カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ありがたい分かりやすさ   宇宙はこう考えられている

2019-01-31 | 読書

宇宙はこう考えられている/青野由利著(ちくまプリマー新書)

 副題は「ビッグバンからヒッグス粒子まで」。ヒッグス粒子の発見のニュースは、しばらく報道を騒がせていたが、何かすごいらしいというのは分かるのだけど、そのすごさの程度というと今一つ分からないという印象だった。理論的にヒッグスさんの提唱していた粒子があるはずとされていたが、実験で実証されることが世代を超えた事件であるというのもいまひとつピンとこない。ただでさえ理解されにくい考え方を、何かもう少しすんなりとわからせてくれる方法はないのか。また宇宙を構成させている物質の5パーセント程度しかまだ分かっておらず。わかっていないものが暗黒エネルギーだったり暗黒物質だったりするらしいというのも、わかるようなわからないような。ビッグバンやら、膨張する宇宙の話になると、それは科学というよりSFではないかとさえ思えてしまう。量子力学に至っては、ほとんどオカルトである。
 ということで入門書を読むよりない。少し前に超ひも理論の本を読んでいて、実は数回目の試みだったのだけど、大体で投げ出してしまった。面白くないわけではないが、専門的すぎる箇所は、正直言ってチンプンカンプンだった。これはまったくもって歯が立たない。少し戻るよりないではないか。
 もちろん入門書の分かりやすさには、時折物足りなさもあったり、また端折りすぎている場合もあったりする。そういう時には注意も必要だが、なにしろ考え方や、そのつながりが分からないことにはどうにもならない。だいたい網羅的でありながら、考え方の筋が整理できることは本当に助かる。実際にこれを読んでいて、本当に助かる思いがした。
 ものすごく小さいことは肉眼ではすでに見えないし、宇宙のことも専門的な望遠鏡でも見えないものはある。英語で宇宙のことをスペースというのは、なんとなく味気ない気もする。しかし何万光年先の光が地球に届いて、さらにそれを見た僕らが星を確認できるという神秘については、何かものすごく心を動かされるものがある。それは一体どういうことなのかを、知りたくない人間はいないのではあるまいか。最初は無から大爆発が起こって宇宙が始まったというのは、実に大変に昔の話であって、その爆発の先の宇宙の果ては、さらにスピードを上げて膨張を続けている。面白いけれど、じゃあその先は一体どうなっているのだろうか。
 まあ、想像するのは自由ではあるのだけど、事実らしいことを知ったうえで想像するのと、まったくわからないまま想像するのでは意味が異なるだろう。もっと物事を考えたい人にとっても、その想像を超える事実らしいことが、宇宙の中では考えられているのである。そういうことを必死で考えている人々が、さらに何世代にもわたって考え続けていることが、今現在の私たちの立ち位置なのである。いつかすべてわかる日が来るのかどうかも、実際にはわからない話なのである。
 というわけで、簡単ではないけどかなりわかりやすい話で解説されていて、本当に助かる本なのである。賢い人の話は分かりにくい場合があるが、このように賢い人がまた解説してくれる世界がある。人間社会は、ある意味でありがたく親切なのではあるまいか。
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ヘソはカメにもあるらしい

2019-01-30 | Science & nature

 テレビでカメにもヘソがあるというのをやっていた。人間にもヘソはあるが、これは胎児のときに母親から栄養をもらっている名残だということくらいは知っている。カメは卵から生まれてくるのに、どうしてヘソがあるんだろうか。
 卵の中がどうなっているのか正確に知らなかったわけだが、卵の中ではカメの体は、栄養のうから栄養を取り、尿のうへ老廃物を排出して成長していくらしい。それらの二つの袋とつながっているのがヘソの緒なのだ。カメは爬虫類だから、ほかの爬虫類も同じで、ちなみに鳥類も同じで、ひよこにはやっぱりヘソの跡があるらしい。羽毛があるんでわからないだけなのかもしれない。
 人間は進化の過程で、その卵の構造を母親の体の中でおこなうものに変化したものらしい。まあそれが哺乳類なんだろう。母親のおなかの中で成長するというのは、要するに栄養をもらうというイメージはあったのだけど、老廃物も任せていたわけだ。生物が成長するというのは、やはり入るものと出るものがセットになっていないといけないということなのか。知らなかったとはいえ、いろいろお世話になってたんだな。
 人間の場合はさらに赤ん坊時代と子供の時代も長いので、相当の時間は育児を受けなければ成長できない。野生動物などとはかなり事情が異なるとはいえ、やっぱりずいぶん特殊な感じもする。結果的に成長後の大人は自然の脅威となるが、成長段階では極めて弱い存在だ。まあ、大人を使って自然破壊していることには違いはないのだろうけれど。
 それにしてもヘソというのは、なんだか妙な跡である。でべそだからひやかされたりするのは、考えてみるとよくわからない。出ていようがへっこんでいようが、ヘソという部分の奇妙さは、そんなに違わないようにも思える。なければもっと奇妙だけど、それはすでに人間ではないというだけのことだろう。
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小浜をぶらり、と大宴会

2019-01-29 | 散歩
 オヤジの会の小浜遠征に行ってまいりました。前回が3年まえとのことで、久しぶりの開催で、二回目です。

 まずはちゃんぽん食わんば、っちゅうことで、海花亭に行ったんですが、なんと昼をこえて準備中に入ったようで受け入れてくれませんでした。残念。店内にはたくさんの人が居たみたいですので、もういいだろうということかもしれません。

 そんでぶらぶら散歩がてら店を探して、結局「よしちょう」まで来てしまいました。席待ちの客が7人ばかり(二組だったようだ)いて、ちょっと待って入店できました。




 実は僕はダイエット中ということもあって、しばらく麺断ちをしておりましたが、小浜に来てちゃんぽんを食わんわけにはいかんだろうという意思の弱いところをを見せて、結局塩ちゃんぽん注文してしまいました。



 さすがに旨いっすね~。スープがなんとも言えないコクがありました。かなり研究して作られたものではなかろうか。



 食後はちょいと散策。おみやげ屋などひやかしてきました。




 宿に帰って、風呂に入り、しばらくダラダラして遊んでいるうちにお迎えが参りました。小浜のオヤジ会のカバオさん他3名のガイドさんたちから、ディープ小浜観光に連れて行ってもらいました。

 まずは伝明寺さんです。



 実はしまってたんで戸の隙間からのぞいただけなんですが、ものすごい秘宝があるんだとか。秘密なのであまり大ぴらに言えないのだそうですが…。いや、凄かったです。



 参道脇は元遊郭だったとかで、なんとなく名残がありました。
 さらに路地を行くといぼとり地蔵さん。
 丁寧に「いぼ取ってください」と言ってはいけないそうです。なぜなら「とってください」という意味を取り違えて増やされてしまうからだそうです。日本語はむつかしい。というか、通じない地蔵さんですね。



 小浜神社に移動して、天井絵の龍を拝見。薄くなってるけどなかなかのもの。



 この神社の境内近くが島鉄のバスセンターになっていて、バスを待つ間、高校生カップルのイチャイチャ名所になっているんだそうです。青春と神様は相性がいいのかもしれません。

 さて、少し歩くと洋館があって、今は公会堂になっているそうです。




 その下に元馬の洗い場がありました。きれいな湧き水であります。



 少し上ると上の川湧水があります。ちょっと飲ませてもらいましたが、柔らかい口当たりでした。町外からも水を汲みに来る人があるそうです。



 水飲み場の裏は更地になってましたが、庄屋元跡だったそうで、数々の著名人が泊っていたんだそうです。道脇の石垣がいい感じであります。



 映画の「長崎ぶらぶら節」の撮影場所にもなったらしい光泉寺の境内には、約一千種の木々が植えられているんだそうです。確かにその佇まいは、何かうならせるものがある風情であります。



 とにかく手入れが大変だろうな、と思います。このような娯楽というか、楽しみがあるんでしょうね。



 案内してくれたY先生は、子供のころにここで遊んでいると、住職に怒られたそうです。僕は勝手にこんなにお邪魔して、本当に良かったのでしょうか?



 池の錦鯉も見事でありました。京都とか行かんでも、地元に立派な寺があるってことなんでしょうね。



 次に向かったのは炭酸泉。ボコボコとまるで沸騰しているみたいに湧き出ておりました(写真ではわかりにくいですね)。ふれてみると実は冷泉。冷たいので不思議な感じです。ひしゃくもあったので、卑しい私はすぐに飲んでみましたが、治療中の歯にしみました。案内の先生の話だと、飲めないわけではないが、腹を下すのでやめた方がいいとのこと。もう遅いよ…。



 狭い小道が縦横に伸びていて、風情あるんだなあ、これが。



 ボロっちい建物がたくさんあって、こういうのも良いんでありますよ。



 なんか怪しい趣味の人の住んでおられるだろう家もあって、そういうのも良いんでありますよ。




 脇道には源泉からのお湯が流れて勢いよく湯気が上がります。




 小浜の源泉は熱いのでも有名らしいです。




 いよいよ宴会会場前へ。
 この崖の上にお城があったそうです。Y先生のお友達は酔ってこの崖を登り戻れなくなって飛び降りて両足を折ってしまったそうです。酔っぱらいはどこの町でも馬鹿をやってるんですね。



 交流宴会は大盛り上がり。楽しかった~。お子さんが、吹奏楽・マーチングをやっているお父さんを中心に、このようなオヤジ会が成立しているようで、音楽の話もたくさん聞けました。湯せんぺい屋さん、冷凍小浜ちゃんぽん屋さん、役場の人、えーとそれからなんだっけ? とにかく様々なご商売の人が、お父さんとして頑張って来たんですね。当たり前といえばごくあたりまえだけど、地元に誇りを持ちつつ子供に愛情を注いできたという話が一番感動的でした。料理も豪華だったけど、とにかく話が盛り上がって撮り忘れました。

 そうしてまた〆でやっちまいましたよ。ニンニクラーメン。
 さすがに連荘ちゃんぽんではいかんかもしれんとは考えたのだろうけど、ラーメンもダメでしょう! もう旨いので仕方ありませんでしたが…。



 ズルズル。



 さてさて、お宿へ帰るべえ。



 もうフラフラでんな。でも、明日も早いんですよ。



 宿は国道沿いで大型トラックが通るたびにぐらぐら揺れて、なかなか寝付かれませんでした。そういえば三年前もそうだったな、とうつらうつらしながら思い出したことでした。小浜の皆さん、ありがとうございました。


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本に埋もれる井上家族

2019-01-28 | 雑記

 井上ひさしの娘さんが、父の思い出を書いたものを読んだ。家には本がたくさんあり、ふと父にどれくらいあるのか聞いたところ、27万冊くらいかな、と答えられたらしい。井上は、作品を書くために本をまとめて相当買ったようだ。そうしてその資料としての本の詰まった部屋に籠って執筆した。面白いのは、次のテーマが見つかると、別の部屋にまた本が詰まっていく。そうして井上が移動してまた籠るらしい。そうやっていくつもいくつも本が詰まった部屋が増えていくわけである。本を買うのは主に二人のせどり師(ふつうは古本業者のようなものを指すが、井上のために全国から新刊古本に限らず本を探して卸してくれる業者のようだ)に任せていたようで、その請求が月に700万だったこともあったらしい。もちろん自分でも本は買うが、執筆の時間もあるから、そのようにしないと存分に本を集められなかったのだろう。苦労して母親が困っていた様子も書かれている。新聞は全国の地方紙まですべて買い、チラシまで取っておいたという。モノの値段など重要な資料と考えていたようだ。
 司馬遼太郎も年間億単位で書籍を買っていたといわれるし、いわゆる調べて書くタイプの人たちは、凄いものなのである。本の重みで床が抜けるという話は本当のようで、本を置くために家を補強したという作家の話も聞いたことがある。または本の置き場がなくて、仕方なく田舎の家を買ったという話はよく聞かれるものだ。作家の中には何もない中でモノが書けるというタイプの人もたまにいるようだが、普通であれば、インプットなしにアウトプットはできない。一定のインプットなしには、アウトプットも量産できないということは言えることかもしれない。
 こういうものすごいタイプの人たちの足元にも及ばないけれど、父が亡くなったときは、それなりに本の処理に時間がかかった。父は生前に巨大な書架を作っていて、ある部屋のすべてが書庫化していた。もちろん本以外の雑誌なども、段ボールやプラスチックのコンテナにたくさん詰まっていた。辞書や百科事典のような類もあって、ぼつぼつ整理しても数か月かかった。もっともある職員が間違って一部を処分してしまって、なんだか整理するのもばからしくなって、田舎だからまだ空いていた倉庫に残ったものはすべて移動して放置したままである。親子とはいえ買っている本の種類というのは微妙に違っていて、数十冊は面白く読ませてもらったものの、大半はあまり興味がないのだった。そういう風にして大変だったのだけど、書籍だけで考えるとせいぜい1万数千冊程度だったのではなかろうか。井上ひさしの27万冊というのは、やはりとてつもないな、と改めて思います。
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相当な圧力に戦う個人の見本   栄光のランナー・1936ベルリン

2019-01-27 | 映画

栄光のランナー・1936ベルリン/スティーブン・ホプキンス監督

 ナチス・ドイツ下で開催されたベルリン・オリンピックの短距離での伝説のメダリスト、ジェシー・オーエンスの伝記映画。当時のアメリカ国内でもまだ黒人差別の残る中、大学の陸上コーチとともにオリンピックを目指すことになる。大学生だがすでに子もあり仕送りをしている。練習もしているが、もともとかなり有能な選手だったようだ。国内の大会に出ると、次々に記録を打ち立てていく。当然オリンピックでもメダルを期待されるわけだが、ナチスはユダヤだけでなく、有色人種に対しても、あまりいい目を向けてはいないのだった。国内の差別とも戦う黒人団体からも、個人ボイコットするように強要されもする。差別との葛藤の中、オリンピックでの活躍どころか、非常に困難な精神状態に陥れられていくのであった。
 ナチスが悪いのはもちろんだが、オリンピックなどのスポーツは、安易に政治の問題と絡みやすい。さらに強烈な差別があって、虐げられている人間でありながら、力を発揮しなければならない。ベルリンの陸上競技場での圧倒的なプレッシャー場面も圧巻であるが、いかに人間的に精神的な圧力を受けているかが見事に描かれている。悪いのはナチスだけでなく、アメリカだって悪いのである。
 JC・オーエンスの記録は長く破られなかったとはいえ、もっと環境が良かったら、さらにいい記録が出たかもしれない。現在の陸上の記録はほぼすべて過去を上回っているわけだが、こと短距離の記録だけは、現代と条件を同じすると、ほとんど変わりがないという研究データがある。人間は数百年で進化などしないので、そういうスタンスで見ると、彼は突出して速かった可能性がある。まあ、そういう比較など、現実にはほとんど無意味だろうけれど…。
 様々なドラマも盛り込まれており、単なる伝記ものを超えて楽しめる映画になっている。いわゆるものすごくできのいい作品になっている。もっと多くの人に観られてしかるべきものだろう。
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料理は旅なのだそうだ

2019-01-26 | ドキュメンタリ

 日本にやってきて活躍しているフランス人シェフのドキュメンタリーを見た。日本語が特に堪能というのではないが、シェフ仲間と将棋を指したりして、いわゆる日本に溶け込んでいる様子だった。そうして、日本の出汁の取り方にも造詣が深く、自国フランスでの出汁の取り方も教えてくれていた。日本のそれとは同じものではないが、シンプルで、しかも基本がゆるぎなく、なんとなく似ているような印象を受けた。そうした基本の出汁をベースにして、斬新な料理を構築する。奇をてらうだけが目的でなく、できるだけシンプルでいて、自由でありながら、雑音の混じらない、鋭利に研ぎ澄まされた料理を作っているようだった。日本より出汁のストックの種類が多く、素材によって使い分けを明確にしているようだが、毎日しっかりとそれらを作ることから始めている。新たなアイディアがあると、仲間と品評しあって味を楽しんでいる。毎日料理を作るのが楽しくて仕方ないという様子である。ストイックな面もあるのかもしれないが、いわゆる修行を積んで苦労しているというより、日本に来て、いろいろな素材と出会って、素直にショックを受けながら、受け入れて、自分に生かす。そういうことを楽しんでいる様子が素晴らしいのだった。高級な料理を作り続けている圧力もあるだろうし、慣れない土地での生活の不安もあることだろう。しかしながらそのしなやかな感じが、何か人間的な強さも感じさせられるのだった。
 日本人が海外に飛び出して活躍する姿も素晴らしいものがあるが、海外の文化を日本に持ってきて、活躍する人たちもたくさんいる訳だ。基本的にそのようなものを受け入れてきたおかげで、日本という場所が豊かになっていくのだろうと思う。もちろん日本になじまず、合わない人もいるのだろうが、日本を楽しみ、受け入れる人だって少なくないだろう。そのようなものと、日本人が付き合うことで、響きあって変化していくことで、逆に伝統というものが守られていくのではなかろうか。時代の人が生きていくうえで、結果的にはそのような化学反応あってこそ、時代に生き延びるものが磨かれていくのではないだろうか。
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私は誰かがわからない   シンデレラの罠

2019-01-25 | 読書

シンデレラの罠/セバスチアン・ジャプリゾ著(創元推理文庫)

 火事で生き残った女は記憶を失っていた。自分が誰なのかわからない。その時に焼け死んだ女とは友人だったようだし、世話を焼いてくれる女は、何か大きな秘密を抱えているようだ。何が何だかわからないが、それを教えてくれる人はない。火傷のせいで皮膚の移植を受けており、顔や姿はすっかり以前の自分とは違うらしい。また後遺症があるようで、まだまだ不自由である。そうであるのに会わせてくれる人はごく限定されている。どうしてもそれらのことを知りたくて、何とか世話をしてくれる女から逃れて、手紙に書いてある人物を訪ねてみるのだったが…。
 いわゆる名作といわれるミステリ作品らしい。読んだことはなかったが、このようなトリックは見聞きしたことがある。この作品がオリジナルなのかどうかは知らないが、そうだとするならば、かなり亜流の作品が量産されているに違いない。
 本人が自分が誰なのか知らないわけだが、途中で物語は大きく動いて、かなり明確そうになっていく。本人はまだ確信は持てないが、そっちのほうではないかという理由が、かなり明確になっていく。そうでありながら、また展開が変わり、新事実が現れる。そうなると、自分は又違う女でなければつじつまが合わなくなってしまうのではないか。そういうどんでん返しが、最後の最後まで続く。なかなかうまいトリックである。もっとも現代の科学捜査にあっては成り立たないお話ではあるのだが。
 金持ちがどのような生活をしようと自由だが、一度金持ちになってしまうと、金持ちの生活をしづづけなければならないのだろうか。いや、一種の典型的なわがままで自由な生活と言おうか。僕は女でもないからさらに思うが、こんな生活で本当に楽しいのだろうか?
 実は読みながら一番の疑問はそんなところで、登場人物は少ないし、かかわりのある人間であっても、みなずいぶん遠くにいる人が多すぎる。いわゆる家族関係のようなものが希薄である。金があればそれでいいのだろうか? よくわからないが、そんなことになると、トリックが面倒だったのかもしれない。いわゆる、少人数を欺くトリックなのであろう。
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雑誌を読まされてしまった

2019-01-24 | 境界線

 ある雑誌を定期購読しているのだが、読者アンケートに答えてくれ、という案内が来た。こういうのは面倒なので、基本的には答えない。ネットなどでは頻繁にそのような案内があるが、そういうものに答えることもない。例えばアマゾンなんかでもいちいち評価するように案内があるが、何度も注文しているんだからいいじゃないか、と思う。評価の低い業者だからって言っても、不正を働いているのならともかく、評価するような偉そうなことはしたくない。
 という態度だったのだけど、気が変わってアンケートを書いてしまった。それというのも、追加でアンケートを送ったが書いてくれないか、という葉書が来たからである。内容を読んでいないとしても、読んでいないと返答すればいいとのことだった。
 実はその通りで、雑誌なんだからパラパラめくって斜め読みである。記事を全部読むなんてことは、そんなにないかもしれない。そういうものに記事の題名ごとに何か書かされることに億劫さを感じていた。アンケートに答えると、500円分の図書券が来るとのことだった。景品でつられるのも嫌だから書きたくなかったのだが、そういうことにこだわらなければ書けるかもしれない。何しろ読んでないと返答していいんだから。
 ところがである。やはりアンケートの項目を見ていると、意見を書く欄もあるのである。やっぱり雑誌を確認して、ちょっとのついでに読んでしまうのである。自分のまじめさにあきれるが、まあ、人というのはそういうものなのではないか。そうして読んでみると、それなりに面白かったりする。読まなければ内容は分かりえない。アンケートは紙面に対する何かの反映の目的があるんだろうけれど、読者へ記事を読ませる促進になることは間違いなさそうである。
 必ずしも読まなければならないものはなかろうが、読めば内容は面白い。斜め読みでもかまわないけれど、やはり時には読んでみよう。改めてそう思いましたでございます。
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青酸カリを携帯する人生   ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺計画

2019-01-23 | 映画

ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺計画/ショーン・エリス監督

 ナチス占領下のチェコスロバキアのプラハで、統治していたハイドリヒ暗殺にかかわる史実を再現した映画。英国に亡命していた若者が、再度チェコに落下傘で侵入後、地元のレジスタンスらと協力し、暗殺計画を実行しようとしている。様々な障壁がある中、地元の女性とも付き合いながら、決死の覚悟で計画を実行し、ナチスから激しい迫害を受ける一連を描いている。つかまって拷問を受けて仲間を売ることを避けるために、常時青酸カリを携帯しながらプラハの街に潜入し、レジスタンス活動を展開する。祖国を取り戻すという信念のためだけに、生への執着がありながら戦う若者たちを壮絶に描き出した作品になっている。結果的には、ナチスの報復で多くの犠牲者を増やすことにもなってしまう展開で、いろいろ考えさせられる内容になっている。答えのある問題ではないが、チェコの英雄たちを描くだけでなく、やはり戦争を考える題材にはなるのではなかろうか。
 ただし、やはりナチスは絶対悪で、カタルシスのためなのか多くのナチスも殺してしまうが、そのあたりはチャンバラ劇である。史実なので結果は分かっているわけだが、そういうことも含めて、娯楽作になっているということなのかもしれない。今となっては、戦争がナチスを作っているわけで、悪をたたくだけのお話というのはバランスが悪いとは思われる。戦勝国やナチス側でない国々が作る映画にはそのあたりの思考停止があるわけで、あの時代になぜ戦争が起こったのかを考える必要があるだろうと思う。このままでは今でも普通に戦争は起こりうることを、考えない人を生んでしまうようにも感じる。正義のために戦うことは、戦争をある意味では肯定しているに過ぎないのである。
 まあそういうこともあるけれど、死に対しての壮絶さは、なかなかうまく描けている。暗殺の緊張感や、その後の教会籠城の壮絶な戦いも、映画として見どころの多い作品になっている。内容は極めて悲しい限りなのだが…。先ほど単純さのあることも書いたけれど、時代の中で生と死が隣り合わせになりながら生きなければならなかった人たちへの焦点としては、やはりかなりの面でよくできた作品なのではなかろうか。それは潜入し決死隊として活躍した若者だけの問題ではなく、おそらくだが、市井の人々にまで及んだ、共通の緊張感だったのであろう。
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博多に行って佐世保に行った

2019-01-22 | 散歩
 今回は出張前にいろいろあったんですが、それはさておき。そういうわけで当初は自家用車で移動する予定から修正して、高速バスに乗ることに致しました。



 正直言って、今回もプレッシャー大きいです。なるようにしかならないのですけどね。


 ということで役割はあったんですが、写真を撮る状況ではありませんでした。いろいろ楽しかったんですけどね。


 道路陥没現場は再度地下鉄工事で複雑化しておりました。掘ったり埋めたり大変だな。





 特別セミナーやって懇親会やって、二次会三次会まで。いやいや、解放感も手伝っていろいろお話も弾んで、よかったよかった。いささか飲みすぎて、お世話にもなって申し訳ありませんでしたけど。福岡の先輩方は、酒が強いなあ。




 翌日は朝になっても薄暗いまま。雨も降っててどんよりしておりました。




 一応簡単に朝飯は食った。前日は平成ジャンプだったかのコンサートがあったらしくて、十代とおぼしき女の子たちが多数泊っている様子でした。まあ、そのせいでこちらもなかなかホテル取れなかったんだけどね。



 さてさて、食後に少し散歩しましょう。




 昨夜は中州からタクシーで帰ったんでよくわかってなかったけど、薬院駅の割合近くだったようだ。




 夜はにぎわっただろう横丁も、朝はひっそりしてました。




 雨は降り続いているけど、そんなに強くはないようだ。でも傘がないとじわじわ来る感じでありました。



 これは九電さんかな。日曜だけど出勤している社員さん(?)がおられるようでした。お疲れ様です。




 表通りに出ても、やはりどんより暗いです。時間は7時半過ぎだったと思うんですが…。




 いったん部屋に帰ってシャワー浴びて心身を整えて、さて、移動しますか。



 この時点で8時40分前くらいだったと思う。まだ薄暗いんですよね。ライトつけて走っている車も多いです。




 バスセンターまで歩いても30分かからんとみて、歩くことにいたします。




 那珂川を渡っていきます。




 住吉郵便局。




 この道は住吉通といいます。住吉神社があるためだと思われる。




 ここが神社。




 博多駅のある通りにぶつかりました。時間的にもちょうどいい。




 後はバスに乗るだけです。




 向かったのは佐世保です。日曜とあって、アーケードもにぎわってますなあ。シャッター街の多い中、奮闘している街だということです。偉い。







 さてさて、用事も住んで後は帰るだけ。時間調整でさらにぶらり。



 その後大村帰って夜は飲み会でした。さすがにここ数日はハードだったなあ。まあ、来週も頑張りましょう。


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訳はわからないが、変だとはわかる   レッド・タートル ある島の物語

2019-01-21 | 映画

レッド・タートル ある島の物語/マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督

 嵐があって、無人島に流れ着いてきた男だったが、何とか生き延びることはできたものの、その孤独の中、イカダをこしらえて孤島からの脱出を試みる。ところが少し沖合に出たところで筏に何者かの突き上げがあり、壊されてしまう。その時は何が何だか分らない。再度挑戦しても同じように筏が壊される。またチャレンジすると、ついに筏を壊しているのは、大きな赤いカメであるようだった。
 男は非常に腹を立てるが、ある日その赤いカメが浜に上がってきた。すぐさま竹の棒で頭を殴りつけ、ひっくり返して起き上がれなくしてやった。カメは何日も動かなくなり、おそらくそのまま死んでしまう。急に悔やんで水を与えたりすると甲羅がパリンと割れる。そうしてカメは女になってしまった。
 セリフはなく、非常に寓話的である。無人島の孤独と絶望はよくわかる。何かを示唆した話かもしれないが、日本人の僕にはよくわからない。その後の展開は意外なものだが、しかしその意味するところは、やはり僕にはわからなかった。気の狂った男の話ということなのだろうか。たぶん違うと思うが…。
 映像は美しいし、カニなどの小動物が小道具になって、コミカルな笑いもある。長編とはいえ80分ちょっとだろうか。もう終わりなのか、という尺である。
 ジブリ配給ということで、そのような映画だと思うと、多少期待は外すかもしれない。外国人監督だとは知っていたし、フランスだとかベルギーだとかの関係だと聞くと、芸術めいているのだろうとは予測はついた。もっとも彼らの考える芸術という意味ではあるが。意味が分からないまでも、孤独はつらいものだろうな、ということくらいは分かります。しかしながらこの男は、嵐でそのまま死んでしまうよりは、面白い一生だったかもしれない。そう考えるよりほかに僕には救われる気分にはなれないのだった。
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基本的に気は強いのだろうけど

2019-01-20 | 感涙記

 スポーツ観戦は基本的にしなくなったが、もちろん例外はある。駅伝やマラソンである。まあ相撲も観るが、あれは厳密にはスポーツなのかわからないところもあるので、例外の例外ではある。
 年末年始は、駅伝がたくさん見られる。それはそれで楽しいが、時間がつぶれて困る。何しろ時間が長いから。僕はせっかちなので、長い時間拘束されるのは嫌である。しかしレースは根気よく見なければならない。つらいが面白いので仕方ないのである。
 長距離走というのは非常に駆け引きがあって目が離せない。日本人ランナーは比較的平均的にラップを刻む人が多いとはいえ、勝負となると話は違う。多少消耗があることを覚悟のうえで、頻繁に速度を変えて走るのが普通である。後ろに付かれて消耗するというより、その揺さぶりに耐えながらプレッシャーをかけ続けることに力の差を見せつける効果があると思われる。以前は力のない方のランナーが後ろに付いて様子をうかがう作戦をとるべきと考えられてきたが、現在の多くの場合は、力のある方が揺さぶりに耐える方法をとる傾向にあるように思う。そういう時代性も含めて、戦略も多彩になったものである。
 それにしても距離が長いので、勝負にいろいろ工夫しすぎると、最後には不安が残る。社会人などがそうだが、勝負がありながらも自分のペースを守る人が増えてきている。前半は置いて行かれても、後半に再度デッドヒートを繰り広げるなど、ペースの配分が様々になってきた。一方で前半にあまり我慢しないで行くところまで行って粘るという人もいるわけで、そういうギャンブルの仕方ができる日本人も増えた。結局は練習方法の見直しなどがあって、地力がついているのであろう。
 長距離の人が面白いのは、その後のインタビューにおいても特徴がある。案外根性的なことではなく、レースを冷静に考えている人が多い。失敗もそれなりに認めるし、つらかったことも素直に話す人は多い。スポーツ選手というのはビッグマウスで誇張なのか嘘なのかわからない場合もたまにあるが、長距離は嘘のつきにくい競技なのではないか。強がってもきついものはきついものだし、調子の波があるとはいえ、ダメな時ははっきりしている。ボールゲームのような運の左右するものが、きわめて少ないということもあるのかもしれない。さらに環境は一緒なのだから、自分にうそをついて頑張るようなことが許されないのかもしれない。
 もちろん過去には妙な人もたくさんいたわけだが、現代人というのは、素直な人が増えたのかもしれない。平均的に実力も上がっていて、極端に力の差が出てきにくくなっているのかもしれない。勝ったり負けたりの切磋琢磨が、さらに選手たちに磨きをかけているのであろう。
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偏見と闘うコメディ(でも偏見が混じっている)   これが私の人生計画

2019-01-19 | 映画

これが私の人生計画/リッカルド・ミラーニ監督

 イタリア映画。幼いころから建築家としての才能が芽生え、のちに世界中で活躍するも、故郷のイタリアに戻って建築を続けようとしても、女性であるがゆえにイタリアの男性上位社会で受け入れてもらえない。たまたま建築のコンペで面接官の勘違いに乗じて男性建築家の秘書と偽って採用され、大きなプロジェクトを動かすことになるのだったが…。
 女であることの困難が第一だが、そうした保守的な男性社会への風刺と、ゲイなどの様々なマイノリティを交えて、完全にコメディ・タッチで仕事や恋を描いた作品。イタリア独特の過剰な動きと過剰なギャグが延々と続く。しかしまあ、楽しいのは楽しいです。
 こういう社会というのは、いかにもアジア的な封建主義みたいな印象があるのだが、ヨーロッパの陽気なイタリアであってもそうなのか、といささか驚いてしまう。今時日本でも、このような男女差別は許されるものではなかろう。また、バイト先のオーナーの魅力的な男性に恋に落ちるが、彼がゲイであるという悲劇も、それなりに面白い。打ち解けた友人にはなるようだけど、結構いつまでも恋が冷めないのもいいのかもしれない。
 性的なマイノリティに対しての表現も、それなりにギャグとして過剰である。ゲイだからいつも性的にそればかり考えているのもどうなんだろうか。いや、普通はやっぱり多少の遠慮があって、こういったやり方でのギャグはやらないようにも思う。まるで80年代映画のようである。そういう意味では偏見に満ちてもいるけれど、自由でもある。日本だと批判がいろいろ出そうだけど、まだまだ保守的な境にあるイタリアなら、OKだったということなのかもしれない。
 のちにネットの解説を見ると、モデルとなった女流建築がいるらしい。どこまでヒントにしたかはわからないが、やはり珍しかったからこそ映画にしたのだろう。保守的な考えが、すべて前近代的でけしからんとまでは思わないが、まだまだ厳しい偏見の世の中が続いていることを憂うべきなのかもしれない。
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昨年つらつら聞いてたのを振り返る

2019-01-18 | 音楽

 ヤンキーと思われるかもしれないのが嫌だったのであまり人には言えなかったのだが、昨年の前半は、わりにポスト・マローンを聞いていた。車から音が漏れるのは仕方がないが、信号待ちではなんとなく恥ずかしい。恥ずかしいが聞いてしまう。やっぱり馬鹿っぽいけどカッコいいんだよな。ユーチューブを見ると、やっぱりセンスは合わないな、とは思うのだけど。
 一気に飛んで後半になると、ザ・レモン・ツィッグスが出た。知性があるというわけじゃないが、一気に趣味が変わった感じもする。この人たちは何か変だとは思うんだけど、妙に引き付けられるものがある。まじめな人たちでも、ぶっとんでびっくりさせることができるというか。妙に感心させられるというか。
 変わり種の一発勝負だとは思うが、スーパーオーガニズムも面白く聞いた。日本人の女の子がボーカルだからという話題性もあるが、やっぱりこの人たちも変である。変なのが好きなのかな。いや、そんなことはないと思うが。でも、芸術集団っぽい感じでも、気取っているわけじゃない。売れちゃって、戸惑いもあるんじゃなかろうか。
 本当に感心してしまったのは、ダーティプロジェクターズだった。なんか凄いなあ、と素直に感じる。ライブなんかどうするんだろう。曲が自在というか、非常に趣味的なんだが、ちゃんとポップで高揚感がある。みんなで聞いて盛り上がるって感じじゃないのかもしれないけど、一人で聞いて盛り上がりはするのである。
 さらに良かったのはミツキですね。なんか素晴らしい出来のアルバムじゃないですか。曲が短いけどドラマチックだし、東京ラブストーリーみたいなギターも鳴るんだけど、かなり芸術性が高いというか、凄い才能なんだろうな、と思います。ジャケットはアートすぎると思うけど、そういうことに躊躇しない人なのかもしれない。日系の血があるのだろうけど、日本的ではぜんぜん違う。私的な部分でそういうものはあるのかもしれないが、もうあっちに行ってしまって届かない人、という感じかもしれない。
 けどやっぱり一番の事件はグレタ・バン・フリートで、昨年はこれで決まりである。若いしカッコいいし、実力もありそうだ。もちろんツェッペリンに似てるから興味が出たのは間違いないけど、もうそんなことばかりも言ってられない。実際にそういう曲作りをしているが、早晩脱皮するだろう(しなくていいと思うが)。さらにビッグになるとは思うが、兄弟でもあるし、ケンカしないで続いてほしいものである。兄弟バンドの先輩たちは、なんか問題あるところが多すぎるから、周りがちゃんとサポートしてやんないといけないのではないだろうか。甘やかしすぎてすいません。
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朝の二社参り

2019-01-17 | 散歩
 目が覚めて、ホテルの部屋からの眺め。こんな部屋に泊まってたんだね。



 朝飯はホテル二階のガストでした。





 さて、朝の散歩です。



 烏森神社。






 方角を変えよう。



 この間も来た塩竃神社。



 とにかく雀がたくさんいるのです。





 土曜の朝だし、すべて閑散としている。そういう街なんだろうね。



 この日はいろいろあって帰らねばなりません。せっかくの機会だけど仕方ないです。



 でもまあ新橋には通っているみたいなもので、何も考えずに歩ている自分がいます。




 空港は凄い人だかり。ああ、世間では三連休の人々もいるんだそうだね。なるほど。



 長崎行は辺鄙なところまで移動せねば。



 長崎に帰る人だろうか、行く人たちだろうか? とにかく満席。疲れたな。




 ということで、今回も歩けたんで満足です。その後仕事で大変でしたが…。
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