犬と猫と人間と 劇場用予告編
犬と猫と人間と/飯田基晴監督
ふだんはとにかく気楽に映画は観ている。たとえそれが戦争映画であろうとも。泣ける映画だろうが、どんなにシリアスだろうが、基本的には映画というのはそういう感情を揺さぶられる娯楽である。
しかしながらドキュメンタリー映画や自主制作映画のようなものの中には、ある意味で興行を度外視してつくられているものがある。いろいろ思惑はあろうが、とにかくメッセージ性が強い。ひょっとするとそれだけということで目的が達成されて、その先はどうなるのかなんて考えてないのかもしれない。それが失敗することの方が多いのだけど、ときには大きく化けることもある。この映画自体はどんなものなのかは正直言って知らないが、興行的に製作はされているようだが、きっかけは個人の意思である。監督はその意志にほだされたというところかもしれない。いや、見たところ半信半疑もあったようにさえ感じられる。
ちょっと感想を書きにくいのは、この件に関しては、僕自身の整理ができていないこともあるし、なおかつ僕の中にも共犯者としての罪悪感があるためだと思う。大げさに言うと人間に生まれてしまったこと。さらには日本人としての原罪のようなもの。簡単に言ってしまうとそういうことで、しかしそんな事を簡単に言えるほど単純でもない。つまりかなりめんどくさい。それにそのあたりをくどくど解説しても、ほとんどの人は理解する努力を途中で放棄するに違いない。それは経験的に言えることであって他にやりようがあるのかもしれないが、しかしそれでも多くの人は、結局は認めるのがつらいのである。僕はあっさり認めているので既につらくないけれど、だからといって僕一人で人間の原罪を一手に背負うつもりもない。だからそこのあたりは詳しく言わない。考えない人にいくら言っても始まらないのだ。
日本で殺処分される犬猫の数は、一日約1000頭弱(年に35万頭強)なんだそうだ。この映画で取り上げられていた英国の場合と犬だけを比較すると約15倍だという。とにかく大変な数なのである。保健所では多くの場合炭酸ガスで殺されるわけだが、つまり大量虐殺が日常として行われている訳だ。まずこのポイントは、人間が食べるために殺している、つまり賭殺ではないということだ。人間が食うためならいいのかという問題もありはするけれど、食べることはある意味では必要必然のためという道理が立たないではないのにかかわらず、保健所の処分はただ殺しているだけ。つまり基本的に人間の娯楽で死んでいるということが大きな違いだろう。人間のペットとして割に合わなくなったからということで、ただ殺されているだけだからである。
背景としての理由はいろいろある。しかしながらつまるところ、個人の事情では飼えなくなっている状態のペットが殺されていくということだ。野良犬や野良猫がいるじゃないかという人もいるだろうが、厳密に野生で暮らしている存在は、ほぼ日本では考えられない(対馬には山猫がいるようだが)。たとえ野良猫であっても、人間に寄り添って生きている、というか人間の都合で遠巻きに飼われている存在であるにすぎない。だから飼えなくなると殺される。飼われていない状態の野良猫はいないし、それ以前に野生では生きていけない。
その現状を何とかしようとしている人たちもたくさんいる。保健所の人たちだって基本的には心を痛めながら何とかしようとしているし、愛護団体だって精力的に活動している。しかしながら殺されるためにやってくるその数が多すぎて、ほとんど焼け石に水という感じ。しかしどうすることもできない中で、ほんの少しでも何とかならないかと日夜努力を続けている。長年この問題に第一線で取り組んできたある人は、結局は(人間の)社会が豊かにならない限り根本的な解決は無いという哲学的な結論に達観してしまったりしている。もちろんその通りなのだろう。しかし、だからといってこの現状が本当に改善できていくのか、釈然としない思いが残る。
監督が映画祭に行くことになって、その折に英国の現状を取材する。英国は動物愛護の活動にそれなりの歴史があるらしく、徹底した管理で動物の命を守ろうとしている。なんと野良犬や野良猫でさえ、その姿や存在がみとめられないのである。法律を始めさまざまなシステムが整っているらしく、国民の意識も高い。愛護団体にも豊富な資金があるようだ。飼えなくなった犬たちは広々とした敷地でのびのびと走り回り、しつけも行き届いている。そして多くの場合、しばらくすると貰い手が見つかる。どうも、特定のブリーダー以外から購入することは不可能で、さらにペットショップなどで簡単に商品として買えないような規制があり、なおかつ罰則も厳しいようである。あまりにひどい日本の現状を観てきた後だから天国のような素晴らしさを感じさせられるが、しかしそれは、人間の絶対的な管理社会という更なるエゴも垣間見える。もちろんそれでも日本よりいいことには違いないが、これが本当に唯一の解決策なのだろうか。確かに絶対的な殺処分による大量虐殺を減らすには、このような社会システムを整える以外に無いのかもしれないのだが、いくら進んだ人間社会の在り方であるとはいえ、やはり人間の原罪が本当に晴れてしまっているようには僕には思えないのだった。
人間がペットを飼うのは、いくらきれいごとを並べたところで、人間の個人的な欲求を満たすためのエゴである。そのために犬や猫たちは、いわば人間の意志で改良されペット化されてきたのである。厳しい野生社会で生きるよりしあわせにちがいないと思う人もいるだろうが、結果的にそのような(動物自身にとっての)しあわせがあるということがあったとしても、人間の意志でそのように思わされているにすぎないしあわせである。彼らにどのような意志や主観があるのかは分からないが、人間のためだけに生かされている存在である生物なのである。それを愛玩動物、ペットとして飼う喜びが、人間の本能のようなものなのである。
しかしながら、少なくとも日本の現状は本当に酷い。酷過ぎてひょっとしたら、かわいそうで感情が止まってしまう人が多いのではないかと思うくらいだ。あまりにかわいそうだから、その先が見えなくなるし、考えられなくなる。普段は知らないし見えないからどうにもならない問題であって、まずはそういうスタートでもいいとは思うが、スタートした後に、突き詰めれば突き詰めるほど、皆途方に暮れても仕方が無い。
自然に放置しても解決しないし、管理しても行き届かない。そういう中でどのように折り合いをつけて生きていくのか。ペットを飼わないから関係の無いことなのではなく、そのような人間的な原罪の問題であると僕が思うのは、つまるところそういう意味なのだ。そういう考えが政治的にどのような着地点を目指すのか。少なくとも苦情が怖くて目に触れさせずに済ませてきた現実は、変える必要があるだろう。やはりスタートとして、この映画を少しでも多くの人に観てもらうより仕方が無いのだろう。日本という社会の特殊性も含めて、日本に生まれた日本人や動物が、日本に生まれたというだけで不幸にならないためにも。