カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

イヌとキツネとヒトの話

2011-08-30 | 境界線

 録画していたテレビを見る。オオカミが犬にどうやってなったのか。またはキツネがどうやって家畜化していったのか。
 ある意味で人間の持つ恐ろしい影響力の話でもあるし、生命が進化する選択としてのたくましさの話でもあった。結果的にオオカミにとってはオオカミのままでは生きにくい世の中になっており、今の犬の繁栄を考えると、図らずもオオカミの子孫がこのような生き方で次代を生き延びたという考え方もできるだろう。それはあくまで人間的な見方であるとは承知しているけれど。
 紹介されていた仮説。オオカミの世界は弱肉強食のはっきりした世界であったからこそ、力の弱い若い雌は飢えることも少なくなかった。仕方なく人間のおこぼれをもらいに行くものが現れた。そのうちに警戒心を解いていき、人と一緒に暮らす道を選択するものもあらわれる。結局、弱い個体が次の生命を育てたのだ。
 突然変異による遺伝子のほんのわずかな書き換えであっても、一億に一度程度である。しかし、遺伝上の変化なしに、オオカミは犬へ変化することができた。事実オオカミとイヌは同じ種であり、交配も可能である。遺伝上同じでも、オオカミとイヌは大きな違いがある。
 遺伝情報は同じように伝えられても、同じように働かない場合があるようだ。遺伝情報が働く順番の違いによっても、その伝わる性質に違いがあるとのことだ。例えばオオカミが人を警戒する働きは生後5カ月ごろからあらわれるが、その機能が働かない個体が現れることがあるらしい。もしくはその働きが弱いということかもしれない。結果的に遺伝情報は変わらずとも、性質の違う個体が生まれる。
 ロシアでの狐(ギンギツネ)の家畜化への研究は50年にわたり行われている。すでに犬のように芸をする個体まで生まれており、ほぼペットとして飼っても問題の無いレベルまで達しているようだ。狐は非常に警戒心の強い動物で、野生の観察の難しい動物である。そのような生き物であっても、比較的おとなしい性質の個体を選び出し、その個体どうしを何代にもわたって掛け合わせて行くと、より人間になれやすい進化を遂げるものが増えていくのである。面白いのは性格的な性質だけの変化だけではなく、毛の性質や色合い、顔の形などもどんどん多様性を見せていく。生物の変化ということで考えると、50年というのはわずかな時間である。しかし、動物はそのわずかな時間の変遷の中、遺伝情報を変えることなく多様な変化をすることができるらしいのである。
 しかしながら、このような変化の大きな共通点は、大人になった個体であっても、子供のままの性質が残っているということでもある。もともと警戒心の弱い、好奇心旺盛な状態は、生まれて間もない子供時代には、どのような凶暴な野生動物でも同じように見られる性質である。もちろん野生のまま生きていく上では、子供のままの性質では生き延びることは出来ない厳しい社会なのであろう。しかしながら、人間のそばで生きていくには、子供のまま変化しない方が、逆に有利になってくるのである。
 また、様々なことを学習していく上では、子供のままの旺盛な好奇心がある方が有利である。結果的に家畜化された生きものは、人間の考えを読むまでに変化していく。新たな物事を貪欲に吸収しようとすることにもつながっていくのである。
 エピソードとしては脱線事項だが、旧ソ連時代は共産主義的イデオロギーの所為で、遺伝という考え方を無視し、「人に限らず頑張れば必ず報われる」という思想で科学でさえも突き進めていたことなども興味深かった。頑張れば必ず報われるが左翼思想だというのは、確かに日本の教育でもよく見られる考え方であり、お笑いだ。また、ある性質を伸ばすために似たような性質を掛け合わせることで変化が見られるのだから、恐らく人間においても同じようなことを考えることができるようにも思われる。合理性から見て、体外受精の現場の問題もあり、SF的な将来像を想像することも可能である。いや、むしろ現実的かもしれないという怖さも感じるのだった。
 メモ的に書きとめるつもりが長くなった。しかしながら生きものは、弱いから活路を見出すことができ、幼いからいつまでも学習することができると読み取ることは出来たわけだ。これは危機的状況だから新たな活路を見出すことができ、凝り固まらず柔軟性があるから新たな物事を吸収発見することができると解釈することも可能だろう。そのような教訓めいたことに解釈するのは極めて人間的な偏狭な性質だとは思うが、そのように読み取れるからこそ自然への興味はまた尽きないのも確かなのである。そうでなければ、人間は探求することをやめてしまうのではなかろうか。まあ、その影響を受けざるを得ない地球上の動物・生物たちにおいては極めて迷惑な存在であることは間違いないのだが…。
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それにしても暑いですね

2011-08-29 | 時事
 昨日テレビを観ていたら麻生太郎元首相が、自民党が良かったということについて「自民党が50年かけて証明できなかったことが、民主党がたった2年で証明してくれた」と言っていた。冗談としては面白いけど、どっちも駄目だったと思っている人の方が多いのではないか。
 それにしても今日の代表選。一国の首相が決まるということなのに、実にどうでもいいことのように思える。いや、どうでもよくないことは分かっているが、どうでもよいと思わない限り救われない気分だ。管さんで無いというだけの希望なんて、あまりにも悲しすぎる。
 二日酔いのせいだけでなく気分悪いです。
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広島はいいところじゃけん。

2011-08-27 | 感涙記
 訳あって広島へ行ってました。ま、知ってる人も多いでしょうが。
 なぜか縁あって、広島へはよく行くとまでは言わないまでも、結構何度も来てるんですよね。古くは中学の修学旅行から、友人のお宅をたずねたり、出張で訪れたり。遠いながらも10回近くは来てる気がします。記憶が怪しいので大げさかもしれませんが。
 広島の方言のきつさもあるのかもしれないですけど、ちょっと荒っぽい土地柄のような印象があるとは聞く話ですが、ぜんぜん僕にはそんな感じは無いんですよね。
 昨日も分科会の帰り(廿日市というところです)に駅までの道を尋ねたら、乗せてってあげますといわれたんですよね。人数が多かったのでお断りした次第ですが、本当にありがたかったです。ちなみにウッドワンという会社の社員さんでした。お名前をお聞きしませんでしたが、本当にありがとうございました。そのお気持ちで十分僕の心も豊かになったような気がいたしました。送れないことに残念そうなお顔をされていたことが、申し訳なかったです。こちらの一方的なわがままで申し訳ありませんでした。
 それは個人的な体験に過ぎなくて相対的な広島は違うのだという意見があるかもしれません。たとえそれが事実であろうと、僕にとっての広島は、そのような暖かい人柄の街なんですよね。今後ともよろしくお願いします。絶対また行きますからね。普通に。(つづく、たぶん)
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友達の数は何人?

2011-08-24 | 読書
友達の数は何人?/ロビン・ダンバー著(インターシフト)

 Facebook解説本みたいな題名だが、副題は「ダンバー数とつながりの進化心理学」というもの。科学読み物なのだ。話題は多岐にわたっているし、このような本独特のユーモアのセンスにもあふれており、読みやすくためになる、という代表的な見本とも言えるだろう。多少勇み足かな、みたいな話もあるが、まあ、飲んで話題にするくらいなら害も無いだろう。それに可能性としては今後を待てばいいだけの話だし、大筋でその方面の理解を深めるにはむしろ興味を広げることにもつながっていくだろう。人間の仕組みや習性を科学的に紐解くと、このような面白い世界が見えてくるのだから。
 人間的なつながりに限界があることは理解できる。それが150人程度というのも、まあ、そんな感じだ。そのようなつながりの意味から、男女の違いや、家族や、社会集団に至る優位性などへ展開していく。更には言語や宗教まで、人間の持つ習性やその科学的根拠への言及が面白くないわけがない。じゃあ具体的にあの人は…、などと考えを巡らせることも出てきて、楽しい読書体験となることだろう。
 トピックで面白かったのは今流行りの功利主義的哲学への回答であった。日本でもサンデル教授の授業で話題になったが、例えば古典的例題である「トロッコ問題」がある。コントロールが利かなくなったトロッコの先に二手に分かれた路線がある。一つは5人の作業員が居て、片方は一人だ。功利的な哲学の回答としては、最大多数に最大幸福のためにより少ない犠牲の選択もやむを得ないということになる。しかし哲学的選択と正義はともかく、人間は必ずしもそう合理的な行動を取るとは限らない。たとえば自分は線路を見下ろす橋の上にいるとする。そこに暴走トロッコがやってくる。さらに隣に大男が居るとして、彼を線路につき落とせば5人の作業員の命を救える。同じ一人の犠牲で済むにもかかわらず、しかしそういう場合に実際に大男をつき落そうとする人なんてほとんど居ないらしい。これも当然の話のように思えるが、脳卒中で前頭葉を損傷した人で同じような思考実験を行うと、大男をつき落とす選択をしてしまうのだそうだ。つまり共感の感情の損失にモラルが関係あるらしい。当たり前だが、哲学や正義を扱うような問題においては、人間の新しい脳の機能が大いに関係があるらしい。哲学的に人間が考えて答えを出しているようで、実は人間は習性的に答えを作り出しているのではあるまいか。
 あとは本書を読んでもらって、同じように各自思考実験を楽しむことお勧めする。人間は合理的に物事を考えて社会を形成しているように見えて、実際には人間の持つ自然の習性のようなもので物事を判断し、そして自ら持つその習性の規制を受けながら生きているのではないかということを、いろいろと考えさせられることになるだろう。もちろん他の疑問が膨らむことにもなるかもしれないが、そのことにより新たな発見の芽も芽生えていくのかもしれない。少なくとも僕らは、そのような好奇心を養うことによって、これまでもこれからも生きていくことには変わりは無いのだから。
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無法松の一生

2011-08-23 | 映画
無法松の一生/稲垣浩監督

 山田洋二の家族の映画100本シリーズも、なんだかずいぶん貯めてしまっている。ぼちぼち見て紹介しなきゃという感じ。しかしながらこのような視点のセレクションでなければ、たぶん見なかったはずの映画を観るという体験は、なかなか得難いものがある。良い企画だなあ、と改めて感じております。それに山田洋二の映画すべてが好きなのではないのだけれど、後の寅次郎シリーズの理解にも役立つし、戦後左翼的思想も、結構詳しく分かったりする。そういう時代や考え方というものを経て、確実に現在の日本にも影響を与えた映画の発掘でもあるわけで、近代日本の山田視点による理解を知るというのが、ドキュメンタリー的に面白いということなんだろうと思うのである。


 最初は何だか暴れん坊でヤクザ崩れのような男の紹介で、それはそれで面白いが、ちょっとどうなってしまうのだろうというような、まとまりに欠ける展開なのである。しかし、今考えると全体的にはそのことを含めて実は結構まとまりよく、後にこれが効いてくる感じであったとは思う。後で知ったが、海外でも評価の高い映画だったらしく、面白いが芸術性もあるような、そうして日本のオリエンタリズムにあふれたところも見事に映像に収めており、実際は大したことの無いエピソードの積み重ねなんだが、実に味わい深く面白いのだった。とにかく変な映画だけど面白いのは間違いない。
 ほとんど三船敏郎の男くさい魅力が満載であるのだけど、とにかくコミカルで、動きはまるでサルにしか見えないのだけど、どういう訳かものすごくカッコよくもあるという、ほとんどマジックのような不思議さである。こんな日本人はほとんどいないのだろうけれど、何故か懐かしく、そしてやはり日本人の男とは、こうであるべきであるような、理想であるような、そんなような感想を持つのである。
 僕自身はいわゆる九州男児という末裔であるから、戦中戦後の母親世代の女の人から育てられる男の子として、あんがい三船敏郎は(または高倉健とか)大きかったのだなあ、と思い当るところがとにかく多かった。おいらもサルのようにがんばればよかったのだ、などと観ながら感慨深かった。亭主関白(実際は違いますよ。ただ、家で何もしないというようなグウタラという意味です)とか傲慢であるとか、負の部分の九州男児でしか無い今の自分の姿を鑑みると、やっぱり九州男児はつらいよな、などとも思う訳で、つまり、所詮三船は超人なのだった。だから理想たりえるということでもあるんだが…。
 寅次郎の恋の顛末はいつもコミカルで悲しい男の弱さを感じさせるが、しかし、それは究極の相手を思うあまりの熱情なのだというのは誰でも知っていることだ。情けないが、それがたぶん男たるゆえんだろう。それが実は三船のような、松五郎のような、ある意味男くさい男とも共通であるというのが、寅次郎の矜持になってもいる。違うが等しい。そこが面白味でもあり、深いところなのであろう。
 実をいうと松五郎の一生が本当に共感できるのかというと、ぜんぜんそれは違うような気がする。それは単なる横恋慕であるし、叶わぬ恋である。そういう人もあるかもしれないが、それが理想では、やはり人間はどこか悲しすぎる。しかし、そうではあっても、彼のように一途に生きていくことができるのは、はたして不幸と言い切れるのか。最後は野垂れ死にのように見えて、実に真っ当にしあわせに生きることができたのでは無かろうか。そして間違いなく残ったものの心に、忘れられることは無いのである。やはり、理想の一生と言うべき姿なのであろう。
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騒々しい訳

2011-08-22 | 雑記

 昨日訳あって二度も近所のスーパーに立ち寄ったのだが、やけに募金の呼び掛けが多くて騒がしい。二度目のレジに並んでいてやっと「24時間テレビだ」と気づいた。何故かもうとっくに終わってしまっていたと思っていたが、今なのか。十数年前に佐世保の日産さんに(E田さん、お世話になりました)車を頂戴しに行った御恩がありながら、その頃ももちろんだが、この番組自体はほとんど見たことが無い。随分ひっそりとした祭りなんだろうと勝手に想像していたが(もしくは東京地方限定の)、こんなに騒々しく展開されていたのか。他にも似たような催しはあるし、差別化もよく分からない。テレビ局対抗でやっているんだろうか(特に知りたくもないけど)。
 とはいえ当然のように番組自体は今年も見ることは無かった。単に僕には縁のないところで展開されているにすぎないのだな、と分かった。休日は一日中テレビにかじりついている生活なのにね。そういえば子供に徳光さんのことを聞かれたが、元祖イジられキャラ・アナウンサーだろうと、説明してやった。ほんとはよく知らないけど。
 そういう訳で映画を二本見て科学番組3本見て世界遺産見て落語を2本見た。職業人バラエティだとかペンギンの生態なども勉強し、いい加減疲れたので犬の散歩に出て、汗びっしょりになってしまった。お陰でビールが旨かったぜ。
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不都合な真実

2011-08-21 | 境界線
 録画していた科学番組を見る。太陽の黒点の観測により、現在の太陽活動の異変について紹介されていた。かいつまんでいうと太陽活動は11年周期で正確に活動の強弱があるとのこと。しかし歴史を紐解くと近い過去(1640~1700)に「マウンダー極小期」といわれる11年周期と外れる活動の弱まった時期があり(番組では70年と言っていた気がするが)、日本では飢饉になりヨーロッパの河川は凍ったといわれる。実は現在の黒点の状況から11年周期に乱れが見られることと、活動の弱まりが観測されているとのことだった。マウンダー極小期と同じような期間寒冷化するのかどうかは予断を許さないところだが、現在の政治的な思惑から見ると「不都合な真実」というもののようである。細かいメカニズムで解説すると、太陽活動が弱まることにより太陽の磁場で守られていた力が弱まり、宇宙線が直接地球に達する量が増えるようになって雲が生まれやすくなり、結果的に寒冷化するというものらしい。面白いが困ったものだ。
 それにしても厄介なのは、まともな科学観測というものであっても、結果の異なる根拠を元にしている立場が存在すると言うことだろう。どのような答えが正しいのかというのは後の歴史が証明するものではあるが、現在の人々はその予測に右往左往させられる。結果的に判断を誤る。それは恐怖感の強いほう、または実感の強いほうに流されるからである。人間は自然の前にあまりにも無力だが、人間の感情はそれを認めない。ただそれだけのことだから、予想は併記して対応するしかないのだと思う。それでは駄目だと活動家は言うだろう。しかしそれは単なる信仰で、科学とはなんら関係ない。人間はむしろ科学的な判断よりも感情的な判断に振り回される所以である。それは科学的に証明されている人間らしさであり、そうであるなら止めることは不可能だろう。つまり科学者は黙ってしまうと言う理由なのである。
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ミラノの奇蹟

2011-08-20 | 映画
ミラノの奇蹟/ヴィットリオ・デ・シーカ監督

 この監督の社会派作品「自転車泥棒」の印象があったので、そのまったく違う手法での映画のつくりに、かなり面喰ってしまった。ほんとに同じ監督さんなのかと疑わしいくらい違う映画だ。
 子供も一緒に観ていて、「これって初期のCG?」と聞かれた。その当時にコンピュータを使っていたとは考えられないから、基本的にまったく違う合成というやつだろう。現代の眼から見ると多少微笑ましいが、却ってコミカルな効果を生んでいる感じもする。どんどん爆発的にエスカレートしていく様は、本当に夢を見ているようだ。
 この映画を観ていて、何故か僕は「ドラえもん」を思い出していた。ご都合主義的に人びとはいろいろなものを欲しがるのだが、その我儘にも健気に応える四次元ポケットのようなものだからだろうか。ひょっとして藤子不二雄はこの映画を観たのではなかろうか。
 見ようによっては社会派の映画とも考えられるが、なんだかあんまり深刻そうではない。確かに貧困の状態は酷そうだけど、寒さをしのぐために陽のあたる場所に人々が集まって足踏みしながら暖を取るようすなどの演出も、どこかとぼけていて楽しそうですらある。主人公の底抜けの明るさは、却って白痴的とも見てとれる。現実的世界からどんどん逃避していくより救いが無いということなのだろうか。もちろん時代背景の深刻さがあるからこそ、このような明るさが必要だったのかもしれない。人々は貧しさから抜けられず、一部の金持ちから搾取されるばかりの悲惨さがあったのだろう。それこそ奇蹟が起らない限り、その境遇から抜けられる術など無かったのかもしれない。せめて映画を観てカタルシスを味わうということが、最も大衆の望む夢だったのかもしれない。そういうことを思うと、現代では生まれえない名作映画ということになるのであろう。
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酔って歩く

2011-08-19 | 散歩

 酔っぱらいすぎて歩いて帰るのがひどく億劫な時もあるにはあるが、おおむね酔うと感覚がマヒするらしく、てくてく歩くのはそんなに悪くない。千鳥足で歩くのは危険だろうが、ほろ酔いで尿意が無ければ、ずんずん歩けて気持ちがいい。特に夏場はとても日中に出歩けないので、運動不足になりがちである。飲んで食ったという帳面消しに、てくてく歩いて帰ろうかという気分にもなりやすいのかもしれない。
 そういう訳で15日未明には、酔ってちゃんぽんを食べようということになってしまい、大高前のちゃんぽん屋まで歩き、そして食って家まで歩いた。昼間に市役所まで歩いて行ったら40分くらいで着いたことがあるようだが、だいたい50分くらいかかって家に帰りついた。
 そうして昨日は竹松駅前の焼肉屋さんから歩いて帰った。だいたい34分くらいかかった。感覚からするとちゃんぽん屋の方が随分遠いような気がするのだけど、16分の違いしかないのは意外に感じる。
 歩けて健康に良いというつもりもさらさら無いし、この程度の運動でダイエットになるわけではない。もちろんこの二日の影響もあって、2キロほど目方が増えているのが現実である。その上自宅は山の上にあるから、たどり着いたら結構汗をかいている。体が熱いとなかなか寝付けず、なんとなく寝足りないような気分である。週末は早起きして散歩でもしようかなとは思うが、そのような疲れがたまって寝過ごすのがオチだろう。
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やらせ体質はいまだに何ら変わりがない

2011-08-18 | 境界線

 子供の観ているテレビにケチをつけるので、すっかり茶の間の嫌われ者なのだが、それにしても本当に民放の番組は酷いものが多いと思う。だから普段は自分の意志では見ないが、やはりしかし子供にとってはこのような番組が面白いらしいことは不思議である。自分も若いころは見ていたくせに卑怯な態度だが、大人になってみると腹が立つのだから仕方がない。そんなに潔癖な性格では無いのだけれど、明らかな誘導や嘘や偏見に満ちているものを黙って見ているのはつらいのである。ふざけていたり視聴者を騙す意思があるのであれば、それはそれでかまわないのだけれど、しかし制作側は、そのことに無頓着なまま不思議現象を演出しているようにも見てとれて、罪深さを感じるのであろう。
 ある番組では不思議な力を持つ人形の話であった。その人形の力で様々な境遇の人が、次々に結婚が出来たというのだった。さてどのようなものかとその成り行きを素直に見ると、人形の力で結婚できたという根拠が何もないのである。適齢期を迎え本人も結婚を希望している男女が、自然に順番に結婚していったという事実しかそこには現わされていない。人形が導く方向に行くと理想の人が居たとか、この人形を持っていなかった人が結婚できなかったとか、人形を手にしたとたん自分を見染める人が現れてプロポーズをしたとかいうことは一切起こらない。しかし当事者たちは何故か人形の力を信じて結婚にこぎつけたのだと考えるようなのだった。中には人形を貰ってから4年後にやっとプロポーズにこぎつけた人もいたりして、時間軸がバラバラである。しかし何故かそのエピソードを見ている会場の人々が、不思議そうに感動するのだった。そのように感じてしまう人々を見て、さらに不思議な気持ちになるのだった。
 唯一効果のありそうな出来事は、その人形を持つ人に妙なプレッシャーがかかり、婚活に励むようになったというような個人的な努力の表れであった。やることをやって結果を掴んだということなのだろう。親や知人に急かされるのであれば煩わしいが、人形の力に急かされるということになると、あんがい素直に従うという心理もあるのかもしれない。
 この番組で分かることは、人間は暗示にかかりやすく根拠のない物事を平気でつなげて物語をでっち上げる力を持っているという証明である。そのような性質も持った生きものが人間であるということを言いたいのであれば、そのサンプルとして使える材料とはなるのかもしれない。愚かで哀れなことではあるが、そのようなことを知って生きていくことが、何かの役には立つのかもしれない。
 それにしても今後誰かがこの連鎖を止めることにはなるのだと思うが(それともいつの間にか忘れるか)、そうなるとそのような力を曲げるほどの激しい力を持つ人間であるということを考える人が出てくる可能性がある。やらせには敏感に文句を言う人がいるというのに、このような偏見や明らかな誤解を正そうという人は少ないらしい。
 子供を相手にする商売だから許されるという倫理が、テレビの世界にはあるのだろうか。そのような驕りこそ、人間として正す勇気が必要な時なのではなかろうか。
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自由の束縛から閉塞への脱皮

2011-08-18 | net & 社会

 何をつぶやいてもいいし、もともと140文字で大した論理展開ができるわけでもないし、誤解を恐れることなく感想をつぶやけるという手軽さが何よりの魅力であるわけだが、「仕事なう」などの個人的なつぶやきをつぶやく前に、ふと、はたしてつぶやくべきことなのかという疑問がわくようになると、とたんにその自由さが逆に面倒になっていくように思う。それでも慣性でつぶやいているうちには考えないでつぶやけるのだが、一度疑問に思った事を考え出すと、キーボードをたたく前に画面を閉じてしまったりしてしまうのだ。その上やはりありふれた個人的つぶやきに対して、反応が返ってくることはまれである。大袈裟に言うと宇宙空間に反響なく鳴る音のようなものなのではなかろうか。
 その点フェイスブックに移行した多くのつぶやきは少し違うように思う。知った人の個人的なつぶやきが、知っているからこそ親しい共感に変わるものがある。その時食べているめしの写真やその人が置かれている状況について、なんだか簡単に「いいね!」のクリックが出来てしまえるような気がする。そのまま画面を閉じてしまっても、その「いいね!」に対する相手の反応が返ると、メールでつぶやきのお知らせが来る。そういう何げない対話の応酬が、やはり普通の会話のような親しみを感じさせるのかもしれない。ツイッターの持つ不特定多数の広がりへの期待と、フェイスブックの持つ親しみの連鎖の勝負の分かれ目がそこにあるのだろう。
 もちろん使い分ければいいだけの話なのだが、つぶやく内容についてはほとんど同じものであるのであれば、やはり反応が返りやすいものの方にウェイトが移ってしまうのは必然ではなかろうか。ネットのように開かれた中での最小限に閉じられたコミュニティが、皮肉にもこれほどの力を持つに至るというのは、人間のもともと持っている社会性との関係とも似て、適正という範囲を規定しているのかもしれない。
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携帯には出るな

2011-08-17 | 雑記
Телефон, надо выключать


 この間は挨拶している本人が壇上で携帯に出ているのを見た。さすがに会場の人間の失笑の声があちこちからあがったのだが、本人は後からかけ直すと言って電話を切っていた。携帯がうっかり鳴ってしまうのは時には仕方のない失策ではあると思うが、そうであっても鳴ってしまえば最初から切ればいいと思う。
 面談や会議中に頻繁に電話に出る人もいまだに多い。忙しいのは分かるが出なくていいのではないか。マナーモードでも気になる場合はあるが、基本的にその場にいるみんなで無視するというのが一般的になりつつあるようにも感じる。

 しかしながら先日、留守番電話の設定は相手に料金を払わせることになるからしない、という人がいた。却って迷惑な人だなあと感じた。もちろん、どうしても設定しないという人があってもいいが、その理由はよくないと思う。
 またある知人は、留守電に用件を入れない癖に再度電話をしてこないというのがいる。二三日して、何故電話を返さないのかとたしなめられたのだが、要件は依頼だったので呆れた。人がいいので断らなかったのが馬鹿だった。

 運転中だったので電話に出られず後でかけ直すと、俺の電話に出られないらしいな、と嫌味を言う人もいまだにいる。早く死ねばいいと内心では思うが、もちろん口には出さない。電話というものの強制力を信じている人は、結局自己中なのではないか。連絡をとれないのは困ることもあるが、いつでも連絡が取れるということを信じている方が、むしろ有害である。
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名もなく貧しく美しく

2011-08-16 | 映画
名もなく貧しく美しく/松山善三監督

 言わずと知れた名作。子供の頃には映画やドラマなどで観たような気がする。もちろんその後も何度となくリメイク作がつくられたのではなかろうか。しかしながら改めて見直してみて、思った以上に楽しい映画であることに気づかされて、却って驚いてしまった。
 戦中戦後のただでさえ皆が苦労した時代にあって、聾唖者としてのハンディキャップを背負った人間の虐げられた貧困物語である。涙なしにはとても見られないし、実際そのエピソードの多くに激しい怒りと悲しみを覚える。しかし、そうでありながら淡々としたトーンと、夫道夫の図抜けた楽天主義と世間知らずの行動に、困らせられたり助けられたりするエピソードなどは、妙にコミカルで却って笑えるのである。
 初めてのデートで動物園に行くが、戦争中に猛獣は危ないということで殺されてしまっており、動物なんていやしない。その帰りに駅員にキセルと勘違いされ押し倒され鞄の中の二つの生卵は割れてしまう。その悲惨な体験があって二人で助け合って生きる決心、つまり結婚を決意するというのも、後で二人で思い出して大笑いしてしまう。悲しいが楽しい。悲惨だから喜びも深い。そんなようなコントラストが交互に展開されて、まったく涙腺が忙しくなるのだった。
 この映画は日本映画だが、聾唖者の会話を知るために字幕が多用されている。親しい会話であるのに字幕は丁寧語である。もちろん手話の世界にだって砕けた表現はあるだろう。しかし、その一見堅苦しい丁寧な物言いの字幕を読んでいくと、純粋な中でも健気にお互いを思いやるその心情がにじみ出てきて、観る者になんとも言えない感情を湧きあがらせる効果が発揮されている。その当時の日本人の多くが、初めて知る手話の世界。その画期的な紹介とともに、人間の持つ悲しさと力強さの両方に訴えかける作品になっている。何度も諦めかけ、遠慮し、哀しみ、絶望する。人並みに生きていくことは出来ないと思いながらも、それでもコツコツと生活を積み上げていく。
 また、何度も苦しめられる悲惨な出来事の多くは、嫁ぎ先の家族であったり、実のきょうだいであったり、そして幼い子供からであったりする。特に子供から受ける反抗には、地獄の苦しみを与えられているように思える。このような思いをするために、さらに苦労して子供を育てなくてはならないのだろうか。
 高峰の演技は静かだが、その深い感情を見事に演じきっている。外の世界の人間には、なんだか理解できない飄々としたところがあり、しかし内情は激しい葛藤とともに、ひたむきに生きようとしている。この映画を見た多くの人が、障碍というものが何であるのか、高峰を見て理解したことだろう。もちろんその後の現在であっても、この高峰の演技の影響があることが、何となく理解できるのではなかろうか。それほどこの映画は、今の日本に多くの影響を及ぼした社会現象なのではなかろうか。
 この映画は、ただでさえ苦しい貧困というものと、さらにその世界を障碍を背負った人間が生きていくということを描いている。しかし、その一見特殊な世界を描こうとしていて、実に普遍的な人間のしあわせについても問いかけている。見ようによっては最後まで救われない気持にもなるのかもしれないが、僕には不思議と明るい印象も残ったのであった。残されたものは、少なくともこれからも悲惨な思いをしながら生きていくことになるのだろう。しかし例えそうであっても、その悲惨さをいつかは笑ってしまえるような強さを、人間は自ら持っているのではなかろうか。あの割れてしまった卵で大笑い出来てしまうように…。
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『崖の上のポニョ』 Gake No Ue No Ponyo -- The Glory Gospel Singers

2011-08-15 | 音楽
『崖の上のポニョ』 Gake No Ue No Ponyo -- The Glory Gospel Singers


 なんか違うんだけど、楽しいです。
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怠け者の…

2011-08-15 | culture

 世間はすっかりお盆である。しかし僕は職場にいたりする。つまり仕事なのである。これはまあ、そういう事業所だから仕方がないということでもあるのだが、ちょっとばかり今年はタイミングが悪かったような気がしないではない。実は先に休みを取ることになっていて、シフト上は前倒して休日を取得できるはずだった。ところが世間は盆前にいろいろと仕事を片付けたがるものなのである。僕のかかわる仕事について、僕の休日に予定が入ってしまい、事実上その権利は失われてしまった。いや、休みに勝手に仕事をしていたというようなことになってしまって、なんだかそのまま盆までもが仕事になったという流れなのである。同じように盆に仕事をしている人達とともに「怠け者の盆働き」という言葉があるよなあ、などと笑いあっていたわりあっている。しかしながら、明らかに僕らの業界関係の人たちは休んでおり、相関関係のある仕事は片付きはしない。内部的なものだけをせっせと片付けて盆明けに備えるのみである。
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