カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

IQはなんとなく厄介な背景だ   刑事コロンボ・殺しの序曲

2014-10-31 | コロンボ

刑事コロンボ・殺しの序曲/サム・ワナメイカー監督

 IQが高い人が入会できるクラブというのは、実際に存在するらしい。コロンボではシグマクラブという名前だったけれど、本当のはメンサクラブというらしい。もちろん日本にもあって、活動もしているようだ。何をしているかは会員じゃないから知らんけど、まあ、集まってみようという気になるくらい、自意識としてIQが高いことに自らの関心があるだろうこともわかる。人間というのは平均があって、そのラインに一番人が多いわけだが、平均より特に低い人がそのようなクラブを作りたがるとは考えにくい。そこのあたりが人間的に面白いとも思われるわけだが、まあ、楽しければ勝手にやってくれればいいと思う。
 さて、コロンボの相手がそのような頭のいい人であればどうなるか。このストーリーは、まさしくその構図の興味によって発案されたのではなかろうか。見てみるとわかるが、当然コロンボも天才と引けを取らない頭脳の持ち主であることがわかる。どうしてIQテストの上位者じゃないのか(もしくは試験を受けないのか)という問題はあるにせよ、難しい問題であっても、高い知能で解き明かすことが当然できる。まあ、天才問題の割にそれなりによく知られたパズルではあるのだが、ドラマを見ながら解くには少し余裕が無いのかもしれない。コロンボには時間があったわけで、これで天才と判断するにはちょっと難があるかもしれない。
 トリックはかなり練られたものではありそうだけれど、犯人が逃げる音問題などは、割合普通に最初から多くの人がわかりそうなものである。また傘問題などのように、捜査で部屋のものが見つけられないということも考えてみると考えにくいわけで、そもそも問題としては、犯人はある程度運が良すぎたのかもしれない。さらに天才集団が集まっても、結局は皆が騙されてしまうというのがおろかそうにも見えてしまう。そのあたりのパラドクスめいた展開も愛嬌といえばそうなのかもしれない。犯人の無邪気さも含めて、妙な味わいではあるわけだが…。
 結果的に思うのは、やはり天才に対しての何か批判めいた感情が、僕の中にあるということかもしれない。以前東大卒業の女性を集めてインタビューか何かする番組を見たことがあるのだが、東大卒の女性であるとわかると、特に男性は急に横柄になって難しい社会問題についてコメントなどを求められて困る、というようなことを言っていた。何か皆、そのような頭の良さに対してのコンプレックスがあるということなんだろう。たいして頭のよくない人間でも、あえて天才にそのような感情を持つとしたら、人間というのはなんとなく悲しいものだということも言える。また、犯人は自分の頭の良さをあえて隠してきた過去の話などもする。頭が良くても悪くても人間が不幸だとしたら、知能という物差しはいったい何のためにあるというのだろう。
 ということで、まったくいろいろ考えさせられる変な物語なのであった。
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嫌な思い出のはずなんだが…

2014-10-30 | 音楽

 音楽と記憶が結びついているらしいことは当然だと思うが、音楽を聴いていて、何の出来事だったかまでは思い出せないまでも、感情だけがよみがえるということがある。何故だか悲しくなったり、嬉しくなったり、曲の所為で、先にそういう気分だけが不意によみがえって、なんとなく戸惑うという感覚が時々おこる。
 スナックで他人の歌っているカラオケは、たいていあんまり興味が持てないものなんだが、聖子ちゃんの古いものが流れていると、時々切なくなったりする。まあ、そういう若い頃になんかあったのかもしれないです。
 逆にムカッと来ることがあるのだけれど、好きな人もいるだろうから特に名を秘すことにするが、音楽が特に嫌いというのではなくて、やはりなんか思い出が含まれているんだろう。特に思い出さなくていいけど…。
 先日何かの会で、子供たちがギター程度の軽い演奏でいろいろ歌っている場面に接した。歌声がかわいいからそれだけでメロメロになってしまうわけだが、何曲目かで、不意に涙があふれてくるのだった。悲しいというか、急に胸が締め付けられるような、そんな感じ。ちょっと、あれっと思うのだが、なんでだったっけ? という感じだ。
 曲は「われは海の子」。知らないわけではないが、僕は歌わない。たぶん詩も全部知っているわけではない。童謡というのだっけ、唱歌というのだっけ。そういうことなんだろうけれど、僕の時代では、特に習った覚えもない。ただ忘れているだけかもしれないけれど…。
 で、しばらくして思い出した。父の思い出らしい。
 父はひどい音痴で、人前で歌を歌ったりはしない。何しろ音痴だけでなく、伴奏にリズムさえ合わない。よくまあこれだけ崩せるものだというくらい見事なものだった。君が代斉唱などは、皆が調子が狂うので、止めるように言われていたらしい。
 そうなのだが、酒を飲むとどうしても断りきれなくなって、歌うことがあるらしかった。知った人はそんなことはしないが、知らない人がしつこく歌をせがむ。命知らずということなんだが、そういう社交というのは分からないではない。で、「われは海の子」。
 聞く人は皆唖然としてしまうが、この曲がたいそう長い。人々の笑い声は消え、手拍子さえ消える。カラオケなのに伴奏の音も消える。合ってないだけでなく、終わらないのだ。父も知っている曲だから歌うわけで(子供のころに覚えたのだろうか?)、まじめだから歌いだしたら最後まで歌う。これを聞いている息子としても大変に苦しい思いをするのだが、場が完全にしらけきって、荒涼たる風景になって、しかし歌が終わると皆がほっとして、開放感からやっとまばらに拍手が鳴る。
 そういう嫌な思い出なのだが、どうしてなんだろうね。歌というのは、不思議なものである。

追伸:文中の「われは海の子」は別の歌らしい。もちろんそれは僕も知っていたが、おんなじタイトルだと思っていた。実際は「琵琶湖周航の歌」を父は歌っていたようだ。やたらに長いので、それで文中のようなことになっていたらしい。すいませんでした。
 琵琶湖周航の歌を古くから知っていたというより、考えてみると、父には別に琵琶湖に思い入れがあったようにも思う。それは今の仕事をするときと関係があるような気がする。まあ、長くなるのでやめるけれど、おそらくその時に改めてこの曲を覚えなおしたのではなかろうかと思われる。今更確かめようがないが、そのような推理は当たっている気がしている。
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独立した続編の名作   アル中病棟(失踪日記2)

2014-10-29 | 読書

アル中病棟(失踪日記2)/吾妻ひでお著(イースト・プレス)

 失踪日記から8年、ということで、2という表記から続編めいた感じもあるが、基本的には入院に絞った別物ととらえていいだろう。失踪日記はどちらかといえば、家族からも逃れて放浪するアル中ルンペンの記録というか、壮絶なサバイバル物語だったように思うが、これはアル中から脱して治療の実態がなんであるのか、その闘病の記録のようだ。しみじみのんびりゆったり描かれているように見えて、しかしその内容はそれなりにハードだ。そういうハードさに驚きつつも面白いわけで、やはりそれこそが吾妻ひでおの才能という感じもする。いまだに〆切の無い仕事をするというスタイルをとっているらしいことも書いてあり、8年という歳月に仕上げられたマンガというすさまじい背景もなんとなく理解できるところだろう。アル中は病気であると思っていない人もいるようだけれど、これを見ればわかるとおり、完全に病気である。もっとも病気であれば治療後治るはずなのだが、治った人間がまたアルコールに手を出せば(口を付ける)確実に再発する病気なのだ。いや、確実なのかどうかさえ分からないが、しかしほぼそのような人がアル中体質のように存在しているということを知るだけでも、かなり有用なマンガなのではあるまいか。アル中の人も、これからアル中になる人も、そうしてその家族においても、この漫画に身につまされない人間はいないだろう。まさに病気自体がホラーのような実態であるということを、ギャグで笑いながら怖がってしまうといいだろう。
 基本的に実話を漫画化しているようなのだが、マンガというのは絵自体がデフォルメである。吾妻の絵の特徴として、描かれる女の人(子)がとても可愛らしいのだけれど、特にこの病棟の看護婦さんたちが見事に可愛らしく描かれている。巻末に同業者であるとり・みきとの対談があるのだが、もちろんそのことを指摘されて、やはり今後のお付き合いのことを考えたというようなことを言っている。もちろんまだ病院とのかかわりがあるということもそうなのだろうけれど、アル中という病気の特性上、また戻るかもしれないという複雑な心情が垣間見える。この病気から逃れるためには、死ぬまで酒から逃れるということを示している。それは成功した一日にとっては取るに足りないことかもしれないが、人間が生きていくことにおいては、相当な困難を伴うことなのだろうと思われる。日本に生まれて大人として暮らしていると、酒というのは自由に買ってもいいものだし、また社交の場においては、自然に必需的な役割である場合もある。アル中経験のある人間が酒を避けて生活を成り立たせることは、どれだけいばらの道を歩むに等しいことなのだろうか。さらりと描かれる日常と、そうして巻末にある無常観というものが、デフォルメされたマンガにおいても、無常なリアルを伝えている。マンガだから描き得る残酷物語というものを、まさに世に問うた名作ということがいえるだろう。
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サンクコストの判断は難しい   ファール・プレイ

2014-10-28 | 映画

ファール・プレイ/コリン・ヒギンズ監督

 最初のころは、まあ昔の映画だし、アイドル的な人達だし、仕方ない、と念じながら観ていたわけだが、それに少しくらいは観るべきものが無いではなかったが、いくらなんでも、これは見切りをつけるべきでは…と思いながら、結局最後まで観てしまった。サンクコストの実践は難しいのだが、性格的にこれはつらいものであった。それくらいひどい出来栄えの映画ではあるが、いつものように、悪い映画でも教訓が無いわけではない。要するに子供のころに見ていた(主にテレビ)映画というのはこういうものが多かったわけで、単に懐かしい感じもあった。後に馬鹿映画ばかりで世間を騒がせる二枚目半くらいの俳優だと思っていたチェビー・チェイスがちゃんと二枚目だということもわかるわけで、まあ、こんなコメディが本来的に好きな人なんだろうな、というのもわかって、許してやるしかない。ゴールディ・ホーンは今となってみると、やはり聖子ちゃん的な価値観を共有するかわいらしさがあったのだろうな、と思う。もちろん現代にはなんとなく気恥ずかしく通用しないところがいいのかもしれない。
 とにかくことごとく失敗しまくる展開に飽き飽きしてくるわけだ。昔の人は辛抱強かったに違いない。これだけ失敗が続くと、普通に命がいくつあっても足りないわけだが、しかし主人公側の人間が死ぬわけではない。だから緊張感が続かないわけで、そうでありながら無駄な血はちゃんと流れる。こういうあたりの時代感覚が、面白いといえば面白いわけで、普通に今なら差別問題で引っかかりそうなものが自然の笑いとしてちゃんと入ってもいる。これは時代考証にもなるわけで、そういう部分的なものは貴重とはいえる。人間とは忘れやすい生き物だから、こんな映画を楽しんでいた先人たちの精神年齢の低さも推し量ることが出来るわけだ。
 しかしまあ、当時としては、映画というのは白人至上主義的なものの考え方で、何の迷いもなく有色の人たちも映画を楽しんでいたわけだ。昔の人だって不快なものは不快だっただろうし、しかし出演している人たちだって、それは分かったうえで演じていたのであろう。まあ世の中そんなもんだし、さらにコメディだし、という感じだったんだろうか。いろいろあるにせよ、白人たちを引き立てる材料として存在する被差別の人たちが陳列台に並んで、そうしてさんざんバカにされた上にみじめに死んでいく。それをまた、白人に交じってポップコーンをかじりながら、笑ってみていたに違いないのだ。大人の一部はそのことに少しばかりは気づいていたような人もいたに違いないが、子供たちが楽しんでいるので、仕方ないとあきらめて付き合っていたのだろうか。そういう感じは今となってはかなり不思議な風景ではあるんだが、それがまさしく映画の歴史なんだろう。まあ、そういうことに目くじらを立てる心情は今の自分にもみじんもありはしないが、それはたぶん性格的なことだから、やはり今これが製作されることは皆無だという事実の方が、時代の変遷を映し出す鏡のようなものだろう。娯楽作というのは、微妙なバランス感覚が時代と合っているからヒットする。今の時代のものを将来の人は、やはり微妙な心情で眺めることになるんだろうか。
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あきらめの悪い人は生き残る   ゼロ・グラビティ

2014-10-27 | 映画

ゼロ・グラビティ/アルフォンソ・キュアロン監督

 しょっちゅうくるくる回ってて、観ているだけでもつらいわけだが、彼女の苦しみもよくわかる。生死の境をさまよいながら、なんとしても生還しようとする人間の営みと、そうして人間が生きるという問題についてさえも、観ているときはともかく、考えさせられる不思議な映像世界だ。
 まあとにかくネタバレになるから内容にふれられない、なんてことになると何も書けなくなるような、ただひたすら宇宙空間で人が生きていくことがこんなに大変なことだったのか、と改めて思うわけだ。発端となったのはロシアの自国の衛星爆破。このために大量の宇宙ゴミが発生して、そのゴミのために宇宙船が破壊され、船外活動をしていた自分は宇宙空間に投げ出される。その時点で助かる見込みはかなり薄そうなんだが、なんとか奇跡が起きて宇宙ステーションに帰り着くが、またしても宇宙ゴミが周回してきていろんなものを破壊して、火災が起きて、もう地球に帰還しなければならなくなる。というお話。続いているのは絶望という風景のみ。人間というのはいかにもろい生き物なのだろうか。皆死に絶えてしまうが、ロシアとしても、そうなるなんてことはみじんも予期していないからこそいらなくなった衛星を破壊したのであろうし、現実として今本当に宇宙ゴミ問題で地球の周りの環境は大変に危険らしい。莫大な資金を投じて宇宙空間に浮かべているものはたくさんあるわけだが、いつこのような壊滅的な事故が起こってもおかしくない状況なのかもしれない。実に恐ろしい。
 さらに宇宙空間に人間が行くことは、今や常識的なロマンの世界として認識されているだろう現在において、強烈なカウンターパンチというという面もあるのだと思う。人間は地球という、さらにその地球でも比較的穏やかな環境という特殊な中にあって、初めて快適に生活が送れているわけなのだが、人工的であれ、一時しのぎの宇宙空間に行くことになっただけで、大変に危機的な状況に入り込んでしまわざるを得ないということなのだ。酸素が無ければ生きられないし、地球から持ちこまれたものがなくなっても、生きていけないだろう。さらにその環境を支える様々な設備においても、ちゃんと作動しなければすぐに危機になるだろう。些細な火災も命取りだし、チリのようなゴミでも、高速で飛べば弾丸のような破壊力を持ってしまう。重力の均衡で浮いているようなものだろうが、早すぎると地球から遠ざかるだろうし、遅くなればいづれは地球に落ちてしまうだろう。大気の摩擦でほとんど燃えてしまうだろうけれど、燃え尽きなければどこに落ちるかもかなり悩ましい問題だ。そのすべてにおいて計算されつくしてうまくいく保証などどこにもなくて、ある程度の運があって、なんとか平穏に見えるような現実があるんではなかろうか。今後ともそのような危機から逃れうる抜本的な方法は見つかっていないように見えるわけで、人間の宇宙に対するロマンというのは、まっとうな明るい未来といえるのだろうかという疑問さえわくのである。
 まあ、いつまでも地球が平穏無事なのかという問題もあるし、このままであってもいづれ人類は滅亡するだろうことは確実なわけだから、それはそれとして夢の無い話ではあるんだけれど、宇宙のみが、人類の残された活路であるのかどうかは誰にもわからないことだ。だからこそ必死にもがきながら生きていく必要があるということであれば、やはり生き残ることをあきらめないということに尽きるのかもしれない。達観しない人間という本来の姿を描ききるのが目的であったなら、やはりこれは名作とすべきものなのであろう。
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残酷だけど普通のドラマ   そして父になる

2014-10-26 | 映画

そして父になる/是枝裕和監督

 病院での赤ん坊取り違い事件というのは、決してよくある事件ではないのだろうが、子供のころには時々聞いた。今より子供が多かった時代、病院の喧騒の中で子供がいつの間にか入れ替わるという恐怖めいた都市伝説も交じっていたものとは思うが、子供のころにそういう事件があったというのも記憶にあるようだ。本当かどうか知らないが、病院も親も気づかないケースを含めると、数百件は事実としてあるのではなかろうか、という話もあるくらいだ。まあ、日本の人口から言ったら、それくらいあってもおかしくないのだろうけれど、本当におかしくない話なのかどうかは、少し考えてしまうくらいの数字である。気づかないのならなかったことでいいのだけれど、それですまないというのが、運命というものかもしれない。要するに、子供が生まれてくる環境というのは決して平等ではないという背景がある。もっと平たく言うと、生まれてくる子供は親を選べないわけで、親によってその環境を左右されることから逃れられないということだ。本当に本人が子供のころにそんなことを理解できるわけはないのだから、当然もう少し後になってそういうことが問題になりかねない。映画の題材として、だからこれは選ばれるものになるのだろう。
 ということがあるのでそもそもが面白い題材だが、取り扱いには注意もいるだろう。時間というのは取り返しのつかない問題があって、赤ん坊時代や子供の幼い時期などであるとか、要するに子供の幼少期の親とともにある時間の体験というのは、すでにもうどうにもならない。血としての親子と、育ちとしての親子、その問題をどうするのかは、つまるところどう割り切るかの問題ということになる。さらにこれは子供の問題を語りながら、大人社会の都合の問題でもある。良い親に良い子供が戻れば問題無いが、何がいい親で何がいい子供なのだろうか。遺伝的な才能の問題もあろうけれど、心情的に割り切れないものをどのように割ったらいいのか。ドラマはそのあたりを考えて、片方の親が、特に父になるかどうかを考えたものなのだろう。
 この映画についての僕の素直な感想は語りたくない。観終わって涙が止まらなかったのだが、その理由も素直に語るつもりはない。一言でいうと身につまされたわけで、これを涙以外に語る術が僕にはよくわからないのだ。僕は父親になれたのかさえ、正直言って本当には自信もない。でもまあ、父というのも悪くないというのは知っている。生きていて良かったなと思える数少ない体験の一つである。そういうことで、設定は残酷だけれど、普通の映画だと僕は思う。だからこそ、僕は普通に泣いたんだろうな。
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コロンボの国際貢献   刑事コロンボ・策謀の結末

2014-10-25 | コロンボ

刑事コロンボ・策謀の結末/レオ・ペン監督

 日本でも詩人はいないわけでない。それは当たり前だ。詩の朗読会のようなものも、地味だけれど、行われてはいるだろう。何かのサークルのような活動もあろうし、詩の発表の場もそれなりにありそうだ。そうなんだけれど、特に現代において詩だけで食っているような人物は、学校の先生を別にすると、谷川俊太郎くらいのものだろう。マイナーという以前に、これに金を払う人がいないだろうことが原因だと思う。もしくは課金のシステムに問題があるのかもしれない。
 主人公は詩人のようだ。それもかなり人気があるらしい。寄付を呼び掛けているという資金の集め方ではあるが、相当の集金力を持つ人物のようだ。それは、言葉を操り、詩で人々を感動させる能力があるからだ。もちろん詩で感動するのは分かる。分かるのだが、その力でテロ組織を支援できるほどの資金力を持てることが、やはりどうにもわからないのかもしれない。財団の支援があるようだけれど、そっちの資金のみでなんとかする方が、自然の流れなのではなかろうか。それにわざわざ有名詩人が武器の調達までをやる。財団の組織力が疑わしく思えてしまうではないか。
 そうではあるが、言葉のやり取りをコロンボとかわす。そういう遊びは、面白くはある。肝心の詩の内容は、日本語に翻訳されたのちに感心できるか、という問題はある。それのどこが面白いのか。いや、面白そうは分かる…、止めておこう。要するにコロンボには詩の素養があるらしい。なんで刑事なんかやってるんだろう、というような天才を誇示する材料として、詩を採用したのではないか。おそらく詩の才能というのは、あちらではそれなりに尊敬を集められるものなのではないか。中国などでも即興で詩を詠むなどというのは大変に重宝されたようだし、まさにそのような教養ある娯楽の王様の位置に、詩人というのがいるのではないか。少し残念なのはこの詩人、単なる思想的な二枚舌ということなのであるけれど、エンタティメントとしての才能がいかんなく発揮された人物として描かれている。そしてやはりコロンボはそれと同等ということなのだ。
 楽しいお話だし、演出としてサスペンスの描かれ方も工夫がしてある。よく考えると演出なしには変なトリックの謎の解き方ではあるんだけれど、犯人逮捕だけでなく国際的なテロまで未然に防げたような偉業を成し遂げている。やはり、刑事というのは才能がなければならない。それは平和への貢献でもあるのだから…。
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俺以外の馬鹿のために…   ローマでアモーレ

2014-10-24 | 映画

ローマでアモーレ/ウディ・アレン監督

 落語の世界ならともかく、日本人というのは人を馬鹿にするのがなんとなく下手という印象がある。それは僕の偏見かもしれないのだけれど、「お前は馬鹿だな、俺とおんなじように」というのはよくある話なのだが、「お前は俺とは格下の馬鹿だな」という文化が育っていない。それは幸福なことに違いないし、または、やはり多様性が少ない所為ということも考えられる。なんでそんなことをこの映画を観て思うのかというのは、まさにこの映画では自分以外の人を蔑すんだり馬鹿にしたりするようなギャグが満載で、しかもそれがなんというか、毒がありながら、ちゃんと楽しめるということが、なんとなく不思議だからだ。日本だとこの毒が鼻について、何言ってやんでえ、ってな感じで面白くなくなるに違いないのに、ウディ・アレンは自分の高みでものをいっても、まあ、この変なインテリが言ってることも一理あるな、という風に見えてしまう。まあ、日本の落語的な皆が馬鹿というのもふんだんに混ざってはいるんだが、基本的には自分以外のみんな馬鹿のために、自分が苦しみ悶えてしまうという悲劇が、コメディの根底にあるように思う。結局自分の発見した一番馬鹿らしい事実を皆が受け入れることによる違和感が、ファンタジーのように当然に描かれ、映画的な悦楽があるという重層的なコメディを見せられる。もう勝手にしてくれという感じもするが、まあ、こうなると、馬鹿なんだかインテリなんだかもうどうだっていい。
 それでも確かにウディ・アレンは年を取り、もともと醜い悪舌ユダヤだったものが、さらによたよたとキレまでも悪くなっているように見える。自らが監督でなかったならば、おそらく誰も俳優としては使うことはないだろう役者なのだが、しかしこれがやはりその危なっかしさを含めて、嫌な感じとともに面白さがにじみ出ている。変なものだ。そしてこの変な映画自体も、大変に素晴らしいのだ。
 賞嫌いで、たとえアカデミックな場で評価されても辞退してしまうだろうことはそうなのだが、やはりこの監督作品は、コメディでありながら確実に芸術的に評価されやすいものになっていると思う。また、そうでなければやはりおかしな話だろう。これだけ重層的に様々なお話が混ざりながら、少しの混乱も無く、実に自然にウディ・アレンの世界が構築されていく。まさに見事としか言いようがない。ほとんど馬鹿の極みのような話ばかりでありながら、気分的には崇高なものを味わえてしまう。さらに何かに追われるように多作だから、また次の作品も楽しめる(ほとんど外れがない)。彼が生きている時代に生まれたことは、これはもう幸運と言うしかないのではなかろうか。
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次の優勝の機会は…

2014-10-23 | なんでもランキング
 長崎県は国体で優勝したらしい。45年ぶり二度目。凄いですね~。
 と素直に受け止める人がいてもいいのだけれど、ま、これは素直になれませんですね、普通なら。45年ぶりって、前に開催した時以来じゃないですか。要するに国体の開催県が優勝するだけの話じゃないのか。普通はそうわかるのが正常な話で、それはなぜ?というより、そういうことなのか!ということの方が多いでしょうね。からくりはいろいろあるけど、そういうもんだ、ということで、実際努力の度合いもあって、当然と言えば当然の結果になるような、そんな感じが優勝につながるのでありましょう。
 では、開催県が必ず優勝するのか、という問題なのかというと、まずはそうなんですね。考えてみると、東京が一番有利で、東京がずっと優勝するのが一番自然でしょう。たまに大阪だとか北海道だとか、そういうのが日本の現状から見て、一番自然な姿とはいえるよな気がする。でもまあ、開催県には地区の予選免除という最大の利点もあるし、ポイント制ということもあるから幅広く有利だということと、さらに開催にするにあたって強化する余裕や、ホームという応援団などの地の利ということもある。だから、当然もあるしメンツもある。これは開催県が優勝しなければならないという不文律も生まれて当たり前であります。
 ところが、開催県でありながら歴史的に優勝しなかった県もあるらしい。それが高知県で、あえて開催県でありながらそのような開催県の特例的な金を掛けなかったという背景もあるらしい。流石変人の土地柄という気もするけれど、むしろカッコいいですね。でもまあ、そういう高知のまっとうなスタンスというのは、あくまで一度きりで、結局はいまだに開催県が毎年優勝するようなことになっているらしい。
 これは役場の問題というのが一番だろうけれど、それは日本人的な物事の解釈を表しているのも間違いなさそうである。ダメなところでもあるけれど、仕方が無く、しかしでも一番まっとうでもある。何しろ開催県が一番努力して、一番頑張っているのだから。
 ということで、次の長崎県の優勝を夢見ることは、自分の寿命というものを考えての事ということになる。今年強かったのだから来年をはじめ数年はチャンスはある。けれど、それを活かすつもりなんか、たぶん長崎県にはあるまい。諦めた時点で夢は消える。そういう根本的な問題ということになるのでしょうね。来年は東京のように二位になるのが、一番いい形なんでありましょう。
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遺伝の表れるのが待ち遠しい

2014-10-22 | 境界線

 遺伝の問題はいろいろ面白いのだが、人間は当り前だが遺伝的に受け継がれている影響は案外大きい。単に姿かたちが似ているだけでなく、性格もかなりの部分は遺伝的な要素が大きいらしい。面白いのは年齢を重ねれば重ねるほど遺伝的な性格があらわになっていくということで、若いころに一生懸命親に抵抗したところで、結局は似た性格は隠せないということのようだ。さらに面白いのは思想的なものも遺伝の影響がみられるようで、特に右翼的な考え方は遺伝の傾向がみられる。相対的な考え方だが、左翼的なものが遺伝するとは記述が無いので、右翼的、つまり保守的な傾向というのは、思想というより性格の問題なのかもしれない。
 確かに左翼的な考え方は、保守思想への反発という捉え方もできないではない。日本の場合は左翼の中心は高齢化が進んでいるが、若者は政党的な徒党を組まずに左翼的なものに人気が偏りやすいというのはある。そういう傾向はどこの国にもあるから、いわゆる左翼思想というのは若者の熱病めいたものだという考え方もある。若いころに左翼に目覚めないものは頭が悪いという感じもあるが、チャーチルが言うように、大人になっても左翼のままだと、本当にただのバカにしか見えないということもある。頭の良さというのはなかなか見た目が難しいようだ。
 価値観が遺伝するように見えるのは、そのような年齢的な考え方の変遷もある可能性がある。もちろん保守的な考え方は、伝統的なものの良さというものが理解するのに時間がかかるものだということもあるかもしれない。今あるものを性急に改革したいという思いで左翼的になるのも分かる。変えるべきものは変えて良いのだが、だから価値観を壊すべきなのかという問題と対立する。もちろん伝統的なものが、すべて過去に帰するものであるという見方も、少し性急すぎるような気もする。近代がそうだけれど、むしろ以前の歴史的伝統的な考えとは、すでに乖離が激しい。そのうえで伝統だと勘違いしているだけの保守もそれなりにいる。人間の寿命と時間的な感覚に局所的なものがあるせいであるが、そうなると今がいったいどのように本来的に右翼的なのか左翼的なのか、既に怪しい。
 自分が果たして親のように右翼的なのかと考えてみると、どちらももともと右翼的だったかさえ怪しいのだが、自分自身には保守性が高いように思う。しかし周りの人間からよく言われるのは、左翼的な考えを持っていると間違われることが多い。単に僕が青いせいで、権威主義が嫌いなだけなのである。権威主義が保守なのかはよく分からないが、対立するのは人間が出来ていないだけの事だろう。そうするともう少し年齢が上がらないと、僕の本来的な遺伝は不明かもしれない。長生きしなければ遺伝が判明しないとは、ちょっと残念なことである。

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自殺者は減らせるようだ 心理学で何がわかるか

2014-10-21 | 読書

心理学で何がわかるか/村上宜寛著(ちくま新書)

 答えを言うと、実にいろんなことがわかる。しかしながらこの心理学のもととなっているものを紐解くと、実に困難の歴史というか、実に多くの誤りを土台にして現在のあることがわかる。しかもその誤りの多くは、民間の常識としては、かなりそのまま残っているものが見受けられる。そうしてもっと驚愕すべきことは、日本の医学の現場においても、まだまだその昔信じられていて、すでに学問でもないものがまかり通っている現実もあるということだ。日本は心理学の世界からいって、かなり過渡期の後進国である可能性が高い。そのようなオカルト的なものが含まれている心理学の世界というものを理解する早道である。さらに人間の賢さや記憶や遺伝のこと、また統計学の考え方なども理解できる。要は心理学の世界に学問を取り戻そうということを一般の人にも伝えたい書物ということになるかもしれない。
 人の心理や、ましてや自分のことであっても、深層の心理から理解したいという欲求はあると思う。だからこそ、心理学というものが生まれたはずなのだ。以前やはり心理学の本を読んでいて、その著者自身が文中で、自分にはそもそも精神病の気があって、だからこそ興味があってこの世界に入ったということが書いてあった。おそらくこれを読んでいる読者にも身に覚えがあるのではないか、とまで書いてあった。実にドキリとする指摘で、実は僕もそのような気のようなことを考えることはある。ほとんど遺伝的だと思われるアルコール中毒問題も含めて、これは自分でも恐れていることかもしれない。
 ということなのであるが、ヒトの精神状態というのは病気も含め、かなりマニュアル化した調査で、それなりに正確にわかりえる状態にある。犯罪者予備軍だって、かなり正確に摘出可能だろう。しかしそういう状態にありながら、正確にそのことを理解して調査などが実施されているようには見えない。いまだに問診であてずっぽうに、いや経験的に診断して、薬などを処方している医師がほとんどだろう。そのようなマニュアルは、少しばかりかじりさえすれば、実は素人が用いても正確に診断が可能であるようだ。なぜ普及しないのかは知らないが、おそらく医師自体もそのことを知らない可能性もある。そういうことだけでも理解されるようになれば、たとえば旧共産国並みの日本の自殺率を下げることも可能かもしれない。それだけでもかなりショッキングな摘発だと思うが、そんな動きが日本に本当にあるのだろうか。ためにはなったのだが、なんだか不安にもなる啓発本なのではないだろうか。

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拡散が狭く似たものの量産の繰り返し

2014-10-20 | net & 社会

 政治家の失言というのは今に始まったことではないが、ネット上で話題になるのはたいてい揚げ足取りである。もとをちゃんとあげて検証して自分の意見を言うのはいいと思うが、あえて曲解するということが得意な人がいることは確かだ。これは厳密には情報操作だけれど、しかしこれをまた積極的に操作される行為(つまりシェアするとか)を繰り返す人々もいる。見ていて恥ずかしいけれど、これが主義のようなイデオロギーのようなことがもとになっているのだろう。
 何か言いたいより相手を非難したいという気持ちは少しは分からんではない。何しろ一方的に相手は間違っているように見えるわけだし、はっきり言って気に食わない奴というのはいる。敵なんだし攻撃目標として罵倒できる機会を提供してもらっているように見えるというチャンスを逃すべきではないという心理もあるのかもしれない。そのような敵の脇の甘さに付け入るというのは常套手段なわけだが、繰り返すが、揚げ足取りなだけで、事実とは少し筋違いだったりすると、ちゃんと検証された後が恥ずかしいわけだ。ちゃんと悪いはずの人が失言してばつが悪い思いをするより、そんな風に曲解してしまう人の人格の方が疑われてしまう。少なくとも良識のある人なら、そのように理解するだろう。主義は立派かもしれないが、所詮その程度ではないか。
 やっぱり自分の主義主張の方が正しいということなのであれば、素直にその論に徹するべきではなかろうか。その上で相手の論に問題がある旨を、ちゃんとつけばいいのだ。政治は社会実験的なところがあって、さらに経済問題となると、そのように実験したところで、間違っているのならそれは手遅れであるとか、取り返しのつかないことにもつながるだろう。だからこそ実行前にそれなりにしっかりと検討する必要があるわけだが、しかし、そのような複雑なものを、簡単に事前検証するなどというのは不可能かもしれない。さらに理解力という問題があって、いくら議論しても最初から聞く耳を持たない場合にはやはり意味はない。いつまでも平行線であるのならば、やはりある程度は無視するより仕方なかろう。どうしても振り向いて欲しいわけでもないし、困るような事態にならなければ、本気に付き合っていくことは困難だ。
 そのような背景があって、やはり揚げ足取りは、振り向かせ戦法である可能性もある。主張はともかく、相手の不備が少しでもあれば、溜飲を下げられる。要はガス抜きである。相手はそれでも振り向いてはくれないだろうけれど、仲間内では少しくらいは盛り上がれる。だからサインはこちら側にいるものにさえ伝わればいいのだろう。問題は拡散されるので、不快感がしみてしまうというだけのことなのだろう。
 しかしながら多かれ少なかれネットというのは反体制に有利なメディアだと思われるわけだが、その有利さをうまく生かせていない問題というのが目につきすぎる気もする。結局相手にされない程度にしか影響力が無いということもあるかもしれない。ネットの炎上は、社会問題化されるようなところまで、なかなか届く感じではない。広いが小さいという特徴が、そのままこの揚げ足の数の多さと局所さを際立たせているという印象がある。ひとはそういう光景に慣れてきて、なんだか汚いものが道に落ちているようなやり過ごし方で、その場を濁すようになっているのではあるまいか。
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不誠実だから平和な社会   天使の分け前

2014-10-19 | 映画

天使の分け前/ケン・ローチ監督

 ケン・ローチ作品だし、最初はシリアスな作品なんだろうと思ってみていたが、結構風刺のきいた変なコメディであった。もっともやはり題材はシリアスでバイオレンスたっぷりなわけだが…。
 暴力の連鎖社会から抜けられない男が、恋人の出産を機に、そういう世界から抜け出そうと決意し、同じように社会からはみ出ている不良仲間とともに、希少なウイスキーを盗んでしまうという物語。略のし過ぎの感はあるが、まさになんだそりゃ、というお話で、しかしなんだかいい話なんである。不思議だ。
 英国というのは、というかヨーロッパ全般に言えることだが、階級社会で、最下層の社会で生まれた人間は、そう簡単に上の階級の社会に這い上がることができない、という前提がある。主人公の青年は、父親の代から憎み合っているグループがあるようだ。まるでやくざの抗争だが、まあ、似たようなものだろう。国だってそういう図式から逃れられないところはあるわけで、こういう暴力の連鎖というのは、きわめて人間的な営みなのかもしれない。
 しかしながらそれでも敵は容赦がない。せっかく更生しようと社会奉仕活動も比較的まじめにやり、できるだけいやなグループとかかわりあわないように生活しているのに、彼女の父親からは殴られ、敵対グループは執拗に探し出してまで暴力をふるってくる。この町で暮らしていくことは、実に困難なのだ。仕事も見つからないらしいし、そうかといって外の世界にいく元手もない。彼女の父親が金を出すというが、それはいわゆる手切れ金という意味のようだ。彼女や、まして生まれてきた赤ん坊と離れて暮らす意味はない。ではどうやってそのような金と、外の世界の暮らしを手に入れたらいいのだろう。
 基本的にはそのような問題解決の物語であるわけだが、その手法はかなり荒っぽい。というかそもそもの選択として、これは倫理的にいかんだろう、という印象を持つ人も多いのではないか。また、いくら更生しようとしているといっても、そもそもこの主人公のチンピラぶりも半端が無い。過去の悪の清算のために何かをやるという動機なのではなく、自分の身にかかる不幸として暴力世界から逃れることを考えている。暴言を受けたことで、禊は終わったのか、という疑問はついて回る。しかしながら確かに、もうどうにもならんわけだが…。
 いわゆる日本の倫理観にはかないそうにない物語なわけだが、これがなぜかそれなりに心温められたりする。それほど英国社会の悪の根が深いという背景もあるだろうし、主人公が更生するきっかけになったエピソードをはじめ、彼が実はそれなりに本気であることがよくわかるように作られているからだ。ある意味でそのために自分の能力を最大限に発揮し、見事に自分で道を切り開いていくのである。良い悪いを超えての爽快感というものが、観るものをとらえるということだろう。
 それにしても知らぬが仏。いろんな人が犠牲になるが、知らないままだから皆ハッピーだ。誠実でないことによって世の中はある程度は平和に保てる。潔癖な人はそのことにも気づかされるのではないだろうか。
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アメリカ的合理主義サスペンス   秒読みの殺人・刑事コロンボ

2014-10-18 | コロンボ

秒読みの殺人・刑事コロンボ/ジェームズ・フローリー監督

 短い時間差を利用してアリバイを工作するトリックで、自分を裏切った恋人を殺すお話。裏切られたことはもちろんだが、それよりも自分の出世欲で殺したとみるべきだろう。利用できないと思えば殺す、もしくは自分の思うように工作して実行する。作中に番組をしかたなくすり替えるエピソードも、そのような自己中心的な作戦を練って実行し、結果は失敗するにしても、思うようにやり遂げる姿が描かれている。番組を作るセンスはともかく、やりくりは何でもソツなくこなすという凄腕の女性ということになるのかもしれない。
 もっともそのようなことが出来ながら、素人目にも後に問題になりそうな明らかな証拠を残し過ぎるという印象は最初からあった。手袋を捨てるあたりや拳銃を隠す場所など、ああ、これは必ずコロンボに拾われるに違いないと最初からわかってしまう。詰めが甘いというか、ちっとも完璧じゃないというか。ミス以前の失態といっていいだろう。しかしこれがやはり物語の伏線になっていることも間違いなくて、それは演出的な問題だったのだろう。謎解きとこのエピソードにまつわるサスペンスは見事で、なんとかつかまらないようにもがく犯人の心理を、ひやひやしながら観ることが出来る。見ている方は罠に落ち、生活も破滅に陥る人間の姿を残酷に眺めるわけだ。それでも強がってめげないところがいかにもアメリカの女性的で、悪いながらもこのような女性像が、やはり望まれる姿なのかもしれないと思わせられる。まるで「風と共に去りぬ」のやせ我慢のようではないか。
 この作品の詳細は失念していたわけだが、フィルムを取り換える目印の話はよく覚えていた。その後何度か映画館でこの目印を目にして、コロンボの話はホントだったんだな、と思ったものだ。また、それまでは一度として気づいたことがなかった現象だったのに、からくりを知ってからはたびたび目にするようになった。知識というのは世界の見え方を変えてしまう。そういうことを身を持って知ったということもあったかもしれない。
 他にもコロンボのむちうちのオープニングや、いつも悪い喫煙のマナー。撮影現場の様々な仕組みや操作の仕方など、いろいろと変なエピソードの多い作品でもある。一見無駄にも見えるそのような遊びがあって、しかしそれなりにスジは一本通っているという感じだ。サスペンスの緊張感もあるし、アメリカ的競争社会の風刺めいた考察さえある。「男はつらいよ」が日本の記録映画的な意味があるという話があるが、まさしくコロンボもアメリカの時代を見事に記録しているシリーズということが出来るというのは、こういうことだと思うのであった。
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アドバイスは聞き流して吉

2014-10-17 | 雑記

 僕は基本的にいい加減に生きているので、何か確証的にやるというようなことはない。行き当たりばったりで、その時の風任せに軽率に即決する。先のことなんて分からないし、過去を検証してもめんどくさい。
 そうではあるんだけど、一つくらいは心がけというようなことはある。それはたぶん経験則で、そうして一番うまくいくという魔法的な心がけといっていい。多くの人にも汎用性があり、そういうことが広がれば、たぶんもっと人々はしあわせになるだろう。
 その答えは「人の言うことを聞かない」ということ。人生の先輩や、偉い人のいうことが特にいけない。会社の上司などだったら少し困ることもあるかもしれないが、しかしながら基本的に上司であっても素直に聞く必要なんてないと思う。仕事については言われたらやればいいだけだし、しかしやり方や方針を聞かされた場合は無視した方がいいだろう。いい仕事をしたいと思うなら、という前提はあろうけれど…。
 良かれと思って指摘してくれている場合もあるという。いや、はっきり言ってそういう気持ちは先方にはあるに違いない。うまくアドバイスして仕事に活かしてほしいとか、感謝さえしてもらって当然だと思っている場合もあるかもしれない。それこそ経験則で、そうした方がうまくいったという体験を持っている場合もあろう。もちろんなるほどと自分に納得できるというのなら、それはぜんぜん問題にはならない。問題になるのは、自分が疑問に思っているのに、アドバイスや指摘をしてくれる場合だということになる。そもそも意味が分からなかったり、不快だったりするのであれば、間違いなく意味がないだけでなく、害があるということだ。自分の考えと違う人というのは当然いるわけだし、反論しても時間がもったいない。静かにうなずいて、次の行動に移す時にすべて忘れてしまえばいい。妙に引きずられたり、繰り返し考えたりしてはならない。間違ったことをやって上手くいくはずなど無い。自分に合わないことをあれこれ考えて心を乱すべきではないのだ。
 結局そういうことに気づくまでそれなりに時間がかかった。かかったが、たくさんそのために失敗してきたおかげで、今では堂々と正論を行動に移せるようになった。大成功しているとは言い難い面もあるけれど、いうことを聞いていた時より格段に仕事はやりやすくなったし、また、ぜんぜん上手くいくようになっている。人の言うことを聞かないことが、いかに大切な心がけであるか、また、そのことに気づいた自分に感謝したいくらいだ。
 ただでさえ人というのは他人の意見に左右されることが多い。だからこそ最初から聞かない姿勢というのが大切になるのだと思う。大した信念があるわけではないが、左右されることほど精神の浪費はない。最初から聞かなくていいと思っていると、本当に言葉が耳に入らなくなる。そうすると自分の行動が確実に変化する。聞かなくていいのだから、惑わされず、クリアに物事が見えるようになる。事実から対策を練らないことには、正しい方法など見つかるわけがない。正しいという確証があれば、さらに迷いも少なくなる。要は自分で考えることができるということが、何より心強い支えになるわけである。
 ちゃんと成功すれば、アドバイスした人も喜ぶだろう。おかげさまでは無かったわけだが、そんなことは心に置いておけばいい。何しろ何をアドバイスされたかも忘れている。あるのは自分の充実感というご褒美だ。それは人を寛大にさせる。自分だけでなく、お互いにとってもハッピーなことなのである。
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