 最近はあんまり聞かなくなったが、以前にはよく聞かれた話である。今なら受け止められ方がだいぶ違うことだろうとは思うが、なんとかその時代にはこの設定は成り立っていたということだろう。ただ、逃げた女についての情報がほとんど無いので、おいていかれた子供の悲壮感があんまり無い。困ったことには違いないが、父親を捜すうちに逆に養育費をふんだくることが目的化してきたりして、かなりいい加減に楽しんでいる。まあ、それがそれなりに楽しいといえば楽しいコメディである。
 そういえば桃井かおりといえばこんなような女優さんだったなあという懐かしさと、二枚目半の渡瀬恒彦という取り合わせがなかなか良くて、物語としては大変によくできた作品になっている。あんまり昔ではないけど今とはぜんぜん違う昔話として、今でも多くの人の鑑賞にたえるものになっていると思う。
 しかしながら桃井の演じる女の過去のように、子供が大きくなったときにどのような消化のされ方をするのかという問題はそれなりに疑問として残らないではない。親の都合で自分自身には何の選択もできない子供という立場というのは、ある意味でやはり不憫である。しかし子供という現実は、かわいそうだから何とかしたいという感情でどうにかするにはあまりにも重すぎる問題のようにも思える。しかしいくら悩んでもその現実は目の前から消えることはない。子育ての難しさというのは、つまりそういうエンドレスな覚悟を含まなければどうにもならないということだろう。
 ロードムービーの王道である人間の成長物語としても、なかなか良くできた物語になっている。それは結局青年になったとしてもまだまだ人間は大人になりきれていないということでもあろうし、しかしその若さが苦難であっても楽しく乗り切る原動力になっているとも取れるところだ。倫理的に今では描きにくい世界かもしれないけれど、確かに過去の人には未来が輝いていたんだといことが理解できる作品であり、そういう意味でも今の時代にはいい意味で皮肉になっているとも思えるわけで、あえてお勧めとして楽しんでもらいたい。
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ホッチキスでとまらないです

2009-05-21 | 時事

 ところで新型インフルエンザ。毎日役場から大量に対応文章が送られてくる。ファックスが来て、同じようなものがまた会議で配られ、そして確認するように郵送で送られてくる。総会時期なので連日当たり前のように人の集まる会議があるが、欠席すると怒るくせに出席すると出席した人間を追跡してどのような状態かを後日報告せよと来る。今後の行事を細かく調べて、参加人数や何故実行するのか理由を書かされる。中止するよう要請はないが、事実上自己責任であるということを強調して警告しているらしい。まあ、事なかれ主義ですね。自分の責任でなければどうなってもいいということを役人用語で暗に伝えているだけである。対応するスタッフはちょっと食傷気味になってきた。かと言って、報道に乗るわけにもいかないので、緊張感がないわけでもないということか。
 最初に不謹慎なことを言うと、弱毒性ということもあるようだし、今のうちに感染しておいて免疫をつけておくという手もあるんじゃなかろうか、とまで考えてしまう。大流行というのはたいてい寒くなってからということが圧倒的に多いので、今年の冬に備える方が得策ということはないのだろうか。まあ実際そうであっても騒がれるのはたまったものではないし、理解もされることではないだろう。
 今回のことで、実際のパンデミックは防げないということが完全に明らかになった。これだけ厳重に対策が練られているように見えて、空港から易々と感染者が入国を済ませていることが明らかになるだけである。自分が感染者と気づかないままの人だっている可能性があるし、感染経路が分からないという人が出た時点で、突破は終わったということだろう。
 しかしながらこうなってくると、どうやって警戒を解除するのかということの方が難しいことがよく分かる。安静化したといってまた流行でもしたら、マスコミはこぞってその責任の所在を問うだろう。つまり実際に安静化したようなことになっても、事実上そのような注意を解くのはさらに慎重論の先にありそうだということだ。もちろん今からさらに拡大する可能性もある。感染者が増えると、重篤な人が出る確率は徐々に増えていくだろう。先が分からないのだからどうにもならない。預言者でない限り、誰だって答えようがない問題のようである。
 単純な予想として、今年度の行事は秋口に集中することになるだろう。寒くなる前に人の集まる事業を実施しておこうとするからだ。冬は盛大なサボタージュの時期になるかもしれない。いや、本来のパンデミックの備えとしては、それでまっとうなんだろう。これは多くの人が望んだ計画的な結果だということにすぎないのである。
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何故カルトなのか確認すべき名作

2009-05-21 | 映画
幻の湖/橋本忍監督

 東宝創立50周年記念作品にして興行的に大失敗し、事実上抹殺されたためにカルト人気が復活した作品だそうである。もちろん僕もそのような背景に興味を持って手に取った。そして確認するように興行の失敗は仕方のないことであったと深く理解した。また、カルト人気になる理由も同じように理解できる気がした。
 この作品の魅力は、ひとえにその支離滅裂さにある。壮大なスケールを活かしきれず、それでいてその難解なメッセージは貧弱で、そして上映時間は不必要に長く、役者の演技もまったく恥ずかしい。しかし、である。僕とつれあいは、この映画を最後まで興味深く注視続ける結果になった。その不思議さは決してつまらないものでは無くて、なんだか凄いものを観ているような気分だけは最後まで味わえるからである。いや、よく分からんが凄すぎて、凡人の人智を超えた深遠さがあることは確かであって、そして込み上げてくるおかしみが滲んできて、それなりに映画を楽しんだという満足があった。この映画を最後まで観たという優越感はあるとは思うが、さらに楽しんだということも、おそらくマイノリティとしての希少性があることは間違いなさそうに思えて、何か悟りを開いた僧侶のような、ほっとする達成感を感じたのではないかとも思われたのだった。
 あらすじを書いてみると、そのわけのわからなさの一端が少しは理解してもらえると思う。ほとんどネタばれなので、観たい人は読まないように…。

 ソープ嬢として働くジョギング好きの女性が、一緒に走る際の相棒である犬が理不尽に殺されるという事件に巻き込まれる。犯人を追うと、謎の多い大物作詞家であることを突き止めるが、相手にされないどころか、さらに理不尽にあしらわれる始末である。彼女は復讐を決意し、犯人のジョギング中に追い詰めようとするが、その作詞家は想像以上に優れたランナーらしく、むなしく振り切られてしまう。失意の元いったん琵琶湖の畔へ帰るが、そこで旧知の銀行員から求愛され、仕事を辞めて結婚を決意する。いったんは復讐劇が終わったかに思われたが、以前にジョギング中に出会ったことのある謎の笛吹き男から、琵琶湖にまつわる戦国時代の歴史的な悲恋の男女の物語を聞かされる。どうも自分はその無念の死を遂げた女の怨念も含めた復讐に取りつかれているらしいことが示唆される(店での源氏名が同じなのだ)。そうしてこの話をした笛吹き男は、謎の任務を帯びてアメリカのNASAから宇宙に飛び立つことになっているらしかった。女が仕事を辞める二日前に憎っくき作詞家が客として自分を買いに来た。女は愛犬が殺された出刃包丁を握りしめ逃げる男を追いまわす。そうして又、壮絶なマラソン競争が始まるのである。一方謎の笛吹き男は、宇宙船から地球の軌道上の琵琶湖上に、歴史の怨念のこもった笛を置いて(というか浮かせているのだろう)永遠にこの復讐の悲劇を封印しようとする。

 どうです、面白そうでしょう。いや、面白いというべきなのかさえ分からないとは思いますが…。
 まあ、なんというか、このようなふざけた話を、非常にまじめに丁寧に描いている。難解といえば難解だし、しょうもないといえばそんな感じの物語が、坦々と美しい琵琶湖の風景と、歴史のスペクタクルやアメリカの陰謀らしき背景も交えて展開されるという、まさに東宝の50周年記念作品として企画されただけはあるようなスケールで描かれ、見事に興行で失敗したというわけだ。
 半分以上馬鹿にして書いているとはいえ、僕はこの作品を観ることができてそれなりに良かったとは思っている。この映画を製作しようとした映画人にも素直に敬意を覚えるし、人間の考えている不可思議な面白さという点を掘り下げて考えると、真面目になればなるほど逆に可笑しく狂っていくということを実証的に証明していく過程がよく分かり、実に興味深い。数々の輝かしい実績のあったこの映画の監督である橋本忍は、この作品後に自然に仕事を干されて引退したとされている(まだ存命である)。それは不幸であるにしろ、仕方ないような自業自得にも感じられ、感慨深い。
 しかし正直に言うと、僕自身はこの物語のような理不尽なものに対しては、もしかすると深遠なる(この場合は歴史的背景があったのだが)理由があるのではないかと夢想することが確かにあるのである。その思いは実際の日常世界において晴らされることなく、どこにも行き場がなく葬り去られるよりないことが多いのではあるまいか。そういう人類の怨念を含めて、極めて暗喩的にカタルシスを与え浄化させる試みを行おうということになると、この映画をつくらざるを得ないのではないか。いや、きっとそうだ。監督は人類のそうした思いを封印するためにも、この映画を作ったのに間違いあるまい。怪しいと思った物好きな人は、この映画を観て是非とも確認してもらいたいものだと思う。
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監査報告をした件

2009-05-20 | 時事

 給食費のことはもう書きたくないという思いがあって控えていたのだが、PTAの役割もあって給食会の監事として監査もやったので、僕の知りえた情報もあるわけでもあるし、ブログなんだから書いてもいいかなと改めて思いなおしたりして、ちょっとだけメモする。
 給食のこと自体を考えると、あまりに馬鹿げた教育現場の意見に対しては、馬鹿にものを言っても理解されないので止める。しかし、どこの社会であっても問題点はあるわけだから、給食に問題があること自体は、ちゃんと認めるということを前提にすると、それは正常な状態である。問題が無いなどという社会の見本は北朝鮮のようなものだからだ。
 給食は実施してもしなくても実はたいしたことじゃない。結論はそれだけだと思う。
 しかし給食についての問題点としてあげられるものには、実に誤解が多いのも確かである。給食の実態について誤解が流布しているために、判断を誤っても仕方がない。給食問題で社会的に不信があるのは、この誤解を大声で取り上げる人たちが多すぎる所為もあると思う。これは保護者の側も学校側も、同じというか、いびつに競争して発信しているせいであろう。これはたぶんいつまでも解決しないので、ここでは今は取り扱わない。勝手にやってくれ、である。
 さて、先週給食会の監査をしてみて思ったのだが、会計についての問題点は、確かにたくさんあった。そしてその多くは監査指摘してもどうにもならない問題なので、個人的に聞きたい人があればお話しする。しかし断っておくが、行政の考え方そのものの問題なので、給食会特有の問題なのではない。行政の会計には(民間の目から見て)、問題が多すぎるのだ。
 さてやっと本論だが、給食費未納というのはどうなっているのか、監査をして何一つ分からなかった。
 給食会というのは、給食の主に食材や燃料に対することを扱う組織で、そのことについての決算であった。結論を言うと、計算方法や決算書を作成する姿勢については先に言ったようにかなり問題があるにせよ、これは行政の体質の問題である。関係書類や通帳などを見ても、その考え方に沿うならば、実に適正に正確であった。そして、各学校から入金されてくる食材費については、まったくの未納は存在しなかった。結論はそういうことだ。
 報道で見られる給食費の未納はどうなっているのかというのは、各学校内で何らかの処理がなされているということである。学校によってはまったく未納がないところもあるし、少し未納が多いかな、という学校は二三校といったところらしい。しかし繰り返すが、食材費については完全に入金されていて、一円たりとも狂いがなく満額給食の食材は毎年これも完全に消費されている(こういう計算方法にはかえって問題があるが、事実は事実だ)。
 それで僕が疑問に思ったのは、給食費未納問題でよく取り上げられている、食材費が足りなくなって、おかずが減らされたり安い食材への変更がなされたりなどの、給食の質を下げざるを得ない問題があるとされることである。給食会の会計を見る以上、実際にはそのようなことはあり得ないし、そのような処置がなされた事実も存在はしない。それなのに、何故そのような処置がなされているという噂が浮上し、実際の問題点として取り上げられることが多いのだろうか。
 ここまで来て、やっぱり言いたくないな、という気分になってきた。未納問題は事実みたいにしろ、最終的な未収金は実はゼロである。間にあるカラクリは、僕には分からない。この間を埋めるのは、各学校なのである。その各学校によっては、まったく問題がないところとあるところがある。僕に言えるところはそこまでかもしれない。
 結論として僕自身が思うのは、最終的に教育現場の教師の中に、給食が教育であると考える人がいる以上、給食は廃止すべきだということだ。実際には中学まで給食を広げて実施すべきという意見の方が大勢であると聞いている。だから僕の意見はおそらく通りはしないし、やはり理解はされないだろう。しかし払わない人の子供であっても現実的に食べさせないことは不可能だと考えているような教師がいる以上、この問題は解決することなどない。単純に言うとそれだけのことだ。払わない人が一番悪いけれど、払う気のない人が払わないというのは、どんな理不尽な理屈であるにせよ、実はまっとうな行動である。それなのにそれを認めないのが現場であるならば、僕らに手の打ちようはない。だから現実にある決算書の未収金は、事実としてゼロとして計上されているのだろう。これが学校という社会であって、それが給食費の未納問題のすべてであろう。税金が入っているのでものをいう権利はあるだろうが、もう僕は勝手にやってくれという気分しか残っていない。結局そうであるから、やはり僕は気が重かったのだなあという、確認のメモである。
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