カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

口紅を拭いて歩く女こそ日本の自立かも   豚と軍艦

2013-04-30 | 映画

豚と軍艦/今村昌平監督

 映画としては間延びしていて焦点が良く分からないところはあったのだが、非凡なものであることは間違いない。ちょっと野心的過ぎたのかもしれない。長門裕之も吉村実子も大変な熱演だけれど、観てる方が疲れてしまうような感じもある。吉村の方はそれでも自然さがあって良くはあるが…。
 豚を使った場面もよく出来過ぎているせいか、強烈というより芸術的な風刺絵のような感じもする。豚を使った商売がそんなにもうかるものかどうかもよく分からないが、ヤクザの扱う汚さのような象徴としてなのかもしれない。
 戦後のどさくさの中で、いわゆる闇社会の暗躍というのはあったのだろうと思う。日本の場合、表向きには寅さんのようなアウトロー的な生き方しかできない人が代表のようでいて、やはり庶民的な欲求と利権を上手くつなぐ役割の人だっているわけだ。法の隙間で商売として成り立つヤクザと、抗争に明け暮れる政治的(暴力的)ヤクザの視点の違いもあるだろう。生きる術としてそのような社会とつながる道を選ぶか、堅気として実直にやっていくか、あるいは切実な問題だったのかもしれない。その境はあんがい明確で無くて、多くの人がその境界でウロウロしていたのかもしれない。
 若いチンピラが慕っている丹波の演じる兄さんが印象的だ。怖く強い存在でありながら、ひとたび病気になると、どんどん弱気になっていく。終いには自分が死ぬということを悟る段になって(勘違いなのだが)、しかし自分自身では命を絶つことも出来ない。つまり流されている訳で、自分で世の中の荒波の中立ち回っているようでいて、しかし翻弄されるだけの人物なのだ。他の人々だって、ある意味で誰ひとりとして自分の足で地に立っていない。そういう人間模様が、米軍の利権で生きて行こうとするチンピラ社会だったのだ。
 最後の場面はやはり印象的だ。米軍の兵隊が港に降りるのに多くの女たちが群がって行こうとする人ごみの中を、口紅を拭きながら逆方向へ歩いて行く実子の姿。結局は本当の反抗精神や自立というものの対比を見事に表している。単なる想像だけれど、そういう機運のある人がいるからこそ、本当に日本が復興することになったのではないか。そんなことまで考えさせられる、見事な演出なのでは無かっただろうか。
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転機にはジタバタしよう

2013-04-29 | 音楽
I Like You So Much Better When Youre Naked Video


 先日車で比較的長時間移動していて古めのMDから流れて来た曲。懐かしい。そうして今更ながら、ストロークスの女性版という感じだったのかもしれないな、などと思ったりした。
 
 とやかく言うことではないが、ある人が引退される話があって、後任の人事で思惑通り事が運ばないということがあった。退任される引き際で、潔くすべてを引き払うという思惑と、やはり日本的な謙遜の美徳のお気持ちがあられたのだと思う。
 しかしながらそこに入ってきたのは、いわゆる違うスジの人で、棚からぼた餅の感のある業界人だった。僕には何の恨みも妬みも無いことだけれど、どんどんと話が進み、実は身を引かれる人の一番望まない形に固まりつつあるという。今更ということもあるかもしれないが、そういう心情を読み取れない人に自分の命運を託すべきでなかったのだ。もしくは、やはりある程度は分かりうるような態度を取るべきだったのではなかろうか。
 すべては後の祭り。僕にどうということができるものではない。非難がましいが、美徳の陰に、自分自身のはっきりとした決断が無かったせいもあるような気がしている。どこか責任めいたものから逃げるということがあったのではないか。世間体だとか裏付けとかそういうものが希薄な点もあったかもしれない。しかし、そうだからこそ、自分が何を言われようとやり抜くというような、はっきりした意思が必要だったかもしれない。それができないのであれば、やはりそれは必然的な結果なのかもしれないのだ。
 そのような転機というものはそうあることではない。だからこそ、身の振り方は、迷いがあまり無い方がいい。そう思えるような生き方ができるかどうかということで、やはり転機後の心情は大きく左右されてしまうのだろう。同じ後悔であっても、やはり自分が動いて悔いを残す方が、良いようにも思う。他人の思惑で動かされる物事には、鬱積したものしか残りえないのではないだろうか。
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ギターの神様よりベースのアイドル

2013-04-28 | 音楽
Jeff Beck & Tal Wilkenfeld. @ Crossroads Festival 2007


 どっちかというと、タル・ウィルケンフィルドの方に目がいっちゃいますよね。かわいいだけで無くて、やっぱり実力があるというのがいいです。かわいいだけならベース弾かなくてもいいんだけど、上手い人がかわいいから、なおさら凄いってなるんだと思います。
 ジェフ・ベックは特にかわいくないけど、やっぱり凄いなあ、でいい訳で、ギタープレイはカッコいいけど、僕は日本人なんで、外国の男の人のカッコ良さはよく分からんです。
 俳優だとロバート・レッドフォードが二枚目なのかな、と思うけど、それってたぶん子供の時に思ったことを今でも覚えているだけのことかもしれない。いまだとブラット・ビットかもしれないけど、それでも既に古っ、って感じかもしれないですね。
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悲しく楽しくたくましい   東京五人男

2013-04-27 | 映画

東京五人男/斎藤寅次郎監督

 戦後の焼け野原の東京のロケ風景を見るだけでも十分に価値のある映画ではないか。かと言って記録映画では無くて喜劇。当時の世相を風刺を利かせてドタバタのスラップスティックを取り交ぜて、時にはミュージカル風になったりするいわゆるシャレた映画としても観ることができる。面白いが、なんというか、そういう感慨の方が深い映画といっていいのではなかろうか。
 戦後の貧困と混乱の記憶は、戦争体験と並び劣らず強烈な印象を残している人は多いようだ。もちろん戦時中に大人だった人より、戦後子供だった人が今に生きている場合の方が多いし、そのような話を聞く機会が僕の様に限られているような場合ということもあるかもしれない。両親とも昭和ヒトケタだから、戦争の話というのは戦地より圧倒的に戦後のものだったのだろう。両方とも口にするのは、揃って食糧難の話だ。父などはカボチャもイモも嫌いではないが、もう食べたくないと言っていた。たぶんその頃に一生分を食べたということなんだろう。腹は減るがそれ以外に食べるものは無い。飢餓の記憶は忘れがたいものがあるに違いない。
 そのような悲惨極まりない世の中にあって、やはり特権を持った人間の嫌らしさも目に余るものがあったのだろう。日本人はどんなにつらくとも助けあって生きて来たというような幻想を抱くような人もいるが、実際のところは多くの困った人々を助けようがない現実と、そうして私腹ばかり肥やしている人々もたくさん居たのであろう。しかしながらそのような現実を変える手立ては無い。特権を持った土地持ちや配給の管理者や農家、そしてお役人。そのような人々は、一般の苦悩をよそに、のうのうとそのような境遇に浸って私腹を肥やしてばかりいたのだろう。まあ、今もそれは変わらないことではあるのだけれど…。
 最終的には社会主義的なファンタジーも含まれているようには思うが、恐らくどうにもならないくらい世相をどうにかしたいというような正直な気持ちが、映像に現れているということなのであろう。勧善懲悪がそういう社会運動的な機運を生んでいたという感じかもしれない。いまや社会主義思想は老人しか支持していないような古いものになっているが、そういう過去の若々しさというのものが、このような世相によって生まれるものであるというような事は理解できる。現在の貧困や社会構造とは、根本的に意味が違うものなのだ。
 戦後この映画をタイムリーに見た人々は、やはり同じような苦しい境遇の人ばかりであった。戦後の復興を支えていた気運のもとは、シリアスなだけでは無いこのような鬱憤を笑い飛ばすようなたくましさもあったのではあるまいか。悲しいが、やはりどこか笑わずにはいられない。そうして元気になる人がいたからこそ、現在のような日本の姿もあるのであろう。
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15分くらいは確かに見やすい

2013-04-26 | culture

 当たり前だが「朝ドラ」というのは海外には無いものらしい。毎日少しづつ物語が進むということと、大抵ヒロインが若い女性で、世の中を明るくする趣旨が込められているというような国民的な習慣になるようなものが、ずっと放映されるような土壌が無いということなんだそうだ。大抵主婦に向けてつくられているそうで、朝の忙しい時間のひと時にドラマで楽しんでもらおうということが定着してしまったのだろう。少なくとも、NHKはそのような使命を信じているということは言えるだろう。
 僕の叔母が南米に住んでいて、ボリビアだとかペルーなんかでもドラマが盛んに放送されているという話を聞いたことがある。もっとも一時間の番組でも30分くらいはコマーシャルだといっていた。そうすると30分くらいのドラマだったら15分くらいの連続テレビ小説と一緒じゃないかな、と思ったことだった。
 そういえばかの国にはNHKはなさそうだ。NHKこそかなり日本的な放送システムかもしれない(他国にも国営放送はあるだろうけど)とは思う。そこで考えられている放送の在り方のような思想は、たぶん日本人の縮図のようなものが入っているのではないか。
 僕としては出来るだけ誰も興味を持たないような不思議な番組が増えるといいのにな、と思う。そういう番組をせっせと録画して酒を飲みながら見るというのが、僕としては何となく楽しい日常だ。今のところ特に朝ドラには興味は無い訳だが…。
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やはり近くて遠くもある国   ほえる犬は噛まない

2013-04-25 | 映画
やはり近くて遠くもある国
ほえる犬は噛まない/ボン・ジュノ監督

 まず韓国の食文化の背景がある。もちろん韓国に限らず広く犬は人間から食されてきたことは間違いあるまいが、近年の話である。つまり、日本で犬が失踪するということになると、食われている可能性はそんなに高くなさそうだ。しかしこの映画ではそのような需要が背景にあるから、犬たちは失踪すると極めて危ないということになってしまうのかもしれない。
 団地で犬を飼えないというのは、ある程度共通はあるかもしれない。管理上のことかもしれないし、めんどくさいからかもしれない。子供の頃友人が団地だから犬が飼えないといって遊びに来ることがあった。よその犬で楽しいのかどうはよく分からなかったが…。
 ストレスもあるのだろうが、ほえる犬を規則を無視して飼っている状況が許せない、という原因がある。しかし注意するのではなく、いきなり殺そうとするところが極めてよく分からないところだった。それはたぶん僕の犬に対する向かい方と偏見のせいだろう。そのためにかなりショッキングなホラー色の強い印象を持った。見終わった後にも、まさしくその感情が後を引いた。このまま幕が引かれることに嫌悪があるというか…。
 それは、ある意味で狙い通りなのだろうし、まんまと乗せられているのかもしれない。犬に翻弄される人間の方が、ある意味では哀れで悲しい。そのために死んだ犬も悲しいが…。
 社会的な正義感というものも背景にある。それは自分の置かれている境遇からの唯一の抜け口であるかのようだ。自分の危険も顧みず、そのような行動を起こせるということが、自分自身の価値を高めるということだろうか。今はくすぶっているが、社会的にはそのことで認められることになるだろう。犬を殺す犯人を突き止めることで、自分は社会的なヒロインになれるかもしれないのだ。
 人間の認められたい欲求というのは、若い頃には特に強いものがあるのかもしれない。大人にはなったものの、若いというのは社会的にまだ何者であるかというのが確定してはいない。そういう焦燥感と、身近に起こっている邪悪な悪との対比が、自分を駆り立てていくということだろう。
 僕にとってはホラーだったが、たぶん展開はコメディだ。そうしてやはり韓国社会への風刺にもなっているし、若い人間の本質的な悲しさも同時に共感をもって認められることだろう。後のヒットメーカーとなる監督の裁量も十分に理解できる作品である。
 ちなみに原題は「フランダースの犬」なんだそうだ。そういう意味では、韓国文化は日本の影響も大きいということなんだろう。日本人にとっては、そういう近似と差異のコントラストに、ある種の感慨を深めることにもなるのであろう。
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3Dプリンターを欲しがる人がゲットしそうなもの

2013-04-24 | HORROR

 3Dプリンターの話題については、表面的な期待がひとおりあって、凄いってことなんだけど、最後の方で、でも、っていう展開が多いように思う。それは確かに凄いけど、例えば銃のような武器もプリントアウトできるようになるというのは怖いということなんだろう。具体的に例えばを考えると、手ぶらでテロリストが入国した後、ネットで情報を流してもらってアウトプットして銃を手にすればいい、といったような。
 情報がコピーされてネットで簡単に流されるようになって、そのような電子情報に還元できるものは、いわばタダで出回るものが多くなった。被害を受けたのは音楽産業とか、映像の世界なんかもそうかもしれない。今まではそれで済んでいたものが、具体的な形のあるモノであっても流出が可能になったという訳だ。陶器のような器だとか、ブランド物のデザインのあるものだって、設計図さえあれば再現可能かもしれない。実際にブランドものの靴なんてものも、サイズを指定してプリントアウトできるそうだし、そういうショップがあるそうだ。
 ものによっては写真を撮られただけで、再現の可能なものがあるかもしれない。大変なことになったなあ、とは正直思うが、やっぱり面白そうだよね。
 ネットによって限りなくゼロに近付いたものは何か、という話があって、それはエロ本関係なんじゃないか(男的でゴメン)、という話題があった。そうすると…。最初はやっぱりそういうフィギア関係から普及しそうな予感があるね。だからといってリアルが廃れるということは、この場合はなさそうではあるものの…。まあ、人間の悲しい性かもしれません。
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将軍の哀れさが涙を誘う   刑事コロンボ・迷子の兵隊

2013-04-23 | コロンボ

刑事コロンボ・迷子の兵隊/サム・ワナメイカー監督

 コロンボシリーズを映画と見るかはお許しを。テレビシリーズではあるけどこの欄で紹介ということで…。

 国防関連の財団があるところがアメリカ的だという感じもするが、いや、他国にだってあるかもしれない。軍人がそれなりに尊敬されているのは、戦勝国だからかもな、などと思ったりして。日本の軍人さんも偉い人はたくさんいる訳だけれど、生きている人で偉いのは、一定の範囲内という感じもする。良いことか悪いことかはよく分からない。もっとも僕自身は自衛隊のまちに住んでいるので、比較的自衛隊さんには敬意を払う人の多い感覚は分かるが、他のまちでは必ずしもそうではないというのも知らないではない。
 さて、その財団の大佐という人がたいそう悪い人で、トリックを暴くのはそれなりにカタルシスはある。しかし、それに伴い騙されている財団のトップである車椅子の将軍が可愛そうな哀愁を醸し出している。本当は騙されているかもしれない事を薄々知っていながら、若い夫人への愛もあってか、なかなか直視できなかった現実があったのかもしれない。劇中にも秘密から逃れられないと観念した夫人から事実を告白されそうになる場面があるが、あえてその中身は聞こうとしない。最後に台無しになるにせよ、この物語では特に印象に残るエピソードではなかったか。
 そんな感じはどっかで見たな、と思ったら、居酒屋兆冶がそうでしたね。兆冶の恩師が教え子の若い後妻をもらう訳だが、まわりの人間は盛んにそのことをうらやましがったりする訳だ。しかしながらその年老いた恩師は、そのことに内心苦悩しているということだった。分かるような分からないようなところはあるが、やはり分かる年頃になったのは悲しいことかもしれない。
 トリックを暴くコロンボも、久しぶりに見ると必ずしもいい人間には見えない。犯人を追いつめるにおいて、そのような人間模様も暴かなくてはならない訳で、はっきり言って嫌なやつである。しかし最終的には諸悪の根源を断つということになるのだろうから、それでいいのだ。
 最後に犯人を追いつめるカギとなる段ボールトリックだが、運んだ人に聞いたらあんがい重量で簡単にばれたんじゃないかという気もした。後でネットでみると、やはり同じように指摘する人があるようで、やはり追いつめるトリック、または犯人がアリバイの根拠に考えたトリックとしてはそんなに良い出来では無かったかもしれない。犯人ももう少し別のことで観念しても良かったのではないだろうか。
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日本食は復活するか

2013-04-22 | 時事

 新聞を読んでいるとTPPにより安いコメが入ってくると、約7割の人が外国産の米を購入するようになると予測していた。3割の人が国産を買うということなのかは分からない。米を食わない人もいるだろうから、あくまでコメを購入する人の内、ということなのだろうか。
 文意としては(日本の農業的に)危機的なことということかもしれないが、これは考えてみると、日本食の復活につながることのようにも感じた。つまり戦後一貫して日本人の食の欧米化が進んだことが、さまざまな生活習慣病を引き起こす原因ともされている。戦後は日本的な食事こそ栄養が足りないという観点もあったようだけれど、その後のライフスタイルについては、文化的な自由さや、風俗の移り変わりなども複雑に絡んだ結果だろう。しかしながら日本的に考えると、主食(こういう考え方そのものが日本的だが)のコメが一貫して食材の中で相対的に高くなり続けて行った結果、コメ離れを起こして、日本的な食文化が崩れて行ったということも考えられる。何故かそう考えない人が多いようだけれど、安ければ7割が外国産を買うだろうという予測は、そういう根拠を説明づけるものだろう。
 予想される結果は皮肉なものになるだろうが、コメの自由化は日本食の復活につながる可能性が高い。もちろん摂取する蛋白源の変化はいかんともしがたいものがあるけれど、コメを中心として食材を組み立てる家庭が安定して増えることは間違いあるまい。
 最後に新聞では食が外国産になることによる食べ物による国際的な安全保障の問題を軽く提議していたが、(これも実際は長い話になるが)的外れというしかないだろう。食材が国際化すると、当たり前だが経済的なつながりが強くなければならなくなる。それこそが安定的な外交的安全保障に他ならない。外交カードとして懸念というのは、当然相対的な問題だ。そして実質的な話として、圧倒的に強いのは消費者の側である。いくら米国が日本より強い国だといっても、BSE問題では日本は日本の論理を振りかざして輸入の制限を設け、そうして消費しなければいいだけのことだった。つまり消費者の方が不利になるというような事は、自由貿易になればなるほど、実は考えにくいことなのだ。結果的に日本の農業が壊滅するというけれど、保護した結果も現実的に壊滅状態だ。
 断わっておくが、僕はある意味でコメ農家だから困ることばかりだけれど、だからといって保護を求め続けることにはうんざりである。むしろ日本食の復活の可能性が高いことの方が、将来的には興味のあることだ。その上で、農業への若い人への参入を容易にする規制を緩めていくべきなのだろうと思う。
 もちろん現時点の日本のシステムや世論を鏡みると、自由貿易というのは気の遠くなるほど遠い世界のことのようにも思える。諸外国に迷惑をかけ続ける国としての在り方を考えると、TPPで足を引っ張る大国としての日本は望ましくないのかもしれない。
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琴でジミヘン

2013-04-21 | 音楽
Voodoo Chile-Jimi Hendrix / Gayageum ver. by Luna


 かっちょいい。いわゆるチョ―キングってやつが独自の感じですね。品よくカッコつけられるということかもしれない。意外な組み合わせであるようでいて、しかしけっこう相性はいいんだな、という感じもする。これがクラシックだと、まあ、そうかなで済みそうだもんね。
 Lunaさんというのは韓国の人らしい。僕が知らないだけで、ひょっとすると有名だったりするんだろうか?
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突然に昔の友人に会いに行く 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

2013-04-20 | 読書
突然に昔の友人に会いに行く
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/村上春樹著(文芸春秋)

 過去のしあわせな時間と負ってしまった深い傷の記憶が、現在の行動の支障になることは多々あることかもしれない。むしろそういうことの方が、実際上は多くあるのが、ある程度の年を経た人間として自然なことなのではあるまいか。一時期は個人を死に至らしめるほどの強力な影響があった物事であるにせよ、現在においては、ある程度は距離を置けるくらいには冷静になれる。しかし、だからこそ、今だからこそ、そのことともう一度正面から向き合えるという絶好の機会なのかもしれない。当時の体験した生の事件と向き合うには、あまりにタフな精神と肉体を必要とする。そもそもそのことに耐えうるものを持ち合わせていないのが若さというもので、しかし、今にあっても、過去という生々しさの記憶が失われていない程度に必要なタイミングということもあるのかもしれない。もちろんそれは完全に比喩ではあるが、しかし、同時にリアルにタイムリーなことなのだ。何の問題をそれに当てはめるかは個人の問題であろうけれど、小説の主人公だけのタイムリーさでない普遍性を感じさせられるところに、作家村上春樹の価値があるのだろうと思う。それは、やはり時代が欲していることでもあり、幸運な偶然なのだろう。いや、分かっていてやっているというのであれば、やはり超越した何かの力があるとしか言いようがないではないか。
 誰もが受け止められる物語としての普遍性があるとはいえ、しかし物語は荒唐無稽である。ナンセンスであり、漫画的でもある。そうして、必ずしも、この小説の枠内ですべてが解決しない。それはある意味で音楽を聴くように、情景的に感情的にリアルではあるけれど、しかし何もその場の自分自身のあるがままの姿ではない。感覚的に理解できるものの、しかし表現としては単純化するのが危険な予感がある。そこのところがやはり、村上作品なんだな、ということになるのであろう。
 謎解きの展開に、最初は早くスジを追いたいという欲求があった。しかし段々と、やはりこの時間のいとおしさのような感情が湧いてくる。早く読む必要なんて何もない。3年待たされて、なぜ先を急がなければならないのだろう。そういう体験そのものを満足させれられるような事こそ、読書体験としては大切なことなのであるまいか。結果的に当たり前のように今後もムーブメントは続く。後のことは知らない。自分がそうあればいいということに特化すればいいだけのことなのである。
 昔の友人にもいろいろとある。もちろんあんまり会わなくても、親友というような人間とならばすぐに打ち解ける。そういう体験は誰にもあることだと思う。そういうつながりとしての過去が途切れてしまった人間というのは、やはり修復を必要とするものなのだろうか。僕には友人が特に多いのか少ないのかはよくわからないのだけれど、そうしてそのような修復が必ずしも必要なのかさえもわからないのだけれど、一瞬巡礼をしてもいい気分になるのだった。
 過去の友人巡礼ツアー。今年はひょっとするとそういうことが流行るのかもしれないな、などと読後に思ったことだった。
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永久の命の獲得の方法

2013-04-19 | 雑記

 生物は年を重ねると老化する。それは当たり前のこと過ぎて何の疑問も無いが、人間というのは老化を止めたいという願望があるらしい。長生きしたいというのは理解できないではないが、さらに長生きだけでなく、いつまでも若くありたいということだろう。
 ところが願望というのは恐ろしいところがあって、それが叶う仕組みというのも、段々と解明されていっている現実があるようだ。将来的には本当に人間の寿命が延びて、130歳くらいになるのではないかという話もある。もちろん将来のことだから、僕らはその恩恵に間に合うのかどうかという問題はありそうだが。さらに災害などもある訳で、そういうリスクを避けながら長生きするということも考えに入れなくてはならないかもしれない。
 老化と関係していると考えられているものにテロメアというものがある。細胞が再生される際に、このテロメアの部分が長いままだと年を取りにくいということらしい。テロメアは靴ひもの先の部分のようなもので、染色体の端っこの塊のようなものらしい。これが長いまま再生されると、個体も若いままなんだそうだ。ちなみに羊としても早く死んだクローンで有名がドリーちゃんも、テロメアが短かったという話がある。ヒトも調べるとこの部分の長さが分かると言われ、つまり自分の寿命の予測が可能だということのようだ。
 要するにこのテロメア部分をいつまでも長く保つ方法が見つかれば、老化を防げる可能性が高くなる。そして、その方法らしきものが実は見つかってはいるらしい。
 ところが、やはり話は単純では無くて、テロメア部分を無理に長いままで保つような処置を取ると、何故か細胞が癌化する恐れが出てくるという。細胞が死なない状態が癌化することだから、そういうことと関係があるのかもしれない。またIPS細胞の再生についても癌化が起こるという話があったから、こういう遺伝子操作というものの仕組みの中で、癌化するメカニズムは複雑に絡んでいる何かの意味があるということなのかもしれない。
 生物の中では、このテロメアが長いまま老化しない生き物がいるらしい。ロブスターがそうだと言われている。じゃあ何年生きるのかというのは不明だが、基本的に彼等は捕食されない限り生き続けられるという噂がある。そう言われているという話しか知らないので真意の程は分からないけれど、そうなると人間に当てはめると、殺されない限り生き続けられる人生ということになろう。
 説教くさい言い方かもしれないが、ただ生き続けられることがしあわせと直結している訳ではない。この先も延命の道は模索されることにはなるんだろうけれど、そうしたことと並行して、やはり倫理や幸福については議論が沸騰することかもしれない。とりあえず時間がたっぷり生まれると、そこのあたりの議論はまた、違ったことになって行くのかもしれない。
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うかつに手に取ると…   皇帝のかぎ煙草入れ

2013-04-18 | 読書

皇帝のかぎ煙草入れ/ディクスン・カー著(創元推理文庫)

 ヒッチコックの裏窓的な要素のある推理名作。殺人を目撃してしまう美貌の女性が、逆に犯人に仕立て上げられてしまうが、その窮地を推理探偵役の博士が解き明かすというスジ。なるほど、という面白さに身を任せて読んでしまえばいいお話だろう。
 さて、推理小説としてはそれで十分面白かったのだけど、この小説のヒロインであるイヴという女性の考え方や感覚というものについては、やはり僕には分からないことが多かった。というか物語の必然としては自然な流れかもしれないが、どうしてまた必要以上に弱い立場なのだろうかという疑問もあったからである。総体的にまわりの人間関係を気にすることが女性の方に多いというのは分からないでは無いことだけれど、窮地におかれてもなお、弁明の少ない人だな、ということはあったように思う。読者としてはイヴのそういう立場に同情して彼女を一緒になって救いたくなるということはあるのかもしれないが、僕としては、やはりそういう態度では、捕まってしまっても仕方のないことなんではなかろうか、という気がしないではなかった。翻弄される被害者でありながら、どこか他人事のように自分自身が振り回されてしまっている。最初の段階でもう少し強く暴れていると、物語の展開は、当然違ったものになってしまったのではないだろうか。そういう偶然も物語を盛り上げている要素ではあるが、緻密な犯罪に見えて実は、やはりもろいところがあるような感じとでもいったことになるかもしれない。

 それにしても最近は忙しくてろくに本を読む時間なんて無いようなものなのだけど、そういう時に限ってこういう本に出会ってしまうものである。ちょっと移動中に軽いものをもって行こうと思って自宅の本棚を眺めていると、古いけれど読んでいない文庫の並びの中にこの本を見つけた訳だ。いつごろ買ったものかは失念したが、古典的な名作だから買っておいたものだろう。折角読むのだからつまらないよりはましなんだけど、しかし面白いというのはその後に困ることにもなりかねない。結局移動中は具合が悪くて少しだけ読みさしたのだが、帰ってきてからも手放せず読んでしまった。忙しい時こそ気になって仕方がない。もっとも余裕があっても手に取ったかは分からないのだが…。そういう意味では、僕にとって罪な名作だったということにもなったのであった。
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日本のリーダーになりたくない

2013-04-17 | 境界線

 経営セミナーとかリーダーシップとか、そういう話になるとよく昔の武将タイプの話なんかが出てくることがある。たとえば、信長とか秀吉とか家康とか。
 自分はどれで誰になりたいか? などと問うてくることなんかもあるわけだ。
 いやね、趣旨は分からんではないよ。ホトトギスをどうするとか、面白いもんね。歴史上の人物だから、結末も知ってるし、それにそれぞれある意味で成功はしているわけだし。
 でもですね、僕はこれがぜんぜんわからんのです。どれにもぜんぜんなりたくないし、そもそもあこがれる要素がまったくと言っていいほどない。変な話だけど、殿様になりたいなんて意味として分からんではないにしろ、やはりぜんぜん魅力的でないんだよね。大きな城を立ててそこに住んで、いったい何が楽しいのか想像がつかないというか、楽しそうだと思えない。えらいというのは分かるけど、それって本当に大きなことなんだろうか。西洋の王様もそうだけど、それって本当に楽しかったのかな。力や権力など、あればそれはそれなりに面白いこともあるんだろうけど、おいらは小心ものだしね。安心して眠れるものかどうかのほうが心配だ。
 その上に正直に言うと、日本の武将というのはそんなにかっこよくないよね。鎧を着てやーやー言って楽しい感じがぜんぜんしない。さらにちょんまげですよ。その当時の人はともかく、そんなかっこなんてしたくないですよ。西洋の王子様だってタイツみたいな恥ずかしい恰好をしてるし、いくらえらくたってごめんですね。罰ゲームじゃないんだから。
 そもそも的外れな感覚というのはあるんだけど、どうしても正直にそういう感覚のほうが先に思い出されて、真剣に考える気になれないんだよね。現代に生まれてつくづく良かったと思いますね。生まれ変わっても現代にさえ生まれてくれると都合いいです。もっとも北朝鮮の人民に生まれることがなければだけど…。
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相撲の日本的なところとは

2013-04-16 | culture

 先日テレビを見ていたら、英国人が相撲のことを語っていた。いくら外国人が増えているとはいえ、相撲というものを諸外国の人が見ると随分驚くことは多いことだろう。
 ところがマゲやマワシや仕切りなどの儀式に驚いて楽しんでいるのかといえば、確かにそういう面でも面白がってはいるけれど、少し違う感想があって見ている僕が驚いてしまった。
 ひとつは決まり手が全部決まっていることを面白がっていた。確かにそれは面白いことだが、そういうことに特に感心することが実に意外な感じがする。勝負が決まったら、「ただ今の決まり手は○○」で「何とか山の勝ち」というのは、日本的だったのだ。確かにプロレスやボクシングなんかだと、片方が勝っても特に決まり手を決めたりはしなさそうだ。時々決まり手を間違ってしまったり、変更して館内放送で修正することもあるようだ。そういうあたりのきめ細かさというような配慮のし方は、やはり考えてみると日本的なことかもしれない。それに何となくオタクっぽい感じもあって、ほとんど何年も出ていない技にもちゃんと名前を付けていて、そうして覚えている人がいて、やっとその決まり手が出るとちゃんとその名前で決まり手を公表するのである。こんなことをしたがったり欲したりする精神性というのは、何か日本的な考え方の基礎のようなものなのかもしれない。
 もうひとつは、力士が誰ひとり遅刻しないで出てくることにも感心していた。そんなの当たり前だとばかり思ってたので、その感心のされ方にさらに驚きを覚える。ではあるが、確かにその通りで、あれだけたくさんの力士がいるのに、僕も生まれてこの方遅刻して出てくる人を一度も見たことが無いようだ。裸で他人前に出ていくという緊張感や、まわしを付けている時はトイレにも行けないだろうことを考えると、実に驚異的な事実かもしれない。
 考えてみると、そのようなことのために実にシステマティックに取り組みを考えて行われていることを知っている。NHKの放送の枠もちゃんと守れるくらいに正確に、そして数多くの取り組みを消化する事が出来ている。これってやっぱり限りなく日本的かもしれない。
 相撲はそのような文化である訳だが、しかしその閉鎖性というものについては、日本人自身もずいぶん批判的に見ている人も多いような気がする。単純にいうことはできないけど、既に日本的なもので無い文化の人が日本人に増えていくと、相撲的なものは、やはり無くなっていく可能性はありそうだ。それは単純に以前のものを守るだけのことだけではなさそうで、そこのあたりが、文化を育てるという今の人の仕事になるのであろう。
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