カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

気楽だからやれることも多い

2024-06-01 | 境界線

 僕がふだん観た映画や本などの感想を書いているのは、単なる備忘録から始まったものではあるが、やはり続いている大きな理由の一つは、書いていて楽しいからである。
 しかしながら、子供のころからそうだったのかというと、必ずしもそうだったわけではない。特に読書感想文というのがあって、これはちょっと苦痛だったかもしれない。
 本を読むのは比較的早い頃のことで、小学生の4年くらいの時には、すでに読書少年のようなことは言われていた。実は多少見栄を張っていたことは確かだったのだが、僕には7つ上の姉と、5つ上の兄がいるので、彼女彼らの本は当然自宅にあったし、父は場合によっては大量に本を買う人間だったので(これは遺伝していると思う)、背伸びして読む本に事欠かなかった。もちろんまったく歯が立たないものはどうしようもなかく放り出したものだが、読めない漢字はいくぶんすっ飛ばして読んだところで、あんがい意味は分かったりするものだし、適当に話し言葉から勘案して読めたりするものもある訳で、すべて読破するなんてことを考えなければ、それなりに拾い読みしていけるものだった。そうして夢中になってみると、いつの間にか読んでしまうという体験を繰り返していたわけである。
 そう、読書感想文なのであるが、だいたいにおいて課題図書のようなものがあって、これが今興味あるものと違っているというのがあった。それで課題以外から何でもいい、というものを書かされることになる。読書感想文なので、僕は読んだ感想を素直に書いていたのだが、先生からはまず、あらすじのようなものを書いて、それからそのどこに何を感じたかを書かなければ、意味が分からないと言われた。読んだあらすじを書くのが、まずは苦痛に思った。書かれている通り書けばいいのだろうが、いわゆるポイントが良く分からなかったのかもしれない。
 ところがである。それでも僕よりもっと読書感想文の下手な人というのはいて、曲がりなりにも僕は感想文を書くのであるから、手伝ってほしいと頼まれることが結構あった。何しろ僕は読書少年である。頼むなら僕だと考える友人がいたのだろう。
 で、どういう本を読んだのか? と聞くと、なんとそういう人は、ちゃんと読んでいないのである。内容が分からない上に、感想もあいまいだ(当たり前だ。たぶん読んでいないのだから)。どこがおもしろかったのか聞いても、よく分からないとかいう。それでは僕にもどうしたらいいのかよく分からないので、自分の読んだもので、適当にその人が書いたように文章を捏造して、書くことにした。まあ、ひとのものだからかえって気楽、というのがあったようで、さらにやっぱりなんとなく面倒なような感じもあって、ほとんど適当に、こんなところが面白くて感動しました、とか書いておいた。
 すると、なんとその読書感想文が、クラスのいくつかの優秀賞に選ばれた。もちろん最優秀ということではなかったのだが、良く書けていると、僕の友人は褒められた。僕が書いた僕のものは、箸にも棒にもかからなかったと思う。
それで何となく、読書感想文はつまらないものだな、と考えたようだ。だから書くのはどんどん適当になって、文字数だけは埋めるようなことになる。友人のものも、どんどん請け負って書くようになる。読書感想文だけでなく、作文なども結構代筆するようになった。何しろ僕は、書くのだけは早いのである。なんといっても適当だ。作文の時間は、二人か三人分、それぞれ原稿用紙に5枚分くらいは書いてやったのではないか。
 こういうのは慣れであって、あんまり好きではなかったはずなのに、書くのは好きなような感じになったかもしれない。得意意識は無かったけれど、書けるのだからやるだけである。算数とか理科の時間も、誰かの作文なんかをコツコツ書いてやったりして、得意になっていたかもしれない。何しろ喜ばれるのだから。
 これが原点だったかどうかはよく分からない。課題を書かされるのは嫌だったけれど、代筆で書く分には気楽で書けた。他人事(ひとごと)という言葉があるが、いわゆる他人事なら気負うことが無い。そういう風に考えられると、たいていのことは真剣にできるような気がする。感想文を書かされたりした教訓は、たぶんそんなことだったのだろう。
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大騒動だが、ほんとに動くかは……

2024-01-27 | 境界線

 地元の選出議員が辞職することになって、記者会見がなされた。ちょっと前までは毎日のように顔を合わせていたので、なんとなく妙な感慨もある。失言したと言われる言葉も撤回して謝罪したが、誰に謝ったのかは実は僕にはよく分からない。失言したのは国民を馬鹿にしたわけでもないし、実際のしつこい記者に対して腹を立てたからだということのように思えるので、その記者に対しての方が自然だが、それで記事にできたので、書いた方はむしろ感謝しているのではなかろうか。まあ記者会見の内容云々する材料はあんまりなくて、結局謝ったということと、何かを守り通したということになるんだろう。政治はそういうものなんだな、ということを想像するよりない。
 少し遡って考えると、政治資金を集める必要が絶対的にある中で、それは良くないということになって、政党助成金が人数割りで配られるようになった。共産党だけは拒否しているのだが、それ以外の国会議員は、事実上政党を通じてそれは受け取っているという建前になっている。政治活動は、その範囲でやってはどうかということが暗にある訳だが、もちろんそれで足りないということを考えている人々がそれなりにあって、ふつうは政治献金でそれを補うことになるんだろうけれど、特定に企業が献金で名前が出た場合の顧客への配慮なんかもあって、より名前のでにくい政治パーティが開かれて、実質上そういう形で献金がなされている実態がある。だからそれ自体は何ら悪いことだとはいえないが、これで得た収入は会計に記載されなければならなくて、それを怠ったので良くないということになった。しかしながらこれまでも、不記載の問題はあり、指摘されたらミスを正すということで、起訴までされることは無かった。今回はその記載されていない金額が、多額である人々のみを起訴するという検察の方針が変わったらしいことにより、目だった人が問題になっている。その線引きはどういう基準なのか三千万円ともされていて、ではなぜ一千万円なら起訴されないのかはよく分からない。しかし大問題なのだということでは関心が集まっていて、自民党内の派閥勢力の解体にまで言及されるまでになった(※これを書いた後に、安倍派の離党を求める動きまで出ている。岸田さんは結構強硬である)。そうなると以前からの歴史的な政治スキャンダルの流れから見て、普通なら政党離脱で新党ができるとかいう事に発展するのだけれど、そういう動きをするリーダーが、今のところ見当たらない。それで派閥を解体して政治勉強会ができるとかなんとか言っていて、そもそもそんなことはできないとかは聞いている。政治は権力闘争なのだから、塊が無ければ一人が勝手に巨大になる必要があるので、やはり金を持っている人が偉くなる可能性が高くなる。金を集める能力だって、結局は自分が一番金を持っていて支払うのが特に安易なので、そういう政治家が求められることになるだろう。改革を推し進めたらするだけ、それだけ元々の権力を持っている人を強めることになるということになる。これを考えずに建前でつるし上げをするので、ますます助長させるわけである。
 なんとなくの感覚だが、すでに議員の数が多すぎると考えている人が多いようにも感じる。確かに人数だけ見ると多いけれど、じゃあ国会議員になれるチャンスのある人というのは、地元で考えてみればわかると思うが、まず普通の政治家を志す人々の中の、実に限られた人であることが分かるはずである。その上で、時期的な運もある。今回の騒動で議席が空くが、そこを埋められる人にも、実際にはいい条件のチャンスですらない。それは今水面下で議論されているはずで、その後の待遇を含めた事柄が選挙前に決まらない限り、実際には誰も埋められない筈である。さらに選挙自体も厳しい訳で、それは選挙そのもので選ばれているわけではない駆け引きなのである。
 やるべき議論はだから、それでいいのかどうかということなのではないか。献金なんかはネットのアプリのみを認めるとかして明確にするだけでも、そもそもの問題は消えそうだが(チェックが簡単である)、集まったからそれは悪いのではなく、単なるポピュリズムが進行したということになるだけかもしれないが……。もう政治なんてものは、吉本とかジャニーズが担えばいいのではあるまいか。もっとも国民のためになると考えるならば、チャットGPTなんだろうけれど、まだ現代人の感覚として受け入れられる土壌には無いと思われる。しかしながら要するに、人間のやることには、もう限界があるということである。
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必要とされる女性たち

2023-12-17 | 境界線

 ちょっと前の会議で、構成のメンバーの選出について、やはり女性メンバーを複数人入れようということになった。ご時世ということもあるし、その前にそんなことは当たり前ではある。しかしそもそもその協議会の会員に、女性メンバーが少ないのである。委員や役員の構成に女性が少ないのは、ある意味ではそういう事と比例している。是正すべきはそういう根本的なところにあるはずだが、これはやはり簡単ではない。代表で出てこられる方々にそもそも女性が少ないのは、おそらくなのだが、今後もそれなりの時間をかけないと変わっていかない事のように思える。それでいいという意味ではないが、社会的な啓蒙活動が必要そうだ。
 それでそれぞれ知っていそうな方に打診のお電話をしたのだが、これがなかなかに難航した。いろいろ事情があるそうで、引き受けてくれないのである。ウーム仕方ないな、ということで、複数の人でお願いに行って、なんとか一人口説き落とした。それで良かったな、と胸をなでおろしたのだが、その方が言ったことが少し引っかかった。「女性が必要だと言われて役職をもらった時から、どんどん役職が増えすぎて、もうほとんど身動きできない。もう女性が必要だという考えを、みんなには捨てて欲しい」というようなことを言われたのだ。なるほど、その方は確かにしっかりしていらっしゃることもあって、さまざまなところで活躍されているのだろう。しかし女性枠がさらに彼女を苦しめているのかもしれない。
 さらに別の会議の折、ご年配の会長さんが、全体に質問を求めた。一人くらいは質問があったようだが、その後皆がしーんとなった。もう質問が無いのなら終わりかな、と思ったら、出席しておられるご婦人に「女性としてのご意見をぜひお聞きしたい。我々の会には女性らしい優しい視点が欠けている。そういうことをぜひ知りたい」とおっしゃった。そうしたらそのご婦人が「このような会議が必要なのは分かるが、私たち女性は忙しいのだからもっと遅い時間に開いて欲しい(この会議は地域のもので、夜7時から開会していた)」というようなことをおっしゃった。うーん、本音ではあろうが、そういう背景を変えないことにはどうにもならんな、と思った。さらにだが、会長が言われる女性らしい内容の発言を女性に求める時点で、ダメなのではなかろうか。この世の中はそう簡単に変わるものでは無いのだな、と思うとともに、やはり世代交代自体が必要なのかもしれない。まあ、しかしこのような集まりは、ご年配の人の活躍の場としてあるような気もするので、僕らを呼ばないでやって欲しいのがもっと切実な希望でもある。しかしそうすると、世代交代はままならない。僕らの世代がもう少し先ながら次であるのかもしれないのなら、わざわざせかすことになるかもしれない。そういう矛盾を自分の中に抱え、もうどうにもなるものではないと、暗澹たる気分になるのだった。
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日本国内で価格差が開いている

2023-10-14 | 境界線

 今は地方と都市部で地域別価格差があるのだという。どういうことかというと、これまでは外食チェーン店などは、どこの地域でも日本であれば価格は同じであった。ところが今は、例えばマクドナルドであれば、ビッグマックの値段が東京と長崎では違うのである。数十円の差ではあるものの、徐々に開きが出ているらしい。それと言うのも、原料高と人件費の高騰であるのだが、それを価格に転嫁せざるを得ない企業側の悩みもあるが、値上げしているのは都市部などの地域に限って行っているためであるようだ。
 コロナ禍で外食産業は大きな打撃を受けた。特にちょっとした価格などの変化に、顧客は敏感に反応する。外食などせずに済ませる世帯が増えたことにより、ちょっと臆病になっているともいえるらしい。離れてしまうと容易に戻ってきてはくれないという恐怖感があるのだろう。さらに現実的に地方は所得が低い傾向にあり、その分人件費も幾分安い。顧客離れを恐れて価格を据え置く処置が続いており、事実上地方に限っては値下げと同じことが起こっていると考えていい様だ。
 僕は外食チェーンにはあまり行かないほうだが、一般的に都心部に行くと、田舎より価格は高めという気はしている。ある意味でそれは当然のようなものがあって、土地代も高いだろうし、確かに経費もそれなりにかかるだろう。ちょっとうまいと評判の店は長蛇の列だし、なんとなくの勘で静かな店に入ると、お勘定でびっくりさせられたりする。多少は凝りて、価格を確認して入るようにはしている。チェーンのようなたたずまいの店でも、自分一人なら抵抗なく入る。そういうところは確かに安かったりするので、助かりもするが。
 しかしまあ、チェーン店であっても価格差が開くと、久しぶりに都市部に行ったりすると、田舎もんはいちいち食事でびっくりさせられるという事が起こるのかもしれない。もう都会には行けないという人も出てくるのだろうか。それはちょっと極端にしても、ちょっとした海外旅行での価格差のようなものが、国内でも起こっていくという事になるかもしれない。所得においても東京と比べると長崎は約半分なわけで、住宅などの必要経費が違うとはいえ、地域別の固定化という現象が起こると、さらに地域格差というものが開いて、地方では仕事の選択をしないという人が増えることにもなるだろう。もっともどこまでこの動きが容認されたままになるのか、という事でもあるのだが……。
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もう日本人は欲しくもない

2023-08-17 | 境界線

 僕らの業界は人手不足で長年苦しんでいる。要因は複雑でいろいろあるわけだが、国との関係もあり、抜本的な打開策はおそらく数十年望めそうにはない。はっきり言って不可能な中で苦しんでいる訳で、どうしたらいいのかという明確な解は僕らの側にはなくて、そのうえでの話で頑張っているというのである。むなしい。
 という事で、もうふつうに求人してもらちがあかん、ということなんである。実はウチは何とかなってはいるが、よそではもっと深刻なんである。
 それで、外国人人材を採用している事業所が増えているのである。この問題の根本にある日本政府の外国人(主にアジアであるが)に対する差別的な対応については、一旦置いておいて話を進めなければならないわけだが、実際にはかなりの競争の中にあってなんとかそれでも日本に来てくれる人材が、まだまだ外国にはあるようで、かなりのハードルをクリアしながらも日本に来てもいいという方々を、何とか取り込んで事業継承のためにやりくりをしようというところが増えてきている、という事なのであった。
 そうして一息ついでいる中にあって、一番の問題である言葉の壁をやりくりしながらでも働いてもらっている事業所が増えてくる中にあって、当初の心配とは別の問題が出てきている、という話なのである。これもいろいろ端折らなければならないことを了解してもらったうえでの話なのだが、人事担当者の本音として、まだ足りない募集をするうえで、本当に次に求める欲しい人材という事になると、できれば外国人のほうが望ましい、というのである。
 日本人が来てくれないから、最初は仕方なく模索する中で外国人というフロンティアに手を伸ばした業界であったけれど、ふたを開けてみると、そちらの方がそもそも魅力的な戦力であったことが判明した、という事なのである。働いてくれる人というのは、できれば優秀な人のほうがいい。平たく言えばそういうことで、そういう本音としての人材は、すでに外国人のほうが魅力的なのである。
 まあ、結論を言ってしまうとそういう事で、ではどうしたらいいのでしょうか。
 世のなかはAIについてもいろいろ議論かまびすしいところもあるんだけど、経営陣は、人間よりAIの方に期待していることは間違いなかろうと思う。簡単な比較はできないにしろ、いろいろ言う前に、日本人の価値というのはそもそも下がっているのである。その中でどうするのか、という事なのであって、考えるべき人々は、いったい誰なんでしょうね。という話なのでした。困っているところに勝機があるので、とりあえずそんなところでお願いします。
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知らない店には入りにくい

2023-04-20 | 境界線

 出張の時、あんまりスナックには入らない。地元じゃないから事情を知らない、というのはあるが、そういう知らない感じが恐ろしげだというのが大きいが、しかし以前は構わずにスナックに入っていたような気もする。いつの間にか入らなくなったのであって、それはなんでだろうな、と思った訳だ。
 要するに若い頃は怖いものを知らないというのが、まずある。ぼったくりバーというのに何度も懲らしめられたが、しかしまた行ったりしている。懲りてはいないらしい。むしろ明け方近くまで交番の中で議論したりして値段交渉し直して、あとから思うと面白かった(その時は困っていたが)。それでもそれなりに取られたことは確かで、なんで懲りないのだろう。
 それと以前は別に先輩方と行ったりすることもあり、そういう人たちが無理して選んだ店に入ればよかった。たまにお前が探せと言われることもあったが、まあ後ろに人がいる状況で店を開けて回って物色して選んだ。酔っているのでできただけのことである。
 今はそういうのさえ煩わしいと思うのか、物色などはほとんどしない。誰かがどうしてもスナックに行きましょうと言わない限り、入らない。カラオケの音がうるさくても煩わしいし、皆が静かに飲みすぎているのも不気味である。客がいなければ不安だし、客が多ければ入れはしない。
 出張でも夕ご飯は食べるわけで、要するにそういう時には当然酒は飲む。人がいるとあれこれと話が弾んで、もう一軒ということになる。相手が何を好んで飲むのかということがあるけれど、スナックを選ばないのであれば、また食べ物屋に入ったりする。この選択も、なかなか難しかったりする。おでん屋のような店だったり、ふつうのチェーンの居酒屋だったりする。もうお腹いっぱいなので、漬物だけでいい、というと怪訝な顔をされたりする。
 洋酒を飲むのなら、今風のバーがあって助かるが、しかしハイボールばかりじゃつまらないかもな、などと考えてしまって、ウイスキーのロックなんかを飲んでしまうと、たちまち酔っぱらってしまう。一杯の単価が高いところがあったりして、頭も財布もフラフラになってしまう。
 そんな時に、やっぱりスナックでも良かったのにな、と思うのだが、なかなかそういうのは、上手く行かないものなのである。今度は頑張って探してみるかな。
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詰んでいる可能性のある毎日

2023-02-27 | 境界線

 毎日のことではあるが、いつも何かを選んではいる。そんなことは当たり前かもしれないが、選択をすることが、生活そのものだともいえる。どうするか? もしくはどうしたいか? という問いは、ひとから言われるだけのことではなく、自分自身でも問うている。無意識の選択も無いでは無いが、そのプロセスとして、自分自身の道筋のようなものがあるように感じる。
 そういう中で、仕事のことを別にすると、僕が毎日選ぶことに疲れていることがある。それは何を見るか、ということである。いざ選ぶ段になって、なかなか選べないのである。若い頃には、面白そうなものが多くて困るというのが第一だったはずなのに、今はどれもそんなに面白そうにも感じられず、かといって何も見ないことの方が、時間的に詰まらないから、とりあえずそれらから、出来るだけ最適なものは無いか、と悩んでいる傾向がある。そうしてその選択後にも、何か観続けることができなくなって、中断して、別を選び直すことも多い。このような自分の不安定さが、さらに自分を不安にさせる。
 とりあえず映画で考えてみると、ネットフリックスのマイリストが31本あるようだ。どのみち見ないと思われるものは、性格上常に削除しているので、おそらく見るだろうリストだと言っていい(それでも観ないかもしれないが)。そうしてアマゾンのマイアイテムのプライムで見られるものだけで、46本ある。レンタルでなければ見られないものが、206もある。プライムになる期待があるが、そのままならないかもしれないのは、レンタルしてみるかもしれない可能性はあるが、とりあえず46本を優先する考えがあることを、今気づかされた。それでもこれらの合計から考えて、今年中に全部見ることは、ほぼ不可能だろう。
 これらの中から、毎日何かを見ようとはしている。すぐに映画を見る場合もあるし、別に録画している番組を見る場合もある。この録画のストックは、めんどくさいので数えていないが、5分で見られる料理番組や子供向け教育もの、ニュース解説や30分程度の番組ものや、特集物などのドキュメンタリーあわせて200本以上が、常時ストックされている。これももう全部見るのは不可能だろうから、酔った折に定期的に削除は繰り返している(酔ってないと削除する決断が難しい)。
 要するにこれらの選択肢の多さに、疲れ果ててしまっているのかもしれない。時期にもよるとは思うが、今は精神的な弱い時期とも重なっているのかもしれなくて、積極的に選び取る力が弱くなっている可能性もある。
 これに合わせて、常時読み止しの本がある。読もうと思って選別したストックが机に並べたり積んだりしているスペースがあるが、これが入れ替えながら50冊程度はある。今は図書館から借りている本が2冊だが、予約が一冊あるし、行けば読もうと思っているストックが、やはり50冊程度ある。鞄には持ち歩く文庫が二冊。今実際に進行中で読んでいる本は8冊ほどか。目次程度とか飛ばし読みしてちょっと目を通した本で、とりあえず棚に積んだものは数百冊はある。目が行くと、これもまた読むかもしれない。そうして毎月届く雑誌もあるし、まあ読むべき書類なんかもあるんである。やはり人生は限られているので、将棋で言えば、僕の毎日は既に詰んでいる。とは思うが、悪あがきしている。それなのに家に帰ると、また何を見るか考えなければならない。選べないのが当たり前だ。
 そういえば、そういうことを防ごうと思って、見るべきリストを作っておいているのだった。何本も線を引いているリストを眺めると、これが数ページにもわたっている。いったい何のためのリストであるのか。いつもこれを更新して、さらにリストが増えているのかもしれないし、以前に書いたリストが、すでにどこかにあるのである。やはり何かが詰んでいる。とりあえず何かを選択したら、集中することにしよう。
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自分は誰かに殺される可能性がある

2023-02-21 | 境界線

 「運命のボタン」という思考実験がある。誰かから「このボタンを押すと一億円あげます。ただし、このボタンを押すことで、どこかの誰かが死ぬことになります。ボタンを押しますか?」と言われたらどうするか、というのがある。倫理学ではどうするべきか、に一応の答えらしきものがあるようだが、あなたなら、どうしますか?
 これは読んでいる本の中での出題だったが、これに答えがあると考えていることにまず僕は疑問を感じる(いや、答えはあるが)。何故ならどう答えたっていい問題なら、どう答えたって何の問題もないとまず考えてしまうからだ。人が死ぬのにお金をもらっていいのか? と考える人がいるのだろうか? ちょっと不思議である。お金をもらったところで、自分で誰かを殺すわけではない。こういう問題を振ってきた人が殺すのかもわからないが、第一、嘘を言っているかもしれない。一億円が嘘でないことを願うが、くれるというものを、何故断るか。いや、断るかもしれないが、それはそういう問題を振ってくること自体が怪しいと考えるから、ならわかる。それくらいで一億円くれるはずがないからだ。この問題は現実的にはあり得ないということも分かる。絶対あり得ないか? と言われてもあり得ないと言い切れるくらいあり得ない。そんなことに意味が無い、とも思われるから。しかし思考実験のためにあるとすると、その場合にだけあり得る。人が死ぬのをわかっていてボタンが押せるのかを問うているから。だからこれを押せる、もしくは押せない、という二択において、何かの意味を考えている可能性はある。倫理的には誰かが死ぬとわかっていて、ボタンを押すのはおろかだと言いたいのも、簡単に予想がつく。誰かがお金をもらって、自分が死ぬかもしれない可能性を容認することになるからだとも、それはそれでわかる。それは設問には含まれていないが、自分だけにこういう問題が振られているとは限らない、という前提の考えがあるのだろう。しかしそんなにお金を使ってどうするのか? ということがあるので、他の人にむやみに設問がある、という考えは浅はかだろう。自分に一億円をやってもいいという余裕があって、面白がって言っているので、相手は一億円を失ってもよいと考える人、と予想できる。失ってもいい一億円なら、自分ならもっと有効に使えるだろう。どのみち今の時間にも、自分と関係ない人はどこかで死んでいる。その殺すことを知っているのなら、警察に届けるだろう。誰かが死ぬと言っている人が殺すのなら、一億円もらって通報する。何故なら僕が依頼を受けたわけでは無いのだから、直接的に何の関係も見だせない。一億円の報酬をもらった上で、その人が支払った上に他人を殺すのであれば、僕が依頼したことにはならないからだ。たとえそれが僕の殺したかった人であったとしても、自分にはわかり得ないのだから、偶然である。
 現実に僕らは一億円の報酬とまでいかないまでも、このようなボタンは日ごろから押している、ということも考えられる。例えばだが、車の運転である。自動車事故によって、日々どこかで誰かが犠牲になっているはずだ。それは自分の運転した車でないだけのことで、車が無かったら犠牲にはなりえない人である。しかし車を運転することには自分の便宜上の利益があり、犠牲になる可能性を事前に知りながら、車の運転がなされている。そう考えると、多くの人々が、既にボタンを押していることになるはずだ。この思考実験には、そのような致命的なミスがある。押してはいけない問題ではなく、押してしまう人間社会の仕組みを説明すべきなのだ。むしろそのような犠牲の上に個人の便宜がある。車でなくとも、社会の仕組みのために、誰かの犠牲の可能性はゼロにはできない。
 そう考えると、別の命題の答えも出そうな気もする。世の中はトレードの問題なのかもしれないと。さて、今日はここまで。思考実験は有名な「トロッコ問題」を含め、くだらないものが多い。理由は現実には何も使えないことにあるだろう。そういうことを考えない人向けの限定なのであって、やはり科学などから見ると幼稚である。まあ、言いすぎているのは分かるが、結局そうみられていることを打開する努力がいるのではなかろうか。
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男だから頑張れるは、むしろ幸福な感覚だ

2023-01-30 | 境界線

 先日新聞のエッセイを読んでいて、またか、というような印象を受けた。正月の箱根駅伝で優勝した監督が、走っている選手に激励の声を掛けて「男だろ!」と励ましたことにショックを受けて、あれこれ考えたことを記しておられた。このニュースは様々なところで取り上げられ、この監督の「男だろ」という激励は、それなりに話題になった。それはある種の揶揄されるものを含んではいるものの、おおむね肯定的で、そのことにもショックを受けられたようだ。ほとんど信じられない現象と受け止められた、という感じかもしれない。
 それというのもこのエッセイの筆者は精神科医で、日頃人の生きにくさの中にこのような、男だから、女だから、というまわりの決めつけや圧力に苦しんでいる人を、多く診察している所為であるということも書いてある。女だから病気の子供を病院に連れていくのが当然だとか、男なのにろくに家庭を支えることができないだとか、いうことなんだろうか。そういうものがつらいことであるのは重々わかるし、たとえそれが文化的な側面があるにしても、個人の資質で抗うことが困難な状態はたくさんあるだろう。そうでない社会の実現は、確かに望まれることなのかもしれない。もちろんそうなれば、別の弊害があるには違いないが……(面倒なのでここでは論じられない)。
 しかしながら、やはりわかってないな、というのは、この監督はこういう人で有名で、これで修正しないからこそ価値のある人なのである。単に精神論で男らしさばかりを言っている人でもなくて、人によっても使い分けることも知られている。いわばこれは愛嬌のようなもので、この「男だろ」が出るのは、それなりにまわりの人からは期待もされており、出たら参ったな、という人もいるかもしれないが、「はいはい」といったニュアンスの方が強いのではないか。男だろうが女だろうが長距離を走っているのはつらいので、力を振り絞ろうにもどうにもならない。しかしやっぱりそう来たか、クソっ、もういっちょだ、というような精神構造になれなければ、これは効き目が無い。もうなんだか無茶苦茶だが、やるしかないな、と燃える演出でもあるわけだ。
 今時こんなやり取りをしているのは、演歌の歌詞の世界だけだと思ったら大間違いである。実はやっぱりスポーツの世界では当たり前のようにこのようなやり取りはなされており、日頃の指導現場では、割合に自然に聞こえてくるものだ。もう僕は現役ではないので距離感があるが、女子でも男子でも、これらしきジェンダーを飛び越えたいいまわしや、馬鹿にしたような叱責は数多い。また、意外かもしれないが、これが海外の場合の方が、より厳しいということもよく聞く話だ。外国の監督やコーチがやってくると、必ずと言っていいほど、精神論でこのような言葉で叱責してくるのである。むしろ日本の指導者は紳士的なので、外国の選手はまるで言うことを聞かない。そうして日本人コーチは身の回りのお世話をするマネージャーと化していく。世の中というのは、そういうものなのである。特に強いか弱いかを競う世界に身を置いている場合は、そういうところの上をいかないことには、突き抜けられないのが実情なのだろう。
 ということで、だからよくない社会だということは言えるかもしれないが、良くない社会や環境下でなけば、人が育たない場合もあるという結論に過ぎないだろう。確かに誠にご愁傷様であるのであった。
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会議に遅れる人

2022-12-19 | 境界線

 先日の会議の折、開会の5分前にやってきた人が大声で「遅れて申し訳ありません」と言って頭を下げた。「遅れてませんよ」と僕が言うと、「5分前集合が当たり前なので。申し訳ありません」と再度頭を下げた。そんなことは当たり前ではないと思ったが、僕は黙っていた。そういうやり取りの後、それでは、という感じで事務局の人が資料の確認などをしているときに、もう一人別の人がやってきた。だいたいちょうどの時間くらいだったのでぎりぎり遅刻ではないとは思うが、なんとなく始まっている様子にオヤオヤという顔つきだった。事務局の人は事前説明を終えて、それでは開会してもいいですか? と偉い人に聞いた。なのでやはり遅刻では無かったが、5分前集合が当たり前なら謝らねばならぬところではないか。まあ、謝らなくてぜんぜんいいと思うが……。
 僕も年を取ったせいなのか、以前と比べると開会時間に余裕をもって出席するようにはなった。特に会長をしている会議なんかは、それなりに早く行く。ちょっとした事前打ち合わせがあったりもするし、そうすると30分以上も前に行ったりする。でも、やっぱり早すぎて時間を持て余すこともあるので、なんだか時間がもったいないな、とは思う。そういう役職の無い時代のことを考えると、時間より早く着いたら、会場の周りをぶらぶら歩いて時間をつぶして、だいたい5分前くらいかぎりぎりまで会議室には入らなかった。そうしてギリギリすぎて遅刻することもあったかもしれないが、あまり気にしてなかった。僕みたいな人間が居るかいないかなんて気にする人間は、あんまりいないだろう。
 しかしながら遅刻の常習者というのは確かにいる。困ったことにそういう人に限って、議題との関連のある人だったりする。またはその人が責任者だったり、説明する人だったりする。仕方ないので別の議題などを先に片づけて、なんとなく待っていると、やって来る。いちおうは遅刻を詫びているが、彼のキャラクターは忙しい人で、なかば忙しいので当然とでも言いたげな印象も受ける。そうして説明したら、今度は早々に帰ったりする。それで生きてきたのは分かるが、夜の会合なんかは二次会メインの人だったりもすることを知っている。まあ、昼も夜も忙しいということなのかもしれない。
 しかしながらたまに、遅刻の人を待って始める会議というのがある。出席予定の人が遅れているので、知っている人が電話で確認すると、向かっているが5分以上遅れると言っている。そうすると、その会議の会長さんが「待ちましょう」というのである。かなり唖然としてしまったが、遅れてくる人が15分以上になってやってくるまで、会長は事務局の人と雑談していた。こういう会議はやる気がなくなるので、求められてもいい加減な発言しかしない。やる気が無くなっているのをわかってくれているかは、分からない。
 しかしながら、普段は別に誰が遅れてこようが、あんまり意識はしていない。何か事情があったのだろうし、先ほど記したように、議題の関連の人でないのであれば、それはそれでかまわないことだ。議席数の問題なんかも無ければ、ほとんど何も感じない。もう来なくたって別にいいのである。いっそのこと僕も出席しなくなっても良くなればもっといいが、まあ浮世の義理なので、これは諦めるより仕方がない。
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中途半端な断片を生きる

2022-11-27 | 境界線

 村上レディオで村上さんが、「映画館ではあんまりないけど、ビデオならだいぶあって、本も若い頃は頑張ってたけど、今は頑張っても良くならないことを知っているので(大意)」途中でやめることが多くなった。と語っていた。確かにそうだな、と思った訳である。
 しかし同時に、いまだにあんがい気になって、間をあけて再開するようなこともあるよな、とも思う。そういうのであたりもあるし、外れもある。
 要するに最後までいって、さらにがっかりするのが嫌なのである。途中で切り上げて、もう放り出してしまえたら、それはそれで人生をかなり有意義にできるのではないか。
 経済学の世界では、これはすでに解決済みの概念で、いわゆるサンクコストで説明できる。回収できない損失は、切ってしまうよりほかにない。というかそうするのが一番賢い。失った投資であるとか、過去の失恋などもそうだ。すでに取り返しがつかないものなので、今後の自分の将来には関係が無いことだ。引きずっても仕方ないじゃないか。要するにそういうことのように思う。まあ、詳しくは勉強してみてください。
 そうであるならば、映画や本というものであっても、面白くないと思ったら、とっとと止めて、もう放り出した方がましなのだ。何より時間の無駄でないし、新しくおもしろいものに手を出した方が自分にとっていいことだ。つまらない時間にお金をかけたとしても、ぜんぶ消費しなければ、損失額もわずかながら少なくて済む。お金は戻ってこないけれど、時間まで無駄にしないからだ。
 それは分かってるんだけどな、と考えている自分はいる。だってタルコフスキーの映画なんて、実に退屈で面白くもくそもないんだけど、その無駄な時間を観ていることが、いわばタルコフスキー映画の醍醐味だ。万延元年のフットボールだって、ずっと面白くなくて何のことやらわからないし文章はへたくその極みだけど、そのまま我慢して読んでいると、どういう訳か、後半一気に面白くなって満足するのである。そういうことがあるから、ほとんどの場合我慢しても読み続ける選択をしてしまうのだ。
 若い頃にそういう経験をしておきながら、しかしそれでもなお、ぜんぜん面白くもならないものの方が大半で、ちょっと見たり読んだりするだけで、あらかたこれはダメだと分かるようなことが多くなった(ように感じる)。そうなんだけど、これを観続けたり読み続けたりするのが苦痛なのにもかかわらず、ほのかな期待感のようなものがなかなか抜けるようなものでは無くて、やはり無理して続けてしまう。サンクコストが積み上がってしまう。損失がどんどん増えていく。そうして自己嫌悪に陥った自分を責める時間まで積み上がってしまう。なんということだろう。
 でも同時に体力のようなものが無くなったのも確かで、いくら時間を無駄にしても突き進むだけの力のようなものが、確実に無くなってしまった。そうなると詰まらなければ素直に眠くなるし、注意が散漫になって何も頭に入ってこない。ビデオなら途中で止めてトイレに行くと、もうなんだかもういいや、と気づいて他のことをしてしまうようになった。読んでいる本は放り投げられ、しおりが挟まったまま本棚に戻される。しばらくは気にならないわけではないが、同時に数冊読んでいるラインナップに復帰することが無くなるのである。もう体力が無いのだから、無理ができないし、僕の残りの人生の時間も減ってしまっているのである。消耗する余裕なんて、本当に無くなってしまったのだ。
 ということで途中で放り出す新たな習慣が、どんどんと生活の中を占めるようになった。もうほとんど多くの問題は、中途半端な断続である。終わりを知ることの無い始まりばかりの人生の残り時間、ということになるのだろうか。
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チャンスは自分でつかむものか

2022-11-05 | 境界線

 本場アメリカでジャズを学んでいる若者のドキュメンタリーがあって、その中に才能ある若い日本人もいるわけだが、いわゆる積極性の面で、問題があるということらしかった。お国柄ということもあるし、本場のジャズ文化ということとか、教育の考え方もあるかもしれない。
 楽器にもよるのだろうが、この曲をだれかやれる? と先生が言うと、やはり積極的なものから先に自分がやると言い張る。じゃあやってみて、となって演奏する。じゃあ次は? となるとまた誰かが手をあげて選ばれる。そうしてまた演奏する。手をあげないものはいつまでたっても聴いているだけで、演奏には参加できないということになる。演奏できないものは、先生の目に留まることもできないということになり、本番のプレーヤーに選ばれることも当然なくなってしまう。チャンスは積極性の先にしかないことであり、黙っていてめぐって来る社会ではないのである。
 基本的な視点はそういうことだった。しかしながら学校だから、さまざまな場面でレッスンがあり、演奏する機会や、高度なものを見たり聞いたりする実践の場が豊富にあるようにも感じられた。
 もちろん先生も、積極性のないものにチャンスは訪れないと頻繁に口にしている。向こうの積極性は、ある意味でやる気であるとか前向きであるとか、何か自分で勝ち取るアグレッシブな力のありようのようなものなのかもしれない。
 そうしてある者はそのチャンスを勝ち取るために、我こそ先に人を押しのけて前に出ようとするのである。それがその世界の美徳なのだ。
 これは実際によく分かる話ではある。日本とは違うということのようだが、日本社会であっても、村社会の集団内では、多かれ少なかれそういうことは起こる。積極性が無くても指導者が勝手に持ち上げる場合もありはするが、それが正当なものばかりでもあるまい。実力通り客観的に人選がなされる社会なんてものは、アメリカだろうと日本だろうと、必ずしも実現していないかもしれないではないか。
 しかしながら例えそうであっても、本当に飛びぬけて実力のあるものというのは、やはり突き抜けてしまうものではないか。そんなに差が明確でない競争であれば、それのプラスαが必要だし、はっきり言って運だって味方にしなければならないだろう。そういうもの以上のものがあるのだったら、そもそも積極性だとかいう以前に、ここはお前だろう、という話になるのが当然だろう。
 もっともそんな人間なんて、やっぱりそうそういるものでは無いのかもしれない。しばらくたって結果的に実績が積み上げられ、スゴイ人になるということなのだから、最初からものすごく凄くなくたっていいのである。今が凄くないから、凄く鍛錬を積む素養ができるのかもしれないし、伸びしろだってたくさんあっていいじゃないか。
 まあ、場合によっては恥ずかしがり屋は損かもしれないが、前に出てほんとに失敗するのだって相当つらいですよね。そういう恐怖を打ち破るためには、やっぱり何らかの自信というものは必要なのかもしれないけれど……。
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生きにくさをわかっていない男たち

2022-09-16 | 境界線

 自殺者の男女差の比率は、歴然と差がある。日本はもとより、諸外国でもおおむね二倍以上。三倍以上の差がある国も結構普通である。先進国と言われる国ではその差が縮まりつつあるという話もあるが、景気などの時期などによっても差が変わる傾向にあって、それについて論じられているものもあるが、おおむね男女差がある理由というのは、男としての生きにくさ問題、という大きなくくりがありそうである。
 女性として生きていく上での困難は、実に多くの文献がある。また、そういう視点で物語が始まるという前提は、男女限らず共有できている問題であると思われる。今は時代は違うけれど、「おしん」のような物語は、アジアなどでは共感が深い。女の子が女になって子供を育てて年を取る。その人生そのものが、女として生きる苦難の歴史である。
 それはその通りであろうというのは、文化的に女性として生まれてきた境遇に困難性が潜んでいるからである。それはまた間違いないことであろう。
 また男女にはホルモンの関係もあるのだろうが、平均値として筋肉のつき方などに違いがあり、体力差があるのも間違いが無い。個人的な痛覚にも違いがあり、男性に比べて女性の方が痛みに弱い。同じようなつらい境遇化において、忍耐力の差の前に、そのようなハンディキャップがある。弱いのにさらに強い強度に耐えなければならないのである。
 ところがであるが、僕なんかでいうと、大した痛みでもないものに激しく反応する。本当の痛みなどはどうでもよくて、痛みを受けそうだというつらい境遇になる前から、すでに怖くて痛くなるのである。だから実際にはたいしたことないとはわかっていながら、耐えることが困難である。何のために平均値の強さを持っているのか、無駄なのである。
 つまり、そのような強さがありながら、男性は女性より多くの人たちが自殺をしてしまう事実において、強さを持っているのに弱い人間性になってしまう理由があると仮説を立てることができそうだ。それはやはり男としての生きづらさである。強いはずの男が強い立場でいられるのならばそれに越したことは無いのだが、強さを持っていながら弱い立場に置かれることに、耐性が弱いのではないのか。男に求められるものに対峙してダメージを受けている男が多いのではないか。
 男は基本的には選ばれる性である。自分が選択して何かをしたとしても、つまるところそれは誰かの期待のためかもしれない。そのようにしてそれなりに矩を越えながら生きてきたとしても、最終的に女性に選ばれるのは、自分自身というよりも、自分についている付属性のものの方が大きいかもしれない。もちろんこれを単純化することはできないが、あえて言うと、そういうところに何かつらいものの本質が潜んでる気がするのである。少なくとも僕が、男として生きづらいな、と思うのはそういうところだ。僕は自己中心的な人間であるが、それはまた、僕の防衛本能が選んできた特性ではないのか。やはりそれは、そのままの自分だとつらいものがありそうだから……。
 男としての生き方のつらさは、格好をつけたやくざ映画くらいしか語られていない。もしくは単に失恋したりしたつらさをさして、男でなくともつらいことを単純化して行ったりしているだけでは無かったか。しかしながらやはり弱い男たちは、簡単に心が折れて倒れていくのではないか。立ち直れるものはそれでいい。しかしそのままだったらどうなるのだ。
 最初から強きものを持っているからこそ弱くなった男たちは、そのつらさをもっと語るべきではなかろうか。だからどうなるものではないと諦めることは無い。吐き出してしまえば、それは外に出てしまうことだ。そういうやり方を知っているのは、おそらく女性の方なのではあるまいか。
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引っかかりに苦しむ

2022-09-01 | 境界線

 取引先の営業の方がいるのだが、春に担当が変わって、こちらの事務員が電話をつなぐ時など、何か引っかかるようなことが度々あった。どうした? とか何かあるの? と聞くとイヤイヤをする。何もないは何かあるで、いったい何なんだ? いうと、いえ、たぶんちょっと苦手なだけです、ということなのだった。こういう煮え切らないのは好きではないので、じゃあ好きにしたらいい、という気分になっていた。
 ところがやっぱり僕自身が話をしていても、うまく言えないが妙なペースのある人物であることは分かってきた。要求は当たり前にする感じが伝わるが、その準備において不備があるものは、何か自分の責任のものはさらりと流しているように見える。よく言えば悪気が無いというか、悪く言えば少し鈍感ということか。
 それで新しい話を人を連れて持ってきて説明を受けたが、これがなんというか、ぼくの事業所としては、タイミングが必ずしも良くない。率直にそう申し上げると、いや少しなら持っていることは分かっているし、なんとかなるでしょう、といった感じなのだ。なんで僕が持っているなんてことを知っているのかも疑問だし、冗談にしても、フランクすぎるのではないか。別段立ち行かなくなる話でもないのだからご検討ください、ということになって、しかしちょっと脱力したかな、という感じになってしまった。
 そういうことがあってその後、その上司がやってきて、彼にはいろいろ聞くところがあって、ご迷惑をおかけしてませんか、というではないか。ついこういうことがあったばかりで、困っているというところまではいかないまでも、困惑していると言ってしまったのである。
 それが顛末なのだが、しかしなんとなく嫌な感じが残ってしまい、自己嫌悪ではないが、告げ口をしてしまったような後ろめたさというか、妙な具合なのである。確かに少し頭に来ていたということはあるんだけれど、冷静になってみると、嫌な感じの話の流れがあり、彼もそれを何とかしようと踏み越えてきたようなところがあったのではないか。それ自体が僕の好きな対応ではないというだけのことで、そうするヤツは世の中にごまんといる。ただし多くは付き合わないけれど。
 しかしながらこんなことを考えてしまうこと自体が不健康なのだ。事業が遅れてイライラしているところもあったし、人が足りなくて余裕もない。持ち込まれてくる案件はたまっていくばかりだし、時間をつくって片付けようとしている最中に来客がある。金利は発生し、完成は伸び、正確なめどを立てられる状況にない。締め切りはあり、協会の事業は控えている。依頼先もあるし、事前チェックも必要だ。それにプラスして社会活動が控えているのだ。これで時が早く流れていくわけである。
 こういうのは火種になる場合が無い訳ではないが、基本的には忘れてしまおう。かんがえても仕方が無いのである。いわゆるボールはあちら側にわたっているというか、こちらで動いても動きようがなくなっている。それでどうなるのかというのは、結局ボールが再びこちらに来てからの話になるのだろう。
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重要なものを先に選択なんて面倒だ

2022-08-24 | 境界線

 利根川進は著書「精神と物質」の中で、「アゲハチョウの模様がどうして地域によって異なるのかは面白い疑問かもしれないが、本当に重要な問題かどうかはよく考える必要がある。そのような小さな疑問に対する研究をいちいちしていたのでは、とても時間が足りない。もっと本質に迫る研究をするべきである」と書いたそうだ(著書は持っているが探すのがめんどくさい。今回は孫引きなので)。利根川先生は偉い人だとは思うけれど、ちょっと残念な印象も持つ。もちろん人間の時間は限られており、研究には時間がかかる。本質的で普遍的なことを証明するだけでもずいぶん骨の折れることだろう。だからこそ研究テーマを選ぶというそのものが、非常に大切なのだという本来の意味はよく分かると断ったうえで、やはりちょっと面白くないものも受け取ってしまう。それが事実であるし人生であるし人間の社会であると分かったうえで、そういう研究だけではダメなのではないか、と考えてしまうのである。
 もちろんこれは研究者に向けた言葉である。ひとの役に立つような研究というものは尊いものがあり、そういうものの優先順位を見極めることは、非常に重要という人間の立場がある。また研究費というのも、そういう目的に沿って優劣がなされている現実もあるのだろう。
 また、ダーウィンなどの先人であっても、彼の場合奥さんの側の資産があって、一度も就職することなど無かった。仕事をしなくて済むので、一生を研究に充てることができたともいえる。ダーウィンは特殊だが、しかし多くの科学者には、いわゆるパトロンが居たというのは、当然すぎる話だ。市井の研究者もいないではないが、いわゆる金のかからない研究を地道に自費で行っていたのだろうと思われる。また、生前には見返りなど無かった人も多いことだろう。そういう人の原動力となったのは、おそらく好奇心であって、時間がかかったり難しかったりつらいことなどもあろうけれど、それでも続けられたのは、研究そのものに面白みを感じていたからではないか。そういうものから逃れられない性質の人々だから、その後の発見等につながる功績を残せたはずなのである。
 もちろんそのこと自体を否定しているわけではない話なのだが、要するに無駄のようなものに見えることでも、面白ければ没頭してやればいいのではないか。マッドサイエンス的なものは困るのだが、そういう倫理的なことと関係ないのであれば、面白ければGO!という感じが無いと、研究なんてやってられないのではないか。
 幸いというか、毎年のようにイグノーベル賞の分野では、日本人研究家が選ばれている。外国人にとって理解しがたい分野の研究をしているということもあるんだろうけれど、日本にはそのような許容のある社会性がそもそもあるのかもしれない。それとも単に変人が多いということだろうか。個性なんてものは勝手にあるものである。周りの目なんて気にせずに、みんな頑張っていきましょう。
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