カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

電池が切れる

2008-06-28 | 散歩
 出張に行っていた。ほとんど缶詰なので、ロクに歩けない。こういう日々が続くのはつらい。それでも休憩時間はマメに席を立って外に出たり、参加仲間のお茶など購入をかってでたりなど、涙ぐましい焼け石に水努力などをする。そうやってそれなりに歩数を稼いでいるはずだと思いこんでふと万歩計を確認すると、電池切れを示す点灯表示に変わっていた。朝の100歩程度の歩数のまま止まっているのであった。そうなるとなんだかものすごく損した気分になって頭がくらくらするような絶望感と行き場のない怒りのようなものが込み上げてくる。会場のホテルのフロントにコンビニの場所を尋ねると、隣といえど割と遠いビルの地下だという(ここはリゾートホテルで、町中からかなり離れている)。その通り行ってみると、万歩計の電池は売ってなかった。まったくどういうところだよ。しかし夜になって宿泊のホテルのある駅裏まで移動して、やっと駅中のコンビニに駆け込むことができたのだが、ここにも合う電池がないのだった。2012というのはあるようだが、僕に必要なのは確か2032という奴で、見た目は似ているが、おそらく厚みか何かが違うのだろう。代用できるのかどうかもわからないし、何か他に欠陥的に違うことがあってさらに傷口が広がるのも精神的につらそうなので、なんだか冒険する気持ちになれないのだった。夜の飲み会は待ち合わせの人と合流まで時間があったことや、最初に目当ての店が満席で、結局予約をしたのだが手持無沙汰で別の居酒屋で時間を潰すことになり、結構ぶらぶらしたりして本来ならそれなりに歩数が稼げているのではないかとも思われ、一人でなんとなくブルーな気分が続いたのだった。が、一軒目にひやかしで入った店のタコは旨かったし、目当てだった店もさすがに繁盛しているだけあってテキパキと気持ちのいい動きの店員と、鶏肉が旨かったので機嫌を取り戻した。人数が増えてきてカラオケもなんだから何処かに入ろうということになったが、店なんて知らない。しかしこういうときはまたそのあたりをウロウロすることになってまた万歩計のことを思い出すのだった。結局飲み放題時間いくらというボックス席の店に入り、いまどきウイスキーの水割りを飲まされて、まあいいかとどんどん飲んで行って酔いを深め、さあ解放だと思っていたのにコンビニに行こうと誘われさらにさらに部屋で飲みなおそうとまで言われて付き合って、翌日は本当にひどい状態になって話を聞いているときに吐き気がして中座してトイレに入る有様であった。しかし吐けもせず何故だかトイレもしたくならず、お茶を二本飲んでしのいだ。そのあと話し合いになって僕が取りまとめ発表者になってしまって、なんだか緊張もするし具合も悪いのでいつもよりさらに口調が厳しくなって事務局を糾弾するような発言まで余分にしてしまった。まさか恨まれてはいないだろうけれど、気の小さい僕は自己嫌悪には十分なってしまうのであった。少し仲良くなった地元の人にこちらの鳥は流石に旨いものですねと雑談で話していると複雑な顔をされるのでどうしたのだろうと思っていたら、ものすごいブームになっていて、食品偽装とまでは言えないのかもしれないが、事実上地元にさえ以前の地鶏と言える存在はあり得ないのだと教えてくれた。まあ、それでも旨かったと思った僕はさらに浅はかに思えて自己嫌悪が深まる結果となってしまった。
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悲しい人生を肴に飲む

2008-06-24 | 

 友人ターボ君と久しぶりに飲もうということになった。さてどこで飯を食うかと相談したが、どこでもいいが、貧乏くさいところがいいというので行きつけの焼き鳥にする。失礼な言い方に聞こえるだろうけれど、褒め言葉である。そういえば友人岩ちゃんともこの店で飲んだのだったっけ。結局僕はこの店が好きなのに違いない。
 さて入ったとたん生を二杯注文してカウンター席に並んで座る。座ったとたんにズリ刺しを頼む。ビールが来たら乾杯の前に焼き鳥を適当に、とさらに言う。そして乾杯。一応確認のため、なんか他に食うか聞いてみるが、まあ、それでいいということだ。すぐになんとなく話は進んで、おろし生姜が醤油皿にはいっているのが二つ来たので醤油を注ぎ、割り箸を二本準備するとほどなくズリ刺しがやってくる。ビールは二三口程度は飲んだだろうか。
 ズリ刺しは感動するほど旨いかというと、本当のところ良くわからない。生姜醤油に付けた味を食っているのかもしれない。コリコリした食感が残っていて、この醤油がなければ、生くささのあるだけで、味としては、むしろさっぱりしている物体かもしれない。ツマとして敷いてある玉ねぎと一緒に食ってもいいし、あとで玉ねぎだけを食ってもいい。やはり本体の味よりこの生姜醤油を楽しんでいるのかもしれない。しかし、これがズリ刺しという鮮やかな濃い赤色の内臓だからこそ楽しいのだろうと思う。
 三分の一ほどバクバクつまんでいると、焼き鳥が来る。素早く串のまま塩で味付けている肉の方から食う。砂ずりとかバラなどだ。ビールの間はそういう類の方が旨い。タレのレバーなどは焼酎に移ってから楽しめばいいのだ。
 久しぶりに飲んでいるので昔の話も多くなるが、友人とはいえ知らない人生を歩んできたものだと改めて思う。ターボ君は家庭環境も何となくかわいそうな奴で、そして人生経験もツキがない(奥さんはかわいい人だけど)。頑張って努力を積み重ねて、泥のように働いてきたが、大した成功を収めたというようなことは失礼ながら全然ない。話を詳しく聞いて行くと、人生というものはつくづく不公平なものだということがよく分かる。しかし彼の名誉のために言っておくが、そういう状態にありながら、別にターボ君は不平を愚痴として漏らしているわけではない。そういうものを受け止めながら、客に対して誠実に仕事をしようと思っているだけなのである。大変な上に不条理に待遇は悪いが、目の前の仕事は片づけなければならない。そしてその困難を切り開くだけの腕が自分自身にあることを十分承知しているのである。
 いつの間にか焼酎に変わっている。これはキープがあったようだ。へたくそな文字と変な絵がたくさん落書きされているが、たぶん僕が書いたのであろう。もう少しなんか食おうということで豚足を追加する。豚足は表面がカリカリに焼かれて、すでにポン酢が掛けてある。最初は箸でつまんだりして遊んでいるが、結局は手づかみでわしゃわしゃ分解しながら格闘していくことになる。話を聞きながら返事をするのだが、フガフガというような本体の豚さんのような声になってしまったりする。吸い込みながら声を出してはならないのだろう。
 親戚の話なども聞いていると、それなりに努力してある程度の成功をおさめて今まで来たものの、後で遠い親戚がやってきていろいろと文句を言われ、不当な言い分を逆にグランドマザーが聞いてやったりして、ますます不条理な混迷世界にいざなってくれている。僕は第三者で関係ないが、釈然としないことばかり通っている。もう親の代で始めた仕事は静かに終えるしかないのだろう。表面には出てこない問題もあるのかもしれないが、よくもまあこんなに悲しい境遇が続くものだ。僕はさらに残ったキャベツを箸ではなく焼き鳥の棒に刺して口に運びながら、悲しい人々の人生を噛みしめるのだった。
 ターボ君はもう少し食べるということで、お茶づけを頼んだ。ずるずるかき込みながら悲しい話は止まらない。しかしお茶づけを食いながら話をするのは、なんだか滑稽な感じもあるなと客観的な感想をもった。あまり聞き役の僕がまじめに聞いていると話が止まらずズルズルかきこむ勢いも鈍るかもしれないのでトイレに立ち、立ち際に清算してくれ、と言い残しておいた。出てきたらさりげなく金を払おうと思っていたのは正直なところなのだが、勘定はお茶づけを食い終わったターボ君が既に払っていた。ナイス連携である。オイ幾らだった?と戸外で聞くと、いらん、と言われる。まあ、二次会を僕が持てば、帰りのタクシー代までターボ君が出しても、(彼の)割り勘負けはしないだろう。適当にそう踏んで歩きだした。
 結局二次会(二時だよ、僕は半分寝ていた)は僕が持ち、フィニッシュにラーメンまで食ったがこれもターボ君が持ち、タクシーで帰ったが、お互い千円出し程度になり、まあ、それでも僕の計算通りトータルでは少し負けだったのではないかと思っている。
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どういうわけかを確かめに行く

2008-06-23 | 音楽

 協賛もしているしチケットもあるのでどうしようかとちょっとだけ悩んでいたが、K村君が「どういうわけか涙が出る」といっていたのがなんだか気になっていて、やはり出かけることにした。別に泣きたいわけではないのだけれど、どういうわけか涙が出るということは何であるかは確認しなくてはならないような気がする。
 朝からの雨ほどではないにしろ、霧のような雨が降っていて、傘をささずに歩くと眼鏡に水滴が溜まってくる。眼鏡にはワイパーが無いし、あるとすればタイムラグで時々拭けばいい程度の水滴具合ではあるのだが、やはりそういう具合に視界が曇るのはなんとなく不快なので傘をさして歩いて行った。二十数分程度で会場に辿り着き、まだ開演まで時間があるし、手持ちの本をもってくるのを忘れたので、病院の多い通りをぶらついたりしてウロウロし、そういえば席がないのも困ると思い直して15分前には会場に入った。
 席を探すときに、一人なのでどこでも座れそうなものだったのだが、比較的スペースが空いているほうがいいのかもしれぬと思って適当な広さの空き具合方向へ自然にからだが向かって、席に着いた。座ってすぐに斜め後ろの席の数人の子供がいろいろとうるさいことが気になったが、まわりを見渡しても小さい子供連れの家族が多く、まあ、そういう人たちを対象にした催しかもしれないと諦めることにしたのだが、これはあと後ずっと後悔するような騒がしさだったことは運が悪かった。
パンフレットを見ながら時間をつぶしていると、なるほど少年合唱団なので卒団ということがあるのだということを知った。いつから入団するのかは特に規定はなさそうだが、限られた時間しか、この団員の所属することはできないわけだ。高校三年で今年が最後になるという三人のコメントがあって、昔は団員も多かったこともわかった。全盛期の(このコメントからわかりうる範囲での)80名から、今は30人余りであるようで、それは確かに時代が変わっているのだろう。しかし少なくなって団結も固くなって、楽しんでいる様子も伺い知れた。教えている先生方の体制にも変化があったような感じもあるようで、内部事情として、それなりに苦労しながら活動していることが理解できた。
 さて、開演されたのだが、それまで待たされてごそごそ動いていた後ろの子供たちが、いきなり不満が噴出して騒ぎ出した。はっきり言って歌詞が聞こえないぐらいにうるさい。父親が叱っているが焼け石に水で、知り合いの何とかチャンの顔が見えるとか、何とかチャンがこっちを見た時は隠れなきゃ駄目だとかいうような子供らしい変な遊びをしだして、とにかくうるさい。振り向くと隠れてしまうし、なんとなく諦めるよりないようだった。
 しかし人間というものは精神統一すると勝手に音を選択して聴くものらしく、だんだん歌に引き込まれていくのがわかった。歌っている女の子たち(一人だけ男の子もいるが)はとても利発そうな感じの子供ばかりで、緊張感よりのびのびした雰囲気を醸し出している。ああなるほどなあという空気も読めてきて、泣けるような気分になってきた。これはちょっと堪えるなあと思いだすと、後ろの席の子が激しく前の席(僕の二つばかり横の席)をけったりするので我にかえるのだった。歌っている子も低学年の子がいるようだが、こういう場所で音楽を聴くには、子供はやはり向かないのかもしれないと思った。まあしかし、楽しんでいる子供も多いようだし、この中から自分も歌いたいと思うような子が、また団員になって増えてくれればいいと思うのだった。
 三部構成になっており、結果的に後で考えると、一番最初の頃が、いわゆる一番「どういうわけか涙が出る」時間だったように思えた。最後は現代風(それでも古いものらしいが)のミュージカル風のお話を交えた合唱だった。動き的にはそんなに洗練されているわけではないけれど、それなりに芸達者なところがあったりして、これはこれでよかったとは思った。そして歌を聞いたということではなくて、団員の思い入れが伝わってきて、ついには決壊して泣いてしまったのだった。正直に言うとコメントの言葉自体に感動したのではなく、その泣きながら挨拶する子供の勢いに負けてしまったのだった。
 子供たちの合唱にかける思いには尊いものがあるし、この合唱団のありようも否定しない。このような世界観があるということは、世の中の、ある意味で善意のある形であるとも思う。今だにこの合唱団の存続できるという事実は、この地にまだ良識が残っていることの証でもあるだろう。しかしそれは、目に見えない形で、目に見えない相当な努力があってのことではないかとも感じることだった。
 僕に良識がないわけではないのだが、僕には少し苦手な良識であることもよくわかった。子供の合唱の歌声は心地よかったし、大変に素晴らしい体験をさせてもらったとも思う。どういうわけか涙が出ることも、後ろの席の子供がいなかったらそうなっていたことだろう。
 しかしやはり僕には素直に気恥ずかしいのかもしれない。後ろめたいのかもしれない。このように世界を素直に受け止めることがどうしてもできないのである。子供の中にあるダークサイドも、この世論が信じている世界観と、立場としての子供たちの存在が、このような価値観の中にいることを信じられないのだろうと思う。物事を伝えることが苦手な私たちが、歌という方法をもったのだということを挨拶する少女は語った。そのことに嘘はないということは理解できる。そしてそういう自覚は、彼女たちの大きな力となるだろう。しかし僕は同時に思うのだ。自分の語りえる方法をもつことを望んでいるのは、多くの大人たちの方であろうと。本当に力ある方法をもって、善意の望まれない方向へ歩き出したときに、大人は本当にこの力ある子供たちと向き合うことができるのだろうか。
 会場を後にすると雨はすっかりあがっていて、雲の隙間から強い日差しが顔を出していた。せっかくだから散歩がてらに遠まわりして帰ることにした。それにしても「どんぐりころころ」は変な歌だよなあ、と思う。ドジョウがでてきて遊びましょうと言われたら、それなりに困るよなあ、と思ったら妙に可笑しくなってくるのだった。
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愚作を選択してしまう

2008-06-22 | 映画
 子供がホラー映画を観たいというので、お勧めホラーは何がいいのかネットで検索する。いくつかメモするが、さすがに名作といわれるものはおおかた観ているようでもあった。僕は怖がりなので自分から進んで怖いものを観ようとは思わないが、観ておいたほうがいいと思われるものはそれなりに観ることにはしている。拷問系のものだけは途中で断念するけれど、ホラーから啓蒙させられるものが多いことも確かである。テキサス・チェーンソー・マサカーのような考えさせられる作品だって世の中には存在する。食わず嫌いでは人間は成長しないのである。
 そういうことで、さりげなくお勧めというリストにあった「もう一人いる」という邦画を借りたのだが、まったくの愚作だった。途中で用事が出来て最後まで観なかったのだが、まあ、ぜんぜん惜しくない作品だった。とにかく突っ込みどころ満載で、予算がなくてどうにもならなかったのだな、と出演者が気の毒になるような映画だった。いや、要素的には怖くなってもよさそうなものは当然ながらあるのだが、矛盾が多すぎて付き合いきれないと言うことの方が致命的である。ホラーに合理性は必ずしも必要ではないが、ストーリーにはある程度の合理性がなければならない。そこが破綻しているので、怖いところになる以前に疲れてしまうのである。まあ、才能のない人には道は開けていないということは教訓として得る事はできるのだったが…。
 映画がひどかったので逆恨みするのであるが、このような場合のネット情報というのは、いつもながらに信用は出来ないものだ。じゃあネットなんかで調べるなと言うことなのだが、まことにその通りである。迂闊だったし、僕が馬鹿でした。良い悪いという問題を発信したがる人のいうことは、やはり専門性が必要なのである。ワインにソムリエが必要なように。まあそれでもほとんどの場合ソムリエなんて手が出ないのが現状で、安く上げようとする根性に容赦なくつけ入ってくるのがネット情報ということなのかもしれない。本だってまがい物がほとんどなのだから、ということも言えないこともないが、それでもそれなりに専門性の担保が出来るので、かえって金を払ったほうがリスクが少ないのかもしれない。まあしかし映画という分野はちょっと難しいこともあるのは確かで、自由な立場で信用のおける専門家は実はかなり少ない。なぜならそのような立場で飯を食っていくのが難しいからである。見る人の素養もあるけれど、それなりの数をこなしている人でなければ分からない世界が映画であるのだけれど、やはり好き嫌いもあるわけで、小難しいことを得たいがために映画を観るという人は少数だろう。批評が優れているからといって映画が優れているわけでもない。基本的にはつくっている人たちと観ている人とはぜんぜん立場が違って、いい作品を作る人が製作者にとっていい人なのではない。特にホラー映画はリスクが大きくて、怖いということ(泣けるもそうだが)を売りにして、簡単にヒットを飛ばす可能性があるために、制作費がない状態で製作にGOが出てしまったりするとはよく聞く話だ。怖いなんて観てみなくてはわからんだろうということなのか。それでも本が書けてなければ駄目だろうとは思うが、これを読める人もいないのかもしれない。世の中には愚作の方があふれているわけであるが、いいものなんてやはりそうは生まれないのものらしいので、コツコツ愚作に付き合うよりないのであろう。まあ、うちの子供たちにとってはそれなりに笑いどころもあってよかったのかもしれないが、家族としての娯楽では、むなしいものが残ったのであった。
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給食説明会

2008-06-21 | 雑記
 給食の説明会に出席する。校区だけのもので参加者が少ない。開会時刻になっても、主催者(説明側)の人数(5人)を超えない。時間を守って走ってきたのに余分な努力だった。
 説明の趣旨は調理の外部委託で、その説明で繰り返し述べられるのは、今までとなんら変わらないということ。「業者に委託することで不安が多いだろうと思われますが、しっかり管理することに変わりなく心配には及びません」ということである。民間の方が信頼できると思っている人の方が多いのではないかと思うのだが、今までの方が信頼が厚かったのだろうか。いや、僕の認識不足なのだろう。こちらとしても別段何にも述べたいことなんかないのだが、しつこく何か質問はないかと問われるので、今までと何も変わらないのなら何故委託するのか、と聞いてみた。困った顔をするので、つまり今まででは不都合な立ち行かない理由があるのだろう(本当は分かっているけど)と問い直すと、財政上のことだとやっと発言した。それから調理員の配置換えのことなどの説明があった。しかし慣れた人は残すということも言っていた。いちいち引っかかるのは申し訳ないが、パートなどの人を再雇用する場合があることを言っているのだろう。だいたい予算のことなど一切説明がないし、今まで何人で調理にかかわっていたのかということや、今後その配置がどうなるのか(7人から5人になるのではないか、とは言っていたが。というか、これはお隣の校長先生の雑談で知った。基準が5人ですとしか説明しないのだった)とか、肝心のことは資料にないのだった。これって根本的な説明の材料になってないのではないか。食材費の事も出ていたので、給食費の問題についても質問したが、単体の学校で取り組んでくれとのことだった。ちゃんと出来ている(集金が)学校は出来ているという判断らしい。しかし、方向性としては市の教育委員会が指針を出すべきだろうし、未納問題を根本的に考えると、個人の給食をとるかとらないかの選択性にならざるを得ないのではないかと言ったのだが、返事はなかった。まあ、仕方ないとは思うけれど、払わない人が一番悪いとも思っているけれど、責任の所在がないところに、何を言ってもどうにもならないということなのかもしれない。給食の問題には責任を持ちますと発言していたくせに、これは別問題なのだろう。
 まあ、不毛な世界であることは間違いがなくて、僕の関係する時間では何も変わらない。雨で日中はろくに歩けなかったので、とぼとぼと傘を差して歩いて帰ったことだけが個人的な収穫だったと思った。
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交通安全義務違反

2008-06-20 | 雑記

 毎年義務として受けさせられる拷問である講習会へ参加する。朝から職場に顔を出しはするが、皆が忙しく立ち回っているのを後にして、こんなくだらない時間をつぶさなくてはならないのが大変に申し訳ない。警察官僚の天下り先に協力して、これだけ多くの企業が無駄な犠牲を払っていることは救い難い愚行であると思う。
 さてそうではあるが義務である。諦めて拷問に耐えることにする。
 交通マナーの話になって、お互いの譲り合いの心ということについても言及があった。これだけ車が増えている現状において、ちょっとした譲り合いでかなりの渋滞が緩和でき、また事故も減らせるということである。そのことは全く同意するものである。僕だってそういう社会を夢見ている一人ではある。
 映像を見せられて、マナーの悪い行いをしている車が写し出されていた。無謀な駐車をしている人や、割り込んだり暴走したりしている。確かにひどいものだ。それにしても車が多すぎるのである。みんなのいらつきのようなものが、映像を通して伝わってくる。しかしさらに気になったのは、そういう無謀な運転の車のナンバーなり運転者にモザイクがかかるのである。別に懲罰のために晒せということを言いたいのではないが、そういうことに中途半端に気遣う必要があるのか、という疑問が残った。非難しながら事なかれ主義だから、現状を打開できないのではないか。
ちょっと前だが、サラリーマン風の通行人が花壇の花を傘で振り払いながら歩く映像が公開されたことがあった。許せない愚行であるということなのだろう。賛否があるが、あの犯人はどうなったのだろう。あれは公開できてこれが公開できないのは、なんだか不公平ではないか。実質的な迷惑を被った人の数だって、駐車違反の方が重いのではないか、などと思った。
 脱線ついでだが公開といえば、山梨のストーカー判事はどうなっただろう。あのニュースがとんでもないという事件として報道された時に、何か裁判制度そのものに対する批判のような論調の見え隠れするものを感じた。しかし、そのためにこの判事がやり玉に挙がったのだとしたら、実は作為的な陰謀行為なのではないか。だいたい月に十数回(数十回ではない。実際は17回だという)のメールを送ったストーカー行為がそんなに大変なことだったのか。いや数ではなくストーカー行為はいけないとは理解する(一回でも嫌なものは嫌である)が、妻子ある判事がこの行為で破滅するほどの事件だったのだろうか。これより格段にすごいことをやっている人たちは名前が伏せられ、おそらくこれからも犯罪を重ねて生きていくだろう人もいるようなのに、どうしてこの判事はこれだけ強力に社会から抹殺されなくてはならなかったのだろうか。ストーカーよりひどいいじめではないか。
 世の中に不公平があるのは認める。しかしこれだけ差別的に悪さの程度の差が出てくる世の中は、格差社会より問題なのではないだろうか。

 さて、そのような交通マナーを守って、さらに親切に右折車などに譲ってやっても、ちっとも感謝の態度を取らず、かえって大変に腹立たしいことがあるという話も出てきた。そういう人が多すぎるとご立腹なのだろう。まあそうかもしれない。自慢ではないが僕もときどき道を譲らないではない。道を譲っても平然としている人も確かに見かける。以前はそれなりに腹の立つこともあったなあと思う。しかし、比較的に僕はこのお礼行為がないことにはそんなに腹が立たないようだ。お礼をされることには悪い気がしないこともそうだが、そんなに重要なことでもない。道を譲るとハザードでチカチカされるが、まあ、僕だってそれぐらいはするが、別にされなくても平気だ。安全に運転してくれればいいし、ひょっとして年配の人で、こういう習慣が身についていないのかもしれないとも思う。緊張してそれどころじゃなかった人もいるかもしれない。僕は基本的に相手にお礼の期待をして好意を行うことはない。そんなことで腹を立てるような人は、最初から善意なんてものをもたなくてもいいのではないかとさえ思う。無条件の善意は、善人へも悪人へも及ぶことがあるということを知るべしである。結局そういうことで腹の立つ人は、自分自身も自己中心的なのだと思ったりした。
 しかし、車の運転では、どうしてこうも相手の行動にすぐに腹が立つ人が多いのだろうか。品のいいご婦人でも、時々車の中で暴言を吐く人がいたりする。その落差に却ってこちらが驚いてしまう。まあ、乱暴な運転をして、よくもまあ事故を起こさないものだと不思議に思うことはあるにせよ、そういう人は、多かれ少なかれ破滅の道を進んでいるに違いない。僕は却ってそういう人が哀れであるし、その被害にあっていくことになる人たちが哀れである。車という凶器を扱っている、または扱わざるを得ない生活をしている以上、精神衛生が何より大切だと思う。また、そういうことを講師として説いている立場の人たちが、世間を嘆いてばかりでどうするのだと思う。運転で怒っている人は、既に交通安全義務違反なのではないだろうか。
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シドニー!/村上春樹著(文春文庫)

2008-06-18 | 読書

 そういえば今年はオリンピックイヤーだったんだな、とわざとらしく思い出したりしている。子供のころはそれなりにオリンピックも楽しめたわけだが、だんだん年をとるとこういう祭典もどうでもよくなっていく。競技を見るとそれなりに引き込まれるものはあるにせよ、その前段階から観るのがめんどくさい。テレビなどでしつこくメダリストのインタビューだか背景だかを追っかけるのを観るのがつらい。選手がパンダに見えて哀れである。以前にはあこがれもあったのだろうが、今となっては無能でしあわせだなあとは思うけれど…。
 僕にも愛国心のようなものは当然あって、日本の選手に頑張ってほしいという思いはそれなりにある。しかし客観的に人間の身体能力を考えると、日本人が広い世界の他の人々以上の力を出せるということの方が異常のような気がしないではない。よく根性とかいうようなことをしきりにいう人もあるが、もちろんそういう側面はあるにせよ、日本人が頑張りすぎてもどうにもならない壁があるのは認めてもいいのではないか。だからといって劣っていると卑下し過ぎる必要もないのだが、そんなものなんだと理解した上で頑張ってほしいものである。それで強くなれるわけではないだろうが、精神衛生上は気楽でいいんじゃなかろうか。
 シドニーオリンピックの体験記なのだが、村上春樹的なフィルターで観るシドニーは、おそらく多くの人の持っているであろうオリンピック観からくる期待を見事に裏切っているのではないかとも思う。僕としてはそれでちっとも構わないのだが、そういう先入観のある人は、あるいは期待外れになるよ、という警告はしておいたほうがいいだろう。しかしそれでも別の意味で面白いから、エッセイ好きは素直に読んでもいいだろう。のらりくらりとした味わいと、流石に長編小説を読んでいるような構成もあって、なかなか読後感は面白いことになっている。なんだかんだいってこの人はやはり憎らしいうまさがあるもんである。
 特にオリンピックに対する主張が強いわけではないが、なるほどと納得できる提案もあった。その一つはオリンピックはギリシャで固定してやるべきだというもの。甲子園だって毎年同じところでやっているし、かまわないんじゃないかということだろう。オリンピック委員会とかいうんだっけ、サマランチ(今は違うらしいが)とか何とかいうような欲深いおっさんたちの集団の、変な利権騒動があるのは多く知られていることだろう。何の普及のためか知らないが、今のオリンピックは根底が腐りきっているように思える。商業主義が悪いと批判しているわけではない。むしろ閉鎖的な利権主義が悪いと思う。なんとなくスポーツだからいいことだと目くらましを受けているようで、その内情はジャブジャブの利権獲得の温床にすぎないのではないか。観るほうもやる方もこんな環境で競うしかないのは不幸なことのように思える。そういう打開策は、あんがいこの発祥の地で固定して開催することで、ほんの少しは解消されるのではないか。それにスジも通っているしね。
 もう一つの提案は、すでにプロスポーツとなっている競技は外したほうがいいのではないかというもの。これは僕もずっと以前から感じていたことだ。もちろん野球やサッカーが入っていることで、オリンピックが大いに盛り上がるということは理解できるけれど、何歳以下だとか、プロが何人だとか、いろいろと変な規定が多すぎて、なんだか本当は公正さを欠いているように思えてならない。どう考えてもプロとアマチュアはレベルが違うわけだし、今や何がその境界かはあいまいになっている現状はあるにせよ、同じ土俵とは言えない現実の中で競技を行ってどこの国が一番だとかいうことは、ほとんど実質上意味をなさなくなってしまっているのではないか。特にチームプレーでナショナルチームを構成するスポーツにおいて、プロ選手の多い競技(あるいはプロの多い国と少ない国の混在している状況の競技)はオリンピックの種目にふさわしくない。
 今年の北京がどのような状況になるのかはよく知らないが、村上春樹がまた観戦することはないだろう。そのことはもちろん本書にも書かれていることだが、何にも北京には影響はしないし、それはそれでいいのであろう。しかしまた少し残念にも思っている僕がいるだけのことなのかもしれない。このような日誌というか観戦記がもう生まれないのかというのが残念なのである。せめてブログか何かでも書いてくれるといいんだけれど、村上春樹はそういうタイプの性格ではないらしい。読者としては彼の性格までは変えることはできないわけだが、このように味わいのある体験記を書ける人間を動かす動機というものが生まれてくれることを祈るのみである。
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眠れぬ夜のために

2008-06-17 | 映画

 他人の勧めるものを素直に受けることはあんがい抵抗があるのだけれど、気にならないわけではない。自分の欲望とは他人の欲望であるらしいから、それはそれで仕方がない。他人の趣味なんだから自分と合うとは必ずしも限らないとはいえ、知った人間が褒めているのであれば、観てみたくなるのは人情だろう。失望するのは僕の勝手なので、誘発されたからといって相手に責任を追及できないだけのことだ。しかし中には「絶対面白いから」などという人があるが、そのように他人の時間を割いてまで勧めたのだということであれば、少なからぬ責任があるのではないかとも思われる。保証できずに勧める行為は、軽い詐欺かもしれない。しかし僕もこのような場でお勧めすることはあるので、詐欺にしないということにしないと困ることになるので、詐欺とは言わないことにしよう。それにそのようなものを詐欺とするには、嘘をついたことによる何らかの利益がなければならないようにも思えるし、むしろ勧めたにもかかわらず面白くないといわれることの方が精神的な衝撃も大きいことを考えると、かえってお気の毒なことなのかもしれない。僕の趣味とは合わないというのは、ある意味で救われることもあるかもしれないので、仕方がないし諦めてください。

 そういうわけで「ガキ帝国/井筒和幸監督」を観たのだが、誰が勧めたのかは特に名を秘すことにする。何故ならかなり退屈したから。いや、それなりに感じ入るところはあるのだが、いかんせんその後に「パッチギ」を撮っているので採点が辛くなるのだ。もちろん原型としてこれがあるから「パッチギ」があるということはよくわかるので、そういう意味で見落としている人は観ておく必要は(ファンなら)あるのかもしれないけれど、なんだか喧嘩ばっかりしてうるさいし(まあ、今流行りのゴクセンその他ほどではないにしろ)結局価値観を共有できるところがまるでない。

 僕はスコセッシ監督のファンなので、あきらめるより仕方がないのだが、「グリーフィングス/マーティン・スコセッシ監督」にも酷い目にあった。なんとなくセンス的に面白くなりそうな予感がするのだが、長々と付き合わされた上にフラれてしまったような感じかもしれない。まあ、観たことがあるよ、という自慢にしかならない。しかし自慢してもなんだかむなしい。

 これは名作として必ず観なければならないといわれていたもので、ずいぶん前から観ようとは思っていて実行に移せなかったのが「地獄に落ちた勇者ども/ルキノ・ビスコンティ監督」であった。本来聞いてもわからないことだから日本人の僕には全く関係のないことなのかもしれないが、完全主義者といわれるビスコンティなのに、ナチスの物語だというのに、英語であったのでまず駄目だった。裸がよく出てくるが、これも気持ちが悪かった。こんなふうに誘惑されてもちっとも食指が動かない。毎日毎日途中で寝てしまうので、毎日毎日同じような場面を何度も観てしまった。そんなことだから頭によく入らないのかもしれないと思い、改めて睡眠をたっぷりとって酒を控えめにして見直したが、やはり時間の無駄だった。まあ、名作とはそんなものかもしれないという教訓を得たということになろう。

 別段この映画は今まででいうとそんなに酷くはないが、まあ、非凡であるが凡作でもあるというのが「非情の罠/スタンリー・キューブリック監督」だった。短い話だから仕方がないのだろうが、掘り下げるところが十分でなかったのだろう。ボクサーのくせにやたらに弱いし、かなり間抜けな感じもする。それなりの試合を戦ってきた男にはどうしても思えないのだが、しかし格闘シーンは緊迫感があってさすがキューブリックだという非凡さはあるのだった。助けに来た男を守ろうと嘘をつく女というのが、また最後の伏線にもなっていて、よく考えると流石なのだが、やはり全体的にはどこか間抜けな感じもする。間違えて殺されてしまったマネージャーがかわいそうだったなあ、とも思ったのだった。

 何でこんなに長い必要があったのか結局よくわからないけれど名作と名高い「輝ける青春/マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督」もやはり観なくてはならなかった。確かに名作といわれる理由は理解できたが、これは映画でやらなくてもいいのだろうな、というのが結論だった。続きもののテレビドラマとしてやるべきだし、もちろんそのためにつくられるはずだったものだったそうなのに、無理に映画化したのだから長くなったのは仕方がないとはいえ、観るほうは大変なのだった。しかし僕も何度も寝てしまって結局ひと月ばかりDVDを借り続けてしまったので、この映画を観賞するにはまっとうな見方だったのかもしれない。途中途中は、やはり感心するエピソードも多くて、それなりに満足感は得られたわけだが、登場人物に共感をもつことはなかった。それはつまるところ僕は日本人で、彼らはイタリア人だということなのかもしれない。僕はあんなに大げさに物事をとらえないし、ゼスチャーが大きくなったりしない。結局あのような行動ができる国民性の人たちが繰り広げる人生というものがあるのだろう。勉強にはなったがとにかく疲れてしまった。

 しかしながらこのような映画を勧めるような人たちというのは、結局感受性に問題のある場合もあるのじゃないかとは正直に思うのだが、そうであるからこそ面白き人々いうことも言えるわけで、迷惑ながらいとおしい人々といわなくてはならない。いちいち面白くないということを確認するためであったとしても、勧められると騙されて観てやろうということに今後もなるのだろう。人生の時間は有限だから浪費には違いないが、こういうものまで効率化するほど価値ある人生とも思えない。無駄を楽しむ精神性を大切に生きていくことにしよう。
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本当に切るカードがないのか

2008-06-16 | 時事
 今やすっかり日曜ごとに見るようになってしまった「たかじん委員会」だが、今回は流石に重たかった。北朝鮮の拉致問題はいったいどうしたらいいのだ。横田さんご夫妻のこと(それ以外の人もいるのだろうが)を思うと、涙が止まらなくて頭が痛くなった。
 北朝鮮から拉致被害者を返してもらうにはどうしたらいいのかというのは、大変に難しいことのように思える。しかし、一部の人たちは事実として帰ってきたわけで、本当に全く不可能なのではないとは言えると思う。一時帰国であったものを当然のように完全帰国させたというのは大きな一歩であったし、被害者の立場を思うと当然のことだったと思うにしろ、一部を返した所為で、北朝鮮は自分の理屈が全く通用しないことを思い知り(当たり前なのに逆恨みまでしてしまって)残りの人たちはますます窮地に陥ってしまったという経緯はあるように思えるのは気がかりではある。そうではあるのだけれど、日本との国交がない中、経済制裁のジャブは少しは効いていると考えるべきなのではないか。それでも中国経由で物品の貿易は事実上行われており、もう少し踏み込んだ対応をすべきだという意見があるのも確かだ。しかし、日本の国の意思として、ダメなものは駄目なんだということを表示し続け、その上で根気強く交渉するより道がないのであるから、この態度を堅持し続けることは現時点で間違いとは言えないだろう。
 日本から莫大な資金が流れてあの国を支えていたことは確からしいことで、できることなら日本の朝鮮総連の資産の凍結などの積極的な処置を進めることも、当然視野に入れるべきではないか。僕自身も詳しくない上にこんなことを言うのは行き過ぎかもしれないが、世論的な日本人の多くは、日本の中に複雑に入り組んでしまっている北朝鮮という問題について、あまりに無知すぎることも問題を難しくしている最大の要因なのではないか。北朝鮮の個人が責任を負うべきことではないにしろ、Jリーガーにだって北朝鮮人がいるように、日本の社会には当然のように北朝鮮人が存在している。存在するだけでなく、北との関係を持ちながら、日本でしっかり根を張って暮らしてさえいる。そのこと自体は、確かに表面的に悪いことではないし非難すべきことではないにしろ、また、北朝鮮と関係のない人もおそらくいることも事実であるのだから行き過ぎた差別問題になるという危険はあるにせよ、しかし、この社会的な埋没しているタブーについても、真剣に向き合う必要があるはずである。そうしてそういう関係のあるところから、しらみつぶしに根気よくつぶしていくことが、結局は北朝鮮を追い込む道につながっていくものと思われる。国がどこまでこのことを把握しているのかは一部の研究者しか知らないことなのかもしれないし、また工作として明らかにしにくいものがあるのかもしれないのだが、やはり日本という民主国家にあって明らかにできないものが、ひょっとしてサボタージュされて隠蔽されているとしたら、これは逆に日本の国家犯罪とも言えるのではないか。実際のところそういう側面も見え隠れしているようなことも言われており、日本が本当に本気になれない背景が、そこにあるといわれても仕方がないのではあるまいか。叩けば埃が出るということを恐れず、本気であるということが少しでも北朝鮮に伝わるならば、いくらヤクザ国家であるとはいえ、いや、ヤクザであるからこそ日本の国に姿勢が向くことになることは間違いがない。
 核問題を含め、米国頼みにして日本にはカードがないなどというのは、ますます日本を情けない姿に見せているにすぎない。本当には何を考えているのかわからない国には違いないが、日本が勝手に揺さぶりをかけられて北朝鮮に少しでも好都合になることがあるのであれば、それは結局は相手の思うつぼであるのである。北朝鮮に都合の悪いことを徹底的に洗い出して揺さぶりをかけることが、新たな外交カードになることは間違いがないのである。
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本当は暴落予想したいところだが

2008-06-15 | 時事
 僕は経済問題の専門家でもないし超能力者でもないから未来予測は出来ないのだけれど、これからも石油価格がどんどん上がって行くという気がどうしてもしない。もちろん僕の中のあまのじゃくな気質がそう思わせるところがあるのかもしれない危険はあるにせよ、今の石油価格が上がっているのは、石油の枯渇のせいではないことは確かそうに思えるからだ。石油というものは、まだ増産しようと思えば出来るものであるということはみんな知っていることなのではないか。中国などの国の石油需要が増えているのだと言うことは嘘ではないとは思うが、そのために米国や日本に分配される石油が減っているという報道はない。たぶんそういう事実は少ないからではないか。ではどうして石油の値段が上がるのだというお叱りを受けるのかもしれないが、それはこれからも石油が上がると信じている人が多いせいだから上がっているのだとしかいえない。値段を決めるのはそういう気分だからである。でもニューヨークの先物取引の値段が上っているじゃないかという人もあるだろうけれど、先物は天気予報のようなものだから、実際にそうなるということを物語っていることではない。現在の価格とまったく関係がないとまではいえないまでも、実際に天気予報が天気を決めないように、先物予測が価格決定をすることはない。しかし現実に高い石油を買わされているじゃないかと言う人ももちろんいるだろうけれど、高くなったから買わないと言う人がどれだけいるのだろうか。ということは、今はまだ限界にある高値ではなくて、実際に高くてまいっちゃうよという気分はあるにせよ、まだまだ石油と言うかガソリンは、安い水準であるということなのではないか。まあ、そうであるならまだまだ石油は上がっていくに違いはないが、限界であると言う主張がぼちぼち出てきていることも確かだ。しかし本当に限界なのであれば、原料の高騰に伴って他の製品の価格が上がるのは必然的なことになるはずである。だから小麦粉の高騰に反応して、お菓子などはちゃんと値上がりした。しかし石油製品においては、なかなかそうはなっていない。それだけ競争が厳しいのだと言うが、それは嘘ではないにしろ、限界といいながら持ちこたえられるのは、まだ持ちこたえられるほど今まで利益を出していたところが多かったということなのかもしれない。いや、ところによっては大変だと言うことは理解は出来るが、そういう構造的なところはやはり価格として反映されてくることの方が自然である。
 僕らも生活上高くてとても手が出せないとか、節約して出来るだけ使わないということになって、石油の需要がどんどん減っていくと、当然価格は下がることになると思われる。売れなくなると価格は下がるのである。産油国がなかなか需要にあわせて増産に踏み切らないのは、もちろん今の利益でホクホクしていることもあるけれど、増産の動きが暴落への動きへシフトする引き金になるのが怖いからと言うのがホンネだろう。出来るだけ緩やかに石油価格が落ちるように(出来れば維持できるに越したことはない)願っているに違いない。実際に石油が枯渇していない以上、いつまでも高いままで推移することの方が難しいことなのである。
 これからも石油はどんどん上がるぞ、と脅威に震える人が多い間は、石油の値段はなかなか落ちないだろう。もう少し平然と構えてバブルじゃないかと正直な事を言い出す人が出てくると、石油の値段も落ち着くところに落ち着くのであろうと思う。まあ、ほとんどの人はそういうことを知っているので、じっと我慢しているのかもしれないというのが真相なのだろう。
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富士は日本一の山

2008-06-14 | 雑記

 千葉に出張していた。
それなりに収穫もあって、まずまずといったところ。懐かしい顔と懐かしい話なども聞けた。僕もすっかり古株になってしまった。実はそれでも年齢が一番若かったりするのだけれど、多くの先輩たちはそろそろ定年とかいう話も聞かれてさびしい限りである。少し若手の人と子供の話などもするのだが、就職だとか結婚の話題に移りつつある。なんというか、優秀なお子さんが多いらしくて、いわゆる一流大学一流企業の人ばかりなのにも驚いた。九州から北海道まで様々なところから集まっているのだけれど、ほとんどのお子さんは東京に住んでいる(僕以外)。帰りの電車では、これから子供のところに寄ってから帰るという人たちばかりだった。確か話し合いの中でも、地方の時代がどうだとかいうような展開も一部あったようだけれど、これはぜんぜん違う現実なんじゃないかと思ったりした。
 飛行機の時間まで少し間があったので、何故だか上野に寄った。相変わらずなんとなく胡散臭いアメ横をひやかしてみると、やはりなんとなくいろんなものが安い感じだ。僕はほとんど買い物ということをしないので実のとことよくわからないのだけれど、まぐろのざっくり切り身がどの店でも(魚屋)1000円というのが安そうに見えた。しかし男性のだみ声売り子が多いのも何故だろうとも思った。毎日呼び込みをしていると、ああいう声になっていくのだろうか。
 やはりよくわからないのだけれど、靴やらゴルフクラブの店がやたらに多いような気がした。そしてたぶん安いのであろう。客はどうも日本人らしくない人の方が多いようで、ポクポクというような発音の多いタイ人が特に目についた。カレーが390円だったり、小さい回転寿司の店も多かった。食いものまで安いようだ。少なくとも田舎より安い。
 遅めの昼食を食うことになってラーメン屋に入ると、てきぱきと仕事を仕切っているバイト長(勝手に、そんな感じがしたから)は中国人で、洗い物がインド人、水やおしぼりを出しているのが、年配のリストラ日本人というような感じだった。リストラ日本人は仕事に慣れていないらしく、何度も中国人バイト長にいろんな指示を受けてまごついていた。これからも仕事を続けていくことができるだろうか。
 博物館にでも行こうかと思っていたはずだったが、美術館でパリ展を見た。エッフェル塔が立派だったのがよくわかった。そして昔はパリはすごかったんだと思った。今もすごいのかもしれないけれど、そこのところはよくわからない。人々はパリに集まり、文明の発展を実感しながら青春を謳歌していたようだ。そして芸術なのだが、特に絵画という世界は、時代の先端性というものに案外敏感だという感じもして意外だった。絵というものを一種の普遍性だと僕が勘違いしていたのかもしれない。もちろん普遍的に美しいというものもあるだろうけれど、やはり当時の人が、新しいとか面白いということを意識していることは間違いなさそうだ。たぶん今もそうなのだろう。漫画チックな風刺画などもあって、これは進んでいるということではないにしろ、センス的に日本の漫画は、かなり違ったもののようにも思った。つまりこれらの過去の影響から、ほとんど自由に脱皮しているのではないか。時代というのは積み重ねられていくものであろうけれども、これはまた別世界の出来事であったというような印象も受けた。これからもパリが憧れの場所であり続けるということが、今後もあるのかどうかは知らない。まあ、それは東京であっても同じことではあるのだけれど。
 大して歩いて回ったわけではないが、それなりにくたびれた。帰りの飛行機の中では、ぐったりシートに体をうずめていたのだが、窓から見事な富士山の頭を眺めることができて、さすがだなあと思った。雲を従えて突き出た頂上が、雪を放射線状に残していた。息をのむような偉大さと美しさだ。やはりあがめられる存在というのは必然があるのだと思う。僕はちっぽけな人間だけれど、富士山を眺められてしあわせだと思った。
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良いサービスを味わう

2008-06-11 | 

 客を叱る人気の店というようなものをもてはやすというのが以前にあった。それは寿司屋だったりラーメン屋だったりして、頑固店主が手塩にかけた料理をありがたく頂くという構図だったようである。好きでそうやって食う分には何も問題ないし、それでもやっぱり実力的に旨い店なのだということなら、それなりに偉いのかもしれない。客だからといって、一方的に偉い立場でのけぞっているような人間もいるわけだし、自分で好きに店を出している立場ということも考えると、そういう態度であっても客がつくという店をやっていけることは、しあわせなことなのかもしれない。客だっておっかなびっくりしながら、そういう体験自体を楽しんだり話のネタにしたりすることもあるのだろう。ちょっと構図的に面白くない点はあるにせよ、僕は行かないだろうが、そういう店があることはあってもかまわないとは思う。
 店のおやじなり店員の態度で憮然とすることは少なくない。いわゆるチェーン店のバイト店員の態度に立腹するという話はよく聞くものである。そういう店は安く料理を提供しているのだからという理由も一応考えないわけではないけれど、行きがかり上仕方なく入ったところでそのような体験をしてしまうと、ものすごく気に障るものらしい。二度と行かない、という気分になるくせに、その系列でないにせよ、似たような店に行かなくてはならない懐ぐあいもあるので、同じような体験は積み重ねられることになる。まあ、そういう店だし、混んでるし、ということで、あきらめざるを得ない事情もあるのだろう。それでも少しばかりそういう店の肩をもつと、安い労働力で利潤を上げなければならない立場だと、もうどうにもならないし、できれば立場代わってよ、という気分もあるのではないか。統括している本店なり背広組の経営者の存在が恨めしいに違いない。コンビニなりファーストフード店なり、そういう労働条件での店長という存在は、本当に苛酷な状況にあるらしくて、まったくお気の毒だと思うのであるが、だからといって客に不快な思いをさせていいというわけではないので、やはり、こういう店がはやらなくなるということ(客が選択しない)でしか、本当に改善にはつながらないことだろう。しかし過酷な労働の上、店まで潰れてしまうのでは浮かばれないので、行きたい人はやはり通っていただければと思う。僕はできるだけ遠慮しますが…。
 実をいうと、僕はそんなに店員の態度とか店のかまえというものは気にならない方なのだが、店の悪口を言いながら飯を食うという状況は嫌いである。店も悪いが時々相方の中にこの愚痴がひどいのがいると、大変に興ざめして、とても飯を食うような精神状態を保てない。よくもまあこれだけ非難する言葉を並べながら食えるものだと思うほど愚痴を並べたてて、僕に同意を求められても困るというのが正直なところで、この店に二度と来たくないというよりは、この人と二度と食事にはいくまいということが、僕の心に固く誓われることになっている。まあ、多少は難点もあるにせよ、一度入った店には諦めて黙って食うのが潔いという精神があるのかもわからない。
 もちろんそのような考えがあるから、味が良ければそれなりにかまわないというような気分があったことは確かである。ぐだぐだ言わずに食う態度の方が人間的に大切なのではないかと思っていたのかもしれない。
 今年の春に家族で旅行して、古くはなっているがそれなりに立派なホテルというか旅館で食事をした。風呂にも入ってゆっくりして、さあ部屋で食事だという段になって、約束の時間になっても仲居さんが準備にやってこない。少し待ったがやはりこれは忘れているようだということでフロントに電話した。ほどなくあわてた様子で仲居さんがやってきて、ドタバタと食膳の準備が始まった。別に僕らは遅れたことは何も非難していないし、そんな気分でもなかったのだが、こちらの方から「忙しそうですね」と声をかけても、一言も謝るそぶりを見せない。これは流石に不快になっていくのがわかった。料理の方はそれなりに豪華で、味も悪くはなかったのだけれど、いや、その味さえなんとなく楽しく味わえないのであった。せっかくの家族旅行だからと、みなそういう気持ちを押し殺して、淡々と食事を済ませたという感じだった。
 後で考えると、特別な機会での特別な期待というものは当然あったかもしれないが、やはりサービスも味のうちなのだと思い知ることになった。食事をとるということは、食べる前からの体調はもちろんのこと、店が作り出すサービスによっても、大きく左右されることは間違いがない。いや、もしかすると味より大切かもしれない。外国に行くと大したサービスでなくともサービス料やチップなどをとらて辟易させられるものだけれど、そういう味そのものであるという考え方をするのであれば、サービスに対価を払うというのは当然のことなのかもしれない。うまいものさえ食わせてくれれば問題ないと思いながら、やはり店に対しては相応のサービスを期待するのは、味わうという行為にサービスが一体となって絡んでいるせいなのだと言えるだろう。考えてみるとファーストフードであってもジャンクフードであっても味自体は相応に旨いものだけれど、やはりまずいという理由で敬遠してしまうのは、サービス態度が味を落としているせいなのかもしれない。またたぶん行くことはないかもしれない三ツ星レストランなどで唸るような味のものを食わせるとしても、やはりサービス態度が気に食わなければ、その料理を台無しにしかねないということにもなろう。ということは、やはりサービスは料理の味そのものなのである。
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正直者が損をする世界

2008-06-10 | 時事

 スピード社の水着を着ると速くなる理由が、体を過度に締め付けることによる水の抵抗を減らすことに成功したというような解説が多い。NASAの技術協力があるなどの報道もある。装着するのに非常に時間がかかるとも言われている。体型を変えるほどの締め付け効果が、タイムを縮める要因であるということなのか。
 しかし、いろいろ解説を見てみると、はたしてそれだけではないということも見えてくる。日本の水着メーカーであっても、過度の締め付けや抵抗を減らす密着度の研究が遅れているというわけではないらしい。では本当は何が一番違うのかということなのだが、素材ではないかというのである。
 スピード社の水着は姿勢保持のためにポリウレタン・パネルを使用しているという。日本の水着メーカーがこの素材を敬遠していたのは、浮力の問題であるようだ。水着に浮力があるということになると国際水連の規則に抵触する。現在は問題なしということになっているが、一部では限りなく疑わしいという調査もあるようだ。
 この問題は、日本のメーカーが開発したということになれば規則に抵触し、英国社製であれば問題にならないということにすぎないということなのかもしれない。今までの多くの事例がそうだったように…。
 北京オリンピックが間近になり、このままスピード社の水着使用による争いが繰り広げられそうだが、この大会の記録が今後どのような扱いになるのかということも、注目しておいたほうがいいのかもしれない。
 しかし、以前も書いたが、オリンピックはまだまだ正式な世界のスポーツの祭典だと思わない方がいいとも思う。本来は西洋人のためのスポーツの祭典なのだと思う。もちろんそういう地図は徐々に塗り替えられることになっていくと思うけれど、もう少し時間が必要だろう。
 陸上競技が先に変化したように、黒人選手と他の人種の選手とは明らかに身体能力的な力の差がある。水泳の世界では、まだまだ未開であるから、堂々と西洋人優先の政策がとられているにすぎないのであろう。そこにまだ、日本人が付け入る隙があるということである。しかし、早晩この世界にも黒人選手の台頭する時代が来るだろう。水着問題が何だったのか、というようなことになるかもしれない。しかし、人種による人間の能力差ということを、はたして西洋人は容認できるだろうか。時間がかかるというのは、そういうことではないかと思うのである。
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居酒屋タクシーを生み出すもの

2008-06-07 | 時事

 火がついたように反応が激しい「居酒屋タクシー」。正直言って確かに驚いたが、過剰に反応する世論にも驚く。金品を受け取った人は明確な横領なので処分ができそうだけれど、ビールにはお咎めなしということになるのだろうか。飴とかガムなんかもありえそうだけれど、それではサービスとして軽すぎるということだろうか。深夜の疲れ切った上客へのサービスということでは、ビールぐらいという感覚にエスカレートしてゆくことはわからないではない(個室だし)。だが、そういう過程を経た客との関係は、そこまで癒着した仲という印象もある。しかも運賃はあくまで公費なのだから、その中からバックされていると考えると、やはりアウトになるのではないか。自費ならまったくOKという感覚になるから、やはりこれは公費という範疇での批判ということである。
 タクシーの側からすると、それだけ大切な客に対してそこまでしたい(しても元が取れるからだが)という感覚であることもわかる。するとこれは料金体系に問題がありそうな気もする。僕も遠方から深夜にタクシーで帰らなければならなくなってしまうことがあるので考えてしまうのだが、なぜ長距離割引がないのだろうと不思議である。中にはわかった運転手もいて、行き先を聞いたら最初から値引きを引き受けてくれる場合もある。一万円ならその時点でメーターを倒して運転してくれるのである。いっそのこと泊まればいいという意見もわかるけれど、家で寝るだけでどれだけ疲れが取れることか、ということと相談すると、帰りたくなるのも人情ではないか。帰るということで大トラに誘われる3次会から逃げることもできるし、目覚めてここはどこだということであわてなくても済む。もちろん僕の場合は自費だから、結局泊まることが多くなるのだが。
 これは官庁に限ったことでなく、民間でも深夜残業をするということにも問題が波及するのかもしれない。もっと効率的に仕事をする方法があるのではないか、と誰しも疑問のわくところではないか。よくは知らないが、行政関係の稟議書の多さなどの非効率は、想像を絶する世界のようだ。知らないとはいえなんとなく知っているのは、行政の人と話をしていると、僕らの世界でもそのような書面を作るよう要請してくることが多いからだ。こちらが、それでは非効率なのでもう少し効率化できるよう提案しなおすが、あくまで自分らの要綱に合わないことを問題視する。非効率を認めながら対応できないのである。それは、知ってしまった以上把握しなくては済まない体質と、無責任にある場合が多い。何か問題が起こるかもしれないということ(もしくは他で問題が起こって対応を広げようとする)に対して、書面で残して指導なり対応したという実績を残しておきたいのだ。何年かして形骸化すると、自分らが指導して行ってきたことを逆にこちらに指摘して改善するよう言ってきたりする。あまりに馬鹿げているが、そういうふうにして自分たちの仕事を増やしてさらに増殖(天下り先は仕事が増えてパンクしたものを効率化させるという名目でできる場合が多いようだ)するのが役人の世界のようなのだ。
 まあしかし、役人批判ばかりでは多少不公平ではあるとも思う。これは日本的なムラ社会的な側面であるということも言えるからだ。僕は色々な会に所属しているのでいつもうんざりさせられているが、役員や執行部を批判する人たちの多くは、自分が事前に物事の成行きを知らないとかいうような、瑣末なことにこだわることから始まる。本当は人間関係が気に食わないということにすぎない問題を、ことさら責任問題のように取り上げて作業を肥大させていく。即実行することが望ましいにもかかわらず、事前協議や稟議など無駄な膨大な時間を浪費させて自ら疲れてゆくのである。多くの人がかかわることで非効率になるので役員を選出して効率化しているのに、役員になった人間は(慣れてくれば慣れてくるほど)非効率な心配ごとの項目を網羅させることを重点的に協議するようになる。これで新しいアイディアが出るということが(むしろ潰すことが多くなる)限りなく難しくなっていくのである。それでも今までは本当にムラの知り合いばかりだったから、ある意味でなあなあでよかった部分もあったけれど、本当はすでにあんまり知らない者同士に(世代も変わるし)なっているのに、そのままのシステムだけは維持しようとするので、組織自体を維持できないということにもつながっている。新たな人員も取り込むことができない。組織というものの成り立ちの、根本的な部分の非効率や、また逆に魅力というものが引き出せないということになっているようである。一番いいのは解散再編性だが、再編する必要もないものは、解散のままの方が望ましいことは言うまでもない。
 根本的な役人のモラルの問題で、ここまで発展するのはちょっと論点の行き過ぎであることは承知しているけれど、役人だってこういう構造的な非効率のコマとして働かされて、いい加減にうんざりしていることだろうと思う。やめてほしいが同情もする。ああ、ニッポン残酷物語の一コマだったのではないだろうか。
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恐るべしハバネロ

2008-06-06 | 散歩

 日中は暑くなって、とても散歩できる状態でなくなってしまった。割合昼休みというのがはっきりしているので、まとまった時間歩けるという貴重な時間だったのだが、こうなるとあきらめるよりない。諦めて昼飯でも食うかな、とも思うが、過剰はよくないので別のことで時間を潰すよりないだろう。幸い本はいつでもたまっているので、時間をつぶすのには苦労しない。
 日中歩けないから別の時間をつくるよりない。これまた幸いに夜にはPTAの理事会があった。家から学校までは15分程度の距離なので物足りないのだけれど、ちょっと遠まわりして時間を稼ぐことにする。
 時間があると挨拶を考える時間もできて都合がいい。まあ、考えた通り話すことは少ないけれど、ネタがあるという安心感があるので、実際に話すときに自由度が増して話しやすくなることは確かだ。これも過剰はよくなくて、思っていることの半分以下を心掛けることにする。逆に言うと実際の話に対して、考えるのはやはり倍以上のストックが必要ということである。この場合は過剰があるからこそ削ぎ取ることができるということで、このスリム化が挨拶に何より大切なコツなのではないかと個人的には思っている(それでも長いらしいが)。話ぶりは思うようにうまくいかないけれど、納得がいかないから次回があるとも思っている。人間満足したらお終いである。
 たいした距離じゃないから、遠まわりしたにもかかわらず、なんだか中途半端に早く着いてしまった。学校の前の押しボタン信号機のボタンを押すと、すぐに車側の信号が黄色に変わって、そして赤に変わる。そういえば子供が待ち時間を我慢できないから学校そばの信号は早く変わるのだ、という話を誰かから聞いたことがあるような気がする。本当かどうだかは知らない。このあいだ運動会があって、かけっこ競争をする時にピストルを鳴らすのだけれど、低学年ほどスタートが上手くいかないようだった。いつものように「位置について、よーい」などと悠長にやっていると、辛抱出来ずに駆けだしてしまうのだ。ピストル係に付き沿いの先生がアドバイスして、この感覚を速めて対応していた。「よーい」の後に間を空けずに「バン」と引き金を引くのだ。それでも少しフライング気味になるぐらいの時もあって、やはり子供は辛抱が足りないのだなあとは思った。そういうわけで信号も早く変わらなければならないという理屈になったのだとしたら、それはそうかもしれないとは思うけれど、しかし実際の信号と著しく待ち時間が違うというのはかえって問題ではないかと思わずにもいられない。何故なら他の信号機の場合に、かえって待つという辛抱が養われずにフライングを起こしてしまう危険もあるのではないかと思うからだ。ましてや学校の前だからといってむやみに早く信号が変わってしまっては、何かの標語ではないが、いつもと勝手が違う信号に合わせる車だって戸惑って早くは止まれない事情があろう。このような子供への配慮は、いわゆる子供の「生きる力」というものを著しく阻害しているのではないだろうか。
 話し合いはいろいろ意見も出たけれどきっちり一時間で終了して、居酒屋でおやじの会。
 なぜだか淳さんが辛い物を食いたいと言い出し、さらに同調するものが多く。ハバネロたこ焼きというのがあるらしく、それを食う。五つある中で一つだけは外れで(本来はその逆に設定するらしい)辛くないという。店員がやたらと「大丈夫ですか」と念を押すのであるが、興味の方が先立って「何を煩いことを言ってやんでぇ」というような気分になるが、後でこの確認の意味を知ることになるわけだ。さて、僕が一口食うとそれなりに辛いので、ああこんな感じかなと思って焼酎をあおっていると、他の二人(O塚さんはどうしても苦手というのでパスした)も次々にたこ焼きを口にした。そうすると二人の顔がみるみる汗だくになり涙まで流れだした。なんとなく平気にしているのは僕だけだったので「いやー、おまえは強いなあ」と淳さんに真剣に褒めてもらうのだが、ふともう一個口にしたら、喉の奥からズキンという衝撃が走って、頭から滝のように汗が吹き出し流れ出し、涙と鼻水が流れて大変な事態になってしまった。何のことはない、実は最初の一個こそ外れていたのに辛いと思い込んでいたぐらい僕は辛さに弱いだけだったのだ。そのままあまりの辛さに、暫しの時間もだえ苦しんで辛さを楽しんだ。しかしこの辛さは尋常ではない。腹から背中から辛さの所為で、なんだかモゴモゴするような違和感がある。これは明日の朝がさらに大変なことになりそうだという不安を抱えながら帰宅したのだった(案の定、今も具合が悪いです)。
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