カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

うるさい過疎の私

2012-02-29 | culture
 僕は生まれてこのかたずっと田舎育ちだし、職場も日本の過疎の代表のようなところにあるし、そういう境遇は本当に空気のようにしみついていて、好きも嫌いも特に感じないほどに、田舎になじんだ人間だと思う。都会的センスは微塵も無く、人ごみや並ぶのが何より苦痛だ。東京のような都市に行っていいなと思うのは、ラッシュで無い時間の電車くらいのものだ(酒飲んでも乗れるので便利だ)。
 しかしながら田舎に住んでいて嫌だなあと思うことはそれなりにあるにはある。その代表的なものは、田舎は音がやかましいことだ。いや、普段は車もめったに通らないし、鳥のさえずりの響き以外に聞こえる音なんてほとんど無いのだけれど、時々轟音のようなものが暴力的に響くことが多いのである。
 代表的なのは昼時のサイレン。お昼になったことをお知らせしたいのは分かるが、まるで戦時中の敵機来襲のようである(知らんけど)。サイレンは野山に響き渡り、カラスがカーと鳴く。時々気が狂いそうになるくらい喧しい。
 朝や夕方に音楽が流れることもある。夕方の場合子供たちに早く帰れと言いたいらしい。野山で遊ぶ子供など見たことがない。いらんお世話である。
 夜になると「火の用心、カンカン」と消防車が走る。お世話様だとは思うものの、暗闇から赤い光線とともに現れるのはかなり不気味である。
 昼間でもラジオやテレビを大音量で外に向けて流している家は多い。外で作業しながら聞いておられるらしいが、何百メートルも聞かせる必要があるんだろうか。
 僕は犬好きを自負しているが、田舎の御宅の犬は、どうしてこう激しく吠えるのかと疑問に感じることも多い。僕が歩く散歩コースについては、恐らく多くの人が犬の声で確認できるに違いない。
 何キロも離れた工業団地の電話のアナウンスもよく聞こえてくる。よっぽど離れた場所の人に知らせる必要があるんだろう。作業の音はほとんど気にならないが、構内放送は構外にもれないようにしてほしいものだ。
 自衛隊の演習もすさまじいものである。音ともに振動も激しく、時々古くなった壁が剥離して落ちてくることがある。箪笥の上のものが落ちるなどはよくあることで、ちょっとした地震レベルではなかろうか。窓ガラスも激しく揺れるが、今のところ割れるということはないようだ。演習をするのは仕方がないので、いざという時は負けずに頑張ってほしいものだ。
 農作業などをしていると、一日誰とも会わないということもあるにはあるが、人の姿を確認できなくても、そのような轟音が野山に響き渡らない日は無いようだ。そういう喧しい中で生活していると、身も心も荒んでくるようで、子供を育てる環境じゃないな、とは思うものだ。
 そういう訳で過疎化している訳では無かろうが、田舎暮らしは騒音に耐え忍ぶ生活なのである。
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僕の生き延びるための作法

2012-02-28 | 雑記

 僕には寛容の心というものが欠けているということもあるかもしれない。つまり器量が狭いのである。なまじっか物事の実態を知ってしまっており、表面的な評価で話をされると訂正したくなってしまう。別段私生活に影響のないゴシップの物事でも、考え違いや間違いなどには敏感に反応してしまうようだ。みのもんたの類はだからほとんど許せない気持ちになってしまう。害悪をまき散らす公害のようなものである。
 そうではあるが、いちいち間違いと思われることに突っ込みを入れていては話がかみ合わないばかりか、ちっとも前に進まないということも起こりうる。間違った常識というのはそれなりに市民権を得て君臨している実態があって、一通り時間をかけて論理だてて説明すれば多くの人は理解してくれるものではあっても、話の腰を折りすぎて、脱線が本線になって、いったいなんの話題だったか分からなくなってしまう場合もある。間違いは間違いには違いないが、しょうがなくスルーして、あとのチャンスを待つしかないということなのかもしれない。しかしながら時にはアドバンテージを取ったばかりにあとのチャンスは決定的に潰されてしまうということも起こりうるわけで、そういう判断は誠に難しいのである。
 また問題の多くは、本当のことを理解したくないという人の存在もある。間違ってしまう人の多くは、その間違いを積極的に信じたいということもあるらしいのである。こういう人と話をするのはほとんど時間の無駄であって、間違いを正そうにも聴き耳などは持っていない。反論にもならない感情論で押し返してきて閉口するしかなく、それはつまり田嶋陽子化した絶叫に変わってゆき、ただ白けて話題を変えるより無くなる。つまり気分の悪くなる以外何の意味もない訳だ。
 そういう訳で僕も事なかれ主義に転身しようと常々考えている訳なのだが、これはこれで忍耐が必要で、それなりにつらい思いもするようだ。時には本当に具合が悪くなってしまう。
 先輩の中に時々そういう人が居て、ことごとく間違ったことしか考えていなくて、しかもそれを曲げるつもりも毛頭ないらしい。よく社会生活が送れるものだとは思うが、彼を愛する奥さんもいるらしいので(本心かどうか確認しようもないが)、世の中というのはそういう成り立ちがあるものなのであろう(また、僕も傍目にはそのように思われている節はある)。出来る限り僕から遠くで生活をしてもらう必要はあるようだけれど、世の中というのは狭いようで広い場合もある。上手く逃げる作法を覚えることで、無事に生き残ることもまったく不可能ではないようだ。小学生に生きる力を説く時代だが、大人になってからもそのような生きる力を磨く必要はあるのであった。
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半分なのか、業界の人はショックだろうな

2012-02-27 | culture

 最近知った人が続けて結婚したことは聞いていたんだが、当然のように結婚式に呼ばれなかった。正確に言うと、身内のお祝いはしたようだけど、披露宴はしなかったということらしい。実は結婚しても結婚式を挙げるカップルは半分程度だ、という話も聞いたことがある。僕自身もそうだったくせに、棚に上げて驚いてしまうぜ。
 いろいろ事情はあると思うが、そういうカップルは実は反社会的というわけじゃないらしい。自分たちの将来を見据えて、改めて堅実に生きていく道として披露宴をしないわけだ。ほらね、僕とはぜんぜん違うのだ。
 しかしながら派手な結婚式をしたほうが離婚率が低いという話もあるようだ。元がかかっているんだから、オチオチ別れられないという意味らしい。これも堅実というか、なんというか。
 つくづく思うんだけど、今の若い人は昔の人間より、まじめで正直な人が圧倒的に多いような気がするね。風評に惑わされず、生きていって欲しいものであります。
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ロシア猫

2012-02-25 | 雑記
Ужин с котом


 これを無視出来る人はそうそういないでしょうね。

 うちの杏月ちゃんも激しくおねだりするので、ついついいろいろあげちゃうんですが、そのあと家人にひどく叱られます。こっそりあげられる方法を考え中なのであります。
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いつまでも嫌いでいられるかは分からない

2012-02-24 | 

 訳あって夜の空港に母を迎えに行った。もしものために早めに行った(つれあいは時間にうるさい)ら、到着時間が大幅に遅れるらしかった。仕方がないのでぶらぶらしてみたが、最終便到着前の空港は、店じまいの空気が蔓延している。冷やかしの買い物客が歓迎されていないのくらいは、僕にだって少しくらいは分かる。コーヒーショップで時間をつぶそうと思ったら、ドアは開いていたが、既に終わりのようだった。営業時間を表示してほしいものである。
 仕方がないのでコンビニに寄って缶コーヒーを買うことにした。
 実を言うと僕らは、長い間ずっとコーヒーを苦手にしてきた。普段飲むのはもっぱら緑茶か紅茶で、コーヒーの選択はまずあり得なかった。事情はいろいろあるんだけど、むしろおもてなしで良心的にコーヒーを出される時の居心地の悪さというのを、何より恐怖でもってやり過ごすタイプの人間だった。若いころに訳あって土建工事の手伝いをしてた頃に、現場監督や仲間たちが毎日缶コーヒーをおごってくれるのが、肉体的労働のきつさよりつらかったものだ。
 しかしながら時は流れる。長い間飲まないうちに、体質が少しづつ変化するというのはあるのかもしれない。つれあいが何かの拍子で頂いたコーヒーがもったいないので口にしてみると、つらいながらも何となく、だんだんと飲めるようになったという話を聞いて、僕も何となく付き合いで口にするうちに、やはり段々と慣れていくような、多少は調子が狂うものの、子供の頃は平気だったしむしろ好きだったコーヒーの味が、何となく分かるような感じがするようになっていった。積極的に好きとは言えないが、嫌いから平気への転換を見た訳だ。なるほど、これが好きだという人は、中毒になる場合もあってしかるべきだ。というくらいは、感覚的に理解できるほどには受け入れ可能な体になったようだ。
 そういう訳で、二人して待合の椅子に並んで座って缶コーヒー(正確にはボトルというのだろうか)を飲んだ。
 つれあいは飲みながら「こういう日が来るとは思ってもみなかったね」と言った。コーヒーの味はたいして旨くは無かったけれど、本当に感慨深い味わいである。
 人は変わるから面白いのかもしれない。一貫性のある人生なんて、送りたくはないものである。
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狂った果実

2012-02-23 | 映画
狂った果実/中平康監督

 見終わって何となく観たことあったかもしれないな、と思った。結末がひょっとするとこうなるんじゃないかと思ったとおりだったからだ。もちろん太陽の季節の姉妹編ということもあるから、そういう似たような空気のせいもあるかもしれないし、しかし肝心の太陽の季節すら観たかどうか記憶が定かでないし。とはいえ、実際は懐かしい感じの映画では無い。むしろ不快な空気が漂った変な映画である。現代風という感じはあるんだろうけれど、それでも戦後のまだ人々が貧しかった頃の、日本にも残っていることが奇跡のような貴族的な廃頽的な空気は、今のものとは決定的に違った強烈な反抗だったのかもしれない。そういう世界の原作を石原慎太郎が描いていたというのが、現代社会においても一種の批判があるとはうがって考えてみることも出来るにせよ、不快であることには変わりがない。そうしてそう思わせることがこの映画の価値であって、その時代を打ち壊すような力を表現するということだったのだろう。退屈という言葉がこれほど暴力的であるというのは、ある程度現代社会とも共通するものだとは言えるにしても。
 ということは、普通に感想として誰もがもつものだとは思うのだが、僕にはやはり石原兄弟という存在が、この時代に熱烈に若者に支持を受けていたというのが、やはり何となくピンとこないところがあるような気がする。裕次郎のカッコよさというのが、やはりいまひとつ良く分からないのである。加山雄三だとか小林旭というような感じの二枚目では無く、むしろいい奴かもしれないが、今の社会では主役になるような人では無いようにさえ思える。もちろん実際は大人気だったのだから、当時の人たちの見る目の方が正しいとは思うのだけど。どこか軽薄だけれど、根はよさそうという感じが現代人には無い太さとも関係してウケたのかもしれない。この映画でもあからさまに悪人だけど、不思議と被害者であり善人である津川雅彦の方が、最初から悪人のような印象も受ける。悪いなりに憎める悪人になれない。そういうところが魅力と言えば魅力なのだろう。映画としてそれでいいのかという疑問はあるのだけれど、そういうところが、この映画の魅力となっているところもあるのだろう。
 今となっては本当によく分からないが、社会に反抗する若者代表として、選ばれた存在ということになるんだろうか。現代社会ですでにおじさんになってしまっている僕に分からなくて当然ということなのであろう。
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それにしても時間がかかり過ぎる件とは別に

2012-02-22 | 時事

 メモ的に書いておく。
 死刑自体がどうだという議論はこの際はとにかく棚にあげておく。これは別の思想だからだ。
 今回の問題は、世論によって量刑が影響を受けた(少なくともそう思われた)ということだろう。時代によって罪の重さは異なるという考え方もあるので、そこから立脚するとそれはある意味で当然だとは思うものの、刑を客観的に決めることの障害であることは間違いあるまい。
 声の大きい人によって罪の裁きは変えられるということである。もちろん、今までの考え方からの転換という意味で、この事件がメルクマールになるだろう。何人だからという考え方の馬鹿らしさは根本的にあったとは思うものの、前例主義である法律の世界で、この前例が今後の判決を左右することは間違いなかろう。要は、どのような大声を出すのかというテクニックになるということだ。
 罪を罰するということと、社会的な抑止の問題のバランスの問題もあると思う。個人的には、恨みなどの動機を持った殺人よりも、元が無関係で無差別のものほど人間的には残酷だとは感じるが(もしくは非人間的)、そのような衝動が精神の病んだ人に多そうなところがまた議論の分かれ目にもなりそうだ。ただ、例えそうであっても、死んだ人はただ死んだという事実だけが残ることになる。
 残った家族の救済の意味で量刑が左右されるのであれば、それは家族による復讐の幇助を意味することにもなるだろう。個人的にはそれで何らかまわないが、そのことに世論が加担しているという自覚があるか。気になったのはそういう部分である。
 もちろん非人間的な判断をする場合が多すぎる法の世界にあって、人間性を取り戻す判決と感じている人は多いようにも感じられる。だが、共感はあるが、しょせん他人事だからこのような世論が生まれているのではないか。さらに気になるのはそのような冷たい(と僕は感じる)世論なのかもしれない。
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もしもの時のために

2012-02-21 | 

 K野先生がワイン通であるというのはそれなりに流布していることらしい。とはいえ二次会のバーのカウンターに座って、マスターが何にしますか、というところ、「先生、持ってらっしゃるんじゃ」との問いかけに、おもむろに鞄の中から一本のワインを取りだされたのには軽くショックを受けてしまった。
 頭の中は「?!」でいっぱいになっている僕に対して、K野先生は到って涼しげに「もしもの場合に備えて…」とおっしゃる。
 その返答にもさらに意味が分からなくなったのだが、N野先生が、
「ほら、高校生くらいのときは、もしものときなんて言ってコンドームを持ち歩いてたりしただろ、そういうことだよ」
 と言った。
 もちろんワインはみんなで美味しく頂いたのであった。ごちそうさまでした。
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ザ・ロイヤル・テネンバウムズ

2012-02-20 | 映画
ザ・ロイヤル・テネンバウムズ/ウェス・アンダーソン監督

 脱力系コメディというか、雰囲気を楽しむ物語というか。結局なんだかよく分からないなりに、深遠な気持ちにもなれる変な文学作品を読んだような面白さである。
 最初から奇妙にずれていてかみ合わない感じがそれなりに展開していって、結局終息さえしないようにも見える。しかしながら物語はそれでいいということなんだろう。感情移入はしづらいかもしれないが、いわゆるハマるという人も多いのもよく分かる。人間的な感情がどこか欠けているようにも思えて奇妙なのだけれど、見終わった後には、やはり共通の感傷を受けるということがあるようだ。完全に架空のものだと分かりながら、心の奥にある人生の機微に、奇妙に引っかかるのかもしれない。天才にも平凡なところはあり、当たり前だが心の悲しみを抱えている。取り繕うとしても、ちょっとだけ糸が飛び出すようにほころんでしまうことはあるのかもしれない。しかし、そうやってちょっとだけ目につくような、いわば欠点のようなものが見えることで、かえってお互いの新密度は増すこともある。普段は目に見えないからこそそういう部分がいとおしくもあるわけで、誰もいつまでも表面的な生活ばかりを展開している訳ではないのだ。
 ダラダラ続くような展開なのに、何故だが終わるのか惜しいような気もした。そういう意味で妙な気分を味わうには、いい作品といえるかもしれない。もちろんそういうモノ好きな人でなくとも、ひょっとすると気にいることもあるだろう。人を選ぶと考えられるとはいえ、その間口はあんがい広そうだ。僕もおそらくやるんだろうが、この監督作品の別物を素直に見たいとも思う。その上でまた、このけだるさの空気を考えてみることになるのであろう。
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罰ゲームをこなす訳

2012-02-19 | 雑記

 僕はどちらかというと空気が読めないひとであると思う。能力的にそうだということもあるが、まあ、そんなことはどうでもいいと思いたいところがあるともいえる。あるが、実際はどうでもよくないことに巻き込まれることがあり、ある程度は読んだ方が良かったという後悔が無いではない。そういう反省もありながら、しかし読んだところでやっぱりつまらない人間のようにも思えて、そう考えてしまう自分がさらにめんどくさい。
 空気が読めなくて困るのは、相手を怒らせてしまうことである。それくらいのことでひとは怒るものなのかと愕然とすることがあり、つまりそれが空気が読めなかったせいではないかと考えている。
 何故怒らせてしまったのか分からない場合も多い。後で理由を聞かされる場合もあるが、ほとんどは覚えがない。単なる勘違いなのではないかと思うのだが、そういってしまうと火に油を注ぐことにもなりかねない。彼らにとっては重要だったとも言えて、つまり軽く見てしまった僕の罪ということなのだろう。出来ればこれを機会に僕との付き合いをやめてもらいたいものなのだが、そういう人に限ってそう簡単に関係が切れなかったりする。自分の運を呪う以外になく、仕方なくうやむやにする。そういう考えだからまたすぐに問題が起こり、過ちは繰り返される。結局懲りていないだけなのかもしれない。
 人の話を聞いているようで、聞かないことも多いのかもしれない。つまらない話は聞いても仕方がない。または、たまたま考え事をしていてよく聞けなかったということもあるかもしれない。物忘れもひどいので、覚えていないだけという場合もある。聖徳太子では無いので、複数の人が順番に話しても話が混同することもある。どうもその人から聞いた話をその人に聞かせるということもやらかしてしまうようだ。これは単に頭が悪いということなのだから、ご理解をお願いしたいものである(甘え)。
 一般常識が身についていないということもあると思う。常識といわれるようなことが、よく分からないということはあるようだ。遠慮すべきところを遠慮しなかったりなどというのは、よく注意を受けたものだ。新人類といわれる世代だったので、今の若い人のことをとやかく言えないという気分もある。最初は何も分からないのだから、失敗して当たり前だという開き直りもある。思慮が足りないということで、嫌がられているのであろう。酒のつまみの悪口にネタになるのなら、それもまた良かろうと思う。出来るなら僕の聞こえないところでやってもらえばいいわけで、忠告してくれる必要は特にない。
 そういう訳であんまり友だちもいない孤独な人生なのだが、いろいろな役職はやらされて仕事がたまる一方である。嫌がらせを受けているに違いなくて、それはやはり空気が読めない罰のようなものなのだろう。罰ゲームをこなすだけで人生が終わるのもさびしい気がするが、ひとが生きていくというのは多かれ少なかれそのようなことなのではないかと最近は疑っている。勘違いかもしれないが、そのこと自体を読めず悟れないのでどうにもならないのである。
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励ましの少なさこそ問題だ

2012-02-18 | ことば

 鬱病治療のレポートを見た。最新脳科学で活動の低下している脳のある部分に磁気刺激を与えて活性化させ、結果的に鬱病を治していた。日本ではこの治療法はまだ無いものらしい。しかしながらやはり効果がありそうだとは思えて、苦しんでいる人にはかなりの朗報なのではあるまいか。
 また、実際に悲観的な考え方を転回させて、本人を励ますことでかなり鬱病が改善されることも紹介されていた。広く日本では患者を励ましてはならないという話を聞かされてきたわけだが、これっていったいどうなのだろう。個人的には時期というものがあるのだろうけど、鬱病の人から実際に聞くところによると、励まされて救いになったというのはよく聞くことである。当たり前といえばそうなのだが、むしろ興味本位で励ましが伝わらない場合に、言い知れないすれ違いを感じるというのが真相のようにも思える。結局は励まし方に問題があっただけなのではなかろうか。
 鬱病という訳ではないが、落ち込んで悩んでいる人の多くは、実は本当に些細で狭い考え方にとらわれすぎている場合が多いものだ。そういう考え方の問題を指摘して、実際の広い捉え方を指導するだけで、それなりに落ち込みから抜け出すことは可能なのだと思われる。失敗を気にしない図太い人の方が、案外少数派のような気もする。落ち込むのは当たり前なのだし、そうしてそういう状態から抜け出した体験をした人もたくさんいることだろう。つまり、助言の出来ないひとの方がむしろ少数なのだ。
 相談や話を聞いて自分の考えで相手を励ますのは、日常はよくあることだろう。そういうことに下手に不安を覚える必要はなくて、親身になって励ますことこそ、このような苦しみから逃れられないひとにとっては、実際には効果的なのではないかと、素直に感じたのであった。
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カント入門

2012-02-17 | 読書
カント入門/石川文康著(ちくま新書)

 カントというと、生真面目で決まった時間に散歩して、それを見た人が時計の時間を合わせるという逸話が有名で、つまり堅物で難しく、とっつきにくい印象がある。実際のカントを読んだことはないが、そういう訳で入門でチャッチャとさわりをのぞいてみようなどと思った訳だ。
 実生活では、確かに大したドラマの見つからないひとだったようだし、評伝を書いてもつまらなさそうな人だったことは確かなようだ。住んでいる町からも出なかったようで、引きこもりではないにせよ、哲学的思考を延々とやっていた人だったのかもしれない。しかしカントの成し遂げた哲学の軌道は、実はかなりドラマチックなのであって、書いてあることもそれなりに面白いようだ。哲学的思考がめんどくさいという人も多いのかもしれないけど、この本を読む限り、そんなに面倒なことでもなく、むしろそのカント的な思考の展開に、息をのむような面白さを感じることも可能ではなかろうか。少なくとも僕は、この本を手にとって本当に幸運だった。現在の時期というものもあるのかもしれないが、精神的にはいろいろと救われるところがあって、さらに人間という生物そのものの面白さも同時に感じる訳であり、本当に目からうろこが落ちるような感動を覚えた。何かに行き詰っているような事があるような人があれば、迷わずカントを読むべきだと言うだろう。このような感激を共有してともに救われることが、明白に分かっているのだから。
 特に現代社会というのは自由なのである。しかしその自由であるために人々は苦しまなくてはならなくなっていることが多々あるのだ。そういう苦しみの発生を理解し、そうして克服するのは、そういうことに目覚めることのできる思考方法にあるのかもしれない。そうして自分自身で方向転換を決意することから、泥沼の自由の束縛から逃れることができるのだ。
 このことは、実は多くの場合あらかじめ本当は知っていることなのかもしれない。しかし、知っていると思っていることと、本当に理解していることとは違うことなのだ。誰もがカントのように考え、カントのように物事を見つめることは出来ないだろう。しかし、カントを読むことは、誰にだってできることなのだ。いや、それさえできないひとのために、この本はある。カントを読んだ人からカントのエッセンスを抽出してもらい読んだだけでこれだけ感動出来るのだから、だまされたと思って読んでみるといい。おそらく読む前と読んだ後には劇的な自分自身の変化を自覚できるだろう。そのような読書体験の幸福が、これからの生活に彩りを与えることは間違いなかろう。
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現実の絶望感の風景

2012-02-16 | 境界線

 北方領土の現状ルポを見る。日本人の視点からすると、こういうのを絶望の風景というのではなかろうか。元島民の地道な活動も涙ぐましいが、かなり分裂気味になっていることも分かった。結果が出ていないのだから、これまで通りでどうにかなるものではなさそうで、焦りもあるし、既に違う路線を模索する動きもあるのだろう。活動自体は尊いことだとは思うものの、国同士の問題に個人の力はどうにもならないようにも思われる。事実がすべてなのではないのかもしれないが、もう4島が日本に帰ることは無くなってしまったようだ。
 66年にわたる実効支配というのは本当に重い。ロシヤ人のみならず、中国などからも実際に住んで生活をしている。彼らの誰一人として日本の領土に住んでいる自覚など無い。むしろ何故終わった問題に対していわれのないことを言われる必要があるのか、ということなのだろう。また、なんで日本はまちの発展のために力を貸さないのだろうと、何の疑いもなく考えている様子だった。すでに先祖や仲間もこの地に葬られており、過去より現在の事実の方がすでに彼らの現実なのだ。
 思えば確かに歴史の不幸の重なりの中で、日本の領土は失われてしまったということなのだろう。歴史にIfは無いというが、現在より過去の方が、何度か戻ってくるチャンスはあったようにも思われる。思われるが、やはり既に過ぎてしまったことなのだ。
 現在の強い思いの人たちが納得するとは思えないが、完全返還を諦めることから、これからの話を進める以外にないとも思われた。現実的に日本人が北方領土に自由に住めるという方法はあると思うが、それが国家的に意味のあることなのかは、もうすでに良く分からない問題だ。日本の国内に向けての自国の領土であるという強い主張だけで、島は元には戻らない。それが現実に起こった歴史の現実なのである。
 過去の清算は簡単ではない。事実と思われるものであっても、歴史というのは現代人が知らなければ無いものとほぼ同じだ。没落する日本という国にあって、将来的に何を選択していかなければならないのか。結局先送りにしてきたツケは、未来の人たちが払わなくてはならない問題なのである。
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バレンタイン後日談

2012-02-15 | culture

 バレンタインデーというのが、あんまり意識にあがらなくなって久しい。そういう訳でほとんど忘れてしまっていたのだけど、息子たちが年頃になってみると、彼らにとってはそれなりに意味のある日なのかもしれないとは思うには思う。しかしこればっかりは僕にはどうにもならない。いや、こればっかりでは無く、ほとんどのことは僕にはどうにもならないことばかりだが…。
 この頃のことを思い起こそうにも、やはりほとんど忘れてしまっている。仄かな期待があったことはそうだったんだろうけど、もちろん完全に何にもなかった。いや、正確にはいろいろあったような気もするが、自分が思い描くようなことは無かったというべきか。それが今の自分にどのような影響があったのかさえよく分からないが、女に縁のない時期が長すぎたせいで、今のようにヒネている可能性は確かにありそうだ。そうではあるが、もうどうにもならないので、考えても仕方がない。
 チョコレートをもらうことで、意識的になるというのはありそうだとは思う。もちろんこの日の前の状態の方が大切なわけで、不特定多数の人から頂いたからといって、その意外性を楽しむということは出来そうにせよ、やはり本当に意味深いとはいえない。それがきっかけで気になって好意を持つにいたる可能性は無いとは言えないが、そういうケースは統計上どれくらいのことなのかという程度には、ある特定の個人に関係する可能性は低そうだ。日ごろ接触の無い何の感情もいだかない他人から、熱烈に好かれるような理由は、普通の人にはありはしない。
 そういう訳で、実際には予想の範囲からもらえなければ、この日は失敗する方が正しい日なのであって、そういう確認の日であるというとらえ方は出来るものなのかもしれない。
 そうなんだけど、あれはいつだったか、ある人に渡そうと思ったんだけど出来なくて、もったいないからアゲルよと言われて、バレンタインも何日か過ぎてからチョコレートをもらった覚えがある。僕はチョコレートをたくさんは食べきれないから、たぶん全部は食べなかったと思うのだが、なんというかしばらくは、何となくその子のことが気になっていたような気がしないではない。やはりチョコをもらうというのは、そういう意味ではそれなりに効果的であるとは言えるのかもしれない。
 昨日渡せなかったような人は、後日でも渡すことができるといいですね。効果のほどはやはり分からないのだけれど…。
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ビンタも残らないが

2012-02-14 | ことば

 中学生の頃に何故かユダヤの格言集が流行っていて、僕もご多分にもれず手の取った覚えがある。そのほとんどは残念ながら忘れてしまったのだけど、記憶力の悪い僕が何故かいまだに覚えているのがある。それは「ビンタは消える。言葉は残る」である。なんで覚えているのかを忘れてしまっているのだが、その頃は毎日のように先生にビンタされていたので、感慨深かったのかもしれない。僕はすぐに鼻血が出る体質らしくて、ビンタされた後に流血することも度々あった。そうすると叱っている先生も多少怯むらしく、大丈夫か、などと後から言われたりする。叱られているときはそれなりにフムフムと話を聞いていたようだが、そんな時は急に先生に対して軽蔑の念が沸き上がったものである。気遣うくらいなら最初から叩かなければいいのだ。しかしながら血のついたカッターシャツを洗ってくれるのは母であって、なんで叩かれたのか聞かれた覚えは無いのだが、シャツを汚してしまったことは何となく申し訳ないような気がしたものである。ところでビンタされて説教を受けたことは覚えているけど、何を言われたのかはほぼ完全に忘れてしまっている。これって言葉は残らない、ってことでは無いのですよね。
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